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社会不適合者が凄腕のバリスタになっていた件  作者: エスティ
第10章 バリスタコーチ編
237/500

237杯目「愛弟子の晴れ舞台」

 4月中旬、僕と伊織はWBrC(ワブルク)に参加するべくボストンに飛んだ。


 今回は僕がコーチで伊織が参加者であり、前回出た時とは真逆の立場だ。


 ボストンでもカフェ巡りがしたかったから丁度良かった。


 最後にアメリカまで行ったのはバリスタオリンピック2011シアトル大会の時だから8年ぶりか。


 ボストンはアメリカ独立後に製造業の中心地となり、重要な貿易港へと発展した。


 長く豊かな歴史に惹きつけられ、年間1500万人を超える観光客がこの地を訪れている。市内及び周辺地域には世界トップクラスの高等教育機関があり、法学、経済学、医学、機械工学の分野は特に有名である。他にも金融、ビジネスサービス、バイオテクノロジー、ITテクノロジー関連の企業が多く存在し、常にアメリカの先導的な役割を果たしてきた。


 僕と伊織は重いスーツケースをホテルに預け、ボストンの市街地を歩いている。


 ボストンに着いてから既に数日が経過した。


 僕らは最後の調整を前に、外に飯を食べに行っているところであった。


「ビルがたくさん建ってますねー」

「如何にもアメリカの大都市って感じだな。アトランタとかシアトルに行った時とあんまり変わらないから困る。大会が終わったらカフェ巡りするから、しばらくは練習だな」

「そうですね。お母さんも大会当日はここに来るそうです」

「応援しに来てくれるってことはバリスタになることを完全に認めたわけだ」

「はい。昔は本当に厄介でした。私が初めてのJHDC(ジェイハドック)で決勝進出した時なんか、その実績を活かして、大手のコーヒー会社に転職したらって言ってくるんですよ」

「ふふっ、それ僕もめっちゃ言われた」

「あず君もなんですか?」

「うん。僕も法人化するまでは、優勝するたんびに大手に就職するよう言われたな」

「あず君が就職するところなんて、想像できないですよ」


 伊織が言いながらクスッと笑った。正直に言おう。僕も想像できない。


 考えることはどこも同じか。子供の可能性に気づけない親ほどやってしまいがちな言動だが、働いてるだけまだいいだろ。今なんかポテンシャル採用という状況下でもまともに就職もできない人が増えてるんだからさ。僕だったら就職してもすぐ穂岐山社長と方針がぶつかって辞職していただろう。


 しかし、それは会社という尺度で見れば間違っている。社員というのは上司の言う通りに動く駒でなければならない。ましてやその社員が会社の反省点をピックアップして上司に突きつけるのは、反旗を翻すのと同じである。それは本来役員の中でも、参謀役にいる人の役割だからだ。


 上司に対する発言力がない社員という立場にいながら個人的な方針を考えてしまう時点で、サラリーマンには向いていないのだ。自分の意思を優先したいんだったら、独立してからやってみろって話だ。


 僕はどこにも属したくはなかった。何を言っても流されるのが目に見えていた。


 企画を提案しても、尖ってるねとか、個人の感想ですみたいなことしか言わない人が世の中を変えることはない。そいつらは常に現時点での社会方針に追従する側の人間だ。僕はあんな惰性で働いているような無気力人間が嫌いだし、そいつらと一緒に仕事をしたいとは思わなかった。


 葉月珈琲は社員に質を求める代わりに給料が高い。


 シンプルだが、質の高い人間のみを採用することで利益を最大化できる。社員は利益の最大関数だ。だからこそ軽視してはならない。うちに僕みたいな人間が入ってきてもいいように、自ら考え行動することを認める代わりに結果を求めている。無論、結果の責任は僕が取る。それが社長の役目だ。


「あの、実は静乃が妊娠したんです」

「へぇ~。確かあいつ、結婚したって言ってたなー」

「はい。熊崎さんも喜んでましたよ」

「何で隼人が出てくんの?」

「静乃の結婚相手だからです」

「――ええ~っ!」


 おいおいおい、あいつ静乃と結婚してたのかよ。


 まあ中学時代唯一良心的だったクラスメイトだし、あいつなら特に問題はないだろう。


「知らなかったんですか?」


 半ば呆れ顔で伊織が言った。そんなの全く知らなかったなぁ~。


「うん、全然」

「ホントに他人のことには興味ないんですね。璃子さんが言ってた通りです」

「えへへ、最近全然会ってなかったからなー。しょうがねえよ」


 確かバリスタオリンピック東京大会の翌年に結婚したとは聞いていたが、それがあいつだったのは幸いかもしれん。隼人は去年広告部が投稿部に統合された後、大輔たちと共に投稿部へと異動した。宣伝することにおいて役割が被っていた。相変わらずデザインやマガジンの担当を務めており、宣伝する時は動画を使う。今や宣伝は動画だけで事足りるようになった。分業化が進み、リサたちが動画の出演者に徹し、大輔たちが編集担当となっている。他のみんなが人気者になったことで僕への人気集中を分散してくれているのも投稿部の重要な役割であり、うちの法人用チャンネルは登録者数が2000万人を超えている。僕の個人用チャンネルも登録者数が1000万人を超えており、僕は日本を代表する動画投稿者にして、あらゆるニュースの御意見番となっていた。伊織が言うには、2人は岐阜コンで出会ったらしく、僕が色んな大会に出ている内に順調に仲を深めていったんだとか。


