336杯目「変わりゆく情勢」
3月下旬、WBB出場チームが発表された。
僕らは3人1組のチーム葉月珈琲として、日本代表としての出場権を得るために応募し、無事に上位3組の中に入ることができ、日本代表としての参加登録が終わった。
4月にはウェリントンに渡航するわけだが、またしても参加することになろうとは。
大会に対する興味が尽きたわけではないが、参加する機会があるということは、コーヒーが僕のことをまだ最高のバリスタとして認めていない気がするのだ。チュートリアルが終わっただけで、試練は始まったばかりだと言われているみたいでならない。
だったらもう誘われなくなるまで、とことんやってやるか。
「大会は5日間なんですね」
「この大会は世界中から美食家が集まる大会でもある。参加者以上にセンサリージャッジの数が半端じゃないこともあるし、人数は多いけど、予選は4日で終わるみたいだ」
「美食家の人まで参加するんですね」
「通常は審査の資格を持ったセンサリージャッジが参加するけど、ジャッジの数が少ない場合だと、アルコールの飲みすぎて審査どころじゃない。バーテンダーとパティシエの大会でもある。コーヒーの審査だけじゃ足りないってことで、美食家認定を受けた人が、センサリージャッジとして参加する」
「決勝だけは運営側が正式に認めたセンサリージャッジを起用するみたいだが、どのセンサリージャッジに当たっても、認められるようなものを作らないといけないわけだ」
響が武者震いをしながら、大会のルールを再確認するように説明する。
ルールブックを読んだ時は、要項が多すぎて混乱しそうだったけど、要領は大体分かった。
各ブースで準備を進め、センサリージャッジから出された要望に合わせ、コーヒー、カクテル、スイーツを提供する営業方式で採点を行い、スコアの上位10組がグランドファイナルへと進出する。バーテンダーの大会において、世界大会決勝はグランドファイナルと呼ばれ、チャンピオンは次回大会までの間、大会の宣伝広告塔となり、必要があれば自社の宣伝もできる。
それはつまり、優勝できれば葉月グループばかりか、響の伯父が営んでいるアクアビットの製造所も宣伝することができるのだ。バーテンダーたちの間でその名が知れている大会で優勝したとなれば、それだけでも大きな宣伝効果になることを響は知っていた。響もまた、家族を救いたいのだ。その意図は那月も重々承知であり、同じく家族の問題を抱えている彼女にとっては断る理由がなかった。那月は選考会のみに集中するようだが、選考会の書類選考で参照にされるのは、バリスタの大会での実績のみ。
パティシエの大会での結果は考慮されない。
「伊織、僕がいない時は伊織がマスター代理だ」
「それは構いませんけど、また1週間遠征するんですか?」
「何? 寂しいの?」
「……そんなんじゃないです。何だかあず君が利用されているように見えるんです」
「人間なんてそんなもん。利用し合ってなんぼだ。僕だって対価として、響にコーヒーカクテルを教えてもらってるわけだし、困った時はお互い様だ。ウェリントンは一度も行ったことがないし、良い機会だと思った。バリスタ競技会でもニュージーランド代表は強豪だし、行けばその秘密が分かるかもしれない。だから一緒に参加する条件として、大会が終わった後はカフェ巡りにつき合ってもらうことにしてる」
「カフェ巡りが目的ですか」
「そりゃそうだろ。旅行に行く最大の理由だ。昔っから変わってない」
「はぁ~」
真っ青にくたびれた顔でため息を吐く伊織。
「とか何とか言っちゃってさー、本当はあず君と一緒にいたいんだろ?」
「そっ、そんなことは……」
響のからかうような言葉に、今度は白状するように顔を赤らめた。
分かりやすい性格だ。伊織は良くも悪くも正直で、駆け引きというものを知らない。葉月グループでなければ、たとえ仕事ができたとしても、意地の悪い同僚に蹴り出されていたことが容易に想像できる。
「あず君、私は大丈夫ですから、必ず優勝してきてください」
「心配すんな。それなりの結果は残してくる。WBBはバリスタの大会でもあるんだからさ。バリスタ、バーテンダー、パティシエ、全員の総合力で戦うチーム戦だ。うちだったら問題ない。戦力については特に心配してないし、どんなメニューを注文されるかが問題だけど、最初に決めた作品の中から作ることになることが分かったし、何とかなるよ」
「スイーツも考えてきたよ。コーヒーとカクテルとの組み合わせを考慮したものにしたし……でもこの大会って、パティシエにもメリットあるのかな?」
「もちろん。この大会には部門賞がある。参加者全員の中から各部門の1番が選ばれることになってる。コーヒー部門、カクテル部門、パティシエ部門、キャラクター部門、パーソナリティ部門もある」
「キャラクター部門とパーソナリティ部門って、どんな部門なんですか?」
「キャラクター部門は接客サービスにおいて最も印象に残った人、パーソナリティ部門は最もチームに貢献した人に贈られることになってる。パティシエ部門に輝けば、コーヒーやカクテルに適したスイーツを作れるパティシエとして、パティシエ業界に対してかなりの宣伝になる。これは3つの職業を繋げる唯一の大会だ。一応調べたけど、この大会で総合優勝、もしくは各部門に輝いた人は、いずれも所属している会社、実家の店の売り上げが長期的に向上したというデータがある」
