294杯目「恐慌の爪痕」
10月下旬、僕らはどうにか朝日奈珈琲を盛り立てようと尽力した。
売り上げさえどうにかなれば、店を存続させられると信じていた。
僕ならできると思っていた……だが……僕にもできないことはあった。
残り2ヵ月で超満員が続かない限り、閉店する以外の選択肢がないことが判明してしまった。先代の頃はいつも客で賑わっていたらしい。コーヒー豆の焙煎、抽出技術、調理の腕には長けるものの、宣伝能力のない桜子にとって、令和恐慌の壁は厚かった。
立地条件からも、遠くからの来客が難しかったのだ。
ただでさえ来客を拒むかの如く山に囲まれ、人の移動自体が比較的少ない地域であることが宣伝を難しくしていた。動画で宣伝したところで、100万人が見たらその内来たいと思うのが1万人。その1万人の中から本当に来るのが100人程度であれば、年間1万人以上に来てもらうには、1億回再生を記録する必要があるのだが、立地条件が悪ければ、実際に来てくれる人数は更に下がる。
これじゃただの延命処置だ。もはやどうしようもない。伝統を謳おうにも、ただ数十年続いてきたというだけで、名物と言えるメニューがない。
これが飲食店の末期か――うちはこうならないようにしたいものだ。
ある日の夜、このことを唯に相談する。
「あず君の宣伝でもお客さんがなかなか来れないんじゃ、もうどうしようもないと思います。令和恐慌の影響を最も受けているのは、地方の飲食店ですし」
「大都市でもタピオカジュースの店がバタバタ潰れていって、一部はうちに入ってくれたな」
「タピオカジュースの知識って、バリスタに転職する時に役立つんですか?」
「もちろん。色んな種類のドリンクを作るってことは、それだけ味を覚える必要があるし、シグネチャーを作る時にも役立つ。今そういう連中が労働市場を駆けずり回ってる。好景気の時は稼げるし、不景気の時は失業した人材を安く拾える。あいつらはな、生きる力を育んでこなかった代償を払ってんだ。景気ごときに振り回されてるのが証拠だ」
「ふふっ、あず君には景気とか関係ないですね。どんな状況もチャンスと受け取る姿勢は凄く好きですけど、みんながみんなそういう風に考えられるわけじゃないですし、考えが及ばない人の方が、ずっと多数派なんですよ。みんなが頭悪いんじゃなくて、あず君が頭良すぎなんです」
唯の言葉は天狗になった夢を見ている僕を目覚めさせてくれた。
できないことが悪いんじゃない。できることが凄いだけ。
シンプルだが考えさせられる言葉だ。相手を否定するわけでもなく、特別視するわけでもない。みんな違ってみんな普通なのかもしれん。そんなことを考えながら天井を見ていると、後ろから茶色の下着を着た唯が抱きついてくる。背中には柔らかい感触がダブルで伝わってくる。夢からは覚めたが、この気持ち良さにはまるで酔ったように体が動かなくなる。人を駄目にする彼女だ。
「どうしたんだよ?」
「あず君は30歳を超えても、まだ乙女心が分からないみたいですね」
「それが理解できたら、その時点で半分女みたいなもんだ」
「私の前で他の女性を心配するのはどうかと思います。流石に妬いちゃいました」
「店がなくなったら、あいつも企業の社員として飲み込まれると思った。マスターとしては半人前だけどバリスタとしては一人前だ。あんな良い子がコーヒー会社にこき使われるのは好きじゃないな」
「桜子さんって、確かバリスタ競技会にも参加してたんですよね?」
「うん。JBCに毎年参加してたみたいだけど、予選を突破したことは一度もないんだってさ。だから気に入った」
「てっきり決勝までいったから気に入ったんだと思いました」
「自力で決勝までいける奴なんて、育てる必要ねえだろ。あいつは15歳でJBCに出場して予選突破まであと一歩のところまでいった。しかも今勢いのある穂岐山珈琲の連中を相手にしてだ。まだ18歳で、今年高校を卒業したばかりだ。それまでは帰宅してから店を務めていた。それを知ったクラスメイトからは大会に出場するなんて変だと言われても意に介さず、4年連続で出場し続けた。是非あいつを育ててみたくなった」
女として見ているわけじゃない。バリスタとして純粋に好きなのだ。
世間体を物ともしないあの気骨が好きなのだ。何より純粋にコーヒーを愛している。早い内から自由な活動をしていることからも、自由奔放な家庭の育ちであることが分かる。今年からバリスタオリンピック選考会とJCIGSC以外は、義務教育を卒業した時点から出場できるようになった。世界大会に出場するのは18歳以上であることが条件だったが、僕が意見して撤廃させた。
