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社会不適合者が凄腕のバリスタになっていた件  作者: エスティ
第14章 コーヒー業界転換期編
343/500

343杯目「意識の鼓動」

 妹の師匠である優子が愛梨の親になったと聞き、僕は密かな安堵を覚えていた。


 結婚せず親になるってことは、結婚は完全に諦めたってことか。


 いや、もしかすれば、優子も僕の影響を受けているかもしれない。僕が彼女から影響を受けたように。会う度に抱きついてくるところは変わらないけど、今はそれが可愛く思えるくらいだ。


 抱かれてから唯に引き離されるまでがお約束となっている。


 子供の時から変わらない特徴を受け入れるようになったのは自分でも驚いた。


「なあ璃子」

「どうかしたの?」


 遊び疲れて伊織たちから離れると、璃子を誘ってプールサイドに陣取った。


 最も優子と距離の近い璃子に聞くのが最も確実だ。プライベートでも度々会って旅行に出かけるほどの仲だ。優子はああ見えて寂しがりなところがある。


 僕の視界には水色の水着に包まれているダブルメロンがフォーカスされて映っている。


 璃子も今年で三十路(みそじ)だが、はち切れんばかりのスレンダー巨乳の魅力は変わっていない。


 蓮とはうまくいっているようで、かれこれ同棲してから1年が経過している。僕に対する依存から禁断症状が出ていたようだが、蓮がうまく処理してくれたようだ。璃子にとって僕の変わりなんてまずいないだろうが、心の隙間を埋めてくれる存在が既にいるのが幸いだ。


 璃子が蓮と事実婚を始めてからというもの、蓮の両親も璃子の誠実さに触れ、ようやく事実婚を認めたようであった。蓮にとっても璃子以上の相手に出会う機会は訪れないだろう。


「優子はどうしたいんだと思う?」

「多分、葉月グループの一員でいながらヤナセスイーツを復活させたいんじゃないかな」

「愛梨は何て言ってた?」

「ショコラティエの大会で結果を残したら、貯めたお金でヤナセスイーツを復活させるって……優子さんらしいというか、策士だと思う」

「悪女としては璃子よりも上手か」

「それだと私も悪女みたいに聞こえるんだけど」

「聖女だったら、一生いじめられる側だぞ」

「そこは平和主義者って言ってほしかったなー。できるだけ誰も困らせずにうまくやっていく方法を考えるのって難しいんだよ。いつもの自分でいられる相手なんて、そう簡単には見つからないものだってようやく気づいた。お兄ちゃんも優しいのは身内だけで、他人には案外冷たいというか、世間とは逆だよね」


 璃子が言う逆とは、相手に対する態度の差である。


 世間一般では、人は身内に厳しく他人に甘いものだが、僕は身内に甘く他人に厳しい。


 ただでさえ、自分にも他人にも厳しく、ストイックという言葉の意味を履き違えている輩が多い国だ。だからせめて、身内にくらい優しい人間でありたい。


「あったりめーだろ。いざって時に信じられるのは身内だけだ。優子は最適な世継ぎを見つけたらしい。そういうことなら、応援するっきゃねえな」

「――お兄ちゃんにも、いっぱい仲間ができたんだね」

「というよりあっちの方から寄ってきてくれるようになっただけだ。今じゃ全国から将来有望なバリスタが集まってくるようになったし、美羽も人事部長として、より有能な人材を配置しやすくなってる。一度仕組みが整ってしまえば、後は誰が社長やってもあんまり変わらん。なんかあってもとりあえず葉月グループに入って飯が食えるし、子供たちの将来は特に心配してない」

「そーゆー合理主義なところ、お兄ちゃんらしいね」


 プールサイドの向かい側で仲良く話している美羽と優子を眺めている璃子が微笑んだ。


 柚子は響と唯と話しているが、響は柚子のサイズにさえ、密かにコンプレックスを感じているようで、女として生きることの大変さが窺えた。


「やめてくださいっ!」


 助けを呼ぶような桜子の声に僕らはハッと目を覚ますように少し遠くを向いた。


 桜子の周囲を3人のガタイの良い男が取り囲み、桜子の細長い腕を掴んでいる。彼女の腕はブルブルと震えながら放せと叫んでいる。あのガラの悪さから察するに、プールにやってきた女を口説くために待ち伏せしていると見た。伊織は子供たちの盾になるように前に立ち、子供たちは伊織の後ろに隠れている。


