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社会不適合者が凄腕のバリスタになっていた件  作者: エスティ
第16章 愛弟子の大舞台編
389/500

389杯目「歴史の修正力」

 7月、伊織たちが死闘を繰り広げたあの日々から数週間の時が過ぎた――。


 日本に帰国した僕らは歓迎の声で迎えられた。岐阜に戻るや否や、葉月商店街はお祭り騒ぎだ。


 根本を始めとした穂岐山珈琲の連中は、岐阜に引っ越したばかりの穂岐山社長を頼り、分社化した状態の穂岐山珈琲についていく決断をする。穂岐山珈琲の事業をほとんど乗っ取り、社名を変えた杉山珈琲は根本たちの信頼を得ることができず、有力な社員がめっきりと減ってしまったが、杉山グループにいる社員を代わりに送り込むことで、どうにかコーヒー会社としての体裁は保った。


 関東に集中するように出店していた店舗も全て乗っ取られたが、穂岐山社長の苦心はそれを知っていた有望株のバリスタたちから同情を買い、穂岐山珈琲を選んだ。


 今、杉山珈琲は有力なバリスタがいなくなった蛻の殻だ。


 グループ企業とはいえ、立て直しには時間を要するだろう。


 僕は伊織と風呂に入り、これからの話をしているところだった――。


「じゃあ、穂岐山珈琲は近い内に1号店を出すんですね」

「ああ。収入源がないと話にならんからな。当分は中津川社長のサポートを受けることになった」

「中津川おじさんがサポートですか?」

「僕が頼んだ。以前裏切られた分の貸しがあったけど、これで全部チャラってことにした。葉月グループが向き合うべきは過去でも未来でもなく、今なんだからさ」

「あず君はやっぱり良い人です」


 伊織が僕の肩に頭を預けるように寄せてくる。


 彼女がバリスタオリンピックチャンピオンになってからというもの、毎日のように多くの企業からスポンサー契約を求める依頼が殺到した。伊織人気に乗っかろうとする意図が見えたが、伊織は全て断った。こいつが欲しいのはお金じゃない。のんびりとコーヒーを飲んで過ごす平和な日々だ。


 23歳にして最大の目標を達成してしまった。言うまでもなく、歴代最年少記録だ。


「伊織はこれからどうする?」

「えっ……私ですか?」

「特にやりたいことがないならさ、これからも一緒にここに住んで……添い遂げてくれないか?」

「もちろんです。一生お供します。他に行く当てもないですから」


 僕の手を握りながら顔を赤らめる伊織。


「大会はもう出ないのか?」

「はい。もうこれ以上目指すものが思いつきません」

「そうか。じゃあそろそろだな」


 湯船から上がり、伊織よりも先に風呂を上がる。


「そろそろって、何がですか?」

「伊織、来年から葉月珈琲マスター就任を命じる」

「ええっ!? わっ、私がですかぁ~!?」

「忘れたのか? 伊織が優勝したら葉月珈琲マスターの座を譲るって言っただろ」

「それはそうですけど……」

「自信がないか? 世界で最も高い場所に立ったというのに」

「私にとっての1番はあず君です。私はグランドスラムも達成してませんし、これで勝ったとは思ってません……到底敵いませんよ」

「今の伊織なら、葉月珈琲マスターに十分相応しいと思うぞ。マスターを退くとは言っても、バリスタを引退するわけじゃない。伊織はずっとマスターに甘んじていた僕に引導を渡してくれた。それにうちは6人までしか在籍できないし、いつまでも居座り続けるわけにもいかない。ここで働きたいバリスタはいくらでもいるんだぞ。伊織は頂点に君臨するための……恐らくは唯一のチャンスをものにした」

「4年後の皐月ちゃんには、まず敵いそうにないですから」

「今のままでいいと言うならそうするけど、その場合は別の人の昇格を先送りになっちまうぞ。伊織が良くても、千尋たちがどこかに羽搏くことになるし、5年も経てば全く違う面々に代わっている可能性は非常に高い。僕を待たせることはできても、時間を待たせることはできないぞ」


