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社会不適合者が凄腕のバリスタになっていた件  作者: エスティ
第12章 グランドスラム編
287/500

287杯目「創成期の終わり」

 メルボルンで食べたオージービーフの味は最高だった。


 もうそれくらいしか記憶がない。ずっと我慢してきた。味覚を使う競技もあるせいでアスリート以上に食べるものに気をつける必要がある。バリスタ競技会は目に見えない要素で勝負をする競技だ。


 それが分かっているかはどうかは本当に大きいと毎回痛感させられる。千尋は終始納得がいかない様子だった。せっかく優勝したのに、僕のグランドスラムと重なったことで陰に隠れてしまっているが、次世代トップバリスタのやる気に水を差すのもこれが最後だ。


 日本に帰国してからは、まるで世界が変わったかのように祝福を受けた。


 葉月商店街では僕らのために通路のど真ん中にレッドカーペットが敷かれ、その上を伊織たちと一緒に闊歩する。一度はここに飲みに来た人たちが、また僕を祝いに訪れてくれた。


 本当にここまで頑張ってくれた。僕は嬉しいぞ――。


「あずく~ん、こっち向いてー!」

「あず君、グランドスラムおめでとー!」


 黄色い声援が僕の耳に突き刺さる。親父が言うには、短いようで長いレッドカーペットは葉月商店街の経費で用意させたそうな。レッドカーペットは一定の距離毎に接ぎ木したような僅かな段差がある。


 うちの商店街って……こんなに長かったんだな。


「あず君はいいよね。ファンがいっぱいいて」

「千尋にだって、明日香という最強のファンにして最高の理解者がいるだろ。1億人のファンがいる人よりも1人の理解者がいる人の方が、ずっと幸せだと思うぞ」

「その意見には賛成だけど、両方共持ってるあず君が言うことじゃないよね」


 かつて岩畑が惰性で通っていた施設が途中で見えたが、真っ昼間だというのに、全く営業している様子もなく、窓越しに見える蛍光灯も消したままの状態だ。


 平日なのに休むなんて、まずあり得ないと違和感を持った。


「あれっ、確かあそこらへんに施設あったよね?」

「あー、あれならもう潰れたよ。風の噂で聞いたんだけどさ、みんな葉月珈琲塾に行くようになった影響で全然人が入ってこなくなって、施設を畳んで撤退することになったんだって。誰のお陰かな」

「ああいう施設はない方が健全だ。僕にはハッキリ分かる。生きる力のない連中や労働に向いていない連中をビジネスの道具にしてる。うちはコーヒーを通して生きる力を育めるし、最悪バリスタの道で生きていけるようにする人間教育システムがある。でもあいつらは、とりあえず就職させることしか頭にない。どれだけ顧客のことを考えているかが明暗を分けた。ざまあみろだ」


 施設の数が減ったということは、うちの周りで生きる力のない人間が減った証でもある。


 葉月珈琲塾には、かつて岩畑がいた施設の元訓練性も集まっている。


 うちは特に年齢制限はない。成功は保証できないが成長は保証できる。


 しかもやりたいことを邪魔する人もいない。そんな開放的な場所でこそ、人が最も成長することを僕は知っている。うちは必ず就職しなくてもいい分気が楽だ。


「あず君は色んな相手に復讐を遂げているね」

「相手が勝手に潰れてるだけだ」

「その潰れるきっかけを作ったのはあず君だよね?」

「手伝った部分があるのは認める。でもこれでいいんだ。あいつらには良い薬だ。それにバリスタが増えてくれれば、競争力は更に上がっていく」

「訓練生だった連中はどうすんの?」

「そのまんまでいいだろ。ニートを続けられるんだったらそれでもいいし、就職なり起業なりできるようになったらそれでもいい。いつになったら働くのかっていう期待は相手にも伝わるし、余計プレッシャーになって動きにくくなるから、期待しないくらいが丁度良いんだ。何かしら行動に移してくれたらとてもラッキーって考えないと」