 周囲の男たちから漂う威圧感を前に、あがり症の体は明らかに救いを求めていた。


 うちで最も若く、最も清楚な外見だ。あんなにもスタイルの良い体つきで水着なんて着ている時点で、ナンパしてくださいと言っているようなもので、助けたいけど多勢に無勢だ。


 無論、このまま暴漢に対して傍観に徹するのは、臆病者の選ぶ道。


 立ち上がって桜子を助けに行こうとしたが、僕よりも先に響が動いた。


「そんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃん」

「そうそう、俺たちは君の友達になりたいだけなんだよ」

「友達なら間に合ってます。他を当たってください」

「君さー、この前岐阜コンにいたよねー。つまり結婚相手を探してるってことだろ」

「おっ、なら丁度良いじゃん。俺たちとつき合ってみて、誰が結婚相手に相応しいか決めてくれよ」


 あっ、これ連れて行かれるやつだ。まずいな、ここは何としてでも止めないと。


 モテる奴は男女問わず辛い。嫌でもつき合わないといけない相手が必然的に多くなる。


 こういう立場になっても、ちゃんとノーが言える地球人でいたい。モテないという立場は幸せだ。余分なつき合いがなくなることで自分に向き合う時間を確保できるのだから。


「その汚い手を放せ」


 凛々しくも、やや低い声が男たちの耳に届いた。


「何だお前?」

「そいつはうちの同僚でな、一緒に遊びに来てるんだ。さっさと放せ」

「へぇ~、同僚ねぇ~。ていうか男のくせに女用の水着かよ――いててててっ!」


 響が男の手首を掴むと、勢いそのままに持ち上げながら捻った。


 男の手から桜子の腕が放れ、桜子はその場から逃げた。


「こいつっ!」


 響の後ろにいた男が響に殴りかかるが、響は桜子の腕を掴んでいた男の腕を引っ張った。


 敵を盾にする形で、フレンドリーファイアが決まった。


「痛っ! てめぇっ!」

「ああっ! 済まねえ!」


 殴られた男が殴った男に掴みかかった。物凄い剣幕で3人目の男が襲いかかるが、響は飛んでくる腕をかわしながら相手の体を両手で掴み、頭突きで怯ませてから大外刈りを食らわせた。


