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社会不適合者が凄腕のバリスタになっていた件  作者: エスティ
第10章 バリスタコーチ編
249/500

249杯目「不名誉の瀬戸際で」

 千尋は競技の後でインタビューを受け、残りは結果発表のみとなった。


 やるべきことを全て終えた千尋は喋りすぎで口が渇き、額から出ていた汗をハンカチで拭く姿が女性の観客を中心に人気となっていた。杉山親子は千尋の結果を受け止めるべく、ずっと観客席を陣取ったまま彼を見つめている。不正ジャッジを行うタイミングは過ぎている。


 つまり不正が行われていた場合、完全に手遅れだ。


「後は結果発表だけですね」


 すぐそばにまで杉山親子が来ていた。どうやら彼らは間近で結果発表を見るようだ。


 クソッ! 無念だ! 何でこういう時に力になってやれないんだ。不正ジャッジがあれば優勝も絶望的だし、取引相手が杉山グループとの関連も証明できねえし、無力な自分が情けない。


 しばらくして結果発表が行われた。


 この時には夕方を迎えていた。ジャパンスペシャルティコーヒー協会の会長が挨拶する。その後でジャッジ全員の挨拶があり、それからファイナリストとなったバリスタ6人が横1列に入場を果たした。


「さて、この中から優勝が決まるわけですが、順位の低い順に発表していきたいと思います」


 司会者の女性が高い声でマイクに向かって喋りかけた。


 この言葉と共に会場内には緊張が走り、観客席にいない人たちもこの場面が映っているモニターに釘づけとなっている。また1人、また1人と名前が発表されていく。既に3人の名前が発表された。千尋の名前はまだ言われていない。杉山社長はまだ冷静だが、杉山に限っては心底心配そうな顰めっ面を隠しきれていない。むしろ千尋の名前が発表されないことを願っているようだ。


 第3位が発表された。またしても千尋の名前は発表されず、これで2年連続の準優勝以上が確定したあたりから、杉山社長の表情に焦りが生まれた。


 そして――。


「では優勝から発表したいと思います。今回のジャパンバリスタチャンピオンシップ優勝は……」


 全員が名前の発表を固唾を飲んで見守っている。


「村瀬千尋バリスタです!」


 千尋の名前が呼ばれた瞬間、僕は優子と柚子と一緒に抱き合いながら喜んだ。千尋も満面の笑みで両腕を天に掲げながらガッツポーズを決めている。


 続いて準優勝者が発表されるが、僕らにとってはどうでもいいことだった。


 杉山社長は慌てふためきながら怒り狂った様子だ。


 千尋はタンパーが土台に乗った優勝トロフィーを持ち、司会者の誘導でステージのど真ん中に用意されたマイクの前まで力強い闊歩を見せた。まさに勝者の立ち振る舞いだ。


「……今回は優勝することができて本当に嬉しいです。2年前は5位で、去年は2位でした。しかも驚くべきことに、JBC(ジェイビーシー)は3年連続でファイナリストが全員同じで、これはリベンジを果たす最後のチャンスだと思いました。3回も同じ相手に……負けるわけにはいかない。どんなに苦しくなろうとも、全力で立ち向かっていく気持ちを忘れずに、今回はその一心で挑みました。今日負けるのは僕にとって大きな汚点を残すことと同じですから……最高に気持ち良いですね」


 会場からドッと笑いの渦が込み上げた。対照的に笑えない人もいるが。


 千尋もまた、世間からの脱却を目指し、逃げるように葉月珈琲へと舞い込んできた。


 大きな汚点……彼にとってはただ負けることではなく、組織のために夢破れることだ。優勝以外は道がない今日の彼にとって、この勝利は組織のために個人を犠牲にする風潮に一石を投じるものだった。


 千尋の目は死んじゃいなかった。


 しっかりとジャッジをしてくれた人たちにも感謝が尽きないと改めて思った。


 結果発表が終わり、最後の記念撮影まで終了した。優勝トロフィーを持ちながら中央に設けられた席に座る千尋の姿は、ここにいる誰よりも輝いていた。


「さあ約束だ。婚約は勘違いだったと発表してもらおうか」

「ふふふふふっ! はて、何のことかな。この大会は千尋君にとって結婚前の最後の晴れ舞台だ。ありえないよ。絶対に優勝するはずなんてなかったんだ。これは不正ジャッジだ。みんなが千尋君を贔屓にしていた。そんな形での優勝など、認められるはずがないだろう」

