254杯目「信念と方針の摩擦」
――大会1日目――
明け方の薄暗い町の中を2台のタクシーが移動する。
この日からは大会期間中であるため、ウィーンの街中は厳戒態勢である。
まずは真理愛たちを無事に送り届けるのが責務だ。ウィーンの町は朝から賑やかで、会場が近づくほど人の数が多くなっていく。前回こそかなりの緊張があったが、今回はコーチであるためそこまで気負いする必要はない。むしろ心配なのは真理愛だ。さっきから僕の左隣で、憂鬱そうに下を向いている。彼女との立場は前回と逆だ。僕の右隣では、伊織の目線が外の建物に食いついている。
「チームって、確か競技の後でボールのくじ引きをするんですよね?」
「ああ。競技は1日20人で、段ボール箱に入っている5色のボールが1色につき4つ。今日戦う20人の内、3人は真理愛と同じチームになるってことだ」
「その3人が上位勢であるほど、ワイルドカードが難しくなるってことですね」
「前回は文字通りチームメイトだったけど、今回からはチームで1番スコアの高い人を争うライバルになるからな。チーム戦とは何だったのかって話だよ」
「チーム分けというよりブロック分けですね」
「一応チーム戦要素もあるぞ。平均スコアの1番高かったチームの人の内、準決勝進出の資格を持っている人は、スコアの高い順に準決勝での自分の競技順を指定できる」
「競技の順番指定の権利ですか。そこまで大きな恩恵とは思えませんけど」
「そうでもないですよ。順番の指定ができるということは、自分のコンディションの良い時間帯を狙って準備ができるということです。だったら予選から高いスコアを狙うに越したことはないですね」
俄然やる気の表情を見せる真理愛だが、彼女の競技は明日である。
今日は開会式への参加と同時に根本の競技を見にきた。あいつには何の期待もないが、昨日の言葉が嘘でないことは信じたい。この競技会における最大の敵は自分自身だ。1時間という他の競技会の4倍もの長い時間を戦い抜き、他者との差別化を図った上で勝たなくてならない。
人と違うことをするのは容易い。だがそれで人に認められるのは難しい。
午前6時、様々な演出と共に開会式が始まった。
後ろのタクシーに乗っていた千尋とも合流し、ディアナとアリスはそれぞれの代表のサポーターたちに合流する。この2人は国内予選1位通過だし、あの大旗を持つことになるんだろう。
当然だが、余程の事情がない限り全員が参加しなくてはならないため、この日の参加者にとっては過酷な日である。前回参加者の僕に言わせれば、予選は2日目から4日目、特に3日目の昼から競技を行う者が精神的に1番楽である。1日目は開会式の後も起きていないといけないのが辛い。そのため午後から競技を行う者は午前中に一度眠っておく必要がある。何より体調を整える作業が最も難しいのだ。
5日目は翌日に準決勝が迫っているため、競技者は準決勝進出を前提とした練習や準備が要求されるわけだが、ほとんどのバリスタはその努力も空しく散ってしまう。いくら準決勝以降に素晴らしい競技ができる人であっても、予選落ちしてしまっては何の意味もないのだ。もっとも、優勝できるような人はどの順番になろうと、コンディションをきっちり整えて本番に臨む調整能力を持っている。
競技の順番がランダムとはいえ、まだ克服できる範疇だろう。開会式では根本が日本国旗の大旗を持って先頭に立つと、僕らと共に会場の外に姿を現した。葉月珈琲と穂岐山珈琲の関係者ということで、伊織と千尋も入場に混ざった。僕と伊織が開会式に参加したのは2回目、松野に至っては3回目だ。
2020年までの過去20年間を代表するバリスタとして思うところはある。
今大会は間違いなく、コーヒー業界にとっては時代の区切りになるからだ。
僕も伊織も日本の小さな国旗を振りながら会場内を1周している。
「前回は東京でアットホームでしたけど、今回は完全にアウェーですね」
「だろ。前回で優勝しておいて本当に良かった」
「開催国以外の人はこのプレッシャーの中で戦っていたんですね」
「伊織はこの状況で戦い抜く覚悟はあるか?」
「今はないです……でも次の大会までには、本当の意味で参加資格のあるバリスタになってみせますよ。ドキドキするこの緊張以上に、ワクワクの方が大きいですから」
この感触、前回大会の僕と同じだ。本当にコーヒーが好きなんだな。競技を見ること以上に参加することの方を重視しているあたり、彼女も表立って戦いたいんだろうと思った。今から4年も待ちきれないと言わんばかりに体がうずうずしている。勢い余ってそのまま飛び入り参加しそうだ。
