240杯目「独り身の戦い」
5月下旬、千尋から1つの申し出がメールという形で届いた。
今年のJBCに自分を参加させてほしいとのこと。コーチに専念するのであれば控えた方がいいとは思うが、彼なりの考えがあってのことだろう。
決して自分の欲望だけで大会に出る奴ではない。何か試したいことがあるのだと思い、あっさりと許可を出した。気になった僕は真意を千尋に聞いてみることに。
「千尋はさ、何でJBCに出たいって思ったの?」
「僕自身がコーヒーを究めたいっていうのと、前回2位だったからリベンジしたいっていうのと……追いつきたいっていうのもあるかな。伊織ちゃんに」
千尋はコーヒーカクテル修業に勤しんでいる伊織に羨望の眼差しで見つめた。
伊織は真理愛が言った通りにアイリッシュコーヒーを淹れている。真理愛がカッピングして味を確かめている。グラスの1番上にピッタリと収まるようにコーヒーとアイリッシュウイスキーが混ざった液体を投入し、シェイクした生クリームを丁寧に注いでいく。
「凄いです。まだ経験が浅いのに、コーヒーと生クリームのラインがハッキリ分かれてますね」
「それってそんなに凄いことなんですか?」
「凄く難しいんですよ。私も最初はよく失敗していましたから。やったことあるんですか?」
「実際にやるのは初めてです。でも私はずっとあず君や真理愛さんが、アイリッシュコーヒーを淹れるところを見てきましたから」
「見学も立派な学習ですね。あず君が学習は動画だけで十分って言ってたのが、分かる気がしますね」
「勉強は全部パソコンです。分からないことはググれば出てくるので、暗記は必要最低限にしてます」
伊織がクスッと笑いながら言った。見事に学習が最適化されている。僕が思い描いていた学習方法とも合致する。多分、数十年後にはこの学習の仕方が一般に普及していることだろう。
無駄なものに費やす時間が減り、やりたいことにみっちり取り組みやすくなる。早く普及しろと言いたいところだが、まずは事実上の通学義務をどうにかしないとな。
「まっ、そういうことなら別にいいぞ。この前千尋の家に行った時、JBC準優勝のトロフィーがなかったけど、どっかにしまってる?」
「あれを見る度に将来を変えるチャンスを失ったあの瞬間を思い出しちゃうから、しばらくは見るのも嫌だったけど、今は店に飾ってるよ」
「バリスタオリンピックの時期とは被ってないんですか?」
「心配ない。予選は7月で、準決勝と決勝が9月だし」
「コーチもいいけど、やっぱ自分も何かに参加してないと気が進まなくてさー、村瀬グループにはもう戻れないし、結婚も拒否することになったし、好き勝手にバリスタやってもいいんだって思えてきた。僕にはこっちの方が合ってるからさ」
千尋は最後まで戦う勇気を取り戻していた。
村瀬グループと業務提携を結んだまでは良かったが、今度は杉山グループが村瀬グループに圧力をかけてきた。派閥争いには終止符が打たれたが、この2つのグループの争いはしばらく続きそうだ。
村瀬グループの日本酒をコーヒーカクテル部門に使えればいいんだが。
一応思いつきで千尋に提案してみることに。
「えぇ~! うちの日本酒を使うのぉ~!」
「もし村瀬グループが杉山グループに吸収合併されて、それでもなお社長の座を受け継がないとなれば千尋は村瀬グループの裏切り者として後ろ指を差されることになる」
「別に問題ないよ。はなっからグループを継ぐ気はないし、お酒よりコーヒーの方が好きだし、できることなら、もうあんな連中と関わりたくないし」
「村瀬グループが吸収合併されたら次の標的はうちになると思うぞ。杉山グループがうちに手が出せないくらい弱体化するか、あいつらの弱みを握って黙らせるくらいしないと安泰とは言い難い。文字通りこの業務提携に僕らの命運が懸かってる。千尋には葉月珈琲と村瀬グループの架け橋になってほしい」
「――分かった。あず君には大きな借りがあるし、別にいいよ。ただ、杉山グループとの戦いが決着した時は、村瀬グループとは完全にお別れするからね」
何があったかは知らんが、余程あそこに戻るのが嫌みたいだな。
唯一の御曹司としての将来を期待され、その重圧にずっと苦しみ続けた。
千尋の地頭の良さや創造性には、村瀬社長も気づいているはず。なのに何故、まだ未成年の千尋に後を継がせようと――ハッ! ……まさか、こんなことって。
「もしかして、気づいちゃった?」
「村瀬グループの役員って、確か金の卵世代だよな?」
