320杯目「意外な才能」
突然の出来事で環境が大きく変わり、伊織の心は不安で満ちていた。
21歳にして天涯孤独の立場となった彼女だが、寂しさを顔に表すことはなかった。
10代の時から落ち着きがあり、子供の体の中に大人が住んでいるようだった。だがその正体がようやくここに判明した。大人のような精神性は持って生まれた資質ではない。早い内から大人にならざるを得ない事情があったのだ。徹底した無欲さに最初は驚かされたが、今なら頷ける。
恐らく伊織は『アダルトチルドレン』だったのではなかろうか。
特に母親に対する依存が強く、従順で自我がないマリオネットのような状態だった。何でも親の許可がなければ実行にすら移せず、常にコントロールされていることに疑問を持たなかった。原因は様々なものが考えられる。誕生日でさえ好きなものを買ってもらえないほどの貧困、過度にちゃんとさせようとする片親、徹底した管理主義教育、例を挙げればきりがないが、伊織のお袋を見ていると、もはやどちらが親であるかが分からなくなる。親の我が儘につき合うその姿から、大人のような子供と評した。
バリスタ修行はそんな伊織に対する『精神治療薬』となっていた。
伊織が持っていた本来の自我を取り戻し、世界大会で結果を残すまでになった。
母親に対する依存が残っていたが、出会った当初に見られた症状はほとんど改善している。まるでコーヒーが伊織に試練を与えていたかのようだ。
休憩時間が終わると、伊織は再び1階に戻り、千尋と仲良しそうに話している。
うちでは自分で好きに休憩時間を決めることができる。
他の企業は正午を迎えてから一律に休憩するが、正午が最も集中できる時間帯の人間もいる。集中できる環境を整えるのは企業の責任である。時間で管理するようなやり方は、極力防ぐようにしていることからも、時間割を中心とした管理主義教育からの脱却が見て取れる。
時間帯で予定を決める人間は、時計がなければ自己管理すらできない。
時計を気にしている内は、寝食を忘れて何かに没頭することもできないのだ。
「じゃあ当分はここに住むんだ」
「はい。不本意ではありますけど、荷物を抱えながら住める場所が他にありませんし、しばらくはここで過ごして大会に出ることにします。拠点としてはこれ以上ない場所ですから、通勤時間もないんですよ」
「羨ましいなー。うちは美容室だから、エスプレッソマシンを置くスペースもないし、大会前は1階に住み込みで準備しないと、他の参加者たちと同じ土俵にも立てないし」
「千尋もここに住むか?」
「遠慮しとく。明日香と子供がいるし、家事をさせられるのは御免だし」
「ふふっ、千尋君は家事苦手ですもんね」
この光景は微笑ましかった。伊織はもう1人じゃない。
大して寂しさを感じなかったのは、多くの仲間に恵まれたからなのかも。
――これからは僕が伊織を支えていく。だからあんたは安心して眠れ。
そんな言葉を心の中で囁きながら、窓越しに空を見た。
青空はそんな僕に対して、微笑んでくれているようだった。
8月上旬、伊織がうちに引っ越してから2週間が過ぎた――。
結局、伊織が実家に戻ることはなかった。伊織の部屋には荷物の入った段ボール箱の山があり、余った荷物は売却し、余ったものは廃棄処分された。もし買ったばかりの一軒家だったらややこしいことになっていた。戻る家ならある。いつでも戻れる家がな。
正午のラッシュが終わると、伊織が桜子と共にクローズキッチンへと移った。ラッシュの時はスタッフを総動員しなければ客を捌ききれない。しかもこの時間帯はコーヒーの消費も激しいため、生豆を焙煎する必要に迫られることもある。そんな時は僕がロースターを担当していたのだが……。
「あず君、味見してもらってもいいですか?」
「ああ――美味い。コーヒーが持つフレーバーをうまく引き出せてる。ケニアゲイシャか?」
「はい。ゲイシャはミディアムが最適解とされていますけど、このケニアゲイシャは浅炒りだとアフターテイストが弱くなることが分かったので、中炒りにしてみたんです。今回はハイローストで焙煎したんですけど、そしたらミディアムの時よりも、フレーバーの深みと力強い味わいが出たんです」
「「「「「……」」」」」
「――? どうかしました?」
「あっ、いや、正直ここまでやるとは思ってなかった」
「えっ……私、何かやってしまいました?」
「悪いことじゃねえよ。むしろ良いことだ。まだ基礎しか教えてないのに、応用までこなすなんて、なかなかできることじゃねえぞ」
「そうなんですか?」
きょとんとしながら、目を大きく見開く桜子。