 柚子が定期的に開催していた岐阜コンは、色んな人たちに出会いの機会を与え、僕らにここまでの影響を与えていた。いつかまた……岐阜コンを復活させたいな。


 ――ん? 待てよ。確か今年からは僕が葉月商店街の会長になったんだよな? だったら商店街主催で開催できるんじゃねえか? 葉月商店街はイベントの開催には意欲的だし、商店街での開催なら柚子マリッジみたいに、予算に齷齪する必要もない。外国人観光客が大勢訪れるほどのカフェの激戦区にしてコーヒー聖地になりつつあるうちの商店街での岐阜コンであれば、多くの人が参加するはずだ。


 我ながら良いアイデアだ。帰ったら柚子に提案してみるか。


「まあ、先週までは真理愛さんとディアナさんの練習につき合ってましたもんね」

「そうだね。それにしても、静乃も遂に子供を持つ歳になったか」

「それは嬉しいですけど、お母さんからこの知らせを聞いた時、伊織はいつになったら孫を見せてくれるのかって言ってきたんですよ。あれは立派な孫ハラです」


 伊織が言いながら眉間に皺を寄せ、頬を膨らませた。


 怒ってるところも可愛い。何だか小さい頃の伊織に戻ったようだ。


「昭和生まれの親は、みんなそういうもんだ」

「やりたいことには反対するし、結婚に孫まで要求してくるし、親ってどうしてこうも、子供にあれこれ言いたがるんでしょうね」

「自分に自信がない親ほど子供を放っておけねえんだよ。でも2人目以降の子供のことは放置してくれる場合が多いから、璃子はほとんど何も言われなかったわけだ。でも総合的には璃子の方が人間として立派に育ってる。それで放っておかれた子供の方が伸びるってことだ」

「1番上の子供が割を食うんですね」

「僕も1人目だからな」

「「はぁ~」」


 皮肉にも親によって苦労させられた者同士だからこそ分かり合えた。理由が悲しすぎる。静乃が連れてきてくれなかったら、伊織は今頃施設にぶち込まれ、教育による犠牲者の1人に数えられていたのだと思うと、彼女の功績は本当に大きい。連れ込みを断らなかった昔の僕も偉いぞ。


 ――そういえば、莉奈はどうしているんだろうか。


「莉奈はどうしてるの?」

「莉奈はメイドインメルヘンのマスターになりました」

「ピッタリとハマったな」

「あず君の言ったことを忠実に守った結果ですよ。できないと言わずに与えられた仕事を200%忠実にこなしてみろって言ったのが効いたみたいですね」

「大半の労働者は生きるために惰性で働いてるし、やる気があるだけで重宝されるブルーオーシャンだって言ったら、乗り気になった」

「あず君は人をその気にさせるのがうまいですね」

「僕はあいつらの精神構造を逆手に取っただけだ。あいつらは徹底して責任を取りたがらない。だから動かないことに対して責任を負わせれば簡単に動く」

「あず君の言うことだから従っているのもあると思います。アンチも多いですけど、何だかんだ言ってみんなあず君が大好きなんですよ」

「さっき空港で色んな人にツーショット写真を撮られて疲れたけどな」

「サインはしないのにツーショットには応じるんですね」


 伊織と他愛もない会話をしていると、またしても僕をスマホで撮影する人が現れた。


 ボストン市内のホテルへと急いだ。


 僕らはWBrC(ワブルク)に向けて調整を重ねるのだった――。


 ――大会1日目――


 翌日を迎え、伊織の今までの成果が試される時がきた。


 この年のWBrC(ワブルク)には40の国と地域から40人が参加した。


 僕が参加した頃よりも人数が増え、大会自体のレベルも大きく上がっている。


 伊織の出番は大会2日目だが、ここで見ておくことでおおよその流れを掴んでおきたい。僕による今までの経験則である。他のバリスタの競技から新しい発想を学べるし、決勝にいけそうな人をじっくり確かめて知り合う機会にもなる。僕がバリスタオリンピックに出場した時は今までに多くのバリスタから貰ったアイデアの集大成を現出するつもりで参加した。


「みんなドリップコーヒーに命懸けてますね」

「それは伊織も同じだろ。この舞台にはコーヒーオタクしかいない」

「思う存分コーヒーを語り尽くせる場所なんですね。私、今とても幸せです」


 伊織が言いながら僕に微笑みかけた。この時、僕は伊織の育成に成功したと確信した。


 伊織はやりたいことを言えないせいで、人生が不幸になっている人の象徴的存在だった。コーヒーが好きなのに、親からも学校からも趣味を否定され、ありもしない安定という名の虚構を押しつけられていた頃が懐かしい。初対面の時なんか、自分の人生本当にこれでいいのかと言わんばかりの顔だった。