10代後半は半分大人みたいなものだし、世界を目指してもいいはずだ。他の競技も10代のオリンピック選手とかもたくさんいる。もう昔とは違う。バリスタもアスリートと同じ土俵に立つべきだ。
「知り合いの紹介で他のコーヒー会社に転職が決まっているなら育てたくても育てられないですねー」
「何でそんなに嬉しそうなんだよ?」
「あず君がすぐ浮気するからじゃないですか」
「浮気なんてしたことねえよ」
「いつも伊織ちゃんとデートしてるじゃないですか」
「仕事をデートって呼ぶのやめてくんない?」
「仕事だって実質デートみたいなものですよ。令和恐慌の影響で日本人客が少なくなっているせいか、伊織ちゃんと仲良く話す時間も長いですし」
「日本人客が少なくなった分、外国人客の割合が増えたけどな。しかも今までは、後進国と呼ばれていた連中がうちの味を求めて来るようになった。日本は不況でも、外国はインフレが進んでるし、最初に外国人を掴んでおいたのは正解だった」
葉月珈琲に国境はないのだ。主に好景気の国から多くの客が訪れることが多いため、客層を見ればどこの国が伸びているのかがすぐに分かる。最近は中国や東南アジアからの客が増えている。このままじゃ日本は追い抜かれるだろうな。もう先進国じゃない。リードしているからと踏ん反り返っていたら、いつの間にか追い抜かれてしまうことがよく分かる。なのに何の改革もしようとしない。千尋が村瀬グループを見限ったのは無理もない話だ。このまま国からも出て行ってしまいそうで恐ろしくなる。
「最初は消去法で選んでましたよね?」
「細かいことはいいんだ。それよりあいつがどこに行くかが気になる」
「それよりも、朝日奈珈琲に有終の美を飾らせたらどうですか?」
「……そういやそれが目的だったな」
「お気に入りのお店を存続させたい気持ちは分からなくもないですけど、それはあず君らしくないと思います。あれほど時代の変化に忠実だったのに、近所のお店だって潰れるべくして潰れたって、ラジオでも散々言ってたじゃないですか」
「それはそうだけど、ここまで潰れることを惜しんだ店も少ない。時代の変化は残酷だな」
「潰れたり衰退したりするということは、時代が望んでいないことの証かもしれませんね」
唯がしれっと冷めた声で言った。だが笑顔だ。僕はこれが怖い。唯の言い分にも一理ある。僕からすれば死者への弔いのようであまり気は進まないが、それがあの人への供養になるなら――。
朝日奈珈琲の先代の顔を思い出しながら、再び朝日奈珈琲へと赴いた。
桜子は健気にいらっしゃいませと声をかけた。カウンター席に座って周囲を見渡す。以前よりも客は増えているが数えるほどしかおらず、焼け石に水だった。僕とて万能じゃないことを思い知らされた。
「すまん。力になれなかった」
「いえいえ、先代も近い内に閉めて隠居すると言っていたので」
「あのさ、前々から気になってたんだけど、5年前の桜子って、まだ13歳だよね?」
「はい。まだ中2の時でした。先代が亡くなって、誰がここを継ぐかの話になったんですけど、誰も名乗りを上げなかったんです」
「固定資産税が高いからとか?」
「はい。それもあるんですけど、立地条件が悪い上に、バリスタオリンピック東京大会の影響で、ここのバリスタたちが、挙って名古屋に引っ越していったんです。あの頃から空前絶後のバリスタブームが始まって、大都市を中心にバリスタの需要が上がっていきました。バリスタの給料が上がったことは嬉しいんですけど、それができるのは、大勢の観光客が訪れる大都市ばかりで、地方のカフェからは人がいなくなっていきました。家族も潮時だと言って、ここを売ろうとしていたんです」
「そこを君が引き取ると言ったわけか」
「はい。先代の思い出が詰まったこのお店を売りたくなかったんです。うちの両親に私の後見人として引き取ってもらって、学業が終わったらお店を経営する日々でしたけど……どうにもなりませんでした」
バリスタブームは決して良いことばかりじゃなかった。
コーヒー業界の地位が上がった代償として、地方に残っているバリスタの内、生き残れなかったバリスタたちがここぞとばかりに、みんなして大都市へと引っ越してしまった。
大都市のカフェが増えたのは結構だが、みんな出稼ぎで引っ越してきた人ばかりだったのか。だがこの令和恐慌により、特に戦略もなく、勢いだけでできたようなカフェが次々と倒産し、失業したバリスタたちは再び職を追われた。無論、そいつらが地方に戻るはずもなく、都市部に人口を集中させる形となってしまった。何でみんな流行の後のことを考えないんだろうか。
