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社会不適合者が凄腕のバリスタになっていた件  作者: エスティ
第10章 バリスタコーチ編
250/500

250杯目「それぞれの明暗」

 ――コーヒーイベント3日目――


 いよいよバリスタ競技会の最終日だ。


 JCTC(ジェイクトック)準決勝と決勝、JCIGSC(ジェイシグス)JLAC(ジェイラック)決勝が行われるが、基本的に同時進行であり、全員の競技を同時に見ることはできない。だが今大会で僕が目玉と考えているJCTC(ジェイクトック)準決勝から見ようと足を運んだ。


 12人中4人が身内だ。根本も参加している。


「初めまして。葉月バリスタですよね?」


 横から声が聞こえたため、その方向を向いてみる。


 1人の可愛らしい女性が、エプロン姿で観客席のそばに立っていた。


「そうだけど、君は誰?」

石原沙織(いしはらさおり)です。沙織って呼んでください」


 気さくに笑いながら自己紹介をしてくれた。


 肩に届くくらいの黒髪、小さめの背丈、控えめの胸、大きな目が特徴だ。黄土色のエプロンを着ていることからも、JCTC(ジェイクトック)の参加者であることが分かる。


 僕に挨拶をしてくる人は多いけど、彼女からは僕と同じものを感じた。


「沙織もこの大会に出てるの?」

「はい。普段は穂岐山珈琲育成部で働いてます」

「育成部ってことは、根本と一緒か」

「はい。他にも何人か参加してるんですけど、紹介しておきますね」

「あれっ、あず君じゃん」

「えっ、もしかして細江?」


 話しかけてきたのは元同級生の細江だった。


 その後ろには川地、脇原、末守がいた。末守だけエプロン姿ってことはこいつもか。


「久しぶり。葬式の時以来か」

「そうだな。無事に就職できたようで何より」

「知り合いなんですか?」

「僕の元同級生だ」

「あぁ~、そうなんですね~」

「俺たち、最初は穂岐山バリスタスクールにいたんだけどさー、穂岐山珈琲が社員を募集してたから全員で応募したんだよ。そしたら全員合格してさー、今は全員、穂岐山珈琲名古屋支店にいる」


 全員まさかの合格かよ。Fラン大学出身でも雇わないといけないくらいに、経営状況が逼迫していたものと思われる。穂岐山珈琲はあれから多くの店舗を撤退させ、全国各地の大都市に限定してカフェを出店する方針に切り替えた話を思い出した。バリスタスクールは来年で潰れるって言ってたし、吉樹と美羽が育てた最後の生徒になるかもしれないとも言っていた。


「穂岐山バリスタスクールって、経営ピンチじゃなかったっけ?」

「あー、それなんだけどー、来年まで延びることになったんだってさ」

「えっ、来年まで延びるの?」

「何でも、また入学希望者が入ってきたんだってさ。それで楠木さんの方針で、もう1年だけ続けることになったんだってよ」

「マジかよ。せっかく転職先を用意したってのに」

「楠木さんのことなら心配ないよ。確か葉月珈琲の仕事と兼任するって言ってたから」


 全然大丈夫じゃねえよ。この件については一度話し合っておく必要があるな。


 穂岐山珈琲育成部はその名を全国に広め、プロ契約を結んだ者全員が育成部に所属している。大企業は動くのが遅いけど、一度動き始めたら本当に強いな。今まで何の取り柄もなかった連中を、国内予選決勝に進出させるほどにまで成長させるとは、やはり基礎の育成力は穂岐山珈琲の方が上だな。みんな穂岐山珈琲とプロ契約を結んで、色んなバリスタ競技会に参加し、一定の結果を残しているんだとか。


 川地はJBC(ジェイビーシー)を始めとしたシグネチャー方面の大会に、脇原はJLAC(ジェイラック)を始めとしたラテアートの大会に、末守はカッピングの大会やロースターの大会に、細江はJBrC(ジェイブルク)を始めとした機械動力を伴わない抽出器具の大会に度々出場している。


