317杯目「地方予選」
久しぶりのエメラルドマウンテンを堪能した。
そろそろ行こうかという空気を伊織が匂わせてきたところで、窓の外に目をやった。外から見覚えのある可愛らしい顔が近づいてくる。真由が入ってくると、その後ろにもう1人、女性の姿が見えた。
「お待たせ」
「おっ、誰かと2人で来るとは珍しいな。そこに座って」
「うん。隣失礼しますね」
「失礼します」
「エスプレッソを2つください」
「畏まりました」
真由は伊織の隣に、女性は僕の隣に座ると、流れるように近くにいた店員に注文を済ませた。
「伊織、大事な話があるから、イヤホンをつけてくれ」
「あっ、はい」
すぐにイヤホンを装着すると、お気に入りのアニソンをスマホで聞き始め、夢中で聞きながらネットサーフィンを始めた。真由が来た時点で、おおよその事情を察している顔だ。聞いちゃいけないこともよく分かっている。精神性が先に大人になると、どうしてもギャップを感じてしまう。
「それで? なんかあったか?」
「実は僕、彼女がいるんだけど、花音さんのことをどうしても断り辛くて」
「あぁ~、そういうことね」
着飾っていないショートヘアーで可愛らしい女性だ。どこか子供っぽくて、スタイルが分かるピンク色のパーカーを着ていて、一緒にいるだけで落ち着く雰囲気を醸し出している。
小柄で陽気そうな外見だし、そして何より……でかい。
「彼女は佐奈陽菜子ちゃん。僕より7歳年下だから、伊織ちゃんと同い年くらいかな」
「佐奈陽菜子です」
「7歳年下ってことは、僕より9歳下か。あれっ、真由って年上好きじゃなかったっけ?」
「年上も好きだけど、妹系もめっちゃ好きというか、甘えてくるところが凄く可愛くってさー、3年前に出会って、彼女の方から何度もアタックしてきて、最近つき合い始めたの」
「へぇ~」
――ん? ……この顔、どっかで見たような。
「なあ、もしかして……姉とかいたりする?」
「はい。姉が1人いて、今は岐阜に住んでいます」
「……その子って――」
「佐奈桃花って名前です。今は葉月ローストで働いていて、JBrC名古屋予選に出場すると言っていたので応援に来たんです。そしたら偶然電車で真由さんと会ったんです。普段は千葉に住んでいるので、なかなか来れないんですけど、運命の赤い糸ですね」
「なるほど。じゃあそろそろ本題に移るか」
「本題って何ですか?」
「実はさー、花音さんからのメールが凄く多くって。ほら」
真由が某夢の国の鼠が描かれたスマホを見せてくれた。スマホ画面には信じられないことに、かなりの頻度で花音からのメールが届いており、そのどれもがデートの日程をしつこく迫る内容だった。
「それで僕、怖くなっちゃって、今更彼女ができたなんて言い辛いし、もうどうしようって……」
「ぶっちゃけ、ウザいわけね」
「うん。だからその、どうにかしてほしいというか、自分で勝手に予定を組んでは、僕に打診してくるというか、1回デートしたら満足すると思ったんだけど、どんどんエスカレートしてきちゃって」
「素直に彼女がいるって言えばいいじゃん」
「そうしたいところだけど、依存が強い人って、絶望するとストーカーになるタイプが多いからさー」
「あーあ、拗らせちゃったかー。花音は今の今までずっと恋愛というものを知らずに生きてきた。つまりあいつは恋愛の知識もないまま、手探りの状態だ。相手の気持ちなんて考える余裕はない。それが連続メールという形で表れたってわけだ。何で花音が結婚できなかったのかがよく分かった。後は任せとけ」
「うん、分かった」
花音はどちらかと言われれば美人だ。突っ走るような性格はリサによく似ている。
だが1番の違いは、相手の心理を読めるかどうかだ。そこが明暗を分けたと言っていい。
花音は客観的視点を持ち合わせていなかった。
これは認知の歪みと呼ばれるもので、相手の気持ちや周囲の状況を理解できず、独善的に突っ走ってしまう症状だ。花音は学生時代から成績が悪く、対人関係は全くと言っていいほどうまくいかなかった。
――もしや、これが花音のドジっ子カノンの正体なのか?