この熱風式焙煎機を使いこなすとは恐れ入った。
僕でも骨が折れたこのじゃじゃ馬を、桜子は半年足らずで手懐けてしまったのだ。
吉樹がいなくなったことで、空きが出たロースター担当枠を埋めるべく、なかなか大会に参加しようとしない桜子に焙煎を教えていたのだが、その成果が早くも表れたようだ。
僕がいない時でも、伊織の練習用の豆を焙煎することができる。ロースターはすぐに習得できるほど楽なものではない。かと思いきや、意外にも桜子はロースターの焙煎度8段階をあっという間に習得してしまい、予定より半年も早く基礎から応用へと移った。
もしや、桜子はバリスタよりもロースターの方が向いているのではなかろうか。伊織のサポーターになりたいと言った時はどうなるかと思ったが、桜子は無意識の内に自らの才能に近づきつつあったことがようやく分かった。表立った活躍をする才能ではなく、縁の下の力持ちとしての才能だ。
「へぇ~、意外な才能だね」
「好きでやってるだけです。焙煎って凄く楽しいんです。自分でコーヒーの味を作れて、種類によって香りまで変わってくるので、何度やっても全然飽きないんです」
他の人にとって辛く苦しいことをずっと続けられることを人は才能と呼ぶのだ。
桜子はまだ気づいていない。とりあえず今年は様子を見るか。今は伊織と千尋の大会結果を見守るのが楽しみで仕方がないが、もう1つ楽しみを見つけてしまった。
数日後――。
僕は柚子がいる葉月マリッジカフェへと赴いた。
理由は岐阜コンのためだ。前回と同様に多くの参加者が登録し、スタンプアプリにある店のスタンプを全てコンプリートしようと店を回る者が大勢いた。全店舗を制した参加者はそのスタンプを葉月商店街所属店舗のみで通用する割引券として使うことができる。
使った場合はスタンプがリセットされる仕組みだが、また来てもらう理由としては十分だ。
参加費は前回から5000円まで上げている。葉月商店街所属店舗にとって儲けは少ないが、気に入ってもらえれば常連と化す可能性もあるため、長い目で見れば大きな利益に繋がるし、岐阜コンは葉月商店街の宣伝広告塔としての役割を十分に果たしていた。
「……じゃあ今はあず君の家に住んでるんだ」
「うん。柚子がいた部屋を使ってる。あれじゃ当分家を借りたりはできないだろうけど」
「伊織ちゃんって、結構寂しがりだもんねー」
「ホテルで暮らすって言ってたけど、荷物を大量に抱えたまま受け入れてくれるホテルなんてそうそうないし、あの事件が起きたのは、僕の不手際でもある」
「何であず君の不手際なわけ?」
「岐阜市に打診してるベーシックインカムがもっと早く導入されていたら、犯人は生活に困ることなく暮らせただろうし、生活保護を拒否されて強盗をする必要もなかった。伊織の家が豊かになっていたのも、強盗先に決められた理由の1つだろうし、僕にも責任があると思ったから、面倒を見ることにした」
「犯人は伊織ちゃんのことは知らなかったみたいだけど、自分が段々貧しくなっているのに、近所の家が段々裕福になっているのが許せなかったって言ってたのを真に受けてる?」
「真に受けるも何も、原因になったのは間違いねえよ。岐阜市は僕が提案した月10万円のベーシックインカム導入にかなり慎重だった。老人ばっかで頭の硬い連中だったけど、これで検討せざるを得なくなったはずだ。今度ああいう事件が発生したら、自分たちが強盗殺人の犠牲になるかもしれねえからな。あの犯人は僕に貢献した。貧困者に対するシンパシーを引き出した。この前市議会でこう言ってやった。あと何人犠牲者が出るまで渋るつもりだってな。そしたらようやく重い腰を上げ始めた」
こんなことはもっと早くから予測できたはずだ。
犠牲者が出てから初めて対応に乗り出すなんて遅すぎる。
市議会に呼ばれるようになったはいいが、みんな揃いも揃って前例がないの一点張りで、過半数を超える市議会議員は賛成しなかった。ここにきてようやくベーシックインカムの正当性が認められるようになったが、導入にはまだまだ時間がかかりそうだ。
資本主義に修正パッチを貼るだけなのに、こうも難しいとは。
全員が自分の席を確保できるわけじゃない。席を確保できなかった者たちのために所得の再分配を行う必要があるのだが、生活保護は半ばタブー視されていてほとんど機能していない。捕捉率も低いし、あってないようなものと考えていい。恐らく日本には生活保護という制度自体が合っていないのだ。
一部の人だけが恩恵を受ける制度はこの国の風土にそぐわない。ならば全員一律に給付をすればいい。それとも無敵の人が発生し続ける惨状をずっと眺めているつもりか?