 プロ契約を結んでおけば、大会期間中は練習や準備に集中できる。


 やり方は至って自由であるため、個人の意思や創造性が反映されやすいのだ。


「じゃあ俺、そろそろ行ってくるわ」


 末守がJCTC(ジェイクトック)の準決勝へと出場するべく去っていった。


 彼はコーヒーを淹れるよりも、コーヒーの風味特性を見極める方が得意と見た。


「レッツ――」

「「「「「カッピング!」」」」」


 JCTC(ジェイクトック)の準決勝が始まった。12人の中から4人1組で試合が組まれ、最初の1組目には優子、沙織の2人が顔を連ねた。全員がエプロン姿で右手にスプーン、左手に吐き出し用の紙コップを持ち、全神経を味覚のみに集中している。観客は彼らの競技を静かに見守っている。見ているだけでも伝わってくる集中力の圧が話しかけるなと無言で呼びかけ、観客たちの口を閉ざしている。


 全員のカッピングが終わると、今度は2組目が一斉に登場する。コーヒーも全て入れ替えられ、再び参加者たちの前にたくさんのドリップコーヒーが入ったコーヒーカップの山が登場する。柚子、レオ、末守の3人が戦闘態勢に入った。何だか100メートル走でも見ているみたいで全然飽きない。


「レッツ――」

「「「「「カッピング!」」」」」


 2組目の競技が始まった。さっきと同様に全員が一斉にドリップコーヒーをスプーンですくい、仲間外れとなるコーヒーを探し始めた。この2組目終了と共に準決勝が終わるわけだが、決勝に進出できるのはたったの4人であるため、この7人の内、3人は必ず落ちることになる。


 試合開始まで沙織と話していたが、彼女も根本と同様、穂岐山珈琲の次世代トップバリスタの1人であると見込まれるだけの実力を持っている。沙織は僕より8歳年下で、根本の後輩にあたる。きっかけは根本と同様、僕に憧れてバリスタを目指しているんだとか。元パティシエ志望であり、コーヒーと他の食材との相性にも詳しい変わり種だ。2組目が終わると、すぐに3組目の4人が現れる。その中には根本とエマの2人がお互いに目を合わせないまま、スプーンと紙コップを剣と盾のように持ち構えた。


「レッツ――」

「「「「「カッピング!」」」」」


 さっきとは打って変わり、時間をかける者が後を絶たない。他の人が終わらないのを見て正解数を取りに行くのもありっちゃありだが、余裕がある時は最速全問正解を狙うべきだ。


 3組目が終わり、すぐ結果発表が行われた。優子と柚子は全問正解で、タイムは3分を切っていた。優子は8種類の問題を解くのに2分32秒もかかってしまい、柚子は2分35秒かかった。僅かな差で優子が1位通過を決めたが、どちらが決勝を制してもおかしくはない。


 結局、優子、柚子、根本、エマが決勝進出を決めた。


 ファイナリスト4人中、3人が葉月珈琲勢であることもあり、根本は肩身が狭い様子だ。


「ふぅ、まさか決勝までいけるなんて思ってなかったよぉ」


 エマが弱腰の声で花の香りがする短髪を押しつけ、僕の胸に顔を埋めてくる。


 リサたち4人の中では最高の成果を狙える絶好のチャンス。レオは前回大会で決勝まで進出し、4位という結果に終わっている。エマにとって初めての決勝だ。緊張で顔が強張っているのも無理はない。今にもプレッシャーに押し潰されそうなくらいだが、葉月珈琲勢なんだからしっかり頼むぜ。


「あーあ、決勝いけなかったなぁ」


 レオは項垂れながら、丸くボサボサなショートヘアーの頭を僕の肩に預けてくる。


 こいつら、人懐っこいところだけは昔と変わってないな。


 そんなことを考えながら、僕は2人の頭を撫で、揃ってほっこりと笑みを浮かべていた。


「また来年があるだろ」

「来年は無理だよぉ。投稿部のチャンネルが人気になるにつれて、クオリティも求められるようになってきたし、それに来年からは大輔と優太がバリスタ競技会出るって言うから、人材不足になっちゃう」

「投稿部だったら、リサとルイに任せればいいだろ」

「その2人は、今葉月珈琲にいるんだよ」

「別にいいじゃん。時々は動画投稿なんて忘れて、好きなことをやればいい。うちはただ仕事をこなせばいいってもんじゃねえぞ。最終的にうちで働いてる人全員が幸せになれたらいいんだからさ、来年も出たい人だけ出ればいいんだ」