「往生際が悪いぞ。千尋は優勝を果たした。あいつに足りなかったのは勝利への執念だ。あんたがそれに火をつけた。それほどあんたから離れたかったってことだ」

「私は村瀬グループの株を持っている。これを一斉に売却すればどうなるか分かるかな?」

「なら売却すりゃいいじゃん」

「潰れるぞ。それでもいいのか?」

「何なら株価を見てみろよ」

「株価だと……!」


 慌てて杉山社長が自分のスマホで村瀬グループの株価を見ると、グラフは驚異の右肩下がりを記録しており、彼が持っている株は紙屑同然となっていた。


 わなわなと震えるその手からは、野望が零れ落ちていた。


「……どういうことだ?」

「実は僕、今日村瀬グループの株を全部売っちゃったんだよね」


 千尋が嬉しそうな顔で言った。株を売れば株価そのものが下がるのは常識だ。


 そのタイミングで杉山社長が村瀬グループの筆頭株主になったところで、千尋に言わせれば、何も怖くはない。株を手放すことは、会社を手放すことに等しいのだ。千尋が失うものはなくなった。


 計算が崩れ去った今、杉山社長には何も成す術はない。


「まだ何か……申し開きはあるかな?」

「何故私たちの邪魔をする?」

「あんたが千尋の人生を邪魔したからだ。やられたらやり返す。それが僕の……モットーなんでね。分かったら二度と千尋には手を出すな。そうすれば今回不正をしようとした件は黙っておいてやる」

「ふんっ! 出任せばかり言いやがって!」


 千尋もかなりの痛手を負った。完全勝利とは言えない。


 だがこれで、千尋を縛りつけていた宿命からは解放された。


 彼の切り札、それは跡取りとしての資格を全て手放すことだった。


「杉山は本当に千尋と結婚したいのか?」

「何を言うかと思えば、当然じゃないですか」

「昨日千尋の決勝進出が決まった時、君の親父は馬鹿なって顔だったけど、君は同じ驚き顔でも、希望を見出してるような顔だったぞ」

「ふふっ、それは気のせいですよ」

「気のせいじゃないと思います」

「「「「「!」」」」」


 後ろから伊織の声が聞こえた。僕らは一斉に後ろを向くと、そこには真剣な眼差しで杉山親子を見つめる伊織と中年の人が並んでいた。中年の人は申し訳なさそうに目線を下に向けている。


「伊織ちゃん、どこ行ってたの?」

「遅れてすみません。少しおじさんと話していたんです。杉山社長の部下である彼に」

「「「「「!」」」」」

「部下だと。そんな奴は知らんぞ」

「社長、もうやめましょう。こんな卑怯なことをして勝っても、誰も幸せになりませんよ」

「どういう意味だ?」

「この人が全てを白状してくれました。杉山社長から正規雇用を餌に、センサリージャッジの1人にお金を払って、千尋君に対する不正ジャッジを依頼していたんです」

「「「「「!」」」」」


 最も酷く驚き、言葉を失ったのは、他の誰でもない千尋だった。


 あちゃー。墓まで持っていくつもりだったのになー。


「えっ……でも僕、普通に優勝したよ」

「不正ジャッジなんてしていません」

「内海さん、どういうことなんですか?」


 伊織が僕の代わりに聞いてくれた。


 不正なんて最初からなかったというなら、最初に千尋のスコアが低く抑えられていたのは何故だ?


 あれが不正じゃないなら、一体どこに問題があるっていうんだ?