開会式が終わり、バリスタたちが解散すると、僕らは会場の控え室へと退散する。
「ふぅ、やっと終わった」
「根本さんの競技って、何番目なんですか?」
「僕は3番目ですから、もうすぐ準備時間ですね。全く、朝から本当に忙しいです」
「根本君、穂岐山珈琲の代表として初めての準決勝進出、期待しているよ」
「は、はい……任せてください」
「今回は穂岐山珈琲育成部全員が頑張って作ったレシピだ。これならきっといけるよ」
「……そうですね」
根本はやや気持ちが沈んでいる。ただ起きたばかりで眠いからではないことを僕は知っている。
後には退けないし、こいつは他の人のアイデアが詰まった食材ではなく、あくまでも彼自身が使う競技用のコーヒーしか持ってきていないんだとか。
プレゼンで使うものが決まっている以上、もう裏切る覚悟はできたわけだ。
午前9時、今大会最初の競技が始まり、会場の各ブースは熱狂の渦に包まれている。
会場内にある5つのブースで、一度に5人のバリスタが競技を始めるため、3番目の競技者である根本の競技も間もなく始まる頃だ。根本のサポーターである育成部の仲間たちは準備をし始めた。
しかし、1人のサポーターが食材に違和感を持った。
「ねえ、根本君、この食材ってさ、リストの中になかったよね?」
「えっと、それも使うことになったんだよ」
「確かあんたが提案してた食材でしょ……もしかして1人で戦うつもり?」
「……」
このだんまりを見たサポーターはあの沙織だった。
沙織は育成部の中でも根本に匹敵するほどのバリスタだ。根本の仲間であり、ライバルでもある彼女は選考会では3位で、惜しくもバリスタオリンピックへの出場権を逃している。
せめて自分のアイデアで応援したかった彼女からすれば、これは裏切り以外の何ものでもないのだ。
「ふーん、そういうことか。皆さーん、根本君が1人で準備をするつもりみたいなので、もう手伝わなくてもいいですよー」
「えっ、何でだよ?」
「根本君は自分のアイデアだけで勝負するみたいなんですー。私たちが一生懸命考えて採用になったアイデアを使わないんですってー」
「おいおい、嘘だろ?」
「根本、お前本気で言ってんのか?」
「……申し訳ありませんが、ここは僕のアイデアで勝負させてください。今ここにあるのは、僕がずっと考え抜いたコーヒーと食材だけです」
根本が決死の覚悟でそう言い切った時、周囲のサポーターたちは一気に冷めた顔になる。
彼に背を向け、ステージから降りていく――。
「じゃあ勝手にしろよ」
「裏切り者」
「私たちのこと、信じられないんだ」
「……」
違う、そうじゃない。根本は自分を信じ抜く覚悟をしただけだ。
まだステージの設置を終えていないにもかかわらず、サポーターたちが一斉にステージから退場したことで、根本のブースにどよめきがざわざわと走っている。仕方なく1人で作業を始めるものの、これでは到底間に合うはずもなく、準備時間だけが過ぎていく。
伊織たちも違和感を持ち始めた。
「根本さんのサポーター、みんな帰っちゃいましたよ」
「無理もねえよ。伊織、千尋、手伝いに行ってやれ」
「はい、分かりました」
「ちぇっ、また馬鹿の尻拭いか」
「そう言ってやるな」
千尋が愚痴をこぼした理由は他でもない。自身のアイデアだけで勝負してきた彼にとって、穂岐山珈琲のやり方は理解できないのだ。それを裏切りと受け取ったことをあの光景から読み取ってしまった。
高IQの人間からしたら、何て馬鹿なことをしているんだとしか思えないだろうが、生憎これが今の世の中だ。あの光景は今の日本社会の縮図だ。子供みたいな大人の多い感情論主体の国では、きっと毎日のようにあんなことがどこかで起こっているんだろう。論理的思考よりも感情論を優先する人が多数派である限り、より合理的な判断をした者が馬鹿を見ることになるのだ。
まあでも、背中を押した責任くらいは取らせてもらうか。
僕、伊織、千尋は根本のステージへと急いだ。
「根本さん手伝いますよ」
「葉月さんに本巣さん、それに村瀬君まで」
「やれやれ、頭の悪い人たちを同僚に持つと大変だね」
「もしかして、これが狙いだったんですか?」
「君の決断の結果だ。君は何も間違ってない。だからここは助ける。もし君が失格になったら、それこそ会社をクビになりかねないだろ」
正しい選択と納得のいく結果が同じであるとは限らない。だが決断を悔いのないものとするためにはそれなりのケアがあってしかるべきだ。報われるかどうかは個人の責任だが、正しい努力をすれば報われるかどうかの段階にまで導けるかどうかは社会の責任である。
