241杯目「見守るということ」
6月上旬、璃子、柚子、蓮の3人がベルリンまで飛んだ。
璃子はWLACに、柚子はWCTCに出場するためである。
大会3日ほど前に到着してから慌てて練習をしていた。
準備は入念にとあれほど言ったのに……思わずため息を吐いた。
WLACには41ヵ国から41人、WCTCには45ヵ国から45人が参加した。僕の時よりも参加人数が増えているのが地味に羨ましい。
――大会1日目――
同じ会場の全く違うブースで世界に臨む。パソコンの生放送画面を見ながら璃子と柚子を確認する。店の経営をしながらでも様子を確認できるようにモニターを用意している。葉月珈琲から3人の日本代表を輩出し、その内の1人が優勝を果たしていることもあり、葉月珈琲には多くの客が集まっていた。
バリスタ競技会は既に一般にもその知名度が伸びていたが、段々とレベルが上がっていくこの競技会に恐れをなしたのか、バリスタ経験者であってもなかなか参加しようとはしない。
失敗してはいけないと教えられているのも要因の1つだろう。
「あっ、映ってますね」
大会を前にワクワクする気持ちを隠せない伊織が、見事にパソコンを使いこなしながら生放送の画面に移行すると、その画面をモニターに映し出した。
客たちもワールドコーヒーイベントで行われる世界大会を心底楽しみにしている。
「さて、お手並み拝見といくか」
高みの見物と言わんばかりに、のっそりとオープンキッチンの椅子に腰かけ、少し遠くの壁に設置されているモニターを見た。画面に映っている璃子の予選が始まった。WLACは参加者拡大に伴い準決勝が設けられていた。アートバーを作成した後、フリーポアA、デザインカプチーノを2杯ずつ作成し、これらの合計スコアの高い12人が準決勝進出となる。
準決勝はフリーポアA、フリーポアB、マキアートを2杯ずつ作成し、上位6人が決勝進出だ。
決勝はフリーポアA、フリーポアB、デザインカプチーノを2杯ずつ製作し、合計スコアが最も高い者が優勝となる厳しい戦いだ。ラウンド毎に課題が微妙に異なるため、引き出しの多さ、どの組み合わせでもテンポの良さを保てる臨機応変さが求められる仕様だ。
僕が10年前に参加した時よりも遥かにレベルが上がっている。
競技中の制限時間も10分に増えており、大幅な修正が施されていた。
「璃子さんはJLACの時と同じなんですよね」
「フリーポアAは伊勢海老、フリーポアBは達磨、アートバーにでんでん太鼓、デザインカプチーノは歌舞伎役者の浮世絵みたいだね」
「――どれも日本らしいものばかりですね。役者絵も本物みたいです」
「オーストラリア代表はコアラにカンガルーにカモノハシにハリモグラとかをラテアートに書いてたくらいだし、自分の国の文化を意識してる人も多いな」
「ラテアートも昔の大会より複雑になってますね」
「難度の高い技だけど、それでも描くってことは、相当練習してるな」
僕らは1人1人の競技を入念に確認した上で、璃子の出番を待った。
彼らのラテアートの精度の高さに、思わず僕らは息を飲んだ。伊織に至ってはカプチーノが注文される度に競技中に描かれたラテアートをその場で再現したものを提供し、客からは驚嘆の声と共に称賛されていた。この機転の利くところも凄いが、あの難しい技を一度見ただけで再現できるところも凄い。
「凄いねー。さっきのラテアートをここまで再現するなんて」
「あの人たちにはまだ及びませんけどね」
「そんなことないよー。もっと大会に出るべきだよー。こんなに才能があるんだから」
「あはは……考えておきますね」
伊織が若干引くほど食いつくように話しかけていたのはアリス・リプトンだった。
金髪碧眼のゆるふわロングヘアー、細身で小さく端正な顔、不思議ちゃんを思わせるアイルランド人である。時々遥か遠くからここまでコーヒーを飲みに来てくれる、最も距離の長い常連の1人だ。
前回のバリスタオリンピックに21歳で出場を果たした、大会史上最年少の参加者であり、前回こそ2位通過だったものの、今回は1位通過でアイルランド代表となっている。もし彼女が今回のバリスタオリンピックチャンピオンになれば、僕が持つ史上最年少記録を僅かに更新する形となる。
「アリス、今年の伊織はサイフォンで世界一を目指す。ラテアートをやるとしても先になると思うぞ」
「ふーん、ドリップコーヒーが得意なんだー」
アリスが金色の腰まで届いている髪を靡かせながら言った。一発で伊織の得意分野を見破るか。自身もドリップコーヒーを得意とするバリスタだけあって良いライバルになりそうだ。参加者として東京まで訪れている時はポニーテールだったが、今回のように客として遊びに来る場合は髪を下ろしている。
