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社会不適合者が凄腕のバリスタになっていた件  作者: エスティ
第12章 グランドスラム編
290/500

290杯目「最後の晩餐」

 全く色の違うカラフルな花火が、大きな音を立てながら岐阜の空に咲いていく。


 僕にはあれがこの国に咲く、多様性溢れる人たちを象徴しているように思えた。


 物の多様性はあっさり受け入れる国なのに……何なら自分から多様な商品を作っていく国であるはずなのに……どうして人の多様性には不寛容なんだろうか。


 こればかりは僕にも度し難い。ここまでの道のりが道のりなだけに、他の人が見るよりもずっと綺麗に見える。まるで僕のグランドスラムを祝福してくれているようだ。しかし、まだ心のどこかに挑み続けたいと思う自分がいる。昔の僕ならもういいやと考えているところだろう。人生とは重荷を背負いながら遠くへ旅をするようなもので、僕は既に重荷を下ろせる立場にいる。だがここで重荷を下ろしてしまえば、厚顔無恥なワンマン社長になってしまいそうな気がした。


 僕が身を引き締めてここまでやってこれたのは、壮大な目標があったからだ。だが頂点に立ってからも人生は続いていくもので、シンデレラのように、幸せの絶頂で物語が終わってはくれないのだ。


 人間は簡単に堕落する。成功することは容易だが、成功し続けることは難しく過酷である。虎沢グループはそれを僕に教えてくれた。始める側ではあっても、終わらせる側にはなりたくない。


 30分後――。


「花火、凄く綺麗だったねー」

「うんうん。今年はちゃんと見れて良かったー」

「去年は見れなかったの?」

「花火の穴場に行ったら、丁度花火が上がる位置に新築のビルが建っていて邪魔になったり、穴場自体が立ち入り禁止になっていたり、4人共予定が合わなかったりで、なかなか見に行けなかったの」

「でも葉月珈琲に入ってからは、予定が噛み合うようになったもんねー」

「休んでも何も言われないのが、こんなに幸せなことだとは思わなかったなー」


 ――それ、前職がやばかったって自供してるようなもんだぞ。


 なるほど、こいつらがバリスタスクールに通っていた理由がようやく分かった。みんなうちで働きたかったんだ。うちが実力主義なのも知っていたようだし。葉月珈琲という企業にも存在意義はあった。過労死していたはずのみんなを救った。そう思えるだけでも起業した甲斐があったってもんだ。


 伊織が目をとろーんとさせながら顔を真紅に染め、フラフラと僕に歩み寄ってくる。


「あずくーん。もう逃がしませんよぉ~。つっかまーえたっ!」


 一息吐く暇もなく、彼女に抱きつかれた瞬間、酒の臭いと女の子のような花の香りが同時に鼻の奥を吹き抜けていく。伊織の童顔も相まって、何だかいけないことをしているみたいだ。


 大人の行動のはずなのに、この罪悪感は何だ?


「――何でそこまで飲むかなー」

「えへへー、飲んじゃいましたー」

「千尋、何でこんなべろんべろんに酔ってるわけ?」

「そんなの僕が聞きたいくらいだよ。花火が始まってから飲み始めたんだよ」

「伊織、何か辛いことでもあったのか?」

「別にないでーす。みんなの予選落ちでめげる私じゃないでーす」

「原因はそれか。青いね」


 千尋がボソッと呟いた。伊織には聞こえていないようだ。


 みんなの予選落ちなんて、今に始まったことじゃないのに、何故そこまで思い詰めるんだ?