「がああああっ!」


 響が後ろにいた2人を睨みつける。3人の男は脊髄反射で足を一歩後ろに下げた。


「さっさと帰れ。次は骨をへし折るぞ」

「「「ひいいいっ!」」」


 恐れ慄きながら男たちが立ち去っていく。


「何だ何だ?」

「一体どうしたんだ?」


 大きな騒ぎとなり、観衆たちの注目が集まった。


 男たちは状況的にまずいと思ったのか、風のように帰ってしまった。


「桜子、怪我はなかったか?」

「は……はい。ありがとうございます」


 顔を赤らめる桜子に響が抱きついた。やってることが完全に白馬の王子様だ。あの暴漢共が男と間違えるのも無理はない。ていうかあんな護身術を持っていたとは。


「同僚なんだから当然だろ。岐阜コンに行ってたのは本当か?」

「はい……あの時は岐阜コン限定品のコーヒーが気になっていただけで、結婚願望はないんです」

「そうか。桜子が無事で本当に良かった」

「響さんは本当に強い人なんですね」

「……強い人か」


 首を上に向け、青空を見ながら響が言った。


「ねえ、さっきの護身術、どこで覚えたの?」


 千尋が素朴な疑問を響にぶつけた。千尋もまた、僕と同様に全身水着だ。


 ただでさえ可愛い顔で髪も長いのに……あっ、そういや僕もだった。


「子供の頃は柔道をやっていてな。友達の護衛を務めていたこともある」

「日本に来たのって、柔道がきっかけなんですか?」

「いや、そうでもない。単にお袋が地元福岡に帰りたがっていただけだ。私が10歳の時、福岡に移住することになってな。日本語はアニメで覚えた」

「あぁ~、そうなんですね~」


 妙な納得感を得たようにゆっくり頷く桜子。


 だからアニメキャラみたいな喋り方なのか。


 誇らしげに腕を組みながら過去を語る響。ただ者ではないと思っていたが、1つ確かなのは、それだけ多くの逸材がうちに集まるようになったということだ。


 昔であれば、人と違うからと、前例がないからと、馬鹿げた理由で除け者扱いされてきた連中が、今は葉月グループの戦力として貢献してくれている。


「だが……日本に引っ越してきたばかりの時は、ほとんど言葉が通じなくて、それで親父もお袋も仲が悪くなってしまってな、それが離婚の原因になってしまった」


 さっきの自慢気なトーンから一転して目線を落とす響。


「何かあったんですか?」

「日本で初めてできた友達を……守ってやれなかった」

「守ってやれなかった?」

「私は変わった子供だったから、それもあって毎日のように殴り合いの喧嘩ばかりでな、でも多勢に無勢で全然歯が立たなかった。日本人はこんな連中なのかと、あいつらの神経を疑ったこともある。そんな時に1人の女子生徒が助けてくれた。だが今度はその女子生徒がいじめを受けるようになった。しかも私の居ないところでな。結局そいつは、私に一言も相談しないまま……自宅のマンションから飛び降りた」

「ええっ!」


 桜子は余計なことを聞いてしまったと顔で語りながら、両手で口を押さえた。


 響も日本の洗礼を受けていた。ストレスフリーの対義語と言ってもいい日本社会の重圧を前に、スカンジナビアからやってきたばかりの小さな子供に耐える術はなかった。


「私はいじめっ子を特定してボコボコにしてやった。そしたら出席停止になって、事実上の退学処分になったわけだが、これがきっかけで、親父とお袋の仲が急速に悪くなった。ノルウェーにいたら、お袋が生活に耐えられなくて、日本にいる時は親父が生活に耐えられなくて、遅かれ早かれ、あの時点でいつか別れるだろうと、子供ながらに感じていた。そんな時に、私がとどめの一撃を与えてしまったんだ。私は友人と家族の絆を同時に失った。私はちっとも強くなんかない。何も守れなかった弱い人間だ」

「そんなことありません。響さんはさっき私を守ってくれたじゃないですか。WBB(ダブリュービービー)でも那月さんの未来を守ったじゃないですか。響さんのお陰で……どれだけ救われたか」

「桜子……」


 響の過去に共鳴するように、桜子が目に潤いを溜め、響に正面から抱きついた。


 その後、響と桜子は監視員から事情聴取を受け、特にお咎めもなく釈放された。子供たちは何事もなかったかのように、再びプールに入って遊んでいる。子供のトラウマにならなくて良かった。


 僕が仲良しそうに話している響と桜子を見ている時だった。


「あず君、どうかしたの?」

「いや、美羽は葉月グループ史上最高の人事部長だと思ってな」

「褒めても何も出ないよ。それともあたしに惚れた?」

「腕前には惚れてる。とんでもない人材を掘り当ててくれた」

「あたしはコーヒーを見る目はないけど、人を見る目には自信があるの。響ちゃんならすぐにあず君と気が合うと思ったし、桜子ちゃんにロースターとしての才能があると知った時は驚いたけど、結果的にはみんなに貢献できる人でよかった。那月ちゃんは優子さんからの推薦で、葉月珈琲に昇格させたの」


 優子に推薦させたのは僕なんだけどな。


 美羽は穂岐山社長の令嬢ということもあり、様々なタイプの人に出会ってきた。


 バリスタオリンピック選考会で敗れて以来、バリスタ競技会には顔を出していない。あの時にスコア差で分からされたのか、バリスタとしての才能に限界を感じたんだとか。


 美羽は人事の仕事に携わりたいと穂岐山社長に言ったが、人事は既に人手が足りている状況で、美羽に入れる部署はなかった。穂岐山珈琲ではやりたいことができないことを悟った美羽は独立を考え、穂岐山バリスタスクールで多くのバリスタを育て上げた。そんな美羽が……今やうちの人事部長か。