「もっと気楽に考えてもいいってこと?」

「そゆこと。人生は死ぬまでの暇潰しだ。難しく考えるな」


 この言葉で気が解れたのか、エマは握り拳を解き、さっきまでの過度な緊張は綺麗さっぱりなくなっている。いつものような天真爛漫な笑顔を取り戻した。部署を問わず、みんな気軽にバリスタ競技会に参加してほしい。何てったって、うちは世界で初めてバリスタのプロ契約制度を始めた企業だ。


「エマだけいいなー。あず君に可愛がってもらって」

「お兄ちゃんも決勝までいったら、可愛がってもらえるよ」

「じゃあ来年は決勝までいけるよう頑張るよ」

「大輔と優太も一緒に参加するわけか。更に競争が激しくなるな」

「お姉ちゃんたちまでやる気になりそうだね。あたしは嬉しいけど」


 エマが嬉しそうに言いながら太陽のような満面の笑みを浮かべた。可愛い。妹に欲しい。


「レッツ――」

「「「「「カッピング!」」」」」


 しばらくしてJCTC(ジェイクトック)の決勝が始まった。


 伊織と千尋の2人は既にフリーになったが、穂岐山社長がこの日開く予定の祝勝会に招待されたことで居座っている。2人とも立派なトップバリスタになってくれた。


 優子も柚子もいつになく真剣だ。根本もエマもファイナリストという重圧と戦いながら、ドリップコーヒーの味を確かめ、所々1杯目と2杯目をカッピングしてからすぐに3杯目を置いている。これは僕と同じやり方だが、今では多くのバリスタに浸透している。無論、これは1杯目と2杯目が全く同じ風味であると確信できる場合に限るし、迂闊に選べば不正解のリスクが伴うため、スピード負けしている相手に頂上決戦の場でやるべきだが、今がその時であることを4人とも分かっている。


「全員のカッピングが終了しました。では1つずつカップを持ち上げていただく形で審査を行います」


 今回は優子が最も時間がかかった。正解数が同じならそこで敗退だ。


 6杯目まで全員正解だった。だが7問目でエマが外した。


 彼女は1人だけ外れという状況に、思わず赤面しながら両手で顔を隠した。


 運命の8問目のカップが確認された――。


 正解ならグッドサイン、不正解ならバッドサインだ。グッドサインは優子のみであり、柚子、根本、エマはバッドサインだった。遂に決着がついたようだ。


「ジャパンカップテイスターズチャンピオンシップの栄えある優勝は……株式会社葉月珈琲、葉月珈琲岐阜市本店、柳瀬優子バリスタです。おめでとうございます!」


 優子が涼しい顔で両手を上げた後でお辞儀し、観客席からの歓声と拍手に応えた。


 優子は終始冷静だった。決勝はより見分けのつきにくい組み合わせであるため、より高度な味覚が要求される。瞬間的にそれを見抜いた彼女は時間をかけ、あくまでも全問正解に拘り、最後の最後まで競技を続けたのだ。この戦術的勝利はスピード至上主義とされるこの競技に一石を投じる結果となった。


 優勝インタビューと記念撮影を終え、優子たちが僕のいる観客席へと歩いてくる。


「優子さん、優勝おめでとうございます」

「ありがとう、伊織ちゃん」

「やっと祝勝会で祝ってもらう側になれたな」

「ふふっ、そうだね」

「あの、優子さんがJCTC(ジェイクトック)に参加した理由って何ですか?」

「あたしも味覚や嗅覚には自信があったからかな。それにバリスタ競技会からは今度こそ引退するって決めたの。あず君のお店でやり残したこともなくなったし、最後はバリスタでいたかったのかも」

「それはいいけど、世界大会にはちゃんと出ろよな」

「分かってるよぉ~」


 プレートに黄金のスプーンが張りつけられた優勝トロフィーを持っている優子とは対照的に、柚子は酷く落ち込みながら下を向き、僕の下にゆっくりと歩み寄ってくる。


 優子の優勝を祝福しながらも心底ではこれで終わったと思っている。世界に挑めるのは国内予選チャンピオンのみの大会が多い中、柚子はあえてその条件でチャレンジを続けてきた。


