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社会不適合者が凄腕のバリスタになっていた件  作者: エスティ
第15章 最果てのバリスタ編
368/500

368杯目「結ばれた仲人」

 帰国した翌日、僕らは営業開始前にオスロでの経緯を千尋と那月にも話した。


 WCSTCS(ワクストックス)で優勝した件、リッケスカッツの宣伝を手助けした件、伊織の件も全て話した。千尋と那月にだけ伏せるのはフェアじゃない。


 特に何かを誇張することもなく、ありのままを淡々と話した。


「ふ~ん、なんかあるとは思ってたけど、やっぱりそういう関係だったかー」

「えっ、知ってたんですか?」

「だってやけに仲が良いし、傍から見てても恋人みたいだったよ」

「そうそう。女の子があんなとびっきりの笑顔を見せながら距離を詰めるって、余程好きな相手にしかしない行為だよ。あの時点で伊織ちゃんがあず君を好きなのは分かってたけど、事実重婚とはねぇ~」

「今の時点でどれくらいの人が知ってるの?」

「僕ら全員と親戚の集会に参加した人全員。それから皐月もな。特に親戚一同はみんな事実重婚が恥ずかしいみたいで、ばらす気はないようだけど」

「まっ、僕にとっては他人事だから、別にどうでもいいけどねー」

「世間の連中が千尋くらいのIQを持ってたらどんなに楽か」


 千尋の正面から呟くように嘆いた。これには伊織も同意のため息を吐いた。


 頭の悪い人ほど世間の声になりたがるし、他人に興味を持ちすぎるんだよなー。


 この前も浮気をした芸能人が世間に咎められたばかりだし、僕はともかく、伊織が心配だ。伊織のことは信用しているが、世間に対する信用はない。他人の言動にいちいち難癖をつけるところさえなければ、かなり良心的な人種なんだけど、ホントにああいうところが勿体ねえよ。労働基準法は守らねえくせに、人の浮気は法律のように咎める態度は平成で卒業してほしかった。


「で? 2人はどれくらい愛し合ってるのかな?」

「あー、そっか。とりあえず証拠だけ見せておくか。伊織」

「はい……んっ!」


 僕は伊織と唇をクロスさせるように重ね合わせ、伊織の温度を直に感じた。


 少しばかり戸惑っていたが、羞恥心はすぐに洗い流されるように消え去り、僕と感覚を一体化させた。


 千尋たちは目が点になるほど唖然とし、僕らの静かな愛情表現を見届けている。


「うわ……じゃあ本当に……」

「そ、そうです。でも、たまたま好きになっただけで、何も悪いことはしてませんから」

「あたしは賛成だよ。あず君があたしの二刀流に賛成してくれたように」

「あず君は革新的だけど、時にそれが残酷に思える時がある。でも面白いとも思ってる。どこまでやってくれるのか、非常に楽しみだ。リッケスカッツを救ってくれた恩人でもある。反対する理由はない」

「あっ、そういえばシェリービットはどうなったの?」

「あず君が帰った後、リッケスカッツが大繁盛して、うちの商品を輸入したいっていう業者がたくさん集まってきた。大会を通して店を宣伝してくれたお陰だ。まだ倒産回避が決まったわけじゃないが、ここまで盛り返してくれたのは心強い。それと、これは伯父からの伝言だ。バリスタオリンピックの時も、葉月グループに対して優先的に輸出できるようにしておくと言っていた」

「それは助かる。うちはコーヒーカクテル市場に進出したいし、これで相互利益が出るな」

「リッケスカッツは事業さえうまくいっていれば、グローバルマーケットに進出するつもりだった。国内だけを相手にしていては、利益を出せないからな。葉月グループは国外の最重要取引先だ」