 最後の忠告を述べると、伊織は俯いてしまった。


 伊織にはまだ覚悟がなかった。千尋たちとの関係にも慣れすぎた。


 頂点に君臨する者として、これからはトップバリスタを目指す人々を応援する役回りだ。


 僕は然るべき地位を伊織に与えようとしている。そろそろマスターの仕事にも飽きてきた頃だし、伊織は目的を達成した今、燃え尽き症候群になりかけている。そうなる前に次の目標を与えてやらねば。ていうか今まで何のためにマスター代理をやらせたと思ってんだよ。


 そろそろ葉月グループの総帥として、成すべきことを成さないとな。コーヒー業界の地位は確実に高まっているが、この機に乗じてコーヒー業界を乗っ取ろうとしている悪党がいることもよく分かった。


 僕がやるべき最後の仕事――それはコーヒー業界を悪党から守り抜くことだ。


 バスタオルで体を拭いていると、伊織が後ろから上がってくる。


「あの、マスターの件ですけど……私、やります。変化を恐れていたら駄目なんですよね。たとえ今のままがいいと思っても、時間が待ってくれないのでしたら……流れに身を任せるしかないですね。もう後戻りはできないんですから、ここまできたら、最後までつき合います」

「マスターの仕事は何か分かるか?」

「みんなをまとめることじゃないんですか?」

「それもあるけど違う。マスターの仕事は、次期マスターになり得る逸材を発掘して、育成することだ。僕が伊織を見つけ出したようにな」

「ふふっ、何だかライフサイクルみたいですね」

「経営も同じだ。ずっと同じメンバーだと、みんな老人になって、歯が抜けるようにいなくなっていく。有力な後継者がいなかったら、企業は潰れるか乗っ取られるしかない。だからどこの企業も若い人材を発掘する必要に迫られてる。責任重大だけど、マスター代理が常任になるだけだ」

「……私が教える立場ですか」


 伊織は僕からバスタオルを取り上げた。


 不安を払拭するべく、僕の体臭を嗅ごうと大きく息を吸った。


 最近の伊織は安心しきっているのか、ずっと僕につきっきりだ。唯はスマホで基礎学力を伸ばすサプリを子供たちに提供し、まだ小3の紫に至っては既に小6の問題を解いている。積み残しを起こさないのはホームスクーリングのメリットと言えるだろう。偏差値50以上を取れるような子なら、小4を迎える頃には中卒レベルの学力を手にするだろう。その後の人生は子供たちが自ら考え選んでいく。


 ――翌日、午後6時を迎えた頃、久々に岐阜に拠点を移したばかりの穂岐山珈琲へと赴いた。


 伊織がどうしてもついていきたいと言うもんだから連れていったが、一体何をする気なのやら。


 ここは、穂岐山珈琲本社にして、中津川珈琲本社があるオフィスビルである。


「おー、あず君に伊織ちゃんまで。やっぱり交際の件は本当だったか」

「みんなあっさり受け入れてくれていました」

「そうかそうか、そこに座ってくれ」


 勧められるまま、所々解れている中古のソファーに腰かけた。


 僕らは予定よりも早く、事実重婚を世間に公表する格好となった。


 ダブリンにいた時の僕らの様子があまりにもカップルのように見えたことから、不倫のような騒ぎとなっていたが、帰国してから僕ら3人でチャンネル内での生放送を行い、事実重婚を釈明した。


 唯や子供たちが受け入れているならと、大半のファンはすぐに納得してくれた。唯の方から発案したことも要因として大きかったし、迷惑をかけたわけでもないんだし、法律違反でない以上、世間の承認すらいらないと、生放送で言ってのけた。自分のことでもないのに反発する者もいたが、無視で構わない。


 多くのファンは祝福してくれた。彼らこそが本物のファンだ。中には知ってたと言う人もいた。


 ハッタリかどうかは知らんが、普段から僕と伊織の仲が良いことはみんなに知られていた。


「2人がとても仲良しなのは知っていたけど、まさかここまでとはね」

「驚きましたよね……」

「ああ、確かに驚いた。でも不思議と受け入れられる。唯ちゃん1人であず君と子供たちの面倒を見るのはなかなか骨が折れるだろうし、もう1人あず君を支えてくれる人がいた方がいいと思うよ。それにあず君はコーヒー業界の常識を変えた存在だ。改革の象徴と言ってもいい」