ブースの奥では穂岐山社長がサポーターたちから事情を聞き、ようやく根本の信念を知る。
穂岐山社長は複雑そうな顔で根本を見つめている。下手をすれば後で怒られかねないな。
「まあとにかくだ、今は目の前の競技に全力で集中しろ」
「……あなたには感謝しています。今までの研究の成果を見せる条件を整えてくれたんですから。そこでしっかりと見ていてください」
「ああ、見届けてやるよ」
こんなところで才能を潰すようじゃ、穂岐山珈琲もここまでだ。どうにかスポンサー不在の危機を乗り越えたようだが、変化を恐れている内は本当の意味での育成も改革もできないままだ。あいつもそれなりに才能はある。居場所さえ間違えなければ開花するはず。
準備時間が尽きるギリギリのところで、どうにかステージの設置が終わった。
まるでアイランドキッチンのようなステージにセンサリージャッジを座らせると、司会者からの準備確認を終え、ようやく彼の競技が始まった。
1時間のプレゼンであるため、常に喋り続けることはない。
「ふぅ~、テーブルの設置が大変だったよぉ~」
「サポーターって結構きついんですね。でもどうして穂岐山珈琲のサポーターたちが、みんなして仕事をサボったんですか?」
「馬鹿だからだ」
「そんな言い方しなくても」
「気にするな。大抵の人間は馬鹿だ」
雑に今までの事情を説明する。僕の解説がなくとも、それなりに事情を把握しているようだ。千尋も穂岐山珈琲の事情はそれなりに知っているようだった。伊織はこの舞台で仲間割れをしているようでは結果を残すのは難しいと、穂岐山珈琲の対応を遠回しに批判していたが、まさにその通りだ。この舞台は個人戦とは名ばかりのチーム戦だ。僕とて仲間がいなかったらどうなっていたことか。
彼らは自分の同僚を勝たせる気がないのだろうか。
出る杭は打たれると言うが、組織の方針に沿わない個人が出てきた時に、それを受け入れられるかどうかは非常に大きい。恐らく歴代の穂岐山珈琲の代表は、この問題に苦しんできたのではなかろうか。
今、店舗拡大を続けるうちにとって、美羽はなくてはならない存在となっている。
他のコーヒー会社に埋もれている者たちを美羽が次々とうちに転職させる現象が発生しており、今では過半数を占める店舗に穂岐山珈琲出身のバリスタがいる。元々は大手にいただけあってまともに仕事ができるし、基本がしっかりしている人たちばかりだ。
元から中の上くらいの才能や知識を持ったバリスタを最の上へと昇華させることにおいては葉月珈琲の得意分野であり、下の下から中の上まで育て上げることにおいては、社内教育がしっかりしている穂岐山珈琲が勝っているため、這い上がってきた者たちの中で埋もれている逸材を美羽が見出し、転職させてからうちで育てる図式が、いつの間にか出来上がっていたわけだ。
今のうちにとって、美羽は事実上の人事部長だ。
社内の人材育成は見習うべきところがある。基本を教え込めるのは立派な長所である。だがうちは元から精鋭揃いであるためか、基本はできて当たり前というスタンスだ。
「あず君、もしかして君の仕業か?」
観客席にいた僕の隣に穂岐山社長が座り、半ば呆れ顔で僕に尋ねた。
「あいつが自分で選んだ道だ」
「今回こそはと思っていたんだけどね」
「穂岐山社長はさ、穂岐山珈琲の作品で優勝したいのか、それとも穂岐山珈琲のバリスタに優勝してほしいのか、どっちなの?」
「そりゃどっちもだよ。うちの作品をうちのバリスタが使って優勝するのが1番良いに決まってる」
「僕は葉月珈琲のバリスタに優勝してほしいとは思っても、葉月珈琲の作品で優勝してほしいと思ったことなんか一度もないぞ」
「自分のコーヒー農園を持っているのに、それで優勝してほしくないのかな?」
「うちの農園のコーヒーは、あくまでも世界中の客に飲んでもらうための商品であって、競技用のコーヒーとして使うかどうかは個人の自由だ」
穂岐山社長に持論を説いた。コーヒー会社はあくまでもコーヒー業界を発展させるための媒体でしかない。そのために最も必要なのは人材育成だ。会社が開発したもので優勝しても、それは会社の勝利であって、そこに個人としての勝利の喜びはない。バリスタ競技会は個人戦であれチーム戦であれ、会社ではなく、あくまでもバリスタのための競技会であるべきだ。人を重視しない業界に成長はないぜ。
「俺の考えは古いのかもしれんな」
「あんたは間違ってない。ただ、あいつには合わなかった。みんなのアイデアを結集して大会に臨む姿勢は大事だけど、最終的にどうするかは出場する本人が決めるべきだ。本人が納得する形じゃないと、本当の意味で熱意を注ごうとは思わない。会社にできることは、出場する本人を信じ抜くことだけだ」