 伊織は初めてゲイシャのコーヒーと出会い、全く新しいコーヒーを味わったことで、彼女の瞳に僅かながら光が戻ったのが分かった。僕が初めてゲイシャのコーヒーを飲んだ時と同じ目をしていた。


 あの輝かしい目を見た時、彼女もこっち側の人間であると確信した。本当はコーヒーが好き。だがそれを表現できる居場所がなかった。口には出さなかったが、何故か彼女の声なき声を理解することができた。これは人の痛みを知ったことで、人の痛みを汲み取れるようになれた僕自身の進歩でもあった。


 ずっと鈍感なままだったら――ふっ、考えたくもないな。


 ――大会2日目――


 40人の内、20人の競技が終了し、残り20人の競技が始まった。


 決勝へと駒を進められるのはたったの6人。だがそれだけ枠があれば十分だ。


「ふぅ、やっと終わりました」


 自分の番を終えたばかりの伊織が僕に歩み寄ると、気が抜けたように疲労が顔に表れていた。


 僕はサポーターとして、伊織の片づけを手伝っているところであった。


 伊織にはあの10分間が1時間にも2時間にも感じていただろう。


 それほどまでに緊張していたということでもあり、極限まで集中していたということでもあるのだからもっと誇っていい。あの時間をよく乗り切ったな。初めての世界大会にしては上出来だ。


「お疲れさん。後は結果発表だな」

「ですね。決勝もやること変わらないですよね?」

「うん。僕の時はオープンサービスだけで、必修サービスはなかったから気楽だったけど、今回はどっちもやることになってるからなー」

「そうですね。必修サービスはどんなコーヒーかを探る必要があるので、ある意味オープンサービスより難しいと思います」

「コーヒーの声は聞こえたか?」

「はい。3投目は少なめにってアロマが教えてくれました」

「僕が言うことは何もないな」

「私はまだ一流じゃないんですよ。まだ教わってないこともありますし」

「もう一流だよ……僕にとっては」


 伊織は自分の手でアイデアをものにすることができている。次からは僕のように自らアイデアを探していけるだろう。自ら考え行動できるようになった時点で、教えることは何もない。


「伊織、お疲れさん」


 観客席から見ていた伊織の母親がステージに歩み寄ってくる。


 いつもと変わらない格好だが、伊織の収入増加によって生活が安定したのか、すっかりと上機嫌になっているようだ。2人は新しい家を借りて生活している。


 以前よりも広く便利な家だが、伊織はそのままでも良かったらしい。そりゃそうだよな。伊織は欲しいものを手に入れてるんだし、本当の意味で救われているなら、家なんて狭くていい。


「お母さん、見ててくれた?」

「うん、ずっと見てたよ。英語だから何言ってるか全然分からなかったけど」

「コーヒーの美味しさを最大限引き出すにはどうすればいいのかを説明してたの。最高に美味しいコーヒーって、あず君みたいなトップバリスタにしか淹れられないものだと思ってたけど、私は誰が淹れても最高のコーヒーになる抽出メソッドが欲しかったから。自分で開発してみたの」

「ふーん、なんか伊織変わった気がする」

「……そうかな?」

「うん。だって昔の伊織は全然楽しそうじゃなかったし、私もどうすれば笑顔になってくれるのかなってずっと思ってたの。でもあず君の言葉で分かったの。伊織を困らせていたのは私だったんだってね。だからあず君の忠告通り、何も言わないようにしたの。時代はもう変わっているのに、それに気づけないために子供を時代に合わない人間にしてしまうのが、引き籠りの原因なんでしょ?」

「そゆこと。ほとんどはその自覚すら持てないから厄介なんだけどな」


 伊織の母親は娘の不幸の原因をようやく理解した。不幸な子供を作ってしまうのは親であり、実は親の方こそ限界なんだと思い知らされた。朝から晩まで親から引き離すようにしたのは正解だった。


「あず君だったら、教育者になれるかもしれないね」

「教育者なんてなりたくねえよ」

「どうして?」

「だって学ぶ気のある人に教育者なんていらないもん」

「ふふっ、確かにそうですね」


 伊織が言いながら笑った。伊織の母親はきょとんとしているが、彼女には意味がまるで通じていないらしい。まあ、分かる人ならここまで苦労はしてないか。


 教育者が必要な時代は終わった。教育を受けようと思えば動画で全てを学ぶことができる。何なら教育の必要性自体薄いし、五感で全てから学ぶことができる。僕はラテアートの影響でイラストを描くようになったが、ペンで文字を書くことはほぼないといっていい。子供がいる家庭に文房具のセットを買わせるのは立派な貧困ビジネスだ。昔から続いてきた文房具屋の既得権益を守るためとしか思えない。そんなものにつき合う気はない。肝心なものは何1つ与えてくれなかったのだから。


「まあでも、あず君がそう言うなら、そうなんだろうね」


 この言葉は今の僕の地位を物語っていた。同じことをニートが言おうものなら、言い訳するなと言われてお終いだ。こいつが言うんだから間違いないと