真由には彼女がいることを告げるように言って別れた。イヤホンを外した伊織と共に店を出た。話題が気になって仕方ない伊織だが、僕と2人きりになったところでようやく口を開いた。
「あの、何の話をしていたのか、聞いてもいいですか?」
「聞かない方がいいぞ。多分ショックを受けるだろうから」
「仕事の話って言えばいいのに……やっぱりあず君は嘘を吐くのが下手ですね」
「ばれたか。やっぱ僕は経営者向いてねえな」
「どうして向いてないって思うんですか?」
「経営者は嘘を吐いたり、冷酷な判断が必要な仕事だ。綺麗事だけじゃ務まらん。だからこういうのはあんまり好きじゃねえんだ。就職したくなかったから経営者を選んだっていうだけで、本来はニートが1番向いてるのかもしれん。だから葉月グループの経営は他の役員たちに任せてる。僕は葉月グループの株を持っているだけで、普段は好きなことをして暮らしてる」
「それ、ほとんどニートじゃないですか」
「その通り」
半ば呆れ顔の伊織にドヤ顔で返し、質問意欲を削いでやった。
一応最終決定権は保持しているが、これで良かったのかもしれない。経営は経営のプロに任せるのが、1番病まずに済む。血の通っていない仕事はしたくないものだ。
今の伊織に花音の話はまだ早い。それよりも大会に集中してもらいたいし、参加人数が多いことから、小規模なイベントの一環として開催されており、各バリスタ競技会の予選が3日間にわたって行われる。最終予選も同様ではあるが、レベルは確実に上がっているはずだ。
「……やっぱりあず君は……良くも悪くも変人なんですね」
「変人で結構。普通なんて退屈なだけだ」
「あず君は何で普通の人にならなかったんですか?」
「ならなかったんじゃなくて、元から普通の人に向いてなかっただけ。学生の時なんか、僕以外はみんなして目立たないように空気と一体化して、自分に嘘を吐いて生きてるような奴ばっかで、心底つまんなそうにしてた。普通の人になるメリットは何か分かるか?」
「世間に後ろ指を差されないことですか?」
「それもあるけど、普通の人になる1番のメリットは、世間の声になれるということだ」
「世間の声……ですか?」
「常に変人が現れないように監視をして、変人が現れたら、あいつ変だって言える立場になれる。みんな変人扱いされるのが怖いから、普通の人、つまり誰かを変人扱いする側になろうとする。でも普通の人なんていないし、みんなが定義する普通の人の条件を全部満たした奴なんて、いたとしてもそれはそれでかなりの希少価値を持った才能だ。それに、自分たちと違う存在を非常識と罵るのって、虚しいだけだぞ」
みんなが普通であることを心地よく生きる条件とすることで、それが普通になれなかった人たちを社会的に排除しても構わない理由になってしまっている。相互監視をして、おかしなところをこれでもかと探り合い、容赦なく指摘し合う社会なんて、そりゃ生き辛いわな。
まともな人ほどぼっちになる。これは絶対的真理である。
普通とは、ある意味差別主義の根幹を成している媒体なのかもしれない。
「私は……変人で良かったです。普通じゃないからできることがある。あず君から教わったことです」
「そりゃ結構なことだ。実を言うとな、伊織を引き取った時、最初は不安だった。人の育て方なんて全然知らなかったし、手探りをするしかなかったけど、伊織を見ている内に放っておくのが1番だと思った」
「没頭することを邪魔しなければいいという考えは、そこから生まれたんですか?」
「うん。伊織は誰かに課題を与えられるよりも、自分で課題を見つけて没頭している時の方が、成長が早かった。それで思った。指導する側が可能性を摘み取ってるんじゃないかって」
「そういえば、私って実験台だったんですよね?」
「そうだな。でもこうして世界大会で結果を残せるようになったし、飯を食える大人にもなったし、僕にとっては成功だと思ってる。子育てをする上でかなり参考になった。だから実験につき合ってくれたお礼として、相応の対価は払うつもりだ。独立する時は遠慮なく頼ってくれ」
「……対価なら、もう貰ってますよ」
にっこりと笑いながら伊織が言った。その顔はどこか寂しげだった。
「あげたっけ?」
「はい。生きる力が身につきました」
「伊織にとって、生きる力ってのは何だ?」
「自我です。私が周りに流されて、好きなことさえ諦めるようになってしまったのは、自我を摘み取られていたからです。あず君は私に自我を思い出させてくれました。生きる力は誰もが持っていて、特定の環境に適合することを余儀なくされていく過程で失っていくものだと思いました。あず君に出会うまでは、ずっと環境に適合する能力ばかりを鍛えられてきましたけど、本当に必要なのは、環境が変わっても自分のやり方で生きていける能力だと気づきました」
「――良い答えだ」
ここまで達観した回答ができるとは……想像以上の成長だ。