「音楽性ならぬ、コーヒー性の違いってやつかな」
「コーヒー性の違いで争いになるほど業界は発展しちゃいない。あいつの処遇はどうするわけ?」
「――それは後で決める。俺も会社の代表として、今は彼を信じることにしよう」
穂岐山社長が作り笑顔で言うと、その目でまた競技中の根本を見つめた。
自分で決めることの大切さをようやく知ったようだった。肝心の根本はどうかと言えば、選考会の時よりもずっと生き生きとした表情でジャッジをも魅了し、流れるような競技を披露していた。
「コロンビアの農園で栽培されているこのユーゲノイデスは、今注目されているアラビカ種の祖先とも呼べるコーヒーであり、ユーゲノイデス種とカネフォーラ種との交配で生まれたのがアラビカ種と言われています。まず豆の時点で香りが凄いのですが、それはこのサンプルの香りを嗅いでいただければ、お分かりいただけると思います。豆の状態が一番甘く、お菓子のような香りです。粉にするとコーヒー感が出ますが、それでも香りが素晴らしく甘いのが特徴です」
ユーゲノイデスか。僕も何度か飲んだことがあるけど、昔のあれはそんなに甘みも酸味もあったもんじゃなかった。でもそれをこの大舞台で出すってことは、かなり美味しくなっていると思い、昨日彼のコーヒーを試飲させてもらったが、本当に洗練されたコーヒーだった。極めて強い甘みがあり、酸味苦味はあまり感じなかった。ゲイシャやシドラだけじゃない。他の品種も進歩しているんだ。
「ペーパードリップでの抽出ですが、1口目はあまりにアラビカ種のコーヒーと形が違いすぎて、違和感があったくらいです。サラッとして厚みはなく水平的。形が普通のコーヒー的ではないものの、多くのコーヒーが少なからず垂直的な味の広がりを見せるので、凄くユニークなのです。とても不思議で、初めての感覚でした。酸はかなり弱い方ですが、余りある甘味をお楽しみいただけます」
プレゼンをしながら、ユーゲノイデス主体のコーヒーを次々とセンサリージャッジに提供し、それぞれのコーヒーの魅力を語りながら競技が進んでいく。
「ジンジャーブレッド、シュトレン、スイートスパイス、クッキー、オレンジ、ジャスミンといったフレーバーの豊かさも、このコーヒーの魅力です」
僕がこれらのフレーバーを言い当てた時は目が点になっていたな。
本当にお菓子を飲んでいるような味わいだった。良いところに目をつけたな。
「太平洋が近いために特徴的な空気となっているのです。太平洋側からは乾いた空気が、アンデス山脈側からは湿った空気が流れてきており、ユニークなマイクロクライメットを有しています。それに加えて標高約2000メートルもある、極めて高い標高に位置しており、コーヒーノキはゆっくりと成長します。また温度が低いため、多くの糖をコーヒーノキが蓄え、極めて甘く複雑なカッププロファイルをもたらします。高い標高はエネルギーの無駄を減らしたり、病気を心配する時間も少なくなり、コーヒーノキが美しいチェリーを実らせることに、より専念できるのです」
彼はとてもリスキーだが新しい品種を使うことにした。しかも病気への耐性が高いとされるアラビカ種ではない品種だ。そしてコーヒーノキを十分な間隔を空けて植えることで、自然に大きく成長して収穫が安定している。更にアカシア、レモングラス、グアバの木を植え、そこから窒素を生産し、コーヒーノキの栄養となっている。これがとても高いレベルの糖をもたらす。
そのコーヒー農園では朝に収穫する。朝はコーヒーチェリーが最も糖分を高く保持しているためだ。センサリージャッジにコーヒーを提供する度に丁寧にプレゼンを重ねていき、これで4つの部門を終わらせた。最後はラテアート部門だが、どのバリスタも最後にこの部門を持ってくる人ばかりだった。
どうやら前回大会のファイナリスト全員が残り時間に余裕を持たせた状態で最後にラテアート部門を持ってきていたことから、他のバリスタたちもこれが最適解であると学習したようだ。
「この牛乳によってユーゲノイデスの甘味が引き立ち、濃厚なスイートスパイスのフレーバーが更に高まります。プリーズエンジョイ。タイム」
時間ギリギリに競技を終え、根本はホッと胸を撫で下ろした。
最後のラテアートはフリーポアでは勇者を、デザインカプチーノでは魔王を描いた。まるで権力構造に挑戦する自分と旧態依然とした穂岐山珈琲の対立構造のように思えた。
根本がいるブースからは、拍手と声援が喝采していた。
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