「「「「「!」」」」」
伊織たちの顔色が一瞬かつ同時に変わった。目が覚めたような顔で伊織たちが響に目をやると、響は右手で左肘を持ち、左手を顎に添え、ようやく気づいたかと言わんばかりの笑みを浮かべた。
響が僕の顔に目をやると、一歩だけ音もなく歩み寄った。
「私があず君と那月と組もうと思ったのは、私の故郷にあるアクアビット製造所を救うこと、那月の店の売り上げに貢献することだ。あず君が出れば優勝確率も上がるし、葉月グループの株も上がるだろ」
「つまり僕らの抱える課題を一気に解決する鍵をWBBが握っていると?」
「その通りだ。伊織、あず君を愛しく想う気持ちは分かるが、私と那月の問題を解決に導ける方法だ」
「愛しくなんて、卑猥なこと言わないでください!」
また両頬を真っ赤にしながら、リスのように膨らませる伊織。
「……響さんと那月さんの事情は知っています。だから……その……応援してます」
やっと覚悟が決まったようだ。これで心置きなく出発できる。
僕らは残り少ない期間の中で、大会の準備を進めるのだった――。
4月上旬、WBB開催3日前のことだった。
僕、那月、響はウェリントンに到着し、会場近くのホテルでチェックインを済ませた。
ほとんどの荷物を置いて外に出る。サポーターは1人も連れていない。伊織と千尋には選考会に向けた準備に没頭してもらいたいし、桜子にはユーティリティーたちの指導を任せている。業務内容がほとんど同じであるとはいえ、レベルはマイナー店舗とは段違いだ。
接客スキルも調理スキルも一流の腕前を求められる。
ユーティリティー制度を始めてからというもの、葉月グループでマルチスキルを習得する者が増えた。うちを退職してからも、習得したマルチスキルで飯を食えるようになっているのだ。
ウェリントンは海と丘陵地に挟まれ、市街地を形成できる平地が少ないため、ニュージーランドのほとんどの都市よりも人口密度が高い。オークランドの人口はウェリントンの3倍だが、両都市の中心業務地区で働く人の数はほぼ互角である。ニュージーランドの主要な金融機関はウェリントンとオークランドに分かれており、いくつかの企業は本社を両都市に置いている。吠える40度と呼ばれる緯度に位置していることや、クック海峡を渡って常に吹きつけてくる風に晒されていることから、ニュージーランド人の間では、風のウェリントンとして知られている。
「うわぁ~、すっごく綺麗~」
「那月、僕らは観光しに来たんじゃねえぞ。この大会で結果を残せるかどうかで、君らの今後が決まる。観光は大会が終わってからな」
「はーい」
力なく不満そうに返事をする那月。スーツケースには荷物が一杯だ。持ってくるべき物が多いのは大会の性質上仕方のないことだが、コーヒーもカクテルもスイーツも制限が緩いため、うちの豆を使うことも可能だ。幸いなことに、予め用意された規定の食材を使うこともでき、持ち運ぶべき食材は多くない。
スイーツはパフェ、クレープ、アイスクリームなどの即席メニューばかりで、準備が必要なケーキも前日までに作っておけば何の問題ない。フルーツやチョコレートのソースが幅広く使えるため、メニューは無限大と言っていい。ここまで参加者全員のセンスを問われる大会が、かつてあっただろうか。
「えっ……」
スマホのメールを見て表情が沈む那月。
「どうかしたか?」
響が心配そうに那月に寄り添った。
「お父さんから連絡があったの。パティスリークリタニがずっと赤字続きで、今年度が勝負なの。もし黒字にできなかったら……実家を売って会社も畳むって……」
父さんだけに倒産か。とてもじゃないが笑えない。
パティスリークリタニの売り上げは鍛冶社長もチェックしていたようで、このまま赤字が続けば実家を売り払わなければならなくなると那月は言った。水面下でここまで交渉が進んでいたとは。
「よく粘った方だ」
「どういうことだ?」
「栗谷社長の『株式会社栗谷スイーツ』は以前から経営が悪化していて、あの経営状況なら、3年前に潰れていても不思議じゃなかった。栗谷社長は実家の貯金を切り崩してここまで粘っていたけど、あれは単なる延命治療でしかない。貯金が尽きればもう守ってくれるものがないし、鍛冶社長は相手の兵糧が尽きるのを待つだけになるってわけだ。もう時間がない。今までの力を振り絞っていくぞ」
「うん……WBBの宣伝広告塔になれば、パティスリークリタニを救うことはできると思うけど、実家まで助けられるかな」
「何で疑問に思うわけ?」
「うちにはチェーン店があったの。でもある日を境に売り上げが段々下がっていって、12店舗あったお店が、今じゃたったの1店舗だけになって……順調だったはずなのにおかしいってお父さんが言ってた」
「いつ頃からそうなったの?」
「2019年の11月から」
――ということは、令和恐慌の影響か? いや、待てよ。いくら令和恐慌の影響とは言ってもチェーン店が全部潰れるほどの影響はないはずだ。何かがおかしい。他の飲食店のチェーン店はそこまで大規模な撤退はしていない。なのにパティスリークリタニだけがここまで撤退するなんて。
まさかとは思うが、鍛冶社長の仕業か?