「うん。みんな年功序列と胡麻すりだけで出世してきたような人たちだからさ、経営者としては無能な人ばかりだよ。リーマンショックの頃までは、景気の良さと勢いだけで業績を伸ばしてたけど、あいつらはみんな自分の実力と勘違いしてる。そうやって思い上がっている内に業績が悪化して、慌てて海外進出を試みているみたいだけど、あれじゃもう遅いよ」
「あそこの日本酒の味は本物だった。せめて伝統の味だけでも、どうにかできないかな?」
「……」
思いつめた顔で千尋が沈黙する。本人が味わったことのない日本酒だが、あれを杉山グループが管理することになれば、味が変わるのは必至だ。何でもかんでも新しいものに変えたがる杉山グループは、他のグループ企業を乗っ取った時も伝統を打ち破り、全く違うものへと変えてしまった。変化自体は悪いことではないが、変わらぬものも混在するからこそ味に多様性が出る。後世に残すべき伝統もある。
あの伝統の味を残すには、日本での市場が縮小しきる前に、海外進出を果たす必要がある。
村瀬社長はあの味を残そうと必死なのが会ってみて分かった。千尋以外に会社を継げる有能な人材がいないというのに、肝心の千尋には見限られ、今までにない未曽有の危機に瀕している。
「まっ、そこは気が向いたらでいいからさ、考えといてくれ」
「あいつらは一度淘汰されないと分からねえよ」
「何かあったのか?」
「別に大したことじゃないけど、僕がここに来る前、早い内に改革することを勧めた時、役員の連中は僕にこう言ったんだよ。改革が失敗すれば、私たちが責任を問われるってね」
「あぁ~、自分たちが定年を迎えるまでは何も余計なことはするなってやつだろ。でも今年の改革で、保守派の連中は淘汰された」
「ざまあみろだ」
千尋がニヤニヤしながらそう吐き捨てたくなるのも分かる。
そこまで言うってことは、心底ではまだグループを見捨てたくないようにも思える。
ようやく脱皮を果たした上に、仕事のできない役員に支払うはずだった給料もなくなった。一見これで軽くなったようにも思えるが、人員が少なくなったことで血の入れ替えを行う必要もあり、これまで若いというだけで、出世とは無縁だった者たちにもポストが与えられることとなった。
定年が伸びてしまったことで、昇格させる人数に限界が出ていたのが、一気に解放されたわけだ。
これは結果的に中部や近畿の雇用を助けることとなった。むしろ今までが酷すぎたんだ。適性を無視して雇っていたツケをあいつらはようやく支払った。某大手自動車グループの社長が終身雇用は難しいと言ったくらいだし、より力の弱い企業から、その現実を目の当たりにしていくのだろう。
「――でもようやく……前進したね。誰かさんが背中を押してくれたお陰で」
「今のままだと、杉山グループに国内での事業が抑えられちゃうけど、外国相手に稼げるようになればそれも関係なくなるし、吸収合併に応じる必要もなくなる。だろ?」
「僕はそれを数年も前から言ってたんだけどねー。国内だったら、杉山グループに先回りされて事業を差し止めされちゃうけど、流石に外国の事業にまでは手が出せないって言ってきたのに、あいつらはそれを無視して自分たちの安泰ばっかり考えてたんだから、良い薬だと思うよ」
「この遅れを取り戻すのは容易じゃないけど、何とかしてみる」
千尋が村瀬グループの後を継ぎたくなかった理由が分かった。
自分の意見が平気で無視される環境じゃ、居ないのと一緒だ。
千尋は旧態依然のグループに嫌気がさした。跡取りになることを拒否したのは、自分と親父の改革案無視に対する抗議だったんだ。後を継ぐ頃には、社内に何もしようとしない残りカスみたいな保守派ばかりが居座り、ただ合併を待つだけの未来が待っていることを千尋は分かっていた。
今はもう拒否する理由はないが、破門を言い渡された以上、もう戻れない。
村瀬社長はもっと早く改革を実行していればよかったと後悔しているだろう。
「僕が葉月珈琲に入ったのは、あず君だったら今の社会を変えてくれるって思ったからだよ。僕の目論見通りに動いてくれたね」
「曲がったことが嫌いなのはお互い様だ。あんな曲がりきったグループの後を継ぐのはさぞ苦労するだろうと想像がつくからな」
「ルイ16世も同じ気持ちだったんだろうねー。最悪のタイミングで無責任なバトンを渡される方の身にもなってほしいよ」
「そりゃ逃亡もするわな」
「「はははははっ!」」
僕らは過去を笑い飛ばした。まるで他人事のように――。
それほどにまで、千尋は自分の過去を嫌っていた。脱皮するには家を出るしかなかったことも分かっていたようで、至って合理的な彼が行動を起こすのは難しくなかった。
