299杯目「井の中の蛙は大海を知る」
日曜日、葉月商店街でショコラティエ大会が開催された。
前日にはパティシエの大会も開催された。今回は名前通りチョコレート縛りでスイーツを作ることになるわけだが、これらの大会には決まった課題がある。
予め規定されたコーヒーと相性の良いスイーツを作ることである。無論、バリスタオリンピックのマリアージュ部門を意識して作られたものであり、コーヒーマリアージュを重視している異色のスイーツ大会である。これからバリスタオリンピックを目指す者たちにとっては経験値を稼げる大会なのだ。
パティシエ大会とショコラティエ大会においては、エスプレッソとドリップコーヒーの2種類においてコーヒーマリアージュを競うことになり、見た目と味の組み合わせを試食試飲し、総合スコアが最も高い者が優勝となる。愛梨がずっとコーヒーと相性の良いチョコを作っていたのはこのためである。
午後3時、この時間までに作ったケーキを披露する。
バリスタが淹れた規定のエスプレッソとドリップコーヒーと一緒にケーキを食べる審査が行われた。
「愛梨の腕前はどう?」
「以前よりうまくなってるよ。後は愛梨ちゃんよりもうまい人が、どれくらい多く参加しているかで全てが決まるってとこかな」
「璃子はそういうとこ現実主義だな」
「結局は自分より上の人が参加しているかどうか選手権だし、トーナメント形式だと、1回戦負けも準優勝も、自分に勝てる相手と、どこで当たったかの違いだから、実質価値が変わらないという見方もできるけど、今回はいきなり決勝だから、1人でも愛梨ちゃんより上の人がいたらアウトになっちゃう。ところで優勝賞金とかあるの?」
「優勝賞金は10万円で、優勝した作品は葉月商店街のスイーツ店舗で、その月が終わるまでの期間限定商品として、売りに出されることになる」
「前回はどうだったの?」
「大成功だ。しかもコーヒーに合うスイーツという名目で売ってるから、葉月ローストの売り上げも上がった。やっぱ人を呼ぶなら定期的にイベントを開催した方がいいってことがよく分かった。当分は葉月商店街の発展に貢献したいと思ってる」
そんなことを話していると、緊張気味の愛梨が自分の作ったチョコレート作品を審査員の人数分を運んでくる。チョコレートは熱に弱く溶けやすいというのも、大会日を12月にした理由だ。
愛梨にとってはデビュー戦だ。璃子の指導があったとはいえ、どこまでいけるものか。
璃子は軽く腕を組み、愛梨を見守っている。至って静かだが、保護者のように片時も目を離さずにいる様子からも、心底では熱烈に応援していることが窺える。
「だからここに来ることが多くなったんだ」
「元々目立ちたくなかったからここを出たけど、まさか商売の拠点になるとは思わなかった」
「お兄ちゃんを育てた商店街なんだから、貢献しても罰は当たらないと思うけどね」
「貰った分は返す。それが流儀だ」
「お兄ちゃんが言う貰った分は返すって、仕返しの意味も含むから怖いんだけど。でもお兄ちゃんが愛梨ちゃんにやり返さないことを求めた時は意外だったなー」
「子供同士の場合は、やり返さないと舐められてエスカレートするし、少年法に保護されてる無法地帯だから、やり返すのが正解だ。でも今は無理に集団生活しなくてもいいし、大人になったら責任が重くなるわけだから、やり返すくらいだったら立場の強い人に通報するか、家に引き籠るか、そもそもやられない立場になる方がいい。だから最初は愛梨に引きこもることを勧めた」
「お兄ちゃんは最初っから引き籠りを推奨してたもんね」
そりゃそうだ。生きていくには外に出て人に会いにいく仕事しかなかったが、今は家に引き籠っていてもどうにでもなる。集団の中で煙たがられるような人は、家に引き籠り活動する。本当の意味で分業化ができるようになったわけだ。しかも令和恐慌に伴う強いインフルエンザの影響により、リモートワークが増えたことも、引き籠りにとっては追い風である。これからは引き籠りの時代と言っても過言ではない。そう思っていただけに、愛梨が外で活動したいことを知った時は驚いた。
「愛梨にとって、引き籠りは楽しくないのかな」
「一度愛梨ちゃんに聞いたことがあるんだけど、引き籠りは退屈なんだって。人生が壮大な暇潰しだというなら、外に仕事をしに行くのも暇潰しだって言ってたの。人と関わるのが苦手なのに、外で活躍したい気持ちがあるのは、正直私も理解できないけど」
「璃子はあれからどうなの?」
「充実してるよ。接客は全部蓮たちに任せてるし、私と愛梨ちゃんはチョコを作って、ショーケースに入れるだけ。その時に男性のお客さんに話しかけられることがあるけど、蓮たちがいつも引き継いでくれるから、本当に助かってる」
「璃子もファンが増えたな」
「生放送で会えるのに」
「彼氏がいることを公表しないからだろ」
「……そろそろ言った方がいいのかな」
目線を下に落としながら璃子が呟いた。
その目はとろーんとした半開きで、決断を迷っている様子だった。
