356杯目「白兎と黒兎」
10月下旬、那月の一家が岐阜への引っ越しを済ませ、一段落したところだった。
葉月グループは新たに発足した『株式会社栗谷スイーツ』に補填という形で惜しみなく投資した。
乗っ取られたところで、会社なんていくらでも建てられる。死なない限り何度でもやり直せる。それが人生であることを象徴する出来事だった。那月を守れなかったのは僕の責任もある。
許してもらおうとは思わないが、せめてもの償いがしたかった。
早朝、那月の新たな実家に行くと、那月がスイーツの仕込みをしていた。パティシエの朝は早い。パティスリークリタニの本店を岐阜に移す形で栗谷家はスタートを切ることとなった。
「あず君は悪くないんだから、別に償いなんかしなくてもいいのに」
「いや、そうでもない。今だから言える話だけど、実家と店のことは二の次だと思ってた。何より那月のことが大事だったし、家とか会社とかだったら、また建てればいいっていう考えだった。一応日本庭園の設計図と写真を作っておいた。もし再現できる職人が見つかったら、これを渡してくれ」
「……葉月君、君には感謝してもしきれない。引っ越すことにはなったが、お陰で鍛冶の呪縛から解放された。那月のこと、よろしく頼むぞ」
「任せとけって。那月の面倒ならもう慣れた」
「あず君、しばらくはここのお店を兼任してもいいかな?」
「葉月グループは副業を認めている。だから心配すんな。朝はパティシエとして仕込みをして、昼からはバリスタとして業務をすれば両方こなせるし、うちでの業務時間を少し短めにしておけば問題ない。でも休日はちゃんと休めよ。二刀流はただでさえ体力の消耗が激しいからな」
「うん、そうさせてもらうね」
那月は僕の肩を手繰り寄せ、柔らかく豊満な膨らみを押しつける。
しばらくは洋菓子店を盛り立てながら、日本庭園を再現してくれる職人を探すらしい。今度は広大な土地を買わずに、手頃な価格で作れる場所を探して。
パティスリークリタニの業務開始時間は午前12時、夜9時までの営業とし、肝心の看板娘である那月はオープンした時には店にいない。8時から12時まで仕込みをして、12時から4時まではうちでの業務だが、料理番は最も繁盛する時間帯にいてくれればそれでいい。
4時からは桜子に料理番を任せ、伊織と千尋はバリスタオリンピックに向けて準備をする。弥生と皐月は引き続き伊織と千尋のサポーターを務めることが決まった。選考会でのサポートが評価され、2人は間近で競技を見ることができるのだ。伊織は皐月と、千尋は弥生と家族に近い絆で結ばれた。
サポーターを経験した者は、競技者と喜びも悲しみも共有する立場だ。
「ていうかよく人集まったな」
「あー、ここにいる人たちは、元々パティスリークリタニにいた人なの。スイーツ部解体でみんな一緒にクビになっちゃって、それでここまで引っ越してもらうことになったの」
「なるほど、みんな那月のサポーターってわけか」
「パティシエの大会でのサポーターだけどね。バリスタの大会の時は結城さんに頼んでるの」
「結城に?」
「うん。美羽さんに相談したら、結城さんを紹介してくれたの」
「結構年上のサポーターだな」
「世代も趣味も全然違うから喧嘩にならないし、穂岐山珈琲での経験を葉月創製で活かしてるんだって。育成部の部長という大役に耐え切れずに辞めちゃったみたいだけど、しばらくは色んなカフェを転々としながらフリーランスのバリスタとして活躍してきたの」
それ、単に就職先がなかったから、各地を転々としていただけじゃねえのか?