「放任主義を心得てるね」


 どうせ大人になったら好きなことしかやらなくなる。


 だが多くの子供はレールへと引き摺り込まれてしまう。好きなことばかりしていたら駄目になるという言葉があるが、嫌なことばかりしていた方が駄目になる。家から出ることもできず、働くでもない学ぶでもない、そんな状況に追いやったのは親と学校であるという事実を人々が知るのは時間の問題だ。たとえ知ったとしても、自分たちが悪いとは断固として認めないだろうが、証拠ならいくらでもある。


 真の敵は内側に存在することを、決して忘れてはならない。


 未来への抱負を考えながら、僕は20代最後の思い出を勝利で飾った。


 6月がやってくる。誕生日の朝を迎えた。


 もう30歳(みそじ)か。見た目は15歳くらいだ。丁度外見年齢の倍になった。今でも女子中学生と間違われることがあるが、それにもすっかり慣れてしまった。これが大人になることなんだろうか。生活にゆとりが生まれ、数々の世界大会を制したことで、心に余裕が持てるようになっていた。


 経験こそが最大の栄養源なのかもしれない。


 誕生日だろうと、平日の朝であることに変わりはないのだ。20代だった時の僕がいなくなったというだけで、世の中は相も変わらず、何事もなかったかのように時間が流れていく。


 今になってようやく気づいた。僕は20代の内にグランドスラムを達成し、同時にプロバリスタが充実してきたところだ。時代を区分するには丁度良い時期である。


 あのコーヒーイベントをもって葉月珈琲及びバリスタ競技会創成期は終わった。恐らくこれも後世のバリスタたちが更新していくだろう。バリスタのレベルは昔とは比べ物にならないほど上がっている。店の営業の片手間に参加するのが当たり前だった。いずれはアスリートのように大会がメインになり、店の営業をやらず、競技の練習にだけ時間を費やす者も現れるはずだ。


 そんな話を千尋としていたが、千尋の予想は僕の斜め上だった。100年後の僕はバリスタ競技会のベーブ・ルースとして後世のバリスタに語り継がれていると千尋は言った。流石にそこまでは考えてなかった。近い将来しか考えない僕にとって、千尋の想像は新鮮以外の何ものでもなかった。


 競技人口を増やすことに貢献した社会不適合者という意味では、結構似ているかもしれない。


 外からは鳥の囀りが聞こえ、窓の外からは日光がベッドにまで差し込んだ。


 起き上がった唯が僕の上に伸し掛かってくる――。


「あず君、誕生日おめでとうございます」

「ありがとう。でも20歳(はたち)以降の誕生日なんて、嬉しくも何ともない」

「みんなからプレゼントを貰えるじゃないですか」

「僕ぐらいになると、プレゼントがダブったり、いらないものまで送りつけられたりする。ずっと前からは身内以外からのプレゼントは受け付けないってみんなに伝えてる。それに誕生日っていうのは死に一歩近づいた日でもあるから、ちっともめでたくない」

「あず君は現実主義なのか理想主義なのか、時々分からなくなる時があります」

「人間なんてみんな現実主義と理想主義の複合タイプだ。矛盾の象徴と言ってもいい。でも今まで言ってきたことは全部僕の意見にすぎない。誕生日というのは1年を無事に生き延びてこれたことを祝うためのものなんだしさ、大々的に祝うのは20歳(はたち)まででいいと思うぞ」

「分かりました。でもケーキくらいは作らせてください。子供たちもいるんですから」

「しょうがねえな」

「しょうがないんです」


 唯が僕に顔を近づけ、濃厚に口づけを交わした。


 パジャマから豊満な胸の谷間が見えている。着替えてからリビングに向かうと、柚子が既に朝食の準備をし始めていた。起きるのが本当に早い。そんなことを考えていると、瑞浪が朝食の支度を始めた。


 柚子は僕の性格をよく知っているのか、いつもと同じ様子で僕と接してくれていた。流石は血を分けた親戚だ。瑞浪も僕の誕生日を知っていたが、あえて触れずにいてくれている。何なら上の子が下の子の面倒を見ているくらいだし、ハウスキーパーの役割が段々と薄くなってしまった。