「そんな大層なもんじゃねえよ。僕は常に理に適った選択をしてきただけ。お見合い結婚が少数派になった時点で、一夫一妻制は事実上破綻してる。誰よりもそのことに早く気づいた。こいつがな」

「わっ、私ですか?」

「はははははっ! 流石はあず君の愛弟子だ。あっ、今は恋人だったね」

「愛弟子でもありますから、間違いじゃないですよ」


 何だ……このややこしい関係は……まっ、選んだのは僕だ。愛弟子兼恋人も悪くない。


 社員と体の関係を持つなんて、まずいと思ったけど、抑えれば抑えるほど、我慢するのが難しくなる。これが本能というものだ。伊織が僕の本能を解き放ち、唯が真っ先に受容した。


 まるで連係プレイのような――。


「ところで、経営の方はどうなってるの?」

「以前より会社の規模が落ちて、役員はほとんどが杉山珈琲に持っていかれた。完全にやられたよ。鍛冶社長が杉山グループの手下だったとは」

「バリスタたちはどうなったわけ?」

「うちにいた有望株の半数以上は、葉月グループと中津川珈琲に転職してもらった。美羽が気を利かせてくれたお陰で、失業者も出なかった。感謝してるよ」

「うちは実力主義だから、他の人よりも才能がないと見なされた人は送り返すことになるぞ。それにマイナー競技会で実績を残さないと、メジャー競技会で勝ち抜くのは厳しいだろうな。参加枠が増えたとは言っても、このバリスタブームは当分続くだろうから、有望株が通用するとは限らない。まあでも、これで競争が活発化するだろうし、マイナー店舗も層が厚くなった。上がってくるのが楽しみだな」

「やっぱりお店を経営して、利益を出さないと厳しいんですね」


 穂岐山社長を心配するように伊織が言った。有望株を獲得できたのはいいが、前々から穂岐山珈琲が育ててきただけあって、うちのやり方に慣れるまでにしばらくのリハビリが必要だ。


 穂岐山珈琲が残したのは、20代前半の社員ばかりで、葉月グループに送られてきたのは20代後半、中津川珈琲に至っては、30代以降のバリスタが転職したが、中津川珈琲はバリスタオリンピック効果の影響からか、ジェズヴェがかなり売れたようで、人を雇うだけの余裕ができた。


 経過を語ろうと、穂岐山社長が口を開く。


「これで良かったんだ。社員のためにここまで粘ってきたが、やはりバリスタが実績を出してくれないと会社が持たない。鍛冶社長の企みだろうが、去年は根本君が危うく不参加になるところだった。今年が最後のチャンスと思って、根本君を送り出したまでは良かったんだがね、まさか参加そのものを取り下げてくるとは思わなかった。バリスタオリンピックが開催されてから4日目に敗訴して、経営権を奪われた。万が一のことを考えて育成部の分社化を済ませていたが、守り切れなかった。あと3日……時間を稼げていればと思ったんだが……そううまくはいかなかった」

「同じ参加者として複雑です。まさか敗者復活ルールが適用されるとは思っていませんでしたから」

「きっとコーヒーの神様が、根本君を守れなかった報いを私に与え、伊織ちゃんにはチャンスを与えた。君はもっと誇るべきだ。何も負い目を感じる必要はない。根本君から聞いたが、あくまでも日本代表を優勝させるためにサポーターチームを作ったようだね。今までのうちの社員たちは、穂岐山珈琲のバリスタを優勝させることばかり考えていなかった」

「もし根本が残っていたら、うちのサポーターチームが根本のサポーターとして、ステージの組み立てを手伝っていたはずだったけど、皐月たちはみんな伊織の敗者復活ばかり喜んでた」

「それでいいんだ。根本君ならファイナリストに慣れた可能性は十分あったと思うけど、伊織ちゃんの優勝を聞いて確信した。コーヒーの神様による導きだと」


 穂岐山社長は全てを運命だと思って受け入れているようだ。


 僕らよりも遥かに大人だ。伊織は嬉しさを露わにしていた反面、終始根本を心配していた。


 ケルティックタイガーでは祝勝会が行われた。スティーブンたちは無事に事業縮小に成功し、収まるところに収まった。今後は最初に始めたカフェの仕事に専念するようで、貿易からも足を洗った。うちの農園から仕入れたコーヒー豆を売れば儲かるだろうが、事業展開を行う余裕はないらしい。