「えっ、うちが最初なの?」

「ああ。葉月グループにとっても、国外の最重要取引先になってくれると嬉しい」


 響が笑いながら言った。営業時間が迫ると、外には客たちが今や遅しと待っている。


 葉月珈琲は大会後の好景気に見舞われた。千尋が早く戻って来いと言った理由がここにある。僕らが戻るまでの間は弥生が代理として、うちでの業務に従事していた。


 忙しくなるにつれ、僕らは悩みの種を忘れつつあった。


 伊織と千尋は6月のダブリン行きに向けて調整を進め、予定よりも早く全部門のメニューが完成しつつある。決勝まで進出する前提の構成だ。2人共負ければ全てが無に帰すつもりでいる。レパートリーポイントを積極的に狙いに行く千尋に対し、伊織は一本勝負の部門が多い。


 そんな時だった――。


 柚子が俊と結婚したのだ。近い内に結婚式を上げるため、僕にも出席してもらいたいんだとか。


 ホントうちの親戚は結婚式が好きだねぇ~。


 意外なことに、柚子が結城家に嫁ぐのではなく、俊が楠木家に入ることとなった。結城家は婿養子に出すくらい男子の数に余裕があるのか、無理に嫁がなくても良い方向で話が進んだ。柚子は楠木姓を変えたくない旨を俊に伝えると、俊は喜んで受け入れた。


 接客を終えた伊織が急いでオープンキッチンまで戻ってくる。


「柚子さんが結城さんと近々結婚式を挙げるみたいですよ」


 1階まで下りてきた唯が日程を伝えてくれた。


「もうすぐ35だからな。あいつにも焦りがあるんだろうよ」

「どうして焦る必要があるんですか?」

「柚子は子供が欲しいんだ。30過ぎたら段々子供ができにくくなるし、結城が今年で38歳であることを考えれば、柚子にとっては子供を作るラストチャンスだ。交際1年でのスピード婚ではあるけど、そもそもスタートが遅すぎたからなー。人と人を結びつける仲人でありながら、男と縁がなかった……いや、良い男を自分から諦めてた。他の人の縁を優先してな。あいつはそういう奴だ」

「なんか報われてほしいなぁ~」

「じゃあみんなでお祝いに行く?」

「何言ってんの。親族だけに決まってんだろ。全員で店を休むわけにもいかないし、後で土産話を聞かせてやるから、僕と伊織がいない間は頼むぞ」

「あのー、結婚式なんですけど、二次会は葉月珈琲でやるみたいです」

「えっ……」


 今度は僕の目が点になった。千尋はニヤリと笑みを浮かべた。


 内心では柚子を祝いたいと思っている千尋たちは、水を得た魚のように、目に色が戻った。


 3月下旬、柚子と俊の結婚式当日――。


 僕らは岐阜市内の式場に赴き、柚子のウエディングドレスを目の当たりにした。


 ヴェール越しに見える柚子はいつも以上に輝きを増し、生の姿を晒している両肩を見たのは初めてだ。柚子の肌ってこんなに綺麗だったんだ。あと2ヵ月足らずで35を迎えるとは思えない可憐さだ。


 柚子の隣には新郎となる俊がタキシード姿で佇んでいる。いつもよりキザに見えるのは服装のせいだ。僕もごく自然なブラウスと黒いスカートを着用し、長いようで短い結婚式に出席する。見届けることで夫婦の誓いを見届けた証人となるわけだが、これを何度も破られた連中の心境よ。


 結婚が必須でない時代に結婚したいと思えるほど好きであることが本物の愛情であると、某結婚雑誌が言ってしまうくらいだ。こんな時代に結婚する人の愛情は、昔に比べれば本物と言えるのかもしれない。かつては同盟と継承の道具にすぎなかったのだから。


 柚子は俊に対して、そこまでの愛情表現は示していない。僕に向けていた恋心剥き出しの行動はせず、あくまでも妥当な相手に落ち着いたという印象だ。好きな仕事よりもそこまで好きじゃない仕事の方が割り切れると言われるように、好きな相手よりも、妥当な相手の方が長続きするかもしれない。


「あず君、今失礼なこと考えてるよね?」

「えっ……何のこと?」

「その顔、年よりも若く見えるって言ってる人と同じ顔だよ。何度も同じことを言われては交際を断られてきたから分かるの。私くらいになるとね、相手の表情だけで、何を考えてるかくらいお見通しだから」