でも証拠がない。何の考えもなしに疑うのは野暮だが、動機は十分だ。
チェーン店が潰れていけば、あの実家を売ってもらえる確率が上がる。
「その話はここまでだ。大会が終わるまでは集中するぞ」
「分かった……ごめんね、心配させちゃって」
「気にするな。那月は必ず私が守る」
「……響さん」
響が那月の手を温めるように両手で握った。乙女のような微笑みを見せる那月。
会場に着くと、そこには多くのブースが用意されていた。チーム名が書かれたブースには、他のブースと同様にオシャレなバーの一室を模した空間が広がっている。まるで映画の撮影セットのようだ。既に何組かのチームが仕込みを始め、本戦に備えている。
時間のかかるスイーツか、あるいはグランドファイナルを見越してか、多めに作ろうとしていることがうかがえるが、144組中、グランドファイナルに進出できるのは10組までだ。
予選の競技時間は12時間。
競技時間内にセンサリージャッジである美食家たちが各ブースを訪れる。
センサリージャッジの注文に応じたコーヒー、カクテル、スイーツを提供し、最後にセンサリージャッジが1位票から10位票までの投票を済ませる。1位票は20点、そこから2点ずつ下がり、10位票は2点となる。この投票スコアに加え、ヘッドジャッジによる各項目スコアを合わせた総合スコアが最も高い10組がグランドファイナル進出となる。
気に入ってもらえれば、他のセンサリージャッジを招いてくれるため、投票が有利になる。
この作業が4日間続き、大会5日目にグランドファイナルが行われるわけだ。
「私たちは大会2日目か」
「この12時間で全てが決まるな」
「伊織は1週間で戻ることを期待していたが、これだと1週間を超えるかもな」
「あいつのことは心配すんな。葉月珈琲のマスター代理を任せられる逸材だ」
「あっ、ホームページが更新されてる」
「なんかあったか?」
「ロシアと周辺の国がみんな辞退したんだって」
「あぁ~、やっぱそうなったか」
2月下旬、ロシアがウクライナに侵攻し、世界中から批判を浴びた。
ウクライナ侵攻を受け、東ヨーロッパの代表たちがそれどころではないと言わんばかりに参加を辞退してしまい、48ヵ国144組から、42ヵ国126組に減っていることが更新内容として載っていた。
東ヨーロッパの国は当分大会に出られないだろう。今年度のWBBはワルシャワで行われる予定だったのだが、東ヨーロッパの情勢悪化を懸念した運営側が、突如開催場所をウェリントンに変更したのだ。ウクライナ人をルーツに持つ静乃も休職するほど落ち込んでいた。
皮肉にも葉月グループを敵に回したオレクサンドルグループは、ロシア軍によって本社ごと破壊され、静乃の親戚たちは、着の身着のままウクライナを脱出し、ワルシャワへと避難していた。東ヨーロッパ勢は強豪ばかりだったのだが、嬉しいような悲しいような。
僕らにとっても遺恨を残す形となったが、那月と響にとってはまたとないチャンスだ。
誰かにとっての不運は、誰かにとっての幸運でもあることが浮き彫りになってしまった。
「ノルウェーは大丈夫なの?」
「今のところはな。飛び火しなければいいんだが、当分は故郷に戻れそうにない」
「……あたし、絶対に勝ちたい。自分のためだけじゃなくて、みんなのために戦う。それがチーム戦だもんね。スイーツの材料が届いてるか見てくる」
チーム葉月珈琲のブースにある扉を開いた。
僕は響と目を合わせ、お互いに安心の笑みを浮かべた。
那月に続くように、僕と響も扉を開け、中へと入った。中にはクローズキッチンがあり、ほぼパティシエのための作業場所となっているが、エスプレッソマシンやドリッパーもあり、カクテルグラスやバースプーンまで用意されていた。使う道具は運営側が用意したものを使うため、性能の差はない。
技術的な差が浮き彫りになる競技でもあるのだ。
「食材も道具も一通り揃ってるな」
「とりあえずこれで何とかするしかねえか」
「調理に時間のかかるケーキは前日に作っておくとして、メニューは本当にこれで良いのか?」