フリーランスというよりフリーターだ。美羽が雇わなかったらどうなっていたのやら。色んなカフェでの業務経験なんて、うち以外ではなかなか体験できない。
お見合いが失敗に終わった後、結城は那月のサポーターに就任し、それを知った栗谷社長から結城と結婚を前提としたつき合いを勧められたが、那月は恋愛感情がないと断った。栗谷社長がいかに那月の結婚を急いでいるかが見て取れる。根本に渡すくらいならと言わんばかりに見合い話を持ってくるが、当たり前のように断られている。優子に抜け道を提案された時も即答で返したんだとか。
本来の那月は親を恐れない性格らしい。
「那月、そろそろ結城さんとつき合ってみたらどうだ? まだ独身で相手を探しているそうだぞ」
「お父さん、あたしは仕事と結婚してるの。それに結城さんには、彼女がいるみたいだよ」
「結城君に彼女がいるのか?」
「うん。結城さんから聞いたの。今柚子さんとつき合ってるんだって」
「柚子っ!?」
反射的に声を上げた。柚子は来年でアラフォーだが、どうにか間に合ったらしい。
早速柚子のいる葉月マリッジカフェに足を運んでみる。那月は昼からうちで営業だ。それまでに話を聞いてみたくなった。でもあいつが結城と結ばれたのは何となく分かる気がする。
「柚子さん……私よりも先に彼氏作っちゃうなんて、なんか抜け駆けされた気分」
「理恵さんだって、その内良い人見つかるって」
瑞浪は柚子と共に働きながら婚活事業に携わっていた。カップリングさせる側の立場になるばかりで、自らがカップリングする側になることを望んではいるものの、なかなか相手が見つからない。
今年でもう42歳だし、人によっては成人した子供がいても不思議ではない世代だ。彼女は自分の子供世代と同じ土俵に立ちながら、まだ見ぬ彼氏の争奪戦に参加しているという自覚はあるのだろうか。その内とか言ってられない領域に達していることを柚子は告げられずにいる。
「まあでも、柚子もやっと一歩前進って感じだな。いつ頃知り合ったわけ?」
「俊さんとは3年ほど前にバリスタ競技会で知り合ったの。私がJCTCに参加した時にたまたま一緒のグループになった戦友ってわけ。元々は穂岐山珈琲のバリスタで、今はメジャー店舗マスターとして働いていると聞いて運命を感じたの。あず君とも知り合いって聞いたから安心したし、うちから結城さんのお店にも昇格するチャンスあるのかな?」
「仕事に私情を挟むなよ。柚子は婚活事業がしたいんだろ? それとも自分が結婚できそうだからって、もう他の人のことなんかどうでもいいと? それでよく結婚相談所兼カフェなんて思いつくよな」
「そうそう。言っとくけど、結城さんと幸せになったら、私に仕事を全部押しつけて異動しようなんて、そうはいかないんだから」
「ふふっ、言ってみただけ」
あれっ、2人ってこんなに仲良かったっけ?
婚期を逃しそうな枠組みではあるが、柚子が抜け出しそうな時にも冗談を言えるあたり、足を引っ張り合うような間柄ではなさそうだ。柚子、相手のいない人に対して、申し訳ないなんて思わなくてもいいんだぜ。望んでそうなってる人だっているんだからさ。出会いは縁とは言ったものだ。
「最初はぎこちない友人みたいな仲だったけど、コーヒーの話以上にあず君の話で盛り上がって、俊さんもあず君の大ファンだってことが分かったの」
「あぁ~、そういうことか」
「えっ? 何がそういうことなの?」
「柚子がずっと結婚できなかった理由が分かった」
「私も分かっちゃったなー」
「ちょっと、勿体ぶってないで教えてよ」
「柚子ってさー、誰に対してもすぐあず君の話をしちゃうでしょ。それでみんなあず君狙いかと思って、諦めちゃうんじゃないかな。ただでさえ高嶺の花って思われやすい見た目してるし、あず君は結構理想の高い女性が望む人の一角だし、あず君と比べられる男たちの身にもなったら?」
「うっ……それはあるかも。俊さんの前でもあず君の話題ばっかりだった」
柚子はカウンター席の真向かいにある椅子に腰かけた。
自分でも気づかなかった欠点を指摘され、火が消えたように呆然とする。
「結城さんがあず君の話につき合い続けてくれたってことは、結構相性が良かったってことだと思うよ。相手の方から交際を申し込んできたってことは、やっと柚子のお眼鏡に適う人が出てきたってことじゃないかな。しかもメジャー店舗のマスターだし、稼ぎもそれなりにあるし、柚子の年代の落としどころとしては上出来じゃないかな」
「瑞浪は打算的だな。そんなんだから結婚できないんじゃねえの?」
「ぐさっ!」
「あず君、本当のこと言っちゃ駄目でしょ!」
「フォローになってないんだけど……」
「あっ……」
いつもはしっかり者の柚子も、時折天然になることがある。
日頃から常々思っていることほど口に出てしまう。柚子自身に悪気がないことは、瑞浪もよく知っているだろうが、それでも気に入ってるってことは、かなり波長が合う仲と見た。
1人の男が葉月マリッジカフェの扉を開けて入ってくる。