 僕とて予選落ちをしたことがないかと言えばそうではない。色んなビデオゲーム大会に参加し、予選落ちの経験がある。だが思い詰めたことは一度としてなかった。一瞬残念だと思うだけで、残りの時間は全て練習に費やした。落ち込む暇さえなかった僕には予選落ちの辛さを引き摺る神経が分からない。


「ちーちゃん、そういう言い方ないと思うよ」


 軽く諭すように、明日香が千尋に向かって囁いた。


 生まれたばかりの子供を大事そうに抱えている。目元は明日香に、他は千尋によく似ている。素直で真っ直ぐな子供になりそうだ。奇しくもうちの祈、そして吉樹と美羽の2番目の子供と同じ月に生まれている。この3人が商店街とかで一緒に遊ぶようになるのかもな。


 昔は優子たちと本当によく遊んだ。どうやらあの思い出はもう古いらしい。


「だって1回穂岐山珈琲に圧倒されたくらいで酒に溺れるようじゃ、先が思いやられるよ」

「伊織ちゃんだって辛いんだから、それは分かってあげて」

「なあ伊織、後で事情を……あれっ」


 伊織はパイプ椅子に座っている僕の膝元に頭を置き、スヤスヤと熟睡を始めてしまった。この寝顔も凄く可愛い。ゆっくりと小さな体を持ち上げ、しばらくは別の椅子に移し、伊織の目の前にある机に俯せの状態でそっと寝かせた。伊織の体は案外軽く持ち上がった。


 僕の腕力が強くなったのか、それとも伊織の体重が軽いのか、真相は不明だ。


「あず君、どうしたの?」

「寝ちゃった」

「あーあ、こりゃ当分起きないかもね」

「明日香、伊織のことで何か知ってる?」

「あず君、一応僕の妻なんだけど」

「いいの。あず君は特別なんだから」

「それはそれで複雑なんだけど」


 千尋が不機嫌そうな顔で両腕を組みながらそっぽを向いた。


 何だ、千尋にも可愛いとこあるじゃん。そんな彼の意思を表すように、額の真上にあるアホ毛がいつもより余計に逆立っている。分かりやすいな。伊織もこれくらい分かりやすかったらいいのに。


「伊織ちゃん、決勝進出が発表された日に、うちに寄ってきたんです。とても悲しそうな顔で、自分まで負けて、あず君に嫌われたらどうしようって、心配そうにしていました」

「だからいつもより来るのが遅かったのか」

JBC(ジェイビーシー)で伊織ちゃん以外が全滅した今、みんな伊織ちゃんに期待してるからね。1年の間に複数の世界大会を制覇するって、あず君でもやったことがないし、次世代のあず君とまで言われてた。プレッシャーと必死に戦い続けていたみたいだけど、まだ伊織ちゃんには重すぎたかもね」

「期待なんて裏切るくらいが丁度良い。まあでも、予選の段階からレベルが上がったのは確かだ。たとえどっかで負けたとしても、伊織に落ち度はねえよ」

「あず君はレベルが上がる前に逃げ切ったもんね」

「後々グランドスラムを達成した奴に、葉月梓がいた創成期はレベルが低かった。今はプロバリスタだけが予選を通過するようになったけど、昔は遊び半分で参加してる人が決勝まで残っていたような時代だって言われると思うぞ。まあ別にいいけど」


 これ……どんな競技だろうと、創成期の覇者であれば必ず言われるんだよな。


 マイケルもきっと同じことを言われるに違いない。僕らの功績の価値は僕らだけが知っていればそれでいい。僕やマイケルを超えるバリスタが出てきたところで、むしろ本望である。


「そんな時はこう言い返すよ。君はあず君みたいに腕が痛くなるまで練習したかってね」

「あず君は環境とか関係ないと思いますよ。努力だと思ってやってる人は腕が痛くなるほど夢中になって取り組んでいる人にはまず勝てませんから。伊織ちゃんはまだ夢中になりきれてない感じがします。まずは純粋にコーヒーを楽しむことを優先した方がいいと思いますね」

「純粋にコーヒーを楽しむか――それもいいかもな」


 再び伊織の寝顔を見た。一定間隔で静かに呼吸をしながら熟睡している。


 さっきよりも少しばかり落ち着いたようだ。一体何が伊織をそこまで追い詰めたのか、その原因を探る必要があるな。ここは伊織の人生の分岐点になるかもしれない。


 何かをやりたい人が1万人いるなら、実際にやるのは100人、ずっと続けていくのは1人だ。


 伊織は十分にトップバリスタのレベルに達している。世間的に言えば成功者だ。ここでもう十分だと思うならそれでもいい。そのことをちゃんと伝えていなかったのは僕の落ち度だ。心のどこかで伊織に期待していたのかもしれない。感受性の強い伊織はそれを敏感に感じ取った。