「ああ、他のチームはまずやらない方法を採ってみた。こういう大会は全然経験がないし、経験の浅いチームが熟練のチームに勝つなら、誰もやらない方法で、センサリージャッジの度肝を抜くしかないだろ。前回大会までに、この方法を用いたチームはいない」
「でもこれ、一歩間違えれば浮くよねー。確かに可愛いけど」
「他に方法があるか? まともにやりあっても勝てないチームばかりだ。だったらまともに戦わなければいい。これなら絶対に目立つし、1人でも多くのセンサリージャッジを招き入れるには、これしかない。実に画期的な手段だと思うぞ。作るのも簡単だし、レパートリーの幅も広がる」
「私はとても面白いと思うぞ。それにこういうのも、日本代表らしさが出ている」
響が目の前の食材や見取り図を見ながら頷いた。邪道だろうが何だろうがやってやる。
それよりも心配なのは時間だ。策はあるが、12時間もずっと店の営業をやるようなものだし、普段は6時間営業の僕らにこの過酷な戦いを耐えることができようか。それだけが唯一の懸念材料だ。
「響、最長で何時間営業したことある?」
「6時間くらいだな。親父は時間にうるさいんだ」
「うちは12時間を超えて働くことも多かったから全然平気だよ。パティシエは朝から晩までずっと働きづめだからさー、結構タフになれるよ。でも葉月グループに入ってから労働時間が短くなったんだよね。そのお陰で別のスイーツを学ぶ機会もできたし、レパートリーは結構増えた気がする」
那月の言葉は葉月グループの本質を表していた。
うちの労働時間が短めなのは、スタッフに成長する時間を与えるためである。
余った時間を使って色んなスキルを身につける時間だ。業務が終われば帰宅時間までの間、今までやったことがない業務を教えることを、各店舗のマスターに義務付けている。新しいスキルを身につければ、メインの仕事で困ったとしても、別の道で飯を食えるようになる。
子供の時に色んな経験をしてきた者たちのサポートをする他、経験不足から飯を食えなくなっている大人たちに、新たなスキルを身につけさせる教育機関としての側面を併せ持っている。葉月珈琲塾でも子供たちが意欲を持ったまま色んなスキルを学べることを参考にし、うちの店舗で働く場合にも同様の習得ができるようにしたのだ。何なら複数のスキルを組み合わせて稼ぐ方法もある。何でもビジネスになってしまう今の世の中では、ただの労働者にもスペックが求められるようになった。うちが成功すれば、うちをマネする企業が出てくるかもしれないし、そうなれば儲けものだ。
「他の会社が働きすぎなだけで、うちぐらいの労働時間でも生産性を保つことは可能だ。給料という名目で養う破目になるんだったら、スキルの1つでも習得してもらって、うちに貢献させた方が長期的に見ればコスパも良くなる。給料が高くても、それ以上のスキルを発揮してくれれば気にならないし」
「なんか段々経営者になってるな」
「本当は誰かに任せたいんだけどな」
「それで自分はのんびりバリスタをやるというわけか」
「よく分かってるな」
シェイカーを手に取り、冷たさを指に感じながら、響が口を開いた。
「私も生活なんて気にせず、伸び伸びとバーテンダーをやりたいと思ってる。でも私を含めて、多くの人はあず君みたいにはなれない」
「当たり前だろ。僕だって那月や響みたいにはなれないし、それでいいんだ。響には響の良さってもんがあるだろ。完璧なピースになろうとしなくていい。得意なところだけで生きていけば、それでいいんだ。足りないところは他の人に補ってもらえばいい。無理に成功する必要なんてねえよ。生まれて精一杯生きて死ぬ。それだけで大したもんだ」
「――あず君らしいな」
雌の顔を僕の視界内に漂わせ、僕の体を手繰り寄せた。
絶対に勝ちたい。いや、絶対に勝たせてやりたいと強く願った。
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