そんな奴がいざ被害に遭ったとて、文句は言えない。無敵の人は社会に対して択を押しつける側であることを忘れてはならないのだ。こういう時のための社会保障制度だというのに。この国の連中が全てを自己責任論に押し込めた結果であることを理解できないようなら、最悪国を出るプランも考えておこう。
僕らは今、沈みゆく船の上にいる――。
「あず君は優しいね」
「昔の僕がどれだけ苦しい生活を強いられてたか知ってるだろ」
「おじさんが生活保護を断られて、バイトに踏み切るまで時間かかったもんねー」
「お陰でバイトは仕事じゃないなんて、豪語することはなくなったけどな。親父には良い薬だったけど、僕にとっては悲劇でしかなかった。あんな思いは二度と御免だ。バリスタの仕事をしてなかったら、僕もあんな事件を起こしていたかもしれない。格差はあってもいいけど、貧困はあっちゃいけない」
「あず君は気づいてたんだね。資本主義の限界に」
「あったりめーだろ。どんなに頑張っても、絶対に席を確保できない奴が出てくる。そいつらに机ごとひっくり返されないようにするためにも、救済処置はあって然るべきだ」
「働かない人が出てきたらどうするの?」
「働かなくてもいいじゃん。労働生産性の低い奴とか、中高年でロクに働いた経験もない奴とか、集団生活が苦手な奴を無理矢理競争に参加させた結果がこれだ。あんな連中は家に引き籠ってりゃいいの。健康で文化的な最低限度の生活をしてもらって、暇な時はネトゲでもやってりゃいいんだ。それだけで人生が完結する人って、実は意外に多かったりする。僕だって生命力のない連中を雇いたいとは思わない。本気で働く気のある奴だけが履歴書を送ってくるようになる」
柚子が目を半開きにさせながら、余裕の笑みを浮かべている。
相変わらずだと顔が言いたげなのがよく分かる。
雇用でみんなの生活を支えることがいかに困難であるかは、柚子が1番よく分かっているはずだ。伊織がこんな目に遭ったのは、棄民を放置した社会のせいなのだから。
「ねえ、花音ちゃんって失恋したって聞いたけど、本当なの?」
「本当だ。でも次の日には立ち直ってた」
「あず君みたいに引き摺らないんだ」
「うるせえ。僕は過去に引き摺られてたわけじゃねえよ。過去に見切りをつけただけだ」
「過去の自分を他人と思いたいから?」
「……そうかもな。あっ、そうだ。今日の岐阜コンは花音も参加するから、面倒見てやってくれ」
「花音ちゃんも大会に出るんじゃないの?」
「この前JACに参加したけど予選落ちだった。ここ数年は椿も花音も結果を出してないからな。椿は子供の面倒を見るので精一杯みたいだし、花音に至っては最後にファイナリストになってからずっと予選落ちが続いてる。今年はもうフリーだから、柚子がコンサルしてやってくれ」
「じゃあ2人共降格になるんだ」
ニヤリと笑みを浮かべる柚子。
「よく分かったな」
「異動先を探してるんだったら、慶さんのいる葉月ローストに行かせたらどう?」
「葉月ローストはメジャー店舗だ。結果を残せない奴はマイナー店舗に行ってもらう」
「じゃあうちに異動させてくれないかな。瑞浪さん以外は全然定着してくれなくてねー」
「当たり前だろ。ただでさえどっちかやるだけでもきついのに、バリスタが本職の奴に婚活アドバイザーまでやらせてるんじゃねえだろうな?」
「……それを言われると……弱いかなー」
柚子は急に僕から目を背け、奥歯に物が挟まったような口調になる。
「あのなー、ユーティリティーの育成をしろとは言ったけど、二刀流の育成をしろとは言ってないぞ」
「どう違うの?」
「どの仕事も最低限のところまではこなせるマルチスキルの持ち主っていうのと、複数の分野で一流を目指すという明確な違いがある。前者は努力次第で誰でもなれるけど、後者はそうはいかない。類稀な才能を持った人じゃないとな」
「難しいこと言うなぁ~。あー言えばこーゆー」
「シンプルだろ。まあでも、椿は葉月マリッジカフェに行かせるのも悪くないな」
「えっ、いいのっ!?」
柚子が勢い良く立ち上がり、顔を急接近させてくる。
「ただし、バリスタに関しては、大会期間中は大会優先だぞ。マイナー店舗とはいえ、基本的には本業に集中してもらわないと。それに葉月ローストが繁盛している時は、余った客がここに来る。葉月ローストとは違う品種を使うようにして、ここでしか飲めないメニューを作っておけ」
「分かった。いつ異動になるの?」
「早くても来年以降だな。1人分の枠を開けておいてくれ」
「それはいいけど、段々精鋭揃いになってない?」
「うちはトップバリスタの最先端だからな」