 早い内からできることを増やしていき、自分の面倒くらいは自分で見られるようにする。それが飯を食える大人にするための第一歩だ。璃子もここを去った。残るは柚子と瑞浪だけだが、柚子はここを離れる気はないようだ。上の子が成長してきたこともあり、瑞浪は今年限りでうちを卒業させる予定だ。


 みんなで朝食を食べている時だった。唯は生まれたばかりの祈に母乳を飲ませ、紫、雅は自分の手で食器を持ち、お子様ランチを口に頬張り、巻には僕が飯を食べさせている。


「ねえ、柚子さんはここから独立しないの?」

「瑞浪さん、それは言わない約束」

「ふふっ、ごめんごめん。ちょっと気になっちゃって」

「……もし出ていく時が来たら、それは自分のお店を開く時かな」

「仲人バリスタを目指すって言ってたけど、具体的にはどうするの?」

「表向きはオシャレなカフェなんだけど、店内に結婚相談所を設けるの。それで結婚に悩んでいる人たちの相談に乗って、成婚退会した後は常連として根付いてもらう。もちろんスタッフとかは、全員結婚相談所とか、婚活イベント会社の経験者で統一するの。まだ構想中だけど、これなら片方がうまくいかなくても、もう片方で持ち直したりできるでしょ」

「それ素敵。でもどうやって思いついたの?」


 ウキウキしながら話を聞く瑞浪。もうすっかり友達気分だな。


 柚子もすっかり受け入れちゃってるし、これは今日の仕事開始まで止まらないぞ。


「あず君からヒントを得たの。昼間はバリスタやってて、夜は動画投稿者やってるでしょ。これからは複数の仕事を兼業するのが当たり前になってくると思ったの。最初は昼間にバリスタをやって、夜は結婚相談所をやろうと思ったんだけど、情報を集めている内に、結婚相談所に来る人は昼間にやってくることが分かったから、どうせなら一緒にやろうって話になったの」

「ねえねえ、もし良かったらなんだけど、私を雇ってくれないかな?」

「瑞浪さんを?」

「うん。私は今年でハウスキーパーの仕事が終わっちゃうんだけど、この契約が満了したら、もうクビだって会社に言われたの」

「えっ……どうして?」


 思わず絶句する柚子。瑞浪は深刻な事情を抱えていたようだ。


「私、もう40歳なの。しかも契約社員だし、いつ首が飛んでもおかしくない状態でね、そろそろ婚活を始めようと思った矢先にクビになっちゃうの。これじゃ婚活もまともにできない。そこで柚子さんにお願いなんだけど、私を雇ってほしいの。私は結婚する以外には、特にやりたいことがないの。どこにも転職する予定はないし、柚子さんとなら安心して仕事ができると思って」


 おいおい、40歳で婚活はちょっと遅すぎないか?


 でも柚子が起業する際に雇うなら、知り合い以上の相手が好ましい。


 この2人は相性も良いみたいだから丁度良い。僕としてはハウスキーパー契約を延長しても一向に構わないが、いつまでも居候だと、動きにくくなるような気がした。


 一筋の懸念だけが僕の背中を押した。


「そんなことがあったんだ。ねえあず君、契約って延長できないの?」

「無茶言うな。これ以上長く居続けたら、子供たちが瑞浪に馴染みすぎちゃう。今まではずっとやりたいことを優先してたから、育児をやる暇なんてなかったけど、今はもう手が空いてるし、仕事をしながら子供の面倒を見れるし、上の子2人には、パソコンとスマホとタブレットの使い方を教えていくし、下の子2人は唯が面倒を見るから、これで分業できるってわけだ」

「瑞浪さんはどうなるの?」

「どうしても心配なら柚子が雇ってやればいい。この5年間でどれくらい給料やったと思ってんだ?」

「確かに起業するには十分だけど、本当にいいの?」

「構わん。やりたいことがあるなら、できる時にやっとけ。結婚相談所を兼ねたカフェか。完全独立する場合は1年だけ毎月助成金が出る。傘下独立の場合はずっと援助する代わりに、ロイヤリティが発生するけど、どっちがいい?」