「感謝してる。あず君のお陰で、あたしの夢、全部叶っちゃったから。素敵な人と結婚する夢も、人事に携わる夢も、バリスタになる夢も、学校の先生になる夢も……だから残りの人生は全部あず君にあげる」

「その言い方は誤解されるぞ。吉樹が可哀想になってくる」

「ふふっ、仕事上のつき合いならセーフだから。ねっ」


 昔と全然変わってねえな。美羽はいつまでも美羽のままだ。


 しばらく話した後、美羽が吉樹と子供たちの元に戻った。


 美羽は美月も誘ったが、来年でアラフォーだから水着姿を見せるのは恥ずかしいと告げ、子供だけを美羽に預けてしまった。そういや美羽って、もうアラフォーなんだな。美月だけじゃない。柚子も来年にはアラフォーを迎え、ドリームデッドラインに立たされるわけだ。


 35歳までに結婚しなかった人は一生結婚しない可能性が高い。


 もっとも、柚子は既に諦めているが……。


「あず君、何でそんな残念そうな顔で見るわけ?」


 ムッとした目で、柚子が僕の至近距離まで詰めてくる。


 かと思えば、僕の隣に腰かけ、スラッとした両足をプールの水に浸けた。


 黄緑色の水着は大人らしいデザインで周囲に見られることを意識している。


「何でもねえよ」

「もしかして私の婚期とか気にしてる?」

「柚子はエスパーだな」

「だって顔に書いてたし、仮にも葉月マリッジカフェのマスター兼所長だし」

「売り上げの方はどう?」

「岐阜コンのお陰で順調だよ。葉月マリッジカフェの会員は段々増えてるし、中には登録しただけで全然来ないような人もいるから、無条件でお金だけ取っている状況なの」

「良い商売だな」

「それ皮肉で言ってるでしょ。私は登録してくれた人をどうしても結婚に導いてあげたいの。せっかくお金まで払ってるのに、何で勿体ないことするかなー」


 柚子がため息を吐きながら、僕との距離を更に詰めた。


 誠意は金とはよく言うが、お金を払っても、全然来ない奴っているんだな。


 スポーツクラブに入ってから、月に一度しか来ない会員と同じ思考回路なんだろうか。勝者は勝つべくして勝つこともあるが、勝因のほとんどは偶然の産物だ。だが敗者は負けるべくして負けることが多く、敗因のほとんどは必然の失敗だ。怠惰は教育の成果だ。授業や仕事が嫌になれば、必然的に休憩や休日がご褒美になる。世界一働く怠け者は、我慢の訓練によって作られる。


「それがあいつらだ。どうせ35を過ぎて高年収の男を求める女でいっぱいなんだろ?」

「残念ながらご名答。何でみんなして自分を客観視できないかなぁ~」

「結婚にも適性が求められるようになったんだから当然だ。昔は今ほど便利じゃなかったし、家事から仕事まで全部1人でこなすこと自体が難しかったし、当たり前のように誰かを紹介してもらえた。だから余程の問題児でもない限り、誰でも結婚できた。今は仕事の後に家事をするくらいなら、余裕を持ってできるようになったし、料理を作らなくてもコンビニやスーパーで済む。そんな時代にわざわざ結婚する理由を探す方が難しいってことに気づいてないんだろうな。男のことをただのATMだと思っているおばさんと結婚する理由がない。それが全てだ。令和恐慌の影響で結婚どころじゃないだろうし」

「でも葉月グループに所属している人は、他の企業に所属している人よりも婚姻率が高いの。やっぱり経済的な安定が大きいのかもねー。葉月グループにいる人って良くも悪くも変人ばっかりだし、そういうところで結構気が合うのかも」


 柚子もその1人なんだけどな。やっぱ柚子に経営は向いてないか。


 柚子でさえ企業ブランドがあれば利益を出せてしまう。看板があるかどうかは大きい。企業の力を自分の力だと勘違いしている人もいるが、そんな人ほど組織を離れてから初めて自分の無力さに気づく。一度でも失敗すれば後がない国でよくやるよ。だがこの場合は再チャレンジができない土壌にも問題がある。