あの時の凛々しい姿とのギャップに惚れ惚れしてしまう。
他の外国人観光客と仲良しそうに話していることも多く、かなり社交的だ。
「そういえば、バリスタオリンピックに参加してませんでしたか?」
「うん、参加してたよ。私はアリス。今回は1位通過できたから、今度こそ優勝を目指す予定なの」
「本巣伊織です。去年から本格的にバリスタ競技会に参加してます」
「ふふっ、知ってる。イオリはあず君の愛弟子だって聞いてるよ。最近はWBrCでも優勝して、去年も3つのバリスタ競技会で全部決勝進出を果たしてるし、10代でそこまでの活躍をするなんてさ、あず君以来じゃない?」
「そうなんですか?」
伊織が首を傾げながら言った。決勝進出するだけでも凄いのだが、10代で結果を残すバリスタは本当に珍しい。そう言っているアリスも、8種類のメジャー競技会の内、半数にあたる4つの大会の国内予選で優勝している。あの4年間で更に腕を上げたようだ。
WBCは2015年が8位で2016年に優勝し、女性初のワールドバリスタチャンピオンに輝いている。WLACは2017年が3位で2018年が5位、WBrCは2016年が6位、2017年には優勝を飾った。前回のバリスタオリンピックでも2位通過だが、ワイルドカードラインとされる最終29位と結果を残している。
特筆すべきはこの成長の早さだ。アリスは10代の時こそ目立った活躍はなかったものの、下積み時代に培った経験が、20代になってから活かされているのが特徴のバリスタだ。
初対面の時からポテンシャルの高さを買っていたが、独学だけでここまで戦えることに、僕は心底驚いている。いつもは自分より得意な専門家に頼っている僕自身が情けなく感じるほどだ。
「アリス、君にはコーチとかいないの?」
「いないよ。バリスタの仕事もあず君の動画を見て興味を持ったからで、バリスタ競技会に参加する時はあず君の動画を見ながら練習してるの」
可愛げのある片言の日本語でアリスが答えた。
まさかとは思うが、動画だけで全てを学習したというのか?
もしそれが本当であるならば、もはや公教育は時代遅れであるという何よりの証明になる。
彼女の例をどうにかしてみんなに紹介したいところだ。
「あず君の動画を見ただけで、結果を残したんですか?」
「うん。英語の説明だから分かりやすいし、私の友達も知り合いもみんなそう。今世界中のバリスタがあず君のコーヒー動画を必修科目のように見ているの。だってバリスタ競技会に向けた準備とか練習とかを具体的に説明から実践までしている動画って、全然ないでしょ?」
「確かにそうですね。私も見てます。あれを見て大会に出てる人多いんですね」
「最初は大会に出るからにはプロじゃないといけないって思ってたけど、あず君の動画では、参加者の半数はルールブックの内容を把握していないっていう話を聞いて、なんか安心したの」
「初心者でも気軽に参加していいって言われてるようなものですよね」
遠回しに初心者歓迎と受け取る者もいるが、実はそうじゃない。
ルールブックの内容を知っているだけで、決勝まで進めた時代が実際にあったのだ。今はそんなことはないと思いたい。これもバリスタ競技会のレベルを底上げするための処置でしかないが、それでプロのバリスタを目指す人が出てきてくれたのは喜ばしいことだ。
「あず君がバリスタオリンピックで優勝してからバリスタという言葉が急速に広まったんです。それまでは職業を聞かれて、バリスタって答えても何それっていう反応をされていたんですけど、あれからはいちいち説明する必要がなくなったんです」
「あず君がバリスタの知名度を上げたと言っても過言じゃないね」
「そうですね。昔よりもコーヒー業界の地位は上がったと思います」
「まだこれからだ。子供たちの憧れの職業1位を目指してる」
僕らの話題はアリスが帰るまで尽きることはなかった。僕らのおおよその価値観を理解している。
話が早いと思ったし、途中でディアナが来てからは更に話が盛り上がった。アリスはしばらくの間ここにいるらしい。バリスタオリンピックに使えるアイデアを拾うために葉月珈琲まで訪れたんだとか。
璃子は無事に準決勝へと進出した。柚子も1回戦と2回戦を勝ち抜き、無事に準決勝まで進出したようだがここからが本当の勝負だ。その他大勢から抜きん出るのは本当に難しい。だが彼女たちならそれができるはずだ。伊達にバリスタ修行を受けた身ではないことを証明してやれ。
――大会2日目――