目立ちたがらない璃子とは対照的に、スレンダーな腰回りと豊満な胸が、まるで嫌われることを恐れているかのように震えている。普通を演じる必要はなくなった。だがそれでも嫌われることを恐れない心は持っていない。多くの場合、それが引き籠りたる所以なのだ。
社会は個人に対して迷惑をかけるなと言いすぎた。極力迷惑をかけずに生きていくなら引き籠りしかない。引き籠りの増加はある意味社会の要望に国民が応えた結果である。多分、愛梨のように自分の適性と願望が一致しない人のために施設があるんだろう。
愛梨とはこの前会った時、積もる話をした。
今もなお優子名義の家だが、愛梨が外で働いている内は商店街に返却しないとのこと。万が一の時は返却されてもテナント募集中の状態にするのもいいが、それはフェアじゃないと心の内が言っている。まるで愛梨にチャンスを与えてほしいと優子が言っているかのようだ。
「ふーん、愛梨ちゃんが表舞台に立つとはねー」
聞き覚えのある声が不意に後ろから聞こえた。璃子と同じタイミングで後ろを振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべる優子の姿があった。以前よりもますます大人びた印象だ。
肩に着くくらいに髪が伸びており、以前とは違った印象につい見惚れてしまう。もう35歳を過ぎてはいるが、むしろ20代の時よりもずっと好印象だ。
「なーに見とれてんのかなー」
「えっ、あず君、あたしに見とれてるのぉ~?」
「気のせいだろ。また璃子特有の感受性が過剰反応しすぎたんじゃねえか」
「まっ、それはさておき、愛梨ちゃんはどうなの?」
「特に問題なく技を習得してます。大体優子さんからの受け売りですけど」
「それでいいの。あたしが色んな人に教えているのは、あたしの代わりにヤナセスイーツの調理技術を教えられる人を作る目的もあったんだから。何人参加してるの?」
「20人。3位以内に入れば、修業の成果が出たってとこだな」
「あず君のことだから、てっきり優勝一択だと思ってたけど」
「いきなり優勝できる人の方が珍しいだろ。それを教えてくれたのは優子だぞ」
「それはそうだけど、葉月珈琲が来年から階級制度を本格導入するって聞いた時は、てっきり実力至上主義にでも囚われたかと思ったなー」
優子がホッと安心の笑みを浮かべながら僕に詰め寄った。
勝ちに拘りたいんじゃない。勝ちたい人を保護するための制度だ。
競争に興味のない人や、バリスタ以外の人とうまく住み分けできるようになっている。異動を受け入れない意向を最初から示している人は非正規雇用でマイナー店舗にしか置かないわけだし、優秀なスタッフをマイナー店舗に居座らせるような企業じゃ駄目だ。
「そんなんじゃねえよ。昔の僕みたいな奴は他にもいた……でもほとんどは起業する前に夢を潰されて、サラリーマンか飯を食えない大人として生きている。そういう社会を終わらせたい。誰にでもチャンスは与えられてしかるべきだ。その門戸を広げる目的で、メジャー店舗に必ず優秀なバリスタを置くという仕組みを作った。実力を示せなければマイナー店舗にいるバリスタに昇格のチャンスが回ってくるだけだし、最終的に強豪しか残らなくなる」
「つまり、絶対に怠けられない仕組みってわけだ」
「そゆこと。社員ってあんまり優遇しすぎると、怠けたり不正をし始めたりするし、それを知ってしまった以上、甘やかすわけにもいかなくなった」
以前柚子が経営していた楠木マリッジでの出来事を思い出した。立場の弱い中途採用者や障害者などを優先的に雇ったことが災いし、次から次へと誘われるように、似たような人間が集まってきたのだ。それだけ彼らは雇用に飢えていた。役職付きになった者に至っては、会社の資金を着服する始末だ。
柚子は彼らを甘やかしすぎた。弱みにつけ込むハイエナを見ているようで、擁護できるような状況ではなかった。柚子が押しに弱いこともみんな知っていたくらいだ。思い切った決断ができない社長などただの足手纏いだ。社長と社員はあくまでも契約を交わしただけの対等な関係でしかないことを思い知らされた。変化の激しい今の時代において、家のように会社の経営をすることなど不可能だ。
「それで自営業時代以来の非正規雇用を復活させるわけだ」
「階級制度のお陰で正社員でいるべき人とそうでない人がハッキリ分かるようになったし、様子見で採用する場合にも役立つからな。うちには新卒なんてないし、本当にやる気のある人を育てていくことを考えれば、やっぱり階級は必要だと思っただけだ。最下層のマイナー店舗でも活躍ができないようなら戦力外通告でクビにできるし、実に合理的な雇用手段ってわけだ」
「本当にメジャーリーグになっちゃったねー。うちのお店はどこの階級なの?」
「璃子の店も優子の店も最下層のマイナー店舗、つまり育成担当の店だ。そこでも伸びないようなら、クビにしちゃっても大丈夫だ」
「将来のバリスタ候補を選抜するのはいいけど、蓮君たちは競争の対象じゃないの?」