「じゃあ、葉月珈琲の傘下かな。何だかんだ言っても、初めてだから心配だし」

「初めてじゃねえだろ。遣り繰りする経験は前にもあった。柚子ならきっと大丈夫だ。自分を信じて、やれるところまでやってみろ。責任は僕が取る」


 柚子が小さく笑みを浮かべた。柚子が独立するとなれば、実家に戻るか1人暮らしになると思うが、一体どんな方針で進めるのか、それは柚子の自由である。


「ねえ、柚子さんいなくなっちゃうの?」

「そんなことねえよ。紫ちゃんたちが大きくなるまで定期的に来るから」

「ずっとここにいたら結婚できねえぞ」

「別にいいの。結婚はもう諦めたから。私は結婚するよりも、誰かを結婚に導く方が向いてるって気づいちゃったし、大輔と優太の相手を見つけるきっかけも、あの岐阜コンだったわけだし、あず君言ってたでしょ。どこにも希望がないということは、自分が希望になって誰かを照らすことだって。私はまさにそういう立場だって気づいたの」

「その岐阜コンだけどさ、来年からできるってよ」

「来年からできるって……どうゆうこと?」

「葉月商店街で来年から4月と8月と12月に、商店街主催で岐阜コンを復活させる方針が決まった。その際柚子を岐阜コン実行委員会の委員長に推してるけど、どうかな?」


 僕の思いがけない言葉に、柚子は思わず食事の手を止めた。


 新生物を発見したような目で、僕の顔をジッと眺めた。


「それ……本当なの?」

「本当だ。今年はもう予定が詰まってるからできないけど、来年だったらできる。柚子が岐阜コンで大勢のカップルを成立させた功績が認められて、柚子が経営していた楠木マリッジに代わって、岐阜コンを定期的に行うことが決まった」

「今の岐阜市には、昨今のバリスタブームでたくさんの人が集まってきますから、きっと良い婚活イベントになると思いますよ」

「それなら喜んでやるけど、婚活嫌いのあず君にしては珍しいね」

「みんなが見ていたのは僕や千尋だけじゃない。ちゃんと柚子の活躍も見てたんだ。それで誰かが柚子の望みを叶えたいって思ったんだろうな」


 柚子は左手で自分の口を隠し、内から込み上げてくる感情を抑えようとする。


「仲人バリスタに岐阜コンの実行委員長までやるとなると、もう競技会には出られないかも」

「競技会にも納得するまでずっと出ればいいじゃん。JCTC(ジェイクトック)だったら、仕事の合間に練習できるし、参加者があれだけ多いのは準備が比較的楽だからっていうのもある。今は何かのために別の何かを諦める必要なんてない。全部やればいい」

「……うん。私、やってみる」


 食事を済ませた柚子が立ち上がると、キッチンに自分が食べた分の皿を置いた。


 1階まで下りると、葉月珈琲の開店準備を始めてしまった。


「あず君もたまには良いことするんですね」

「宣伝のためだ。ずっと商店街の会長やってんのに放置してたし、これくらいしかできることがないって思ってさ、僕は婚活嫌いだから、運営でも参加することはないけどさ、商店街主催だったら、柚子が遣り繰りする必要はなくなるだろ」

「むしろ最初からそうすればよかったって顔してますね」

「あの時の柚子は行動力はあったけど、人からお金や労働力を引っ張り出す力はなかった。昔僕が日本製の牛乳を世界大会の開催地まで穂岐山珈琲に持ってこさせたように、人を頼って目的を達成すればよかったんだ。もし僕が婚活したいって思ったら、真っ先に商店街に頼って、婚活イベントを開催してもらえるだろうと思ったし、人が集まるようになったこのタイミングで親父に提案したら見事に通った」