独立の件に一切触れないってことは、結論は急がない方針らしい。
いなくなったら寂しい気持ちはある。だがそんなことを言っていては、独立なんて一生できない。いつ誰がいなくなっても問題なく回るような仕組みを作れば、組織としては立派な部類と言っていい。
うちは替えの利く人材を替えの利かない人材に変身させ、独立させていくグループ企業なのだ。これで価値観がアップデートされた人の割合を増やしていけば、改革も幾分かしやすくはなるはずだ。社会を変えることはできなくても、人の価値観をアップデートすることはできる。
会場に戻ったところで千尋たちと合流する。6つのメジャー競技会の内、1日目はJBCとJLAC、2日目はJBrCとJCIGCS、3日目はJCTCとJCCである。
JCRCはロースターの大会であるため、7月に予選、8月に決勝が行われる。9月のコーヒーイベントでグリーングレーディングのレポートを発表してから結果発表となる。バリスタオリンピック選考会は7月に書類選考、8月に選考会に進出する参加者が決定され、9月のコーヒーイベントで選考会を行う。予選は全て日帰りできる場所になったのが大きな進歩だ。
「2日目以降はうちから誰も出ないし、日帰りってことでいいんだよね?」
「うん。2日目以降も見に行っていいけど、僕は店の営業がある。応援したい奴でもいるのか?」
「いないよ。でも以前だったら、3日目までずっといたよね?」
「遠征だったら帰れないから、暇潰しで見てた部分もあるけど、すぐに帰宅して準備できるのはでかい。それに他の仕事もするようになったから、もうあんまり会場とか行かねえかもな。僕もそろそろ……競技者として潮時なのかもしれんな」
「そんなっ! 待ってくださいよ! まだ私、バリスタオリンピックにも出てないんですよ!」
慌てるように声を荒げながら伊織が僕の服を掴んだ。
「ふふっ、冗談だ」
「あず君の冗談は冗談に聞こえないです」
両頬を膨らませ、目を細くしながら威嚇する伊織。可愛い。
「へぇ~、まだバリスタオリンピックに出る気だったんだー」
「当たり前です。そのためにずっと頑張ってきたんですから」
「シグネチャーに使うローヤルシロップは完成したの?」
「……まだですけど」
「えっ……準決勝までには完成させないとやばくない?」
「なかなか良いアイデアが浮かばないんです」
伊織はこの場に肩を落とした。ここんとこずっと情緒不安定だ。
何かに追い詰められているような顔が全てを物語っている。シグネチャーは特に難しい部類だ。本戦までは免除されているが、果たして9月までに間に合うのだろうか。
彼女のシグネチャーは決定打に欠けている。ローヤルシロップとコーヒーを分けて味わいたいくらいにはフレーバーが喧嘩をしていた。僕自身もこの課題に挑みたい気持ちはある。だがここでしゃしゃり出ては後継者が育たない。ローヤルシロップ自体は美味い。うまく混ぜ合わせれば、今までにない究極のシグネチャーになることを彼女たちは確信している。
「あれっ、あず君も来てたんだー」
後頭部に刺さるように、聞き覚えのある高い声が聞こえた。振り返った先には、大人びたボブヘアーの優子がいた。その隣には2人の連れがいる。優子の知人だろうか。店の経営状況も聞いておきたい。
「優子、久しぶり――」
すぐに距離を詰め、僕に抱きついてくる。
ふんわりとした柔らかい感触が僕の左腕を襲う。
今年でもう36歳だというのに、全く衰えていない。以前よりも貫録を増し、肌艶にも磨きがかかっている。良い年の取り方をしていることがすぐに伝わった。
「寂しかったよぉ~。ぜ~んぜん会いに来てくれないじゃ~ん」
「店舗が増えすぎたから、巡回も分業化したんだよ。珈琲菓子葉月はどう?」
「お客さんは物凄く来てくれるけど、地元の人ばっかりでねー」
「何? 宣伝してないの?」
「してなくもないけど、コーヒースイーツって、癖の強い商品だし、あず君の地元から離れていることもあって、外国からは全然来ないの。わざわざ外国から足を運ぶ所でもないっていうか……あ、でもパティシエとバリスタは順調に育ってるよー。コーヒーとスイーツの材料が余ってるお店も珍しいからねー」
「腕はどんなもん?」
「かなり良い方だよ」
嫌味のない自身に満ちた笑顔で答える優子。
さしずめ、葉月ショコラのライバル店ってとこか。
「優子さん、お久しぶりです」
「伊織ちゃ~ん、久しぶりー。これから大会?」
「はい。今年こそは決勝進出して結果を出します」
「そっかー。応援してるよー。あれっ、花音ちゃんと椿さんと話してるのは誰?」
「村瀬千尋君です」
優子の目の色が変わった。視線の先を千尋に向けると、何かに気づいたように優子を見た。
なんか誰かに見られてるような……と言わんばかりの目で優子を見つめ返した。
「ふーん、君が千尋君かぁ~。あたしは柳瀬優子。葉月グループ系列のお店でマスターやってるの」