「いらっしゃいませ。あれっ、俊さん」
「柚子さん、仕事は順調ですか?」
「はい。例のコーヒー、届いてますよ」
「本当ですかっ!?」
「ふふっ、今から飲みますか?」
「もちろん。あっ、あず君じゃないですか。また巡回ですか?」
「ああ。今日は休みか?」
結城が僕の隣に腰かけてくる。
松野に次いでナンバー2の実力者だったが、フレーバー全体のバランスを重視しすぎるためか、いまいち決定打に欠けるところがある。松野が退職してからは、結城も短期間で退職してしまった。
うちには元穂岐山珈琲のバリスタが今でも定期的に集まってくる。うちに希望が持てるから転職しているというよりは、育成部のメンバーが固まりすぎていて入っていけず、雇用自体にも流動性がないことがネックとなってしまい、漏れ出た才能がうちを頼り、美羽をバイパスして入社しているのだ。
「はい。柚子さんに会いたくて、休み取っちゃいました」
柚子の顔がほんのりと赤みを帯び、後ろを向いてしまう。
「ところで、例のコーヒーって何?」
「新しいコーヒーで、サクラブルボンっていう品種です」
「サクラブルボンって、確かブラジルの農園で採れる珍しい品種だろ」
「はい。一度味わっておきたかったんですけど、どこも売り切れ続出で、葉月グループだったら手に入れられるんじゃないかって思ったんですよ」
柚子がサクラブルボンの生豆が入った茶色の紙袋を持ってくる。
「これがサクラブルボン。手に入れるの苦労したなー」
開封してみると、柑橘系の爽やかに際だった甘い香りが立ち上る。
桜の花のフレッシュさをイメージさせる桜のシロップなら、僕も競技会で使ったことがある。だがこれは桜のシロップを使わなくても、フレーバーやボディの強さが確立されている工夫いらずのコーヒーだ。そりゃ人気にもなるわ。シグネチャーがあれだけ多く存在するということは、工夫の余地があるコーヒーがそれだけ多い証だ。シグネチャーなしのドリンクとして、かなりの力を発揮するかもしれん。
コーヒーも進化を続けている。むしろ人間が止まりすぎてるくらいに思える。
「柚子、これ持って帰らせてくれ」
「それはいいけど、せめて買い取ってくれない?」
「分かった。伊織も喜ぶだろうなぁ~」
「できたよ。サクラブルボンのドリップコーヒー」
「「「うわぁ~」」」
僕、柚子、結城が一斉にキラキラと目を輝かせる。
無類のコーヒー好きなら、目の前に飲んだことのないコーヒーがあったら、たとえ罠があると分かっていても飲みたくなる。それにしても……美味いっ!
――この1杯のために生きてるんだぁ~。
「あず君、なんかすっごくニヤけてるよ」
「どう? 最新にして最愛の恋人の味は?」
「いける。これだけ美味いコーヒーがまだ出回ってないってことは、これから流行る可能性が高い。これは何としてでも確保しないとな。各農園に連絡して、新しく採れたコーヒーを確認してみるか」
「またあず君の開拓精神に火がついたね」
「あったりめーだろ。今度こそバリスタオリンピックチャンピオンをうちから輩出する。そのためには全員の力が必要だ。これは良いヒントになる。結城、柚子は大事な身内だ。絶対悲しませるなよ」
「もう、余計なお世話だって」
「分かってますよ。柚子さんは私が守ります」
柚子がまたしても顔を時めかせながら後ろを向いた。
年下好きではあるが、結城なら年下に見えなくもないし、これはこれでありか。
「これ……凄く美味しいです」
持って帰ってきた生豆を桜子に焙煎してもらい、伊織にテイスティングさせてみた。
「桜と直接関係ないみたいですけど、フレッシュな味わいなので、ミディアムローストにしてみました。何だか遠い親戚に出会ったような気分です。世界各地で販売されている珍しい豆みたいですけど、どこの国でも限定品みたいですねー」
「等級分けされてるから比較的安い豆もあるけど、スペシャルティコーヒー認定されているコーヒーは、ゲイシャを上回る値段で取引されてる」
「柚子さんは世界大会で多くのバリスタと出会ってますから、人脈が豊富なんですよね」
「だから独自ルートで仕入れることができたのか」
「葉月マリッジカフェはここんとこ赤字だからな。それを覆すために珍しい豆を集めてるみたいだけど」
「柚子さんは葉月グループ所有のコーヒー農園からたくさんの固有種を手に入れてますから、葉月グループの豆交換することで、別の豆を手に入れてるみたいですよ」
「あいつは昔っからやりくりがうまかったからな」
伊織たちが新たなフレーバーを持つコーヒーに惚れ込む中、響だけはコーヒーを口に含むも、なかなか言葉を発しない。窓越しに空を見上げ、何かを心配するような横顔が見えた。
「響、どうかした?」
「いや、凄く美味いぞ。桜とは関係ないみたいだが」
「それはそうと、実家からのアクアビットは輸入してくれたか?」
「アクアビット? ――あっ! 済まない。忘れていた」
「ふふっ、いつもは精密機械のように正確な仕事をするのに、珍しいな」
「怒らないのか?」