「私は昨日、村瀬バリスタの準決勝のスコアは低く記載していました。しかし、それは頼まれたからではなく、村瀬バリスタのコーヒーのフレーバーに迷いが混ざり込んでいたからです」

「迷いがあったって……じゃあ最後の切り札を使うかどうかを最後まで迷ってたってことか?」

「うん。村瀬グループの株を手放すのは親父とお袋との決別でもあるから、そんなことを考えてたら、最適な抽出のタイミングを逃してしまってて」

「じゃあ内海さんが千尋を減点したのは、コーヒーの味が本来よりも落ちていたからってことか?」

「その通りです。でも今日のコーヒーには迷いがありませんでした。クリーンで濃厚な味わいで、どこにも問題がありませんでしたので、飛び抜けていると評価させていただきました」


 この言葉を聞いて安心した。やっぱり日本のセンサリージャッジは優秀だな。


 僕の想いはコーヒー業界に携わっている人たちに確かに届いていた。


 あの一件以来、協会は不正ジャッジをなくそうと様々な取り組みを行ってきた。特定のスポンサーばかりを持たず、権力にも媚びず、純粋に競技の完成度のみを追求する姿勢を見せていた。


「取引に応じたふりをして、後で告発するつもりだったんだろ?」

「はい。この方が黒幕を白状してくれなければ、そこで終わっていましたけど」

「馬鹿馬鹿しい。そんな証拠がどこにある?」


 すると、中年の人がスマホを弄り出し、スピーカーモードにしたスマホを杉山社長の前へと掲げた。


 杉山社長は印籠でも突きつけられたかのように、開いた口が塞がらなかった。


『もし千尋君が優勝できなかったら、その時は君を正社員として採用するよ』

『それは……本当ですか?』

『ああ、本当だとも。センサリージャッジの1人に千尋君を厳しく評価するようにとね』

『分かりました。運営側の人の情報を送ってもらってもいいですか?』

『分かった。そうしよう』

『何卒よろしくお願いします』


 杉山社長がその場に肩を落とした。


 人を貶めようとした奴が地面に膝をつく姿を見ると、何だかスッキリする。全てが解決した気分だ。これは決定的な証拠だ。最近のスマホは通話を自動で録音してくれる機能もある。


 足がつかない悪事が難しくなってきたことの証とも言えるな。


「こんなことを平気でするような人間と親族になるなんて冗談じゃないですよ。あなたは僕の夢だけじゃなく、コーヒー業界の信用まで潰そうとした。この証拠を元に、あなたを訴えさせていただきます」

「訴訟が起きれば、いかにあんたがグループ企業の総帥であろうと、信用はガタ落ちだ。企業にとって信用がどれほど大事なものか、あんたなら分かるよな?」

「……せっかく出世の機会を与えてやったというのに、何てザマだっ! お前はもうクビだっ! 二度と私に顔を見せるなっ! 社会のお荷物めっ!」


 全身の血管が切れそうなくらいにピリピリした顔で杉山社長が言った。


 そんなことを言える立場かよ。これだから上級国民は好きになれねえんだ。


 力には責任が伴う。力の使い道を誤れば、いずれはそれが己自身に牙を剥くことになる。


 みんなが僕に早まらないよう釘を刺した理由が分かった。僕も一歩間違えれば、杉山社長のような過ちを犯すことになっていた。良い反面教師だったぜ。


「このことを世間に公表してほしくないなら、こっちの要求を飲んでもらう」

「一体どうしろと言うんだ?」

「今あんたが持っている村瀬グループの株を全部千尋に渡すこと、千尋とあんたの娘さんの婚約は勘違いだったと世間に公表すること、二度と僕らに関わらないと約束すること。要求はこの3つだ。不正をしようとしたペナルティとして、いくつか追加させてもらった。僕とてコーヒー業界の信用までは落としたくない。あんたは村瀬グループの株を握って、ブランドを支配するつもりだろうけど、こっちの要求を全部飲むと言うなら、うちもこれ以上の追及はしないと約束する。なっ?」

「うん。僕もそれでいいと思う」

「……いいだろう」


 沈んだ顔で杉山社長が言った。本来であれば業務妨害の罪に問われる案件だが、今この件が公になれば協会も責任を追及されるだろう。不正ジャッジを全くしていないというなら巻き込まれるべきではない。杉山社長に対する罰としては相応だと思うし、罪にも問われないわけだし、丁度良い塩梅だろう。