 今まではそんなプレッシャーなんて、感じている素振りすら見せなかった。


 ますます伊織のことが分からなくなった。


「千尋、伊織からさりげなく事情を聞き出してくれないか?」

「それはあず君が聞いた方がいいと思うよ。それに僕はJBrC(ジェイブルク)決勝用のプレゼンを考えないといけないからさ。一度伊織ちゃんと2人きりになって、ちゃんと話してみたらどう?」

「2人きりか……今度早く来た時にでも聞くか」


 僕の心配を他所に、葉月商店街の花火大会は無事に終了した。


 眠ったままの伊織をおんぶしながら伊織の家まで運んだ。


 見た目通り軽いが、ちゃんと食べてるのか心配になってくる軽さだ。唯と子供たちと一緒に帰る予定だったが、伊織を送ろうと話す前に唯から伊織を送っていくよう言われた。しょうがないですねと言わんばかりの後姿からは自信が感じられた。こういう時に一緒にいてあげられないことを悔いながら夜空を眺めた。花火をやたらと打ち上げた影響で煙が漂っていたが、今はいつも通りの空へと戻っている。


「伊織、起きろ」


 伊織の家に着いたところで、彼女の小さい体を揺さ振った。


「――ん? ……あず君?」


 目を半開きにさせながら、ぼやけている目で僕を見つめている。


「伊織、今日は良い花火だったな」

「花火……ハッ! そうでした! 私、花火を見に来ていたんでした。えっ、でもどうして私とあず君が私の家にいるんですか!?」


 思いっきり頬を叩かれたかのように、シャキッと目を大きく見開き、意識を取り戻した。


「落ち着け。いいから降りてくれ」

「は……はい」


 まだ酔っている……でも、丁度良いタイミングでもある。いつでも家に戻れるし、人通りも少ないし、誰にも邪魔されない。思ったよりも早く事情が聞けそうだ。


 それよりも、夜風に当たりながら酔いを醒まさないとな。


 しばらくしてここまでの伊織の状態を説明する。


「私……酔ってたんですね。でも不思議です。酔ってる時のこと、全然覚えてないんです」

「熟睡してたからな。寝顔めっちゃ可愛かったぞ」

「わ、忘れてください!」


 伊織が必死の表情になると、また顔が赤くなった。


 最高に可愛い瞬間だ。思わずスマホで撮ってしまった。


「な、何で撮るんですか?」

「伊織、何で酔っぱらうまで飲んだわけ?」

「消してくださいよ」

「事情を全部話したら消そうかな。伊織は自分が下戸だってことをウィーンで思い知っただろ。なのに何であんなに飲んだわけ?」

「……葉月珈琲が好きなんです。私は次世代トップバリスタと言われるようになりましたけど、日に日に膨らんでいく期待に応えるのが段々怖くなってきて。予選の日も東京に行ったら当たり前のように私のファンがいたんです。今まではあんなことなかったのに」

「重圧に押し潰されたわけか」

「はい。動揺しちゃいました……駄目ですね……私って……去年までは私を応援してくれる人は本当に少なかったですけど、今は目に見える形で多くのファンに囲まれるようになりました。しかも私を見るために沖縄から来てくれた人までいて……それで期待に応えようとして、気がついたら体が硬くなっていて、思うように動けなかったんです。予選落ちしていても不思議じゃなかったです」