「村瀬千尋です。何か用ですか?」
「2020年WBC優勝、JBrCは前回大会3位、噂には聞いていたけど、本当に凄腕なんだねー」
「まあ、そんなこともありますけど」
「ていうか何で千尋君はここにいるの? シード権あるんだから、予選免除のはずだけど」
「えっと、今日はパートナーのお姉さんが参加するので、それで応援しに来たんです」
千尋はシード権を得た。コーヒーイベントでは一部の大会を除き、準決勝から行われる。
シード権を持つ者と予選通過者を合わせればそれなりの人数になるため、どうしても準決勝の枠を設ける必要が出てきたのだ。千尋は最初から高みの見物をする気でいた。
何だかんだで伊織のことを心配しているのがよく分かる。
葉月グループからもバリスタが数多く出場する。一部は人数の都合で別の地域にある会場へ行ったが、小夜子たちもプロ契約制度を結び、葉月珈琲勢として出場することが決定した。本格的な競争が始まり、バリスタはプロでなければ店舗に居座りにくくなった。食べるためだけのバリスタはいらない。
「パートナーのお姉さん?」
「小夜子のことだ」
「えっ、じゃあ千尋君が結婚した女性って――」
「明日香だ。しかも今は父親」
「あぁ~、そういうことだったんだー。明日香ちゃんはすっごく良い子だから、大事にしてあげてよー」
「分かってますよ。ていうか明日香のこと知ってるんですか?」
「もちろん。だってあず君の同級生の妹だよ。昔っからあず君の知り合いの人だったら、大体の人は一通り面識あるかなー。でも明日香ちゃんと結ばれたの分かる気がする。あず君って身内としか関わらないでしょ。だから結果的にあず君の身内同士が結ばれやすいの。美羽さんも吉樹君のところに嫁いだでしょ」
「あっ、そういえばそうですね。あず君と仲の良い人、みんなあず君の身内と結ばれてますね」
「みんな気づくの遅いよー。あず君は縁結びの神様って評判なんだからさー」
「勝手に神様にされても困るんだけど」
この姉御肌を前に、千尋はタジタジな様子だ。
一人っ子故に、こんな兄弟姉妹みたいなノリで人と接したことがなかったんだろうな。
葉月グループ系統の店には身内が多く所属している。そこに気に入った人を入社させたり、岐阜コンに誘ったりしていった結果、仲の良い人たちが身内と知り合う確率が一気に上がったのだ。同じ店舗に所属したり、岐阜コンで出会うことにより、みんなは僕の活躍を共通の話題にして結ばれていったと優子は言った。これで葉月家も楠木家も、少子化問題は無事に解決したわけだ。
僕がいなければ非常事態であったのはいただけない。考えただけでもゾッとする。身内がみんな結婚できたのは、僕が雇うことで稼げるようになったからだ。不況の中で誰かと出会う余裕なんてない。結局は経済的な理由によるところが大きいのだ。皮肉にもうちの周辺だけが昭和へと戻り、雇用による経済成長が結婚ラッシュの理由となっている。これに誰も危機感を持てないのは本当にやばい。
地方予選が終わると、僕らは優子たちと夕食を食べてから帰宅することに――。
既に参加していた小夜子たちも合流し、千尋は明日香が連れてきた子供を大事そうに抱えながらあやしている。完全に尻に敷かれてるよ。明日香は心優しいが、身内には厳しい鬼嫁だ。特に千尋の扱いには慣れているようだが、そんな彼に気を置けないほど信頼しているのか、人前でも千尋に懐いている。
「へぇ~、ここって千尋君の故郷だったんだー」
「まあね。こっからすぐ近くにあるあのでっかいビルが、僕のいた村瀬グループの総本山ってわけ」
「千尋君いなくて大丈夫なの?」
「大丈夫じゃないよ。僕がいてもどうせ言うこと聞かないし、あいつらはみんな平社員時代から胡麻すりだけで出世してきたような連中だし、仕事は全部人任せで、責任を負った試しがない。変わる気がないんだよ。だから見限ることにしたわけ」
「でもちーちゃんって、時々は村瀬グループの社長にメールでアドバイスを送ってるんですよ」
「結構優しいじゃん。あたしちーちゃんのこと気に入っちゃった」
「その呼び方引くんだけど」
お構いなしに急速に距離を詰めようとする優子に、千尋はリズムを崩され、すっかりと優子のペースになっている。とりあえず高IQの人が理屈の通じない人を苦手としていることはよく分かった。
優子にマスターを任せて本当に良かったのだろうか。それだけが心配だ。
一度優子の連れに聞いた方が良さそうだ。
アマトリチャーナを口に頬張りながら、周囲の人数を確認する。僕らは全員で20人ほどだが、葉月グループが成立してからは、プロ契約を結んだバリスタも増えた。今年は期待できそうだ。
葉月グループがコーヒー業界の名門になれるかどうかは、こいつらの腕にかかっている。
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佐奈陽菜子(CV:海保えりか)




