386杯目「アジアの意地」
さっきまでの伊織は平気のように見えた。
だがそれは僕の思い違いのようだ。伊織の両腕は緊張を思い出したように指先まで震えている。
いつもの伊織に戻ったと言えば簡単だが、競技中の伊織はまるで別人だ。感情のコントロールが完璧にできている。終わった瞬間に喜ぶバリスタがほとんどだが、伊織は喜びをすぐには表情に出さない。優勝トロフィーを渡された時でさえ、僅かに笑みを浮かべただけだった。
かと思えば、自分の部屋で1人きりになった時に喜びを爆発させていた。
「次は僕の番か」
「千尋君、出番は大丈夫なんですか?」
「僕の競技は3時からだし、別に問題ないよ。リハーサルの時間もあるし」
「昨日と変わらない競技をするつもりか?」
「レパートリーポイントは3部門で入るようにしてるけど、基本的には今の方針を貫くつもり。それに僕にはとっておきがあるからねー」
「あっ、千尋君、早く来てよー。リハーサル始めるよー」
「えー、別にいいじゃーん――あっ、ちょっと、まだ話がぁ~!」
莉奈が千尋の腕を引っ張り、問答無用に連れていく。
バリスタのコンディションを調整するのもサポーターの仕事だ。
働き者を休ませ、怠け者を働かせ、やる気が最高潮に達した段階で舞台に送り出す。裏方仕事だから目立たないけど、莉奈はちゃんと自覚しているようだ。
午後2時、予定よりも早く千尋の競技が始まった。
ここからは上位5人の競技となり、主にマイケルジュニアを目当てに人が集まってくる。
史上初となる親子での優勝が見られるかもしれないのだ。
予定通り、世界最高峰のコーヒーばかりを使ったトリプルブレンドコーヒーを提供していった。
しかし、このトリプルブレンドコーヒーには弱点がある。風味のコントロールが難しく、簡単には別の品種と入れ替えることができないし、ブレンドコーヒーでレパートリーポイントを狙う場合、予選とは全く違う品種を使わなければならないし、抽出器具が変わっただけで風味をコントロールできなくなってしまう。千尋には過信とも言える根拠がある。これが吉と出るか凶と出るかだが。
同時にもう1人の競技が始まろうとしていた。千尋の競技は伊織に見守らせ、僕はこっそりとチェンのいるブースへと移動していた。見られる機会があるとすれば……もう今しかない。
「それでは次の競技者です。第13競技者、台湾代表、リー・チェンミン!」
地面を鳴らすような歓声が上がった。
司会が紹介しただけでこの大歓声――予選であんな競技をすれば当然か。
上位通過しただけのことはある。
センサリージャッジに準備ができたかどうかを確認し、チェンが右腕を天に伸ばした。
「タイム。僕が今ここにいるのは、台湾で生産されたコーヒーを多くの人に知ってもらいたいからです。台湾でコーヒーの生産なんてやっているのかとよく言われますが、台湾も亜熱帯気候であるため、コーヒーベルト圏内です。生産量こそ少ないですが、品質は他の国のコーヒーを凌駕している自信があります。今回主体的に使うコーヒーの特徴です。生産国は台湾、品種はゲイシャ、標高1200メートル、ミディアムロースト、ナチュラルプロセスのコーヒーです。この『台湾ゲイシャ』ならではの華やかなアフターテイスト、台湾珈琲ならではのお茶のように優しく、フルーティーな味わいを併せ持った台湾ゲイシャを是非ともお楽しみください。それではエスプレッソから始めたいと思います」
予選に続いて台湾ゲイシャか。どうやらこれ一本に絞るらしい。
余程の自信があるようだが、それ以上に頑なな信念のようなものを感じる。
エスプレッソ部門から始めると、他の部門用にコーヒーを淹れ始め、氷水で冷やし始めた。すぐに次の部門に移るまでの準備をしている間に説明パートをこなすことで、競技時間を大幅に短縮できる。