「なんか事情があるとは思ってたけど、それを聞いて安心した」

「何で安心するんですか?」

「本来の実力とは関係のない原因だって分かったからな」


 コーヒー豆の質は他に劣らなかった。伊織の考えたプレゼンも、内容は悪くなかった。


 つまり勝負を分けたのは本番力の差だ。今まで伊織にはほとんどファンがいなかったし、大した期待もされてこなかった。気楽に伸び伸びと競技ができていたのはそのためだ。


 話を深掘りしてみれば、僕がメジャー競技会に出場しないことを世間は知っていたようで、前々から一度制覇した大会には出ないことを明言しているし、僕のグランドスラム達成によって9月のコーヒーイベントの舞台に僕が立つことはないとファンたちは予見していた。そこで僕と同じ店に所属する愛弟子であり、かつて若手ナンバーワンバリスタと言われた僕の後釜としての役割をファンから期待されていたのだ。伊織の競技が終わってからしばらくすると、SNS上で伊織を批判する声が上がっていた。


 僕とて何度か炎上したことはある。だがその度に結果を出して世間を黙らせてきた。


 伊織はそれが無視できなかったばかりか、競技中に緊張を見せた部分にもつけ込まれた。


 さながらON砲の後を継いだ4番打者のようだ。僕の後釜というあまりにも重すぎる期待とプレッシャーが、伊織を精神的に追い詰めてしまっていた。


「これが私の実力ですよ……」

「伊織……ごめん。気づいてやれなくて」

「いえ、別に謝ることじゃないですよ。ちゃんと言えなかった私が悪いんです。葉月梓2世なんて言われましたけど、どう考えても名前負けしてますよね」


 伊織が顔を下に向け、苦笑いをしながら再び上を向いた。実力は確かだ。既に実績もあるが、それが彼女には抱えきれないほどの重圧になっていた。今は休めというコーヒーからの合図かもしれんな。


「葉月梓2世はうちの子供たちだ。伊織は伊織だ。何と言われようと自分の道を進め」

「私の道は……いつも先が見えないんです」

「先が見えるものを未来とは言わない。未知の世界が来るから未来って言うんだ。どんな状況だろうと進んでいくしかねえぞ。今後バリスタ競技者を続けるかどうかは自分で決めろ。もう十分だと思うならやめてもいい。他にやりたいことがあるんだったら尚更だ」

「私、昔っからやりたいことがなかったんです。コーヒーに夢中なのは本当ですけど、あくまでも趣味に留めていました。でもあず君に出会って、趣味を仕事にして稼げることを知りました。ただ、世界大会を制覇してからは、周りの目が変わったというか、バリスタ競技会で、いつもの自分とは全く違う自分を求められていることに気づいたんです。それで戸惑ってしまったというか、もっと上を目指さないといけないのかなって思うと、体が思うように動かなくて、センサリージャッジのコップに水を継ぎ足すことを忘れてしまいました。駄目ですね……私」

「今より上を目指そうとする姿勢は評価するけど、成長なんていつの間にかしているもので、それを実感するのはだいぶ後だ。地道に店の営業をするのが1番のトレーニングだ。難しく考えるな。欲しいものがあるなら真っ直ぐ取りにいけ。でも何も欲しくないなら、のんびり暮らすことだな」

「私、他の大会にも出ているんです」

「まだ諦めてないんだ」

「はい。一応JAC(ジャック)にも出てます。本当は参加を取り消そうと思っていたところでした。でもファンたちの応援でまたやる気が出てきたんです。今度は気楽にやります。大会の時は、いつも家でコーヒーを淹れている時と同じ感覚で淹れるんです。今年の私はそれができていませんでした。今日はありがとうございました。では私はこれで」


 伊織がクスッと笑いながら、玄関の扉まで近づいた時だった。


 彼女が扉に触れる前に扉が開くと、伊織の母親が迎えてくれた。


 僕らの話し声が聞こえたようだ。ジッと伊織の顔色を見ると、何も言わずに最後まで扉を開けた。


「おかえり。葉月社長もいらっしゃい」

「あー、えっと、僕は送ってきただけだから」

「まあまあ、そう言わずにどうぞどうぞ」


 誘う声に引き摺り込まれるように伊織の実家にお邪魔すると、靴を脱いで伊織の部屋へと上がった。


「伊織、なんか酒臭いけど、どうしたの?」

「えっと、花火で盛り上がっちゃって、飲み過ぎちゃった」

「もう! あれほど飲まないように言ったのに!」


 伊織が片手で頭を抱え、倒れるようにベッドの上に寝転ぶと、伊織の母親がお茶を持ってきて机の上に置いた。伊織の背中を心配そうに眺め、伊織の母親も座った。とても年上とは思えないほど若く見える。伊織が母親似であることは言うまでもない。その気持ちに甘え、しばらくは居座ることに。