 何度でもチャレンジができる土壌を作らなければ、企業にしがみつく臆病者が増えるだけだ。


 葉月グループは完全独立を目指す者に優しく、うちで5年以上活躍した上で通算社内貢献度がマイナスを記録していない者に限り、一度だけ1年間の補助金を受けることができる。失敗してもうちに再就職できるアフターケアもあり、その気があれば何度でも起業することができるのだ。


 にもかかわらず、柚子や真理愛のように、うちの傘下での独立に留める人ばかりなのは起業の大変さをよく知っているからだ。どちらも不正解ではない。


「柚子は今でも結婚願望はあるか?」

「ないこともないけど、このままだと私もやばいし、条件とか抜きにして、昔からのつき合いとか、お見合いとかで決めた方がいいと思うなー。なんてね」

「結婚の価値は下がってるけど、恋人の価値は上がってるぞ。御一人様でも得をしながら生きていける社会で、あえて損してもつき合いたいと思うような相手がいるなら、そっちの方が本物だと思うからさ」

「本物……か。あるのかな、そういうの」

「あると思えばあるし、ないと思えばない。普通に生きていて御一人様ってことは、多分、その生き方が1番合ってるってことだ。ケセラセラ」


 咄嗟に思いついた文字を呟いた。何度も僕を救ってくれた言葉の麻酔だ。


 柚子は良い女だ。仕事よりも主婦の方が向いていると思うが、肝心の相手がおらず、そんな自らを嘲笑うかのような職業に就いている自分への嫌悪感が垣間見えた。


「あず君、ちょっといいですか?」


 全身ずぶ濡れの伊織が、僕の正面の水面から生えるように現れた。


 首から上を水面に出し、上目遣いをしながらもじもじと目を逸らしたり合わせたりした。


「……どんな登場の仕方だよ」

「えへへ、ビックリさせようと思ったんです。いつもは私があず君にビックリさせられてますから」

「それで? なんか用か?」

「コーヒーカクテル部門に課題を抱えてるので、一緒に葉月コーヒーカクテルに行ってくれませんか?」

「あー、あそこか。特に予定もないし、別にいいぞ」

「ありがとうございますっ!」


 急にテンションと共に水面から全身を飛び上がらせた伊織。


「ちょっ、おまっ――」


 伊織の顔がロケットのように僕の肩に触れた。


 気がついてみれば、伊織が僕に覆い被さる形となり、僅かな膨らみが僕の腹部を刺激する。


 平面のように小さいのに、結構柔らかいんだな――ってこんなこと考えてる場合じゃねえ!


 周囲の注目を浴びた伊織が、慌てて距離を取り、恥ずかしそうに両手で胸を隠した。僕も伊織も赤面したまま、必要以上に早い心臓の鼓動が収まらない。そもそも隠すものがあるのかとツッコみたかったが、この恥じらう仕草が童顔と相まって、より一層可愛らしく見える。


「あっ、す、すみません。嬉しくてつい」

「気にすんな。別に怪我とかしてないし、伊織がここまで喜ぶのって、なんか久しぶりだな」

「私はいつも喜んでます。気づいてくれないあず君が悪いんです」


 不機嫌そうにそっぽを向きながら、両頬を膨らませる伊織。


 ――何この生き物っ! めっちゃ可愛いんだけど!


 子供たちが現れると、一斉に伊織に掴みかかり、再びプールに引き摺り込んだ。いつも一緒に遊んでいるのか、すっかり家族の一員のように懐いている。この光景が微笑ましいと思いながらも、ある種の危機感を抱えてしまっている。このまま伊織のことを本当の姉のだと思い込んでしまうのではないかと。


 伊織がうちに馴染んでいる証拠だ。伊織は僕らに甘えるように同居しながら仕事をこなし、家事育児にまで参加する忙しい日々を送っている。というより、僕が背負わせてしまっている感が否めない。


 本来僕がやるべきことを伊織にやらせてしまっている。ある種の身代わりのように感じてしまうことがある。そんな風に考えるようになってからは、いつだって伊織の眩しいくらいの笑顔が頭から離れない。血が繋がっていないのに、本当の血族のように強い絆で結ばれていることを、僕は確信している。


 そんなこんなで、僕らの束の間の休日が終わりを告げた。


 唯にはテキトーな理由を告げ、伊織と共に葉月商店街へと繰り出すのであった。

読んでいただきありがとうございます。

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