「コーヒーの生産に適した阿里山地域において、コーヒーはお茶と同じく標高が高いほど品質が良くなっていきます。海抜1200メートルで、昼と夜の温度差は10度を超えます。開花から成熟まで、低高度地域よりも2ヵ月以上かかります。独自の栽培と自然気候環境の抽出により、食感は硬く濃厚で、味わいはより発達し、味わいはまろやかでリッチです。厳格な精製プロセスと最も献身的な専門分野の管理は、専門家やコーヒーファンの支持と賞賛を勝ち取り、国内では最高の台湾コーヒーとして知られています。このコーヒーは米国コーヒー品質協会で最高点を獲得し、世界ナンバーワンに輝いたコーヒーです」
噂には聞いていたが、こんな隠し球を持っているとはな。
アジア勢では数少ない自国産のゲイシャを使い、ジャッジにも観客にも強烈なインパクトを与えた。
技術革新により、これからはコーヒーベルト圏内であればどこでも世界最高峰のコーヒーが栽培できるようになっていき、コーヒー業界の価値も更に上がっていくだろう。チェンの競技は僕に拡大するコーヒー業界未来を予感させてくれた。今は数少ない競技用のコーヒーだが、通販で購入することはできる。
チェンが結果を残せば売り切れは必至だ。
僕が転売屋なら、とっくに買い占めているところだ。
ブリュワーズ部門では、ペーパードリップで台湾ゲイシャを入れたコーヒーカップを提供した。
すぐ後に台湾ゲイシャコーヒーに蜂蜜とレモンを混ぜて冷やしたハニーレモンを投入し、更にコーヒー自体を冷やすことで紅茶のフレーバーを追加したドリンクを細長いコップに入れてから提供する。
「ゲイシャらしい華やかさとフルーティな味わいが生豆自体のクオリティの高さを物語っており、温度帯によるフレーバーの変化がとても面白いのも特徴です。人間が美味しいと感じる温度は、体温からプラスマイナス30度と言われています。この温度帯の中で台湾ゲイシャは様々な表情を見せてくれるのです。抽出直後の温度帯では、台湾ゲイシャ特有のパイナップルのようなフレッシュなフレーバー。体温と同じくらいになると酸味は穏やかになり、アーモンドのフレーバーが顔を出します。台湾ゲイシャエスプレッソのフレーバーは、マンゴー、パイナップル、アーモンド、アフターはトロピカルフルーツです」
今やアジアでも最高級品質のコーヒー開拓が進んでいる印象を多くの人間に知らせるように、今に至るまでの栽培の経緯を説明するチェン。コーヒーへの愛情は僕にも負けないものがあった。
既に疲れを見せ始めている。店にいる時とは緊張感がまるで違う。
常に会場中から視線を浴び続ける重圧の中で力を発揮できないバリスタもいることを知った僕は、知識や技能に優れたバリスタを育ててこの舞台に送り出すよりも、まずはメンタルトレーニングをして、プレッシャーに強い人間を育てるべきであると感じたのだ。
次世代を担うバリスタたちには、メンタルトレーニングの一環として、サポーターチームに参加してもらい、バリスタ競技会の雰囲気に慣れてもらうところから始めたが、これが伊織たちに見事にハマった。特に重圧に対して強気の姿勢を見せたのが皐月と弥生だった。
持って生まれたセンスよりも、実戦で怯むことなく力を発揮できるかどうかの方がずっと重要なのだ。
「余韻はアマレットを飲んだようなふわっとした甘さ。冷めると優しい中国茶を思わせ、テロワールをしっかりと感じることができるとても面白いコーヒーであると感じました。液体の質感もラウンドでシルキーなもので引っ掛かりがなく、するっと喉を通過していくのがとても心地良い印象でした。ゲイシャらしいトロピカルなフレーバーにプラスして、テロワールもしっかり感じることができる非常にユニークな味わいのコーヒーで、とても視野が広がるコーヒー体験を味わうことができたと感じました」