この日はWLAC準決勝、WCTC準決勝と決勝が行われる。柚子の方が早く結果が出るため、大会が終わった後は璃子が決勝に進んでいれば、柚子も応援に向かうことになっている。モニターには可愛らしい制服姿の璃子が映っており、顔の表情もまるで無観客であるかのように堂々としており、リハーサルを終えた後は念入りにポルタフィルターを腰からぶら下げているタオルでゴシゴシと拭いている。ラテアートは集中力がなければうまく絵を描けない。
観客のプレッシャーを跳ね除けられるくらいの集中力が要求される。
ラテアートを続けているだけで集中力が身につくのだ。画面の向こう側にいる璃子が慣れた手つきでミルクピッチャーを温め、フリーポア、マキアート、デザインカプチーノを次々と完成させていった。予選は僅かに制限時間を過ぎてしまい、若干ではあるが減点されてしまった。今回もマキアートに時間を取られ、デザインカプチーノを描いている間に制限時間10分を僅かにオーバーした。1分以上のオーバーで失格であり、その心配こそなかったものの、見ているこっちが冷や汗をかいた。
「やっぱりマキアートが課題だったかー」
「準決勝にだけこれがあるのが絶妙ですねー」
「マキアートって難しいよねー。まるで針の穴に糸を通すような技術が要求されるし、僕はあれで挫折しちゃったんだよねー」
うちに遊びに来ていた吉樹が言った。最初こそラテアートに意欲を燃やしていたが、このマキアートで挫折し、以降は焙煎やカッピングに力を入れている。吉樹も柚子も新しいものを作るより、地道に美味い焙煎豆を作ったりカッピングする方が向いているかもしれない。2人共新しいシグネチャーやラテアートを考えての実践が不得手である一方で、吉樹が焙煎、柚子がカッピングを得意としている。
吉樹は以前から穂岐山バリスタスクールを代表し、何回もJCRCに出場していたのだが、いずれも予選で敗退してしまっている。
焙煎自体は好きみたいだが、まだコーヒーと会話ができる領域には至っていない。
「あのタイムオーバーが命取りにならないといいけど」
「タイムオーバーしても予選を突破したということは、スコアが相当高いということですから、あの手のミスを減らせれば、十分優勝争いに食い込めますよ」
「次は柚子だな」
チャンネルを変えると、丁度柚子の番を迎えた。柚子はエプロン姿のまま、右手にスプーンを持ち、左手には紙コップを持っていた。ボーダーは8問中7問正解した上で2分を切るくらいか。柚子には僕がかつてのJCTCとWCTCで使った方法を伝えてある。
3杯の中から外れの1杯を当てる問題であるため、1杯目と2杯目が同じ味だと確信したら、3杯目をカッピングせずに解答エリアに置く。1杯目と2杯目が違う味の場合はどちらかが外れであるため、3杯目と味が違う方を解答エリアに置けばいい。この大会は最善ではなく、最速で解答しなければ優勝できないのだ。自分以外に全問正解する人は必ず現れる前提で考え、他の全問正解者を退けて優勝を目指すのであれば、必然的に最速で全問正解する必要がある。柚子は勉強ができただけあって、決まった正解のある問題を解くのは非常に得意だ。創造性なしで戦える数少ないバリスタ競技会だ。
競技時間も短く参加のハードルも低い。焙煎も創造性より作業の正確さが求められるため、吉樹が焙煎を得意としているのも頷ける。僕は柚子の競技が始まるまではこのことを伊織たちに説明していた。
「バリスタの大会って、創造性が必須だと思ってました」
「焙煎とカッピングは、言ってしまえば作業力テストだからな」
「あず君は作業力も凄かったってことですね」
「作業力は効率化さえできれば誰でもできる」
「柚子さん、早いですね」
「あれは正解さえできれば次にいけるな」
「私もカッピングはできますけど、あそこまで早くできるかって言われれば疑問です」
「伊織はじっくり味わうタイプだもんな」
「そうですね。速さでは勝てそうにないです」
アリスは真理愛とディアナと共に会話を楽しんでいる。全員日本語での会話だが、アリスは日本語を勉強中であるとのこと。あれだけ話せるのに、まだ勉強中とは恐れ入った。3人共それぞれの国の代表でありながら、相手を敵視することなく情報交換し、より上位に食い込めるよう切磋琢磨している。
「私たちの中から1人でも決勝までいける人が出てくるといいな」
「どうせなら全員で一緒に決勝までいこうよ」
「そうですね。丁度ここに世界一のコーチもいますから」
真理愛が客にドリップコーヒーを淹れると、プレートに乗せ、少し遠くの客席へち持っていく。商品名を言ってから客席にコトッと置き、何食わぬ顔で定位置へと戻ってくる。
「バリスタオリンピックって、そんなに大変なの?」
吉樹がカウンター席にもたれるように両肘をくっつけ、両手の指を組みながら素朴な疑問を僕らにぶつけた。僕は丁度作業が終わり、吉樹と対面するようにオープンキッチンの椅子に腰かけた。