 しかも柚子にとっては、またしても自身を苦しめた準優勝という結果だ。


「あず君……」


 涙声で言いながら柚子が泣きついてくる。


 僕は柚子の小さい頭をそっと優しく受け止め、泣き止むまでずっと撫でた。


 頑張り抜いた末に感じる本気の悔しさ――柚子の成長の証だった。


 これで葉月珈琲のスタッフ6人全員が、バリスタ競技会の国内予選チャンピオン経験者という異例の精鋭揃いとなった。僕にとって身近な人ばかりが優勝を決めているが、これには大きな要因がある。


 正午を迎える前に競技が終わると、続いて俊樹と美月がいるブースへと赴いた。


 JCIGSC(ジェイシグス)JLAC(ジェイラック)も半数以上の参加者が競技を終えた。


 後は2人共結果発表を待つだけであった。


「あっ、おせーぞ」

「あー、悪い悪い。JCTC(ジェイクトック)を見ていたら遅れちゃった」

「そっちはどうだったんだよ?」

「優子が優勝した」

「これで伊織ちゃんと千尋君と優子さんの3人が優勝か。やっぱ葉月珈琲は強いな」

「僕は別の店だけどね」

「一緒にいるようなもんだろ。プロ契約の期間中はずっとあず君の店にいたってことは、実質葉月珈琲で働いてるようなもんじゃねえか」


 俊樹は何やら苛立っている。まるでストレスをぶつけるように。


 そのピリピリした表情には余裕がなかった。


 見に行ってやれなかったのは残念に思うが、僕の体は1つしかない。後で運営側のチャンネルに動画として投稿されるだろうが、それを見たところで、納得はしなさそうだ。


「もしかして、真理愛に聞いた?」

「ああ、そうだな」

「僕が実質葉月珈琲で働いていて、それが何の問題なわけ?」

「別にそこは問題じゃねえよ。ただ……あず君の店にいたら……大会で優勝しやすいっていう事実を指摘しただけだ。明らかな格差だろ」

「じゃああず君があんたのコーチになったら優勝できると?」

「絶対とは言わねえけど、確率は上がるだろうな」

「じゃあ一度、あず君にコーチしてもらえばいいじゃん。ねっ?」

「何でそうなるんだよ?」

「……もういい」


 魂が抜けきったような声で俊樹がそう言うと、ポケットに両手を突っ込んだまま、逃げるように離れていった。僕は彼の段々と小さくなる後姿を見ながら、何故怒っているのかが気になった。


「あいつ、あず君にコーチしてもらったら優勝すると思ってるんだ。誰がコーチをしたところで、結局は参加するバリスタの技量次第で結果が決まるってのに」

「それもそうだけど、今まであいつにコーチがいなかったのも事実だ。コーヒーカクテルを誰かのサポートなしで開発するのは至難の業だ。バリスタであればバーテンダー、バーテンダーであればバリスタのサポートを受けて開発するケースがあるわけだし」

「島塚さんが優勝したら、世界大会でコーチするの?」

「俊樹が優勝したら考える」


 千尋のお陰で、あいつが何を考えているのかが分かった。


 コーチが欲しいんだ。だが協力者が周囲にいなかった。


 僕は伊織に千尋のサポーターで忙しかったし、真理愛はバリスタオリンピックの準備で忙しい。どうしても1人で開発をせざるを得ない状況だ。そんな状況で大会に参加しようとした理由が分からない。


 夕刻、JCIGSC(ジェイシグス)JLAC(ジェイラック)の結果発表が行われた――。


 俊樹はJCIGSC(ジェイシグス)6位となり、ファイナリストの中では最下位。美月はJLAC(ジェイラック)3位となり、2人の秋は終わった。美月は表情には出さなかったが、俊樹はすっかり冷めきったまま、無力にも他の参加者がトロフィーを受け取る光景を見守ることしかできなかった。


 コーヒーイベントの全日程が終了し、ようやく全てのバリスタが解放された。穂岐山社長に誘われ、育成部の連中や、コーヒーイベントで優勝した人たちや関係者たちと共に穂岐山珈琲のオフィスビルへと向かった。途中でコーヒーイベントへと来ていた吉樹と美羽とも合流した。


 全員がエレベーターから出ると、それに気づいた祝勝会の担当がすぐに料理をバイキング形式で並べ始めた。伊織たちは他のバリスタたちと交流しており、特に沙織と仲良しそうに話していた。