「実際そうなんだから仕方ねえだろ。晩婚が当たり前になっている今じゃ特にな」

「あず君、確かに結婚制度は時代遅れかもしれないよ。でもね、常に誰かと支え合って生きることが幸せだという価値観は、どんなに時代が変わっても色褪せることはないと思うよ。絶対的な指標だったのが、数ある選択肢の1つに格が下がったってだけで、今でも一定の価値はあるよ。結婚するだけで、あれだけたくさんの人が喜んでくれるし、恋人が2人もいるあず君なら分かるでしょ?」


 その場に立ち上がり、ドヤ顔を決めながら僕に視線を向けた。


 伊織の件は俊にも知れ渡っている。柚子は俊に話してもいいかと僕に尋ねた。


 勝手に言えばいいのに、こういうところは本当に律儀だ。だからこそ柚子は愛されている。故に高嶺の花と見なされていることが柚子の婚期を遅らせ、柚子を苦しめ続けた。仲人が他の人を差し置いて、誰かと結ばれるなど、あっていいのだろうかと悩み、答えを出すことにも時間を費やした。


「……お、おう、そうだな」

「柚子から聞いた時は驚いたよ。でも応援してる。あず君は前例のないことを何度もやってきた。多分、私たちの常識には収まらない器だと思ってる」

「あず君は自分のことを地球人と思い込んでる宇宙人だから」

「ふふっ、それ言えてる」


 久々に会った璃子が僕の隣からクスッと笑った。


 台詞は変わらないが、下ろした長い髪を団子のようにまとめている可愛らしい姿は、かつての子供時代を思い起こさせた。まるで変わりゆく日常を拒んでいるかのような。


「言うようになったな」

「お兄ちゃんはパイオニアに選ばれたの。パイオニアが変わってるのは必然だよ」


 璃子の言っていることはごもっともだ。


 世の中を変えた人間はいずれも宇宙人、いや、平たく言えば、変人と呼ばれる部類の人間だ。


 この国は世の中を変えたいと思う連中で溢れ返っているのに、何故か変人は嫌うという矛盾を抱えているのだ。本当に世の中を変えたいなら、まずは変人嫌いを克服するところから始めるんだな。苦手の克服ばかりやってきたような連中なら、それくらい造作もないことだろうに。


 今じゃ当たり前のスマホだって、最初は導入を拒む人さえいたが、そいつらは世の中をより良い方向に変えてきたパイオニアたちの苦悩を知らないまま、恩恵に与っている。


「僕は宇宙人じゃない。高機能社会不適合者だ」

「宇宙人と社会不適合者は紙一重だよ。あず君のお陰で、変人は過小評価されている人たちってことが証明されたのは、隠れた功績かもね」


 いつの間にか僕の隣に座っていたルイが言った。


 リサたち4人組の内、リサ、ルイ、レオの3人は既に結婚し、エマを残すのみとなった。


 ルイはもうすぐ子供が生まれる。


 親戚中が結婚という名の侵略者に取り込まれている。事実婚は僕と璃子の2人だけで、璃子でさえ周りと違うことに対する疎外感を抱いていたが、自分に合った形があるように、もっと生きる選択肢があってもいいと気づいてからは、自信を持って事実婚していることを周りに伝えられるようになった。


 僕にも璃子にも、すぐに離れられる距離間が最も合うのだ。


「他の人から俊さんを取ったとは思わないんだな」

「もうそんな風に思うのはやめにしたの。私がいなかったら、俊さんは誰とも結婚してないって考えるようにしたわけ。そう思うと受け入れられるでしょ」

「扱いがお零れだな」

「そうとでも思わないと、なかなか結婚には踏み切れないの。それにあず君が言っていたどの道論、結構理に適ってると思うし」

「どの道論?」

「歴史上の人物が何らかの事情で急にいなくなったとしても、別の人が役割を代行して、結局同じ展開になるっていう理論だ。過去に何度も例はあるし、仮に柚子のせいで結婚できない人がいたとしても、柚子がいなかったらいなかったで、そいつは別の人に男を取られていたから、どの道縁がなかったと考えるようになったわけだ。実に理論的だ」