「やれやれ、まだそんなことを根に持ってたんですか?」


 紙コップに入ったコーヒーを手に持ちながら、根本が後ろから声をかけてくる。


「根本さん」

「そんな哀れみの顔で見られても困るんですがね」

「根本君に敗因があるとすれば、それは社員を守れない弱い企業に入ってしまったことだ」

「社長もいつまで落ち込んでるんですか。今の状況と向き合うのが先でしょ」

「そうだね」

「本巣さん、僕のことは気にしなくていいですよ。悪いのはあのクソ親父ですから」


 根本は口調を悪くしながら、持っていた空の紙コップを勢い良く握り潰した。伊織はビビりながら僕の腕にしがみつき、怯える伊織を見た根本は冷静さを取り戻し、近くのゴミ箱に紙コップを投げ込んだ。


「それと……バリスタオリンピック優勝、おめでとうございます」

「……ありがとうございます。根本さんの分も頑張らないといけないと思って、いつも以上の力を出せた気がします。私1人では……勝てませんでした。決勝でも千尋君の力を借りて、文字通り全員で戦い抜きました。穂岐山社長、またあの大舞台に誰かを送り出す時は、会社という枠組みをなくして、一丸となって戦う方針を推奨していただけませんか?」

「ああ、いいとも。葉月グループの一員として優勝した伊織ちゃんが言うんだ。間違いない。今後うちのバリスタが、他のコーヒー会社のバリスタと一緒に日本代表になった時は、是非その方針でやらせてもらうよ。うちの社員は自分のことだけを考えていた。それじゃ勝てるはずもないな」

「今度からは社長も一緒に行けますよね」

「もう乗っ取られる会社がないからな。幸いにもブランドは守った。こんな形で生まれ故郷に戻ってくることになるとは思っても見なかったが、会社としては成功したと思ってる。日本のコーヒー業界の火つけ役になれたことを誇りに思う。また修業のやり直しだな」

「でもこれからどうするんですか? 店は今月から即興で始めた穂岐山珈琲岐阜市本店だけなんですよ。お客さんの大半は、葉月グループのお店に吸われてますし、隣町に店を開いた方がいい気がしますけど」

「いや、そうでもないぞ。ここは葉月グループの店からそんなに離れてないけど、それはトレンドがすぐに分かるということでもある。それに客だって行列を作りたいわけじゃないし、行列を嫌って別の店に入ることを狙っている客をターゲットにすれば、まだ何とかなるぞ」

「葉月グループのトレンドを丸パクリしろって言うんですか?」

「それも1つの手というだけだ。うちの豆で良かったら、友人価格で売ってもいいぞ」

「やっぱりそのためですか」


 思わず頭を抱えながらため息を吐く根本。彼はこの機に乗じて、穂岐山珈琲の役員に就任した。


 あの鍛冶社長の息子なだけあり、ビジネスにはそこそこうるさいようだ。役員になれば、もう鍛冶社長の元には戻れないが、そこを気にしないあたり、どちらかと言えば母親似だ。


「まあでも、背に腹は代えられません……お願いします」

「やけに素直だな」

「僕はいつでも素直です。近くに本店があって、松野さんがマスターなんです」

「もしかして、松野も役員か?」

「いえ、松野さんは今まで通り育成部の部長ですよ。今後大会には出ないつもりです。バリスタよりサポーターの方が向いていると、自分で言ってましたし」

「じゃあよろしく伝えておいてくれ。鍛冶社長がまた何かやらかしたら、美羽に伝えてくれ」

「それは構いませんけど、カフェ巡りはしないんですか?」

「あいつとはあまり仲が良くない」

「私は行きたいです」


 伊織が目をうるうると震わせながら上目遣いの姿勢だ。


 やめろ……その攻撃は僕に効くっ!