「おじさん、その通話記録だけど、消すのも勝手だし、残すのも勝手だ。僕はもうこの件には一切関与しないからさ、後は好きにしてくれ」

「……は、はい」


 これにて、千尋の件は決着することとなった。


 バリスタオリンピックの前に、全ての障害を取り除くことができて何よりだ。


 杉山親子は尻尾を巻いて会場から立ち去っていった。


「あず君……ありがとう」


 千尋が僕に泣きついてきた。可愛くも小さな体をしっかりと受け止めた。


「あら~」

「キマシタワー」


 優子と柚子が抱きしめ合っている僕らを見ながら燥いでおり、どこぞの百合展開を期待するような言葉を発してくる。傍から見れば女子同士が抱き合っているようにしか見えないらしい。


「一応男だからなっ!」

「ふふっ、今日くらい別にいいじゃん」


 千尋が嬉しそうな顔で強く抱きしめてくる。


 もう全てがどうでもよくなるほど、数々の戦いでの勝利に酔い痴れている。


 ここまで本当によく頑張ってくれたな。JBC(ジェイビーシー)も無事に制覇してくれた。


 これで千尋は来年5月にメルボルンで行われるWBC(ダブリュービーシー)への出場権を手にしたわけだが、彼は世界の広さを直に知る機会を得たわけだ。


 残るはイベント3日目のJCTC(ジェイクトック)JCIGSC(ジェイシグス)だ。


 優子も柚子も早速ホテルに戻って練習を積むことに。カッピングの練習は3杯のコーヒーがあればできるため、とてもお手軽なのだ。3杯のコーヒーを味わってから、もう一度シャッフルしてカッピングを繰り返せば低コストで練習ができる。僕もJCTC(ジェイクトック)出場が決まった時こそ、本番と同様に24杯でカッピングしていたが、この方法を知ってからは切り替えていた。


 そういえば……俊樹は一体何やってんだ?


 とりあえず伊織に聞いてみることに。


「俊樹はどこにいるの?」

「島塚さんなら、ずっとホテルに引きこもって、練習するって言ってましたよ」

「練習熱心なのは結構だけど、全く出てこないのはどうなのかねー」

「3日目には葉月珈琲から6人のバリスタが3大会に出場ですからね」

「できれば全員に優勝してほしいけど、JCTC(ジェイクトック)は熾烈な争いになるかもな」

「前回優勝の柚子さんに、3年前に3位だった優子さんもいますからね。それにレオさんとエマさんもいますけど、どうしてリサさんとルイさんは出ないんですか?」

「リサもルイも兄弟の中で上の方だし、レオとエマは対照的に自由奔放に育てられてきた分、興味があることに没頭しやすいから、それでセンスを伸ばせたってことだ」

「下の兄弟が羨ましいです」


 伊織が窓の外を見ながら言った。多くの一人っ子にとって、兄弟のいる家庭が羨ましい光景に見えるらしいが、決して良いことばかりではない。上の子供は兄弟の中で模範になることを余儀なくされるケースが多く、それが元でへし折れてしまう者も少なくない。


 ニートになりやすいのが長子長男であることからも裏付けられているし、責任感の強い人が多い。


 僕が責任能力を意識しているのも、長子長男だからだろうか。


「伊織は大会終わったから帰ってもいいけど、どうする?」

「私は残って応援します。今日だけでだいぶ疲れちゃいましたけど」

「あの中年の男をよく説得できたな」

「私はあの人から、世の中には仕方のない不正もあるって言われたんです。私はそれに対して、仮にそれで出世したとしても、幸せな一生は送れません。そんな生き方の先に、本当の自由はありませんと言いました。そしたらあっさり白状してくれたんです」


 不正や嘘を重ねたところで、過去は大きな足枷となり、一生にわたって己自身を苦しめ続けることを伊織は知っていた。中年の男も薄々感じていたのかもしれない。中年の男は世に流され続けたことで、自らの誠実さに背を向けることに対し、どこか後ろめたさがある様子だった。たとえクビになろうと、不正をしようとしている上司を裏切ることで、今までの自分への戒めとしたのかもしれない。