「言っとくけど、トップバリスタを欲しがってるのは、葉月珈琲だけじゃないんだからね。うちも大会で結果を残して宣伝したいし、トップバリスタが何人か欲しいんだけどなー」
「柚子がいるだろ。今年も大会に出るんだな」
「JCTC地方予選なら突破したし、9月のコーヒーイベントが楽しみだね」
ニコッと笑いながら柚子が言った。
椿とも仲が良かったし、ここなら自然と出会いも増える。岐阜コンでカップリングした人も少なくないことを考えれば妥当だろうか。やはり既婚者と婚活をしている者に、バリスタ競技は難しかった。
8月は最終予選が行われる時期だ。2週間後にはまた名古屋だ。
柚子もJCTC地方予選で見事に勝ち上がった。桜子はJAC予選を見事に通過した。エアロプレスの扱いには慣れているようで、自らレシピまで作成するほどだ。
岐阜コンは無事に終了し、多くのカップルが誕生した。
そればかりか、参加者が故郷から新たな客を呼び、葉月商店街は大きな利益を得たのであった。
8月中旬、バリスタ競技会の最終予選が行われた。
僕、伊織、千尋、桜子は再び店を休み、名古屋の会場を訪れた。
伊織は見事に通過し、JBC準決勝へとコマを進めた。これでJBrCシード権を獲得している千尋と肩を並べた。マイナー競技会も含めると、9月のコーヒーイベントに進出した葉月グループのバリスタは合計36人。3分の1はメジャー店舗から参加し、生き残ったのはいずれもプロバリスタのみ。今までで最も多い人数だ。昇格制度を導入した成果が早速表れた。
うちは本当にレベルが高くなっている。伊織も千尋もうかうかしてられないぞ。
翌日、ジャパンスペシャルティコーヒー協会から、伊織のスマホに9月のコーヒーイベントの場所と日程が送られてくる。どうやら通過したらしい。
「伊織ちゃん、通過おめでとう」
「ありがとうございます。また一緒にコーヒーイベントに行けますね」
「私はコーヒーイベントが終わった後でJAC決勝なので、先に帰っても大丈夫ですよ」
「何言ってるんですか。私も桜子さんの応援に行きます」
「伊織さん、バリスタオリンピックに出るなら、もう今年が最後のチャンスなんですよ。来年には選考会がありますから、ここで結果を残して、WBCで勝ってください。書類選考を通過するためにも、時間の全てを選考会のために費やすべきです」
「桜子さん……」
桜子の言うことはもっともだ。書類選考を通過するには、最低でも複数の世界大会でファイナリストに残るくらいの活躍をする必要がある。僕が参加した頃とは事情が異なることを彼女は知っていた。
「あー、そうそう。1つ悪い知らせがあるよ」
「どうかしたんですか?」
「さっき確認したんだけど、根本さんはWBCで4位、WBrCで準優勝したんだって。両方でファイナリストだから、次にJBCとJBrCでダブル連覇なんてさせたら、書類選考通過どころか、選考会でも1位通過になるって言われてる。かなりの脅威かもね」
「どういうことですか?」
「バリスタオリンピックは毎回ルールが進化してる。次の2023年ダブリン大会からは開催時期が固定化されたことによって、ラストチャレンジが消滅する」
「えっ……ラストチャレンジがなかったら、2位通過の人はどうなるんですか?」
「1位は今まで通り通過確定だけど、2位の人は他の国の2位の連中と、選考会の総合スコアで通過を争うことになる。つまり、総合スコアで他の国のバリスタに負ければ、その時点で脱落が確定するわけだ」
「「「「「……」」」」」
夕日が沈むように伊織たちが落胆する。
ラストチャレンジは2位通過者の最終関門だったが、実績込みの総合スコアのみで判断するし、今まではラストチャレンジを行っていた時期からそう遠くない時期にラストチャレンジを行うのも難しい。
規模の大きいバリスタ競技会であるほど、総合スコアは高くなる。今回のコーヒーイベントで結果を残せなければ、選考会では1位通過することがほほ絶対条件になってしまうため、伊織と千尋のどちらかが選考会で脱落する可能性が非常に高くなってしまうのだ。
他の国のバリスタは2位通過でも複数の世界大会を制覇している人も少なくない。
選考会は来年のコーヒーイベントで開催されるため、同じ時期に開催される競技会の実績は考慮されないのだ。だからこそ、今回が2人にとって選考会ワンツーフィニッシュを決めるラストチャンスである。来年からは選考会を視野に入れた練習や実験が数多くなる。伊織に選考会通過の可能性があるとすれば、やはり朝日奈珈琲の先代マスターが遺したローヤルシロップを使ったコーヒーを完成させるしかない。
正念場はすぐそこまで迫っていた。
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