マリアージュ部門では、予選に続いて『鴛鴦茶』を提供する。
コーヒーと共に提供するフードメニューとスイーツメニューが違っていれば、コーヒーは同じでも特に問題ないのだが、連続で提供するということは、余程の自信があるということだ。
鴛鴦茶は香港発祥とされ、中華圏で飲まれているコーヒーの飲み方の1つ。
通常はコーヒーと紅茶を2対1の割合で混ぜ合わせるが、バリスタ競技会ではコーヒーの味が支配的でなければ減点されるため、紅茶の割合を減らし、4対1の割合で台湾ゲイシャと熟成させたアールグレイに牛乳のホエイを混ぜたものを投入した。まさに大会用の鴛鴦茶だ。
コンデンスミルクや砂糖類は一切投入しないのは、本来の味を楽しんでもらう目的らしい。
鴛鴦茶と共に味噌だれが入った甘辛い炒飯を提供した。
甘辛いレシピと鴛鴦茶の相性が良く、味の強い料理自体は中華料理に多いため、料理やスイーツとの相性が重視されるマリアージュ部門にはかなり向いている。全てが地元に根づいた味に拘っているところにも一貫性を感じることができ、観客にも分かりやすいテーマとなっている。
コーヒーベルト圏内というだけで、地元をテーマとする強みをここまで引き出せるとは。
更にはパイナップルが入った杏仁豆腐と台湾ゲイシャを使ったカフェオレを提供した。パイナップルのフレーバーをより強調する組み合わせだ。これから地元のコーヒーをテーマにした国が台頭してくる前兆とすれば、日本代表も安心はできん。うかうかしていると抜かれてしまう。そのことを早く自覚してもらおうと、各メジャー店舗の連中には伝えてきたつもりだが、油断を覚えた人間はすぐに淘汰された。
ラテアート部門ではアニマル革命に倣い、フリーポアラテアートでパンダを、デザインカプチーノでウシガエルを描いた。コントラストがハッキリしている動物を選ぶあたり……できる。
コーヒーカクテル部門では、鴛鴦茶とスピリッツを合わせた『鴛鴦酒』と名づけられたコーヒーカクテルを提供した。ウーロンハイがあるくらいだし、お茶と酒にも組み合わせによっては相性の良いものがある。彼はそれを発見したのだ。
地元をテーマにするだけで、やりたいことがハッキリするのも強みだ。
「如何でしたでしょうか。僕は地元台湾が誇るコーヒーの魅力を伝える活動を続けようと考えています。コーヒーが持つ魅力と、コーヒーを使った新たなレシピを開拓していく楽しさを、もっとたくさんの人に知ってもらうことが、僕らバリスタの使命であると自負しています。コーヒーの人気が高まっていけば、自ずとバリスタも注目されるようになるはずです。行く行くは世界中のどこに行ってもコーヒーファンが集い、すぐ友人になれるくらいの楽しい空間を作っていくことを理想としています。それこそがコーヒー業界が歩むべき平和な未来だと思います。タイム」
右腕を上げた瞬間から、観客からの声援と拍手がしばらく鳴りやまなかった。
安心の笑みがすぐに競技をやり終えた喜びへと姿を変え、チェンはインタビューを受けている。
そんな彼を見ながら、僕は観客席から降りた。
「あのあず君にそっくりな人、かなり手強そうだな」
階段を下りる僕を追いかけながら、皐月が後ろから声をかけてくる。
「チェンは本気でバリスタオリンピックチャンピオンを目指してるからな」
「予選の時と比べると、全部門でレパートリーポイントが発生する条件を満たしていたな」
「皐月も気づいてたか。あれは大幅に加点されるだろうな」
「予選と同じくらいのスコアなら、レパートリーポイントを足して、900ポイントは確実に超えるな」