「何でいつも頑張ってくれている人を怒る必要があるわけ? 怠惰から生まれたミスだったら怒るけど、頑張った末のミスだったら、別に咎める必要はない」
「……次からは気をつける」
「響、めっちゃ困ってる顔だったけど、なんかあったか?」
「バックヤードに来てくれ」
響は僕の手を引き、すぐに手を離した。
バックヤードのロッカーまで歩くと、2人きりになったところで響が足を止めた。
「実はその実家なんだが、危機的な状況だ」
「もしかして、また侵攻の件?」
「ああ。私の故郷、ノルウェーにとっても他人事じゃない。世界は繋がっていることを改めて思い知らされた。2019年11月から発生した世界通貨危機を乗り越えたのはいいが、今年から発生したウクライナ危機の影響で、ノルウェー経済も打撃を受けた。消費を回避するために外出しなくなったせいだ」
「つまり、伯父のアクアビットも売れなくなってしまったと?」
「そうだ。天然ガスが値上がりしたせいで運送料まで上がってしまったんだ。その影響であらゆる物の物価が上がっているわけだが、うちの商品もその対象だ。WBBの影響で一時期盛り返したまでは良かったんだが、みんなが消費を抑えたことで、またしても不況が再来してしまったわけだ。これじゃ先行きが心配だな」
「もし伯父の蒸留所が立ち行かなくなったら、大手酒造会社に吸収合併されるんだったよな?」
「ああ。そうならないか心配だったのに、輸入することを忘れてしまうなんて……」
「気にすんな。伯父のアクアビットだけど、うちが10箱買い取ろうと思ってる」
「10箱もか!?」
意外な返答に響が目を大きく見開き、背中をのけ反らせた。
「それを使って新しいコーヒーカクテルを作ってもらう。もしそれが大ヒット商品になったら、今後も響の伯父のアクアビットを定期的に輸入する」
「お得意先にしてくれるのか?」
「但し、大ヒットしなかったら、この話はなしだ。課題を伊織と千尋と響の3人に与える。誰か1人でも大ヒット商品を作れたらクリアだ」
「……ありがとう」
響が正面から僕の体を抱擁し、小さな膨らみが僕の顔を圧迫する。
体は震え、目からは大粒の涙が出ていた。チャンスを与えたわけじゃない。
コーヒーカクテル部門で苦戦している伊織たちの練習台になってもらおうと思っただけだ。
響の伯父が作ったアクアビットには、シェリー樽で丁寧に作られた証として、橙色に染められている。味はどのアクアビットより濃厚で、地元では『シェリービット』という商品として販売されている。もしこれがコーヒーカクテルとして融合進化すれば、コーヒーカクテル部門で一歩リードできる。
選考会ではコーヒーカクテル部門で根本に差をつけられてしまっていた。根本が全てのメジャー競技会の国内予選に同時エントリーし、経験を重ねていたことが勝因として挙げられる。うちは1つの大会に集中するのがモットーだが、もっと色んな大会に同時参加した方がいいんだろうかとさえ思ってしまう。
早速響が伊織たちに事情を説明する――。
「なるほどねぇ~、うまくいけば僕らにとっても良い刺激になるし、響さんの伯父の店も助かるわけだ」
「コーヒーカクテルでコーヒーに混ぜるのはスピリッツですから、条件にも合致しています」
「レシピを公開すれば、うちのシェリービットの売り上げ向上も見込める。だから頼む」
「期限はいつまでですか?」
「今年が終わるまでだ。来年の初頭から期間限定で販売して、例年の売り上げを上回った場合に成功と見なす。どの道コーヒーカクテル部門の弱さを克服する必要があるわけだし、課題としては十分だろ?」
「確かに筋は通ってますね」
「伊織ちゃん、これが今年最後の課題みたいだね」
「真理愛さんにも手伝ってもらいます。スピリッツのことなら誰よりも精通してますから。千尋君には絶対に負けません。選考会の時は負けましたけど、今度はそうはいきません」
「望むところだよ」
火花を散らす伊織の背後には丸くなっている白兎を、千尋の背後には野性的な黒兎を幻視する。
お互いに最も身近なライバルとなっている2人だが、足を引っ張り合うのではなく、切磋琢磨し合い、お互いに足りない部分を補い合える最も身近な仲間でもある。
特に伊織は選考会で千尋に一度負けている。何気に初めての大会直接対決でもあった。
今まではお互いを避けるように別の大会に出ていたが、それはお互いに相手の強さを認めていたからとも言える。選考会を除けば、世界に行けるのはただ1人。必ずどちらかが国内予選に脱落し、1年をふいにする。だったら別の大会に参加し、両方共違う分野の大会で世界に行くことを目指していた。
選考会でもワンツーフィニッシュで、共に本戦へと駒を進める予定だったが、今回はとんだ邪魔が入ってしまった。ウクライナ侵攻で辞退する国が出てこなければとっくに落ちていた。
バリスタオリンピックチャンピオンになるには神の助けも必要なのかもしれない。
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