 伊織は顔を後ろに向けながら、掛け布団の上に横たわっている。


「この子、昔っから期待に弱いんです。誰かに期待されちゃうと、それを敏感に感じ取ってしまうところがあって、期待に応えようとして、空回りすることがあるんですよ。だから結果発表の日、真っ先に私に泣きついてきたんです。もう葉月珈琲には行けないって。トップバリスタという立場になったら、幸せになれると思っていたんですが、どうもそうはいかないみたいで」


 この時、僕は感じ取ってしまった。今の僕と伊織の心境が似ていることを。


 頂点に立ったらそれで終わりじゃない。この手の悩みはみんな持っているんだ。


 やっと分かった。真理愛たちがバリスタ競技会を卒業していったのは、競争から逃れることで平穏な生活に戻るためだったんだ。毎年のように目標を定め、続けるだけの気力と体力が試される。それが競技者の人生なんだ。目標なんてなくてもいい。なのにみんな目標を作ろうとして、目標を達成しようとして挫折し、自ら苦しみを欲するかのような日々を過ごす。


 伊織を追い込んだのは、他でもない自分自身だった――。


 翌日、夏祭りで盛り上がった反動からか、みんな落ち着いた様子で出勤する。伊織の姿はなかった。伊織の母親から電話がかかってくると、伊織の二日酔いによる欠勤が告げられ、みんなに報告する。


「まっ、そういうわけで、伊織は今日休みだ」

「あー、そりゃそうだよねー。あれだけ飲んでたんだもの」

「何で止めなかったんだよ?」

「村瀬グループのお酒だったから」

「あのなー、もう購入したやつなんだから、飲んでも飲まなくても利益変わらねえだろ。ていうかあれ全部村瀬グループのかよ」

「ちゃっかりしてるね」

「えへへ、それほどでもぉ~」

「褒めてないんだけど」

「まあでも、伊織ちゃんがそこまで追い詰められてたなんて知らなかったなー。このままだとバリスタオリンピックに出るのは無理じゃないかなー」


 美羽が不穏な一言を放った。おいおい、縁起でもねえよ。


 酒が悪いわけじゃない。酒が人の本性を晒しただけだ。でもお陰で、伊織の本音がやっと分かった。


 伊織は今迷っている――いや、ずっと前から迷っていたんだ。バリスタ競技会を続けるかどうかで。


 今後も機会があれば参加する決心をした。今までと同様、壮大な暇潰しと思って楽しむつもりだ。


 伊織がどっちの判断を下しても、僕は甘んじてそれを受け入れよう。


「まっ、そうなったらそうなったで、僕が伊織ちゃんの代わりにバリスタオリンピックに出るから何の問題もないよ。出場するには他の大会の国内予選や世界大会で結果を残す必要があるけど、僕はWBC(ダブリュービーシー)優勝を決めているから、次の選考会の書類選考には受かると思うし」

「何か忘れてないか?」

「えっ、何のこと?」

「選考会に出られるのはたったの10人だ。しかもその頃には日本どころか世界でもプロ契約で結果を残している化け物揃いの選考会になる。全部門でそいつらを上回るくらいにならないとキツイぞ。そのためには、せめて僕を超えるくらいにならないとな」


 毛を逆立てて威嚇する猫のように千尋の全身に怖気が走った。


 千尋とて下手をすれば淘汰の対象だ。もっと今の仕事に気を入れなけりゃ、後から入ってくる連中に蹴り出されることを忘れてはならないと肝に銘じさせた。


 僕らは未来への期待と不安を背負い、夏の暑さを噛みしめるのだった。

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