 柚子には葉月商店街に就職してもらう形で独立させるつもりだったけど、既に自分の人生を設計していたとはな。でもうちから出ていくつもりはないらしい。


 朝食を済ませた僕らは、1階に戻ってから開店の準備をしていた。皿の補充をしようと、オープンキッチンからクローズキッチンへと移動する時だった。


 クローズキッチンの中から瑞浪の声が聞こえてくる。


「ねえ、さっきのことだけど、本当はあず君以上の相手がいないって、確信したからじゃないの?」

「……何の話?」

「柚子さんが結婚を諦めたっていう話。柚子さんは理想が高すぎるんだと思うよ」

「あず君のことはとっくに諦めてるよ。もう相手もいるし」

「嘘吐くの下手だね」

「……仮にそうだとして、どうすればいいっていうの?」

「新しい相手を見つければいいんじゃないの。そうすれば呪縛から解放されるかもよ」

「私にそんな相手がいればね」

「柚子さんは素敵だと思った人を他の人に譲ってしまうところがあるでしょ。それは柚子さんが優しいからだと思うけど、優しいだけじゃ、幸せは掴めないよ。一緒に婚活イベントに行った時、自分とつき合うくらいなら、他の人とつき合った方が幸せになれるかもしれないって顔が言ってた。でも私はね、柚子さんのような人にこそ、幸せになってほしいの」

「……ありがとう。でも良い人を私が取っちゃったら、お客さんはカップル成立どころじゃないと思う」


 何かを懸念するように柚子が言った。


 本当に良い人だからこそ、良い相手を他の人に譲っちゃうわけだ。柚子だけに。


 どんな形であれ、幸せになってほしい。そう思わせてくれる人間性を柚子は持っている。それがあんな無茶な経営方針に表れるところが如何にも柚子らしい。


 しばらくすると、瑞浪が何食わぬ顔で2階へと戻っていき、入れ替わるように伊織が店に入った。


「はぁ~」

「どうかしたんですか?」

「いや、ちょっと人に気を使いすぎた」

「ええっ!? あず君が誰かに気を使うなんて、熱でもあるんじゃないですか!?」

「酷いなー、僕だって人に気を使ってた時期ぐらいあるんだけど」


 何ならPTSDだって世間に気を使いすぎた結果だし。


「柚子さん、独立するらしいよ」

「えっ……柚子さん。それ本当なんですか?」

「本当だけど、今すぐにじゃないよ。一応来年から」

「そんな……柚子さんに教えてもらいたいことが、まだたくさんあるのに」

「この家からは当分出ないし、時々は遊びに行くし、仕事が終わったらいつでも会えるよ」

「良かったぁ~」


 ホッと胸を撫で下ろす伊織。こういうところも可愛い。


「伊織、これからこういう別れが何度も訪れることになる。今の内に慣れとけ。葉月珈琲はただのカフェじゃなくなった。来年にはここにいるスタッフの半数が入れ替わる」

「次に来る人は、もう決まってるんですか?」

「ああ、もう決まってる。美羽が手配してくれた」

「皮肉なもんだねー。自分の後釜を決めるための人事をやることになるなんて」

「誰が皮肉って?」

「ひいっ!」


 千尋の後ろから忍者のように音もなく這い寄る美羽。


「あたしはね、自分にできる仕事を精一杯こなしているだけなの。でも安心して。伊織ちゃんとも千尋君とも馴染めそうな人にしてるから」

「そいつは良い奴か?」

「温厚かという意味で言えば、良い人とは言い難いかなー」

「ならよかった。良い奴はいらない。それじゃ続かない」

「昔だったら、唯ちゃんみたいに言われたことを忠実にこなして、接客も卒なくこなせる人が良かったと思うけど、今は新しいコーヒーを作れるバリスタが必要な時代だから、どんどん需要が高まるにつれてハードルが上がってるんだよねー。探すの大変だったなー」

「でもこうして歴史の生き証人にもなれたし、僕は満足してるよ。新しい部署にはおじさんたちもいるわけだし、もう身内というだけじゃ、ここにはいられないんだよね?」

「……そうだな」


 実績の持ち主でなければ葉月珈琲には上がれない。オープニングスタッフ以降、みんなそうなっていくだろう。柚子も美羽も吉樹も中継ぎで入った身内だ。


 今後はやる気も実力もある連中だけで埋め尽くされる。


 うちとて来年からは競争の渦中に放り込まれるのだ。この僕でさえも。

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