「他のバリスタたちの競技も見たかったけど、同時に見れないのが欠点だ。決勝は全員の競技を順番に見ることができる数少ない機会だ。今まで以上に観客が押し寄せるだろうな」
「その通り。でも僕らには特等席がある。参加するバリスタの関係者であれば、最大10人まで、誰の競技であっても優先席に座れるわけだ。首から下げているこの観客パスをよーく見てみろ。他の観客は緑だけど、僕らは参加者の関係者だから黄色で、参加者は赤の観客パスを首から下げてる」
「そのための色分けか。なら明日使わせてもらおう」
皐月が別のブースへと向かっていく。コーヒーを注文すると、紙コップに入ったコーヒーを口に含む。
不安を隠そうとしているのがよく分かる。皐月は伊織の決勝進出を祈っている。これはただの贔屓ではない。伊織とはここ数ヵ月の間、ずっと一緒にプレゼン内容を組み立ててきた。プレゼンの所々に皐月のアイデアが出ている。センサリージャッジを立たせて調理過程をじっくりと見させるのも皐月の発案だ。
背中を押して引き出しを作るサポーターにも独自の技能がある。
その内サポーター専門のバリスタが現れて、細分化されるようになるんだろうか。
午後5時、予定よりも早く結果発表が行われた――。
この時を待ってましたと言わんばかりに観客が集まり、中にはバリスタたちの身内らしき人物も混在している。ここでバリスタとして大成できるかどうかが決まると言っても過言ではない。ファイナリストになった者はバリスタ史にその名を刻み、名実共にトップバリスタとなる。
伊織は失格になった根本の想いを受け継ぐように背負っている。
この日を戦った15人全員が集まった。5人だけが白いステージの上に登ることを許され、今大会のメダル確定圏内となるが、全員の目標はたった1つ。伊織と千尋はお互いに手を握り、2人揃っての決勝進出を祈りながら下を向いて目を瞑った。最初に通過を決めたのはマイケルジュニアだった。
バリスタオリンピックファイナリストとなった初の親子が誕生した。マイケルジュニアがステージに上がり、観客からの大喝采を受けながら次のファイナリストを待った。
「それでは2人目のファイナリストを発表します……日本代表、モトスーイオリー!」
選ばれたのは伊織だった。口を開けたまま、恐る恐る白いステージへと続く段差を上がる。
僕と目が合うと、伊織はすぐに自信に満ちた笑顔を取り戻した。
大丈夫だ。僕らがついている。決勝で思いっきり暴れてこい。
3人目にジェシー、4人目にバークリックが通過を決めた。タイ代表のバークリックの名が呼ばれた時はいつも以上の歓声が沸いた。東南アジアのバリスタがファイナリストになったのは初めてであった。
「5人目です。次に呼ばれた者が最後のファイナリストとなります。果たして、最後のファイナリストとなるのは……台湾代表、リー・チェンミンだぁー!」
チェンが喜びを露わにしながら白いステージの段差を上る。
ファイナリスト5人の内、アジア代表が3人を占め、アジアのバリスタのレベルの高さを示す結果となった。強豪のヨーロッパやオセアニアは珍しく鳴りを潜め、アジア勢とアメリカ勢の頂上決戦となった。
この瞬間、千尋の敗退が確定した。だが千尋は笑顔のまま、拍手を送る手を休めなかった。
ふと、僕はスクリーンに表示されたスコアを見る――。
1位 マイケル・フェリックス・ジュニア アメリカ 962.5
2位 リー・チェンミン 台湾 958.9
3位 本巣伊織 日本 957.3
4位 ジェシー・ブラウン アメリカ 954.4
5位 バークリック・チャイモンコン タイ 952.6
全員が総合スコア950ポイント越えだとっ!