 トングを使い、ハンバーグやウインナーを掴んでプレートに乗せた。


 隣で全く違う料理をトングで取っていた俊樹の姿が目に入った。


「俊樹、さっきから何でそんなに苛立ってるわけ?」

「……あず君は気づいてないみたいだけど、明らかにあず君と一緒に働いた人とか、あず君がコーチを務めた人ばかりが結果を残してるだろ」

「コーチが欲しいなら言えばいいのに」

「できればあず君にコーチをやってほしい」

「来年もJCIGSC(ジェイシグス)に出るわけ?」

「コーチがいるんだったらな」

「じゃあやらない」

「何でだよっ!?」


 俊樹が僕にツッコミを入れるように言った。正直に言えば、俊樹の目的が全く分からない。


 そのことが僕の中に一筋の不信感を生んだ。まずは探りを入れてみるか。


「来年だったら真理愛がフリーになってるはずだから、真理愛に頼んだらどう?」

「真理愛は新しい店舗の経営で忙しくなるだろ」

「1つ聞くけどさ、俊樹は何のためにコーヒーカクテルを究めたいわけ?」


 俊樹の真向かいの席に着き、トングで取った料理を食べながら尋ねた。俊樹は不機嫌そうにしながら僕と真向かいのテーブル席にのっそりと腰かけた。


「さっきアーカイブで俊樹の競技を見たけど、全然競技に身が入ってなかった。何の目的もなしに受験をやらされてる子供みたいだ。俊樹はコーヒーが好きか?」

「当たり前だろ。楽しい時も辛い時も、コーヒーに何度も救われた」

「僕がバリスタ競技会に参加する時、僕はいつだって確かな目的を持っていたぞ。昔は独立を守りながら店を宣伝をするため、今はコーヒー業界の発展のために参加してる。もちろん競技の時は、ジャッジと観客を楽しませることに尽力してたけど」

「――俺さ、何でここに来てるのかが分からねえんだよ」


 何かを思い詰めている様子の俊樹が、ようやく重い口を開いた。聞けば彼は何のためにバリスタをしているのかは説明できても、何のためにバリスタ競技会に参加しているのかが分からなくなっていた。


 かつてはJHDC(ジェイハドック)を制覇するほどだったし、JBrC(ジェイブルク)でも決勝進出を決めてファイナリストになった実力者だ。


 ただ、何のためにどんな競技会に出ればいいのかが分からないのだ。


 俊樹は明らかに真理愛の背中を追っていた。真理愛を追ったところで彼女のようになれるわけではないし、年を追う毎に目標がもやもやとぶれていき、まるで蜃気楼のように目標が消えていったという。


 目標もないのに何かを学んでも、その知識はゴミでしかない。


 脳は目的もなく覚えたことを無駄と判断して忘れてしまう便利な機能がある。連立方程式とか、雄蕊や雌蕊の役割とか、そういったものを知ったところで役立つわけじゃないし、そこそこ良い大学を出たような奴が簡単な日常単語の意味も分からない事態になってしまうわけだ。俊樹はまさにその状態だ。手加減せずに言うなら、そんな奴にバリスタの仕事をしてほしくないと思っている。今はバイトでもこなせる仕事とされているが、いずれは寿司職人のような資格なき専門職になっていくのだろうか。


「俺はどうすればいいのか、あれから全然分からないままだ。なんかもう生活のための仕事になっちまってるけど、元々そういう奴ばかりの仕事だからな」

「俊樹、来年から真理愛の店への異動を命じる」

「えっ!?」


 そんな軽い気持ちで、バリスタの仕事をしてほしくないっつってんだろ。


 俊樹の表情は固まっていた。夫婦揃って仲良く店をやってほしいわけじゃない。真理愛のそばで彼女がどんな思いでバリスタとバーテンダーの狭間で悩みながら生きてきたのかを直に感じてもらう。それでも真理愛から何も汲み取れないようなら、競技会にはもう来るな。


 バリスタになるだけだったら、家でのんびりコーヒーを淹れるだけでいい。


 わざわざ大変な思いまでして、それを仕事にする理由は何だ?


 俊樹には哲学が欠けていると感じた。

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読んでいただきありがとうございます。

石原沙織(CV:平野綾)

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