千尋も今年もJBCに参加することとなり、伊織は新たな腕試しの場を設ける目的でJSCに参加することに。コーヒーカクテル修業の途中ではあるが、そればかりでは飽きてしまうため、常に新しい興味を探すことを並行して行うことで、飽きずに続けることができる。伊織は既にドリップコーヒーの世界ではナンバーワンの称号を手にしている。しかも他の抽出器具も究めたくなったらしい。こうやって次々と興味が湧いてくる好奇心を大事にしていれば、あんな魂と知性の抜け殻のような人間にはならないはずだ。むしろどうやったらあんな連中ができるのかが不思議で仕方ない。やっぱり教育って大事だな。伊織はサイフォンで淹れたコーヒーをアイリッシュコーヒーの食材として用いていた。この方法なら、サイフォンの練習とコーヒーカクテルの修業を同時に行える。
やはり彼女は僕以上に優れた何かを持っている。
「サイフォンって結構使いやすいですね」
「元々は使いやすいという理由で一般に普及しましたからね」
「真理愛さんもサイフォン使うんですか?」
「はい。サイフォンもエアロプレスも時々使ってますよ」
真理愛が伊織の淹れたアイリッシュコーヒーをゆっくりと口に含んだ。味を描く才能は世界一のコーヒーカクテラーさえ黙らせてしまった。もうあの反応で美味いのが分かる。後で僕も飲んでおこう。
「……」
「どうですか?」
「美味しいです。味見もしてないのに……ここまでの深みを出せるなんて」
「それくらい僕だってできるよ」
「千尋さんは小さい頃から日本酒の製造を見てきたんですよね?」
「うん。アルコールの扱い自体は慣れてるよ。今は飲めないけど」
千尋が可愛らしい顔を僕に向けて言った。理性的かと思いきや、案外意地っ張りで嫉妬深いことがすぐに分かった。だからこそ、生まれつきの地位に甘えることなく、誰よりも勉強した。
僕らであれば……今の世の中を変えていけるかもしれない。
ここ数日は結婚と出産のラッシュであった。
大輔と成美、優太と美月の間に子供が生まれた。2人共元気そうで何よりだ。これでまた葉月家に子供が増えた。皮肉な話だが、事実上の家制度を最も蔑視していた僕が葉月家を反映させる最大要因となってしまった。僕がいなけりゃ、2人共貧困に陥って結婚どころじゃなかったし、しかも結婚相手がいずれも僕の知り合いだ。大輔と優太がそれぞれの妻に出会った岐阜コンを維持し続けていたのも僕だ。
ここまでの要因を全て遡ると、事の発端は全て僕だったことに気づいた。
リサ、ルイ、レオにも既に恋人ができており、リサに至っては遂に結婚を果たした。これでうちの親戚内で交際相手がいないのは柚子とエマだけになった。まあ、何だかんだ言っても、うちにはイケメンと美人が揃っている。だが約1名、この状況に焦りを感じている女がいる。
僕、璃子、唯、柚子の4人で食事をしている時だった。
「柚子、いつもより元気ないけど、どうかしたの?」
璃子が心配そうな顔を柚子に向けて尋ねた。当然だが璃子には原因が分かっている。彼女はどうにか柚子の力になりたがっていた。柚子は流行に乗るかのように結婚や出産を果たしていく親戚たちに対して劣等感を隠しきれず、思い詰めては息を吐く仕草を繰り返すばかりであった。
「……何で私だけ置いていかれちゃったのかなって」
紫、雅、巻の3人が瑞浪に見守られながら仲良く遊んでいる様子を眺め、羨ましそうに呟いた。
璃子も唯も柚子の心情を知っていたが故に、あまり強い言葉では言い返せない。
置いてけぼりが1番応えるか。柚子は小さい頃から結婚して子供を持つことを望んでいた。もしかしたら吉子おばちゃんによる刷り込みかもしれないが、いざ叶わないとなると、柚子が不憫でならない。
「柚子、あれから男に声をかけられることはなかったのか?」
「それが……JCTCで優勝したのはいいんだけど、バリスタパーティーで女性にばっかり声をかけられて、男性からは全然を声をかけられなかったの」
「柚子さんって、結構女性からモテますよね」
「というより、多分牽制されてるな」
「牽制って、どういうこと?」
「柚子が僕の親戚であることはバレてないみたいだけど、条件自体は良い方だし、それで他の女から執拗にマークされてるってことだ」
婚活事情を知らない璃子に僕の口から説明する。
すぐに納得したが、柚子の気持ちが手に取るように分かってしまう璃子からすれば、お気の毒としか言いようがない。美人であるが故に異性から遠ざけられているわけだ。
璃子は相手の悪意には敏感だ。婚活パーティにはまず行けないだろう。
「柚子はさ、バリスタをやりながら婚活してるのか、婚活しながらバリスタやってるのか、どっち?」
「両方共同じくらい並行してるかな」