「それ、自分のしていることを正当化したいだけだよね?」

「ぐさっ!」


 璃子が投げた馬鹿には見えないナイフが勢いそのままに僕の胸に突き刺さる。やりたいことをやるためには時に冷酷になる必要がある。残念ながら全員分の席は用意されていないのだ。


 正午から披露宴が行われた。大樹のおっちゃんや俊の父親といった新郎新婦の親たちの言葉が投げかけられ、子供時代から今までの写真が次々とスクリーンに流れていく。ウエディングドレスは綺麗だけど、あれを唯と伊織が着ることはない。コスプレという名目で着ることはできるが、いつもの服装の方が好きなんだよなー。老後の生前葬でもないのに、たった1日のために財産の大半を費やす意味が分からない。


「今日の柚子、とても幸せそうだね」

「明日からの日常とのギャップに苦しまないといいけどな」

「お兄ちゃんには夢がないなー」

「夢を見るには覚悟が必要だぞ。僕にその覚悟はない。だから得意分野を究めた。現実的だろ?」

「柚子はごく普通の人生を歩みたかったのかもね。普通の人としての夢ではあるけど、今はそれさえ難しいんだから、柚子の夢の1つが叶ったことを称えても、罰は当たらないと思うよ」

「なんか自分が普通になりたかったみたいな口ぶりだな」

「私も普通になりたかったよ。でも頑張れば頑張るほど、自分には普通の生き方が合わないことだけが浮き彫りになってくるし、お兄ちゃんがいたから、私も柚子も自分の殻を破れたんだよ。最初からお兄ちゃんみたいに、自分に素直に生きていたらよかったって、今でも思うくらいだよ。小1の時、お兄ちゃんが目立ちすぎて、いじめられていることを知っていたから、徹底して溶け込む努力をしたけど、長い目で見ると、自分のためにならない生き方をしていたって、思い知らされたの」


 璃子は結婚式の主役である柚子と俊に対して、終始羨望の眼差しを送っていた。


 柚子がこの時期を結婚式に選んだ理由は、年齢のためだけじゃない。4月に行われる予定の岐阜コンのためでもあるのだ。既婚であれば、どのようにして自らが相手と結ばれたのかを説明できるようになる。柚子は婚活をしている人々に対して、仲人としての手本を示したいのだ。


 葉月マリッジカフェと葉月商店街が主催するためか、責任者が未婚であることは、柚子にとって不都合な事実であり続けた。そんなこと誰も気にしていないのに……ていうか理由がめっちゃ可愛い。


 結婚式では誓いのキスを交わし、ここにいる誰もが誓いの証人となった。葉月珈琲を貸し切りにしていたこともあり、二次会には柚子と俊の他、親戚たちも立ち寄った。参加者の3割が二次会に残り、千尋たちも二次会という形で出席することが、現実のものとなった。千尋たちとも仲の良い柚子なりの配慮であった。璃子と蓮も引き続き参加し、この日だけは数少ない休日となっている。


「伊織ちゃん、その()()、どうしたの?」

「バリスタオリンピックで使う予定の梅酒です。コーヒーとの相性を考慮した梅酒で、そのまま飲んでも美味しいんですよ。飲んでみますか?」

「うん、じゃあ貰うね」


 伊織がグラスに梅酒を注ぎ、柚子の目の前に置いた。


 ここだけ見ると居酒屋だが、伊織には策があった。


 無色透明であったホワイトリカーは、ウイスキーのような琥珀色に染まっている。伊織は味見をせずとも味を描く才能を信じ、コーヒーカクテルに合わせる予定の梅酒をいくつも作っていたのだ。しかも実験に使えるよう大量に作って以来、梅酒がクローズキッチンを占領している。伊織はリッケスカッツで日本の梅酒が自家製で造られていたことをヒントに、自ら梅酒を造り、バリスタオリンピックに備えていた。もし結果を残せれば、ここにある梅酒の全てが金の生る木と化すのだ。