アフターケアができない一般大衆の愚かさが露呈する形となってしまった。
「みんな一過性のブームに踊らされすぎだな」
「そうですね。結局、名古屋まで行った近所の人たちも帰ってきませんでした。ここの人口が減って、常連だったお客さんも来なくなって、出稼ぎをしている人たちは失業の嵐、皆さんはもっとあず君の本を読むべきだと思いました」
「読んでくれてたんだ」
「はい。うちの両親があず君の大ファンで、『飯を食えない大人』という本を読んでから、私への教育方針が変わったんです。私のやりたいことを頭ごなしに否定しなくなって、興味深い内容でした。あれで私もあず君のファンになりました。なのでここに来てくれた時は、内心驚いてたんです」
最初から知っていて一般客と同様の対応をしていたのか。
年齢の割に肝が据わっている。どこのカフェに行っても、最初はいちいちあず君だあず君だと言って話を遮断してくるが、彼女はそんな連中とは大違いだ。
スムーズに注文を済ませてくれる人の方が少ないから、有名人って本当に大変だな。こういう苦労があるから、子供たちには無理に成功してほしいとは思わない。成功することは、人よりも多くの責任を背負うことであると知った。自分がその器に値するかはまだ不明だ。
――ますます欲しくなった。
13歳から店の営業を始めて、15歳で大会出場とか、僕より早いじゃねえか。穂岐山社長も初めて僕を見た時、こんな気持ちになったんだろうか。ポテンシャルだったら、僕よりあるかもしれない。
「僕の本に人生を救われた人第1号だな」
「そうですね。私は1番上の長女ですけど、確かに私にばっかり過干渉でした。あのままだったら私は指示待ち人間になっていたかもしれません。飲食店に勤めるマスターがこんなことを言ったらお終いですけど、私、本当は対人関係苦手なんです。大の人見知りで」
「安心しろ。僕も対人関係は苦手だからさ」
「ふふっ、そんな気はしていました。将来の夢が誰にも邪魔されずのんびり生きることって、そんなことを自己紹介で言える人はなかなかいませんから。でもあず君が消去法で飲食店を選んだ理由がとても秀逸でした。営業部のような仕事はできないから、お客さんの方から来てくれる飲食店を選んだっていう文面を見て、私も働くなら飲食店だと思ったんです」
「もしかして『人生の攻略法』も読んだの?」
「はい。あず君の出版した本は全て読みました。どれも人生というものを考えさせられます。夢を叶えてトップに立った内容もあれば、やりたいことを言えずに悲惨な末路を辿る内容まであって、とても幅広いところが面白いと思いました。ちょっと学校や施設を批判しすぎなところもありましたけど、言っていることはおおよそ筋が通っていて、スッと頭に入ってきました」
読んでくれている人はちゃんといた。しかも子育てにまで影響を与えた。
桜子の早い内から活躍する人生も、ある意味では僕が誘導した結果だ。その気になればここまでできる人こそ多いが、子供にはまだ早いという固定観念がそれを邪魔している。
逸早く気づいた彼女はすぐに行動を始めた。故にそこらの高卒よりも生命力に溢れている。レールに一切頼らず、自らの手で人生を作り上げる者であれば、就活なんてしなくても、会社の方から雇いたくなるもので、何なら自分で仕事を作っていける。
そんな人間を育てていくべきと確信している。桜子はその成功例になるかもしれない。もう氷河期世代と同じ悲劇を繰り返したくないなら、景気とかレールとか、そんなもん関係なく生きていける教育方針に切り替えることだな。それができない内は貧困になっても文句は言えないと思え。
人生に攻略法はあっても正解はない。20代を迎えるまでの間に、自分で正解を作る能力を磨き上げる必要がある。現にレールを見限った人たちほど不況に強い。
自律できる人間を育てるシステムが……現代の日本には存在しない。
「それは良かった」
「もうレールってないんですね」
「レールなんてはなっからない。あるって思わされてるだけ。国民を騙して、集団就職させるための壮大なフィクションだ。みんなの目の前に用意されたレールは、目には映るが実際には存在しない幻だ。あるっていう思い込みのお陰で渡れていたけど、ある日幻想って気づかされた瞬間、真っ逆さまに落下する。身内の中に前例がいたお陰で、僕は幻想を渡る前に気づくことができた」
「ふふっ、私と同じですね。うちの親は氷河期世代で就職はできましたけど、リーマンショックで失業した後が大変でした。あず君の本を読んだ時、あと10年早く読んでいればって落胆してたんですよ」
「過去も未来もない。今があるだけだ」