しかもかなりの僅差だ。マイケルジュニアが一歩リードしているが、1位と5位の差が10ポイントないということは、この中の誰が優勝してもおかしくはないということだ。もはや実力勝負じゃない。最後に運が傾いた奴の勝ちだ。運のせいにできるくらいには、この5人の実力は拮抗している。
結果発表が終わり、司会者が白いステージから降りると、観客たちもぞろぞろと帰り始めた。
僕が白いステージに駆け寄ると、皐月たちが真っ先に伊織の周囲に集まった。
「伊織ちゃん凄いよっ! バリスタオリンピックファイナリストだよっ! 凄ーいっ!」
莉奈が伊織に抱きつき、自らの頬を伊織の頬に擦りつけた。
「伊織、明日はいよいよ決勝だな」
「はい。必ず決勝進出できると信じてました」
「――伊織ちゃん、前と変わったね。昔は自分の殻にこもって、無難に日々をやり過ごすことしか考えてなかったのに、あず君のお陰かな」
「ふふっ、あず君だけじゃないよ。みんなが私を強くしてくれたから……」
「また会ったな。幼女ちゃん」
マイケルジュニアが伊織のそばにツカツカと歩み寄ってくる。
「幼女じゃないです」
「ハハッ! そうだったな。幼女ならこんな所に来られないよな。君がファイナリストになるとは恐れ入ったよ。流石はアズサが見込んだバリスタだ。イオリ、ファイナリストおめでとう」
「……ありがとうございます」
「だがな、俺たちアメリカ代表は歴代最強だ。バリスタオリンピックチャンピオンの親父や多くのサポーターたちから最高の教育を受けた。俺には勝てないぞ」
伊織を挑発するようにマイケルジュニアが言った。
あの生意気な性格とバリスタとしての才能は父親譲りだ。
「確かにそうかもしれません……私1人ではですけど」
揺るぎない自信を見せつけるように、マイケルジュニアの隣で呟く伊織。
――昔の僕を彷彿とさせる立ち振る舞いだ。
マイケルジュニアが伊織のそばから離れ、アメリカ陣営に合流する。
「あれっ! 千尋君がいないよっ!」
那月がキョロキョロと周囲を見渡しながら言った。
「「「「「ええっ!」」」」」
「ちょっと探してくる」
駆け足で千尋を探した。伊織も僕の後からついてくる。
会場の中で人目につかず目立たない場所――関係者以外立ち入り禁止の控え室、そこしかない。
「千尋っ!」
「……どうかしたの?」
「どうしたもこうしたも、何で伊織のことを祝ってやれないわけ?」
「そうですよ。みんな千尋君のことを探してるんですよ」
「敗者は黙って去るのみ。それを実践してただけなんだけど」
後姿とアホ毛を見せたまま、霧の中にでもいるような暗い声で千尋が言った。
「千尋君……!」
「うっ……ううっ……」
「「!」」
全身を小刻みに震わせ、何も言えなくなっている千尋を見ると、様子がおかしいと思った僕と伊織はお互いに目を合わせ、首を傾げた。千尋が僕らの方に顔を向け、目からは今までの想いが零れ落ちた。
「千尋君……ずっと耐えてたんですね」
「当然だよ。僕はこの大会に全てを懸けて臨んだんだよ。今なら分かるよ。根本さんの痛みが……」
涙声のまま、静かに訴えるように千尋が言った。
千尋は最終6位、伊織が予選落ちしていなければ、紛れもなくファイナリストだった。
「……許さない」
「えっ……」
「伊織ちゃんは根本さんだけじゃなく、僕からも頂点に立つ資格を奪ったんだよ。僕の今までの苦労が全部台無しになったんだ」
「千尋君」
「だから……絶対に優勝してよ……君は本来ここにいなかった。運も実力の内って言うけど、本当みたいだね。ファイナリストたちの実力は互角なんだから、決勝も予選の結果発表で運を引き寄せたように、悪運の強さを見せてよ。運営が君を予選落ちさせようとしたのは間違いだったって証明してよっ!」
僕は千尋をそっと優しく、音もなく寄り添うように抱き寄せた。
「もういいんだ。君はよくやった。誰も君を責めたりなんかしない。もっと誇りに思え」
「……ううっ……あああああぁぁぁぁぁ!」
千尋の精一杯の頑張りが、僕ら以外誰もいない控え室に響き渡った。本当は伊織を褒め称えながら決勝に送り出したいはずなのに、普段から持ち続けているプライドの高さがそうはさせてくれない。僅かな総合スコアの差が明暗を分けた。コーヒーは伊織を生き残らせることを選んだのは相応の理由がある。
みんなの気持ちを背負い、屍を超えられるのは、もう伊織しかいないのだ。身内以外の誰からも期待されていなかった伊織が、皮肉にも葉月グループ最後の砦となった事実を千尋は必死に拒んでいる。
「千尋君、後は私に任せて。必ず優勝してみせるから」
伊織もまた、今までの想いを目から零し、千尋に対し並々ならぬ意志を告げる。
その目には何の曇りも迷いもない。ただ目の前の競技に臨む覚悟しかなかった。
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