 何でもビジネスになるとは、まさにこのことよ。


 些細なきっかけからアイデアを生み出し、昇華させることにおいては僕にも勝る。


「――美味しい。これ、今までに飲んだ梅酒の中で1番美味しい」

「本当ですか?」

「うん。伊織ちゃんも成長したね。テイスティングなしで味を描く才能があるとは聞いていたけど、下戸の人でここまで美味しい梅酒を造れる人なんて、今まで見たことがない」

「えへへ、褒めても何も出ませんよ」


 伊織が誇らしげな笑みを浮かべ、柚子は舌を唸らせている。


 僕も飲んでみたが、手探りで作ったとは思えない出来栄えだ。


 伊織はこれを『伊織梅酒』と名づけた。天才に熟考させると何を作るか分かったもんじゃないが、選考会でのコーヒーカクテルといい、今回の梅酒といい、本来持っていた才能が開花しつつある。


「伊織梅酒が発売するのが楽しみだね」


 同じく伊織梅酒を飲んでいる俊がグラスを置きながら言った。


「発売するとしても期間限定ですね。レシピはバリスタオリンピックが終わったら公開するので、良ければ作ってみてください。私は一度しかテイスティングしてないんですけど、あず君のお墨つきですから、問題ありません。柚子さん、俊さん、遅れましたけど、結婚おめでとうございます」

「ふふっ、ありがとう」

「ありがとう。良い夫婦になるよ。伊織ちゃんも幸せになってね」

「……はい」


 気後れの目を見せながらも、精一杯の言葉を返す伊織。


 小動物のような目を僕に向け、不穏にも口を閉じてしまった。


 伊織は既に受け入れられた。人として、妾として、バリスタとして。自信を持てないからこそ、コーヒーの研究に没頭している。今年に入ってからは、クローズキッチンに引きこもりっぱなしの日々が続き、その末に1つの答えを編み出した。伊織は引きこもりの方が性に合っているのだ。


 外に出ることが多かった日々は、大会での成績も振るわなかったが、伊織が世界を相手に奮闘し、優勝を決めていた時期は引きこもり同然の状態であった。つまり、伊織は内向的な生活を送っている時の方が力を発揮しやすいのだ。そのことに気づいた僕は、伊織を放任して全部門の開発を勧めた。


 誰かに干渉されたり、無理に外に出ていると、縛られているような心理状況になる気持ちは僕もよく分かる。さながら学生時代の僕に通じるものがあり、独立した頃の僕と同じ状況にすればどうかと考えた。


 結果、皮肉にも僕の指導が入った場合よりも、伊織は伸び伸びと開発を行うことができたのだ。


「伊織ちゃん、愛の形は人それぞれだよ。人生に正解なんてないんだから、これだと思うものに飛びついていかないと、死ぬ時後悔するよ」

「柚子、なんかお兄ちゃんみたいだよ」

「私もあず君に背中を押してもらった身だし、結果的には倒産しちゃったけど、あの時就職じゃなくて、起業を選んで本当に良かった。色んな経験をしたお陰で、人生の幅が広がったというか、うちのスタッフから、どうやったらそんなに幅広い相談にちゃんと対処できるのかって聞かれるんだけど、私は経験した立場がとても幅広いからって答えてるの。経営者も労働者も、競技者も企画運営も、未婚者も既婚者も、一通りスタンプ押したからね。それが今誰かの役に立ってるって思うと、私の人生は失敗ではなかったって確信を持って言えるの。伊織ちゃんはほとんどの人が経験したことのない貴重な立場にいるんだから、もっと自信持っていいと思うよ」

「……柚子さん」


 うっとりしたまま、バーテンダーのようにグラスを拭いている手が止まっている伊織。


 柚子は両腕のガッツポーズを伊織に見せることで、エールを送っている。どんな立場であれ、経験することで人生に深みが出てくる。伊織自身、多種多様な味を経験し、樽の中で熟成された酒のように、クローズキッチンでコーヒーの研究をひたすら繰り返すことを苦としないのは立派な才能である。これが引きこもる能力の神髄だ。外に出て旅をするだけが経験ではない。伊織は研究者気質なのだ。


 夜を迎え、二次会はお開きとなり、柚子はようやく恋愛を卒業するのであった。

読んでいただきありがとうございます。

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