「――そうですね」
桜子が言うには、12月のクリスマスを最後に店を閉めるらしい。
僕には密かな計画があった。まだみんなには内緒にしておこう。
最後に桜子がとっておきと称した裏メニューをご馳走してもらった。
見た目は普通のコーヒーっぽいけど、とても爽やかで優しい味だ。
「それは先代が作った最後のシグネチャーなんです。あず君がWBCで優勝した時から営業の合間に作っていたんです。何年もかけて開発された先代の形見なんです」
「こんなに美味いコーヒーを何でメニューにしなかったの?」
「食材が貴重なんです。国産ローヤルゼリーを丸ごと使って作るローヤルシロップを使うんです。もしこれをメニューにしたら、1杯5000円は取れると先代が言っていました。ですが1杯のコーヒーに5000円も出す人なんて――」
「いるぞ」
「えっ……」
桜子の目が点になった。何を言っているのか分からない様子だ。
せっかく良いものを持っているのに、それを活かさないのは勿体ない。
ここが僕との明確な違いだな。なるほど、ここは本来高級カフェを目指すべき場所だった。あと3年早ければ持ち直しただけに残念だ。うちみたいに世界中に固定客を作っておけば、多少の立地条件の悪さも乗り越えられただろうに。だが唯が言うには、ほとんどの人はここまで想像できないらしい。
「うちには1万円のシグネチャーがあるぞ。でもみんな喜んでそれを買う」
「それはコーヒーも高給だからですよね?」
「それもあるけど、うちはブランドを確立してる。中流層以上の人しか来ない店だから全然問題ない。でもここでやるのは厳しいよな」
「……はい」
「「はぁ~」」
僕も桜子もシンパシーを感じながら同時に肩を落とした。
帰宅してから再び唯と話した。唯を頼る機会が本当に増えた気がする。
僕が弱くなったからではなく、素直に人を頼れる強さを持ったからと唯は言った。こういう優しいところがあるから手放せないんだよなぁ~。もう唯なしでは生活が成り立たない。依存なんてしない方がいいとずっと思っていた。だが今気づいた。それは悪魔の洗脳のせいだと。むしろ依存先を増やしていくべきと感じた。独立とは依存先を増やすことだ。どこにも依存しないのは独立ではなく孤立である。
悪魔の洗脳は僕に対し、人に頼るなと言った。
極力人に頼らない人が立派だと思わされていた。それもあってか、僕が人を頼るのはいつだって最終手段だった。人に依存して頼るという選択が真っ先にできたのはある意味成長かもしれない。できないことは人に任せればいい。相談したい時はしてもいいんだ。
「なるほど、それは良い方法ですね」
「だろ。あいつも喜んでくれると思う」
「でも家族サービスがないのはどうかと思いますよ」
「家族サービスねぇ~。じゃあ今度カフェ巡りでも行くか」
「子供たちも連れていくんですか?」
「それもそうか。子供と一緒に行ける場所――そうだ、焼肉とかどう?」
「それいいですねー。じゃあ今夜いきましょー」
「焼肉? 私も行きたい」
話を聞いていた紫が言った。しかも近くで紫と遊んでいた雅も芋蔓式にやってくる。子供たちは何故か同じ場所に集まる習性がある。誰かが僕らの話を聞けば全員に情報が行き渡ってしまう。焼肉よりも来年度以降のことを考えたかったが、子供たちはお構いなしだ。自分のことしか考えないんじゃなく、自分のことを考えるので精一杯なだけだ。大人とは心の余裕が作り上げているものかもしれない。
この日の夜、僕らは挙って焼肉を食べに近くの焼肉店へと赴いた。
うちの近くにできたばかりで、全面真っ黒なデザインの店だ。如何にも高級感溢れるが、今は焼肉屋を中心とした店が増えた。去年の冬から令和恐慌と共に一時期猛威を振るった強いインフルエンザの影響なのか、焼肉店のように通気性に優れた店が大流行している。
通信販売の売り上げも上がり、多くの人が引き籠りにならざるを得なかった。相対的に他の店の売り上げは落ちている。葉月珈琲は例年よりも売り上げは向上したが飲食店全体の売り上げは落ちている。家から出ずに済む販売システムの売り上げが向上しているあたり、段々とリモートワークが浸透しているようだ。うちは既に家で学習できるシステムが整っている。
子供たちは読み書きを覚え始めている。みんなと一緒に入学してから学習しているようじゃ、他人と差別化を図れる人間にはなれないことを僕は知っている。子供たちに二の舞は踏ませない。
この日食べた焼肉はとんでもなく美味かった。家族って良いもんだな。
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