「オープニングスタッフの処遇については、マスターの権限で居座らせてもいい。クビにしても全然問題ないけど、やっぱ身内は守りたいだろ。バリスタについては、後から入ってきた連中に適用されることになる。うちとて簡単に首を切るつもりはない」
あれこれと話している内に、愛梨の出番が終わった。
全員の競技が終わったところで3位から1位までのショコラティエが発表され、表彰式が終わった。大会の全過程が無事に終了し、悔しそうな顔を浮かべた愛梨が戻ってくる。
愛梨は優勝どころか上位入賞もできなかった。最終順位は20人中18位。やっぱ世の中そううまくはいかないか。ポテンシャルだけで言えば光るものを持っているが、ずっと引き籠っている間に差をつけられる格好となった。ふと、あの時期に引き籠っていた時間を修業に費やせたらと思ってしまった。
「愛梨ちゃん、次があるでしょ。まだまだこれからだよ」
顔を赤くしながら優子の胸を借り、啜り泣きをする愛梨を優子が慰めている。
「もっと修業を始めるのが早かったら……」
「愛梨、修業を長く続けたからといってうまくいく保証はないし、落ち込む必要はないぞ」
「そうそう。誰だって最初っからうまくいってたわけじゃないし、あず君だって最初に出た大会で優勝するまでにどれほどの苦労をしてきたか、知ってるでしょ」
「……」
愛梨が涙を拭き、僕と視線を合わせた。その目は負けたくないと言っていた。
自分もいつか必ず優勝して世間を見返してやるという壮大な野望を持った目だ。
「愛梨の作品と課題のコーヒーを飲ませてくれ」
「了解っす」
早速葉月ショコラへと戻り、そこで愛梨の敗因を調べることに。
家で冷やしていた予備のチョコ2種類がテーブル席に着いている僕の目の前に置かれた。課題となるエスプレッソとドリップコーヒーに使われた豆からコーヒーを淹れると、それらを交互に口に含んだ。
――味が喧嘩している。コーヒーに対して、チョコが殴り込みを仕掛けているようだ。
どちらもコーヒーの苦みをチョコの甘さが上回ってしまい、全体的に甘さが勝っている。
後味にも甘さが強く残ってしまい、コーヒーよりも水が欲しくなってしまう。
「なあ璃子、何で事前にテストしなかったわけ?」
「自分がこれだって思ったものじゃないと意味がないってお兄ちゃんが言ってたから。私が美味しいと思っても、審査員が美味しいって思わないと意味がないし、結局は自分で決めることが大事でしょ」
「ふーん、でもこのチョコ、単品としても味は良いけど、お店に置くにはパッとしないかな。愛梨ちゃんはどんな気持ちでこのチョコを作ったの?」
優子が愛梨の顔を見つめながら尋ねた。
愛梨の作ったチョコは、どちらも丸くて小さなボンボンショコラだ。ルビーチョコレートを使ったストロベリーチョコに、黄緑色でハート形のピスタチオチョコが食べかけのまま並んでいる。
「今できる全てをぶつけたつもりだったんすけど……全然駄目っすね」
「このストロベリーチョコは甘さが強すぎてコーヒーの風味を消してしまうし、ピスタチオチョコはそれ自体が個性の強い味で、もっと大きな大会ならウケていたかもしれないけど、一般人だけで構成された商店街の審査員たちにはちょっと難しすぎたな。素人には理解できない味だ」
「今のを翻訳すると、審査員が商店街に住む一般人であることを意識していれば、まだ上位までいける余地があったってこと。大会ってこういうところもあるから、証拠でもない限りは、実力負けとは言い切れないけど、審査員の傾向を知らなかったのは、ちょっとまずかったかもねー」
「さっき優勝した作品を試食してみたけど、町のケーキ屋が作った万人受けしやすい味だから、多分これが決め手だったかもねー」
「あず君は審査員を意識したことあるんすか?」
「もちろん。でも万人受けというよりは、舌が肥えている人もそうでない人も誰が飲んでも最高得点を出すような究極の味を目指してきた。万人受けじゃなく全員受けを狙った。一般人だろうと味覚のプロだろうと、美味いって言わせるだけなら簡単だ。璃子のボンボンショコラを見てみろよ。1つ1つのチョコがカラフルで個性的で見た目も味も全然違う。でもその全てがちゃんと美味い味になってるだろ。デザインも味も細部にまで拘ってるし、誰がどのチョコを食べても最高に楽しめる工夫が施されてる。これがプロの味というものである」
璃子の作ったチョコを一口頬張った。優勝するくらいの意気込みがなければ、大会を制することは困難であると愛梨は知った。エスプレッソとドリップコーヒーの違いを把握していなかった。それぞれのフレーバーを考慮した味を引き出そうとせず、ただ自分が作りたいチョコを作ってしまった。味は評価するが、見た目は他のチョコと一緒に並べた時にパッとしない。それこそが愛梨の敗因だったわけだ。
判明したことを可能な限り愛梨に伝え、僕は葉月ショコラを去った。
12月中旬、寒さがピークに達し、僕はすっかりと引き籠りになっていた。
そんな矢先、営業中に唯が1階へと降りてくる。
柚子も瑞浪もクリスマスが終わればここを離れることになる。柚子にとっては実家への帰還、瑞浪にとっては新天地。今までとは全く違う職種ではあるが、そこは大丈夫なのか?