「だったら今は大会に集中しろ。大会は頑張った分だけ優勝に近づけるけど、婚活はいくら頑張っても結果を残せるとは限らない」
「今はそうしてるけど、大会に集中するとなると婚活は当分なしかな。次はJBCに出るし、尚更大会漬けになりそう」
「もうすぐ参加登録の期間がやってくる。それまでに参加する人をまとめておかないとな」
「それなんですけど、今年のJBCには千尋君と柚子さんと陽向さんと桃花さんと莉奈ちゃんの5人に決まりました。それとJSCには伊織ちゃん、JCIGSCとJCTCには島塚さん、JBrCには静乃さんが出ることが決まりました。結構多いですよ」
唯が片手に持っている花柄のスマホにまとめた資料を見ながら言った。
彼女には大会参加者をまとめる仕事をしてもらっている。子育てをしながら少しでもうちに貢献したいからであるとのこと。事務処理だったら子育てしながらでもできるが、来年からは璃子がいなくなってしまう。今後も瑞浪に頼る必要があるな。璃子の新しい家に預けるのもどうかと思う。
子供が増えれば増えるほど手が掛かるようになるところまで想定するべきだった。
「静乃と莉奈ってうちにいたっけ?」
「静乃さんは今年の春に、中津川珈琲からうちに転職してきたんです。莉奈ちゃんはメイドインメルヘンが倒産してすぐうちに来たんです」
「えっ、倒産!?」
「別に珍しいことじゃないですよ。葉月商店街が復興してからは多くのカフェを中心に栄えてきましたから、多分淘汰されたんだと思います」
「あそこはスペシャルティコーヒーを使ってなかったからな。他はともかく、葉月商店街で良い豆を使わないのはかなりのハンデだ」
「莉奈ちゃんはお店で修業している内にバリスタとしての技能が身についたみたいです。本当にやりたいことが見つかるまではバリスタに没頭するみたいです」
「静乃って、妊娠してなかったっけ?」
「来月には出産するみたいですよ。それとしばらくはコーヒーを飲まないで参加するそうです」
「伝えるのが遅れた理由は、多分伊織ちゃんを大会に集中させるため。如何にも静乃らしいけどね」
「……はぁ~」
柚子が天井を見上げながら息を吐いた。それに気づいた僕らは自重するように黙ったが、そんな気遣いは無駄と言っていい。しばらくはこいつの前で結婚と妊娠の話題はNGだな。
こんなに良い女なのに……何でモテないんだろうか。
同級生をまるで相手にしなかったツケがここで回ってくるとはな。でもずっと僕に対して期待させてしまった意味では、僕の不手際でもある。柚子の相手は責任を持って僕が見つけてやることにしよう。本人にその気があればだが。寄りによって仲人の娘が……1番最後まで交際相手ができないとは皮肉なもんだな。1人で仕事も生活も全部こなしてるし、ある意味結婚には向かないのかもしれない。
結婚は柚子が本当にやりたいことなのか?
30歳を迎えると同時に、お見合い結婚は完全に諦めちゃったし、何だか自分から選択肢を狭めているようにも思えるし、是が非でも結婚を目指す人の行動としては些か矛盾している気がするのだ。
「JCIGSCも下半期からやるの?」
「そうですね。各バリスタ競技会が9月から開催されるコーヒーイベント内で決勝を行うので、その日程に合わせて今年2回目のJCIGSCを行うみたいですよ」
「前にも何度かあったなー」
「JLACもコーヒーイベントに統合されるみたいですよ」
「全部下半期のイベントでやって、来年の世界大会まで待つってわけか」
「練習時間をみっちり確保できるので、その点では有利だと思いますよ。よくよく考えると、あず君はかなり過酷な環境下で勝ち続けてきたことになりますね」
「じゃあ年明けからいきなり予選みたいなことは、もう起こらなくなるのか」
「なんか寂しいですよねー」
唯が言いながら夕食の皿を片づけていく。柚子の取り皿にはあまり取り分がなかった。
それほど1人が怖いのかとは思うが、柚子のように独り身が似合うように見えてしまう女って、ここ数十年の間に結構増えた気がする。自分に素直に生きた結果なのか、独り身になることが素直な生き方なのかは分からない。それほどみんなが所帯を持つことに囚われているということだ。
それぞれのバリスタが葉月珈琲からのエントリーを済ませた。群雄割拠の始まりだ。
今回特に注目しているのは伊織だ。今度はどんな競技を見せてくれるのかが楽しみだし、アイデアの結晶をプレゼンという形で見られるのが嬉しいし、待ちきれない。
僕は期待を膨らませながら、この日もぐっすりと眠りに就くのだった――。
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