「あの人……どうなるんですかね?」

「まあクビだろうな」

「正しいことをしたのに……おかしいですよ」

「裏切り者は始末されるのが世の常だ。あの中年の男も最初は不正に加担する気満々だったみたいだ。クビで済んだだけまだマシだな。この国で告発者が一緒に裁かれるのは、組織内から裏切り者を出したくないからだ。雇われ者は常に従順であれ。そんな旧態依然の風潮が未だに残っているせいで、主体的に行動する人間が育ちにくくなってるんだ」

「……複雑です」


 伊織は少しばかり憂鬱な様子だ。繊細な彼女ならではの言葉だった。


 その声はとても小さく弱々しかった。


 世の理不尽に対する憤りを感じると共に、伊織は心を痛めていた。純粋に助けたいという気持ちが表情に表れていたが、ベッドに仰向けに横たわり、ため息を吐くと、ようやく諦めがついたようだった。


「伊織、世の中を変えたいなら、まずは影響力のある存在になってみろ」

「影響力……ですか?」

「そうだ。これからの時代は経済力じゃない、影響力だ。インターネットが普及して、誰もが発信者になっているこの時代に、大勢の人に自分の言うことを聞いてもらおうと思ったら、何でもいいから何かで1番になって、業界の御意見番になることだ」

「あず君みたいになれってことですか?」

「僕はあくまでも1つの例だ。自分にとって最もしっくりくるやり方でいいからさ、多くの支持者を得ていけば、世間も伊織の言うことに耳を傾けてくれるようになる」


 現に僕がバリスタオリンピックで優勝し、葉月珈琲塾を開いた時から、義務教育=全員必修という方程式が揺らぎ始めた。少しずつではあるが、徐々に不登校児が増え、僕の動画に没頭する生徒が増えてきたのだ。行く行くはそいつらの中から、次世代のトップバリスタが誕生することだろう。


 ただバリスタを育成するだけじゃ駄目だ。何より困難にぶつかってもめげない人間教育を最優先に行うべきだ。どんな道を進むにせよ、まずは何かに没頭することができなければ、何も始まらない。意見に耳を傾けてもらえた時から、僕の再教育は始まっている。


「危うく不正ジャッジをされかけたのは僕の不手際でもあるけど、それはバリスタ競技会の影響力が高まってきた証だ。昔だったら優勝しても無視されて、望まない結婚をさせられていただろうな。杉山社長が不正をしてまで千尋を負けさせようとしてたのは、バリスタ競技会で優勝することで、無視できないほどの影響力を持つと思っていたからだ」

「その影響力を上げたのは、あず君ですよね?」

「僕はきっかけにすぎない。それに僕がWBC(ダブリュービーシー)で優勝した後も、何度か穂岐山珈琲への転職を勧められたし、あの頃に比べたら、コーヒー業界の地位は上がったと思う」

「あず君がそう言うなら、間違いないんでしょうね」


 伊織が僕の目を見ながら、にっこりと微笑んで言った。


 守りたい、この笑顔。支えたい、この愛弟子。


 葉月珈琲の仲間たちと共にホテルで夕食を取っていると、千尋が僕の隣に陣取り、恋する乙女のようにキラキラした目で僕の肩に頭を預けてきた。


「何だよ?」

「あず君、僕一生あず君についてく」

「その可愛い顔でそう言われると誤解されるんだけど」

「千尋君、本気みたいだよ。責任取って面倒見てあげたら?」


 優子がニヤリとした顔で言った。さっきから離れようとしない千尋を見て、すぐにその気であると気づいた。すっかり僕に懐いてやがるし、このままだと、ペットのように可愛がってしまいそうな自分がいるわけだが、こんな状態にさせてしまったのは僕だ。


「千尋、うちは厳しいぞ」

「うん。喫茶葉月だと、他にセンスのある人がいなくて、張り合いがないんだよねー」

「もっとレベルの高い修業がしたいか?」

「もちろんだよ」


 二つ返事で千尋が言った。来年まで待てない。いや、今すぐにでもうちに異動させたい。

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読んでいただきありがとうございます。

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