「大変だな。準備と練習だけで膨大な時間を取られるし、常に新しい味わいとか、おもてなしとか追求し続けないといけないし、コーヒーが好きで好きでたまらない人じゃなきゃ、参加自体お勧めしない」
「年に一度の大会とは比べ物にならないほど忙しいですからねー。あず君が連覇のための参加を拒否したのも、ちょっと分かる気がします」
「私はもう一度あず君と戦いたかったなー」
「あず君には逆立ちしても勝てない気がする。私は決勝までいけたら良い方だと思ってたけど、あず君は私たちの予想を遥かに超えていたというか、大会の中で成長していくバリスタだと思った。直前に思いついたアイデアを決勝で試すなんて、私たちには到底できないし」
「できるぞ。できると思えばな」
そうこうしている内に、WLAC準決勝の結果発表が始まった。
璃子は無事に決勝へと進出した。葉月珈琲勢では僕と美月に次いで史上3人目だ。
日本、台湾、イタリア、中国、韓国、香港の代表6人が決勝進出を果たした。近年アジア勢の強さが目立つこの大会だが、過去3大会は全てアジア勢が優勝している。
璃子はホッとした表情で、他のファイナリストたちと抱擁を交わした。
柚子の決勝進出が決まり、遂に決勝が始まった。決勝は日本、イギリス、フランス、アイルランドの代表4人が残り、この時点でベスト4だが、いつもより緊張を隠せない様子だ。
判断に迷っているのか、何度も同じカップに入ったコーヒーをカッピングしている。
――もしかして、判定がしにくいのか?
神経を研ぎ澄ませなければ、味の判別ができないほど外れのコーヒーが正解に近いとすれば、ここから先は異次元の領域となる。他の参加者も柚子と同様に慎重な姿勢だ。会場の張り詰めた空気に釣られて、葉月珈琲の店内も凍りつき、誰もがモニターに釘づけとなっている。
ようやく審査が終わり、後は結果発表を残すのみとなった。
そして――。
『第2位は、日本代表、ユズークスノキー!』
柚子は決勝で大幅に時間を浪費し、惜しくも1問不正解になったことが響き、最終2位となった。
銀色の四角いトロフィーを受け取り、それを嬉しそうな顔で空へと掲げた。この時は柚子の健闘を労う気持ちでいっぱいだった。本当によくやった。本人もここまで生き残れるとは思わなかっただろう。
「柚子さん、やっぱり凄いですね」
清々しい笑顔で伊織が言った。
「当然だろ。うちのスタッフなんだからさ」
僕が柚子を過大評価することはなかった。上位入賞ならできても不思議ではない。
あれで少しでも人に自慢できるくらいの自信を身につけてくれたように思う。
後は璃子だけだが、蓮がついているとはいえ心配だ。
一度メールしてみるか。バックヤードに行くと、ポケットに入っているスマホを取り出し、ベルリンにいる柚子に準優勝を労うメールを送ってから、璃子にメールを打った。
『璃子、調子はどう?』
『あんまり良くないかな。昨日に続いて今日もちょっとタイムオーバーしちゃったし、明日は流石にタイムオーバーしたらやばいよね?』
『さっきまでモニターで見てたけど、説明に時間割きすぎ。明日は説明を必要最小限にして、作業にだけ集中しろ。いつもより丁寧に説明しようとするせいで、今日と昨日は集中が乱れてた。明日はアートバーもマキアートもないし、大きなカップのみの勝負だから、璃子に有利な条件だ』
しばらくは返事が来ない。璃子にとっては思わぬ指摘だったようだ。傍から見ればすぐに分かるミスだったが、現場にいる者にしか分からない感覚に暈されてか、指摘するまでは気づかなかったようだ。
『分かった。明日は作業にだけ集中する』
『英語のプレゼンだからって正確に伝えすぎる必要はない。何を描くかを伝えるだけでいい。プレゼンの大会じゃないんだからさ』
『お兄ちゃんはそういうところ図太いよね』
『ただでさえ理不尽な世の中だ。図太くなきゃやってけねーよ』
『修正点が分かったお陰で、なんかモヤモヤが晴れた。明日も悔いのないように全力を尽くすね』
『ああ、武運を祈ってる』
柚子には特に修正点がなかったけど、璃子は英語で伝えることを意識しすぎていたのか、やや集中が逸れているように思えた。あくまでもプレゼンではなく、うまくラテアートを描く大会。そう考えれば自然に集中できるはずだ。後は璃子次第だが、やはりバリスタ競技会には魔物が棲んでいる。
緊張する舞台だからこそ、シンプルに考え、気を休ませることが大事だ。
璃子ならきっと最善の戦いができると信じ、僕らは今日の営業を終わらせるのだった。
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