「……しょうがねえな」


 ふと、根本の顔を見ると、この人案外ちょろいですねと目が言っている。


 すぐ近くに穂岐山珈琲と書かれた店舗を見つけた。外観は東京都内に出店していた時と変わず、岐阜の県花である蓮華の花が添えられている。穂岐山社長が常に故郷を忘れなかった証拠だ。


「あっ、あず君久しぶりー!」


 優子が僕の顔に向かって抱きついてくる。隣の席には美羽が座っている。


「久しぶり。相変わらず元気そうだな」

「そう言うあず君だって、面白そうなことしてるじゃん。遂に妾の存在を公開するとはねー」

「ずっと昔から妾がいたわけじゃねえぞ。伊織には特殊な事情があったからな」

「あーあ、あたしたちもあず君に嫁ぎたかったぁ~!」

「何であたしが入ってるんですか?」

「まあでも、あず君がやっと素直になってくれて嬉しいな」

「何で2人がここに?」


 美羽の隣に腰かけると、すぐ隣に優子が座った。


「葉月グループに喧嘩を売った不届き者をどうやっつけるかで盛り上がってたんだよねー」

「あず君、あたしは人事部長の仕事と子育てを同時進行でこなさないといけないから、鬼退治には参加できそうにないの。穂岐山珈琲の敗戦処理をするのがやっとだったし」

「杉山グループはともかくとして、まずは鍛冶社長に地獄を見せてやらないとねー」


 真紅のオーラを醸し出している優子が指をポキポキと鳴らしている。鬼はどっちなんだか。どうやらあの連中は、最も怒らせてはいけない人を怒らせてしまったらしい。


「その気持ちだけで十分だ」

「あず君、杉山社長はともかく、鍛冶社長には、かつて愛弟子に深い傷を負わされてるんだよ。あたしには仕返しするだけの理由があんの。鍛冶社長は近い内に与党の国会議員として立候補するみたいだから、何としてでも阻止する。あんなのが政治になんて介入するようになったら、また大勢の人間が悲しむことになる。どの道放っておけないし、あいつの公約見た?」

「一応な。老人を優遇するふりをして、自分たちだけ儲けようとしているのが見え見えだ。法人税は下げるみたいだ。うちとしてはありがたいけど、今よりも社会保障制度を弱体化させたら、無敵の人が更に増えてしまうだろうな。狙いが露骨すぎる」

「お母さんみたいな被害者が増えるということですか?」

「かもな。去年元首相が暗殺されただろ。あの事件で危機感を持つようになってな。葉月グループの名義でハワイに別荘を借りた。うちは50歳定年で、僕が辞める頃には、この国は本格的にやばくなってるだろうし、いつでも逃げられるようにしておいたぞ。本社もシンガポールにあるし、優秀な経営陣を結成したから、僕がいなくなっても、日本が壊滅しても、葉月グループは生き延びるってわけだ」

「用意周到なところは相変わらずだな」


 カウンター席に座っている僕と対面するように、チョッキを着用した松野が佇んでいる。


 全然似合わねえ。こいつはどっちかっていうと育成部の部長として、もっとラフなスーツ姿の方がずっとに合ってる。でもここにいるってことは、ここが育成部の拠点でもあるってことだ。


 芽衣や黒柳もここのスタッフを務めながら次の大会に向けたコーヒー開発を進めている。


 オープンキッチンとクローズキッチンはうちを参考にしているようだ。


「昔っから抜け目がないもん。だからこそ本番で失敗しない。それがあず君の強みだよ」

「その強みが伊織ちゃんに受け継がれたね」

「本巣、根本のことは気にすんなよ。あいつだって俺がリタイアしなかったら、選考会にも出られなかったんだ。つまり、本来なら本巣がワイルドカードで予選通過できてたってことだ。認めたくはねえけど、多分これは歴史の修正力ってやつだ」

「……はい」


 遠慮気味に伊織が言った。何故こうもみんなが念を押して伊織を励ますのかが僕には分かる。


 成すべきことを成したというのに、伊織はまるで生気が抜けきったように元気がない。もっと喜んでもいいのに遠慮していることにみんな気づいている。


 伊織は何かを持っていると思っていたが、それはきっと……仲間だ。

読んでいただきありがとうございます。

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