この日は唯と2人で夕食を楽しんだ。先に夕食を済ませた柚子と瑞浪は子供たちの面倒を見ながら一緒に遊んでいる。子供たちも段々2人に懐いてきたが、もうお別れであることは知らない。
唯は元気そうに燥ぐ子供たちを見ながら、幸せそうな微笑みを見せている。
「来年から私たちだけになりますね」
「そうだな。唯、来年からは僕も子育てに参加する」
「気持ちは嬉しいですけど、仕事を優先してください。家事育児は時間が空いた時でいいです」
「1人で4人の面倒を見れるのか?」
「紫と雅は自分1人で留守番ができますから、面倒を見る必要があるのは実質2人です。子供が自分でできることって、結構多いんですよ」
「何度かニートの親に会ったことがあるんだけどさ、みんな子供に対して物凄い過干渉で、何でもかんでもちゃんとやらせようとする」
「過干渉は絶対にやっちゃ駄目ですよねー」
「そうそう。過干渉に接するから与えてもらうのが当たり前になるし、他人との接し方も偏ってしまうからな。放っておけば自主的に何かしら始めて没頭するようになるし、本来子供っていうのは、自ら学べるようにできてる。だから極力大人たちが邪魔しないようにするべきだ。どうすれば良い大人になれるのかは、子供たちが1番よく知ってる」
「ですね。学校には行かせないんですか?」
「既に学校の許可は貰ってるし、とりあえず入学式だけ行かせて、行くかどうかの最終判断は子供たちに決めさせる。集団生活が得意なら行ってもいいし、苦手ならホームスクーリングでいい。行く場合は教師や同級生の言うことを真に受けないように釘を刺しておく。世間はありとあらゆる手を使って子供たちを従わせようとしてくるけど、それに負けない人間が、これからの社会を生き延びていく。レベルの低い世間に従う必要がないことを今の内から教えておく。明らかに必要のない回り道だからな」
食べ終えた唯が肘を机につけたまま僕の話を聞いている。
必要以上に喋ることのないその姿は、絵に描いたような聞き上手だった。
5年前の同窓会で確信した。僕の元同級生たちは同い年の同性以外の人とうまく喋れていなかったばかりか、コミュニティもほとんど同い年ばかりで統一する人が多かった。社会に出れば、歳の違う人や異性とつき合うことになるのに、あの9年間で同い年の同性とばかりつるんでしまった結果がこれだ。全ては学校側の功罪である。対人関係能力は商店街に買い物に行った時に学んでいく。
見たものや触れたもの全てが教材だ。
「あず君が学生の時も、得るものは少なかったですか?」
「人生で必要なものは、全部学校の外で習得した。所詮は社畜養成所にすぎない」
「何も才能がない場合は、大学まで行った方がいいって聞きましたけど」
「その時はうちの社員にすればいい。最悪飯を食える大人になれば何とかなる。僕らが子供たちにするべきことは、お金をあげることじゃない。お金の稼ぎ方を教えることだ。そうすれば遺産がなくても生きていける。あの好奇心を大人になってもずっと保つことができれば勝ちだ」
紫と雅がタブレットをしながら遊んでいる。結局、子供たちのために玩具を買うことはなかった。
子供たちが興味を持っているのはタブレットだ。色んな事が楽しめるのが1番良いんだろうか。写真や動画を撮ったりして遊んでいる内に使い方まで覚えてしまった。学習能力の高さは文句なしだ。
僕らは子供たちの将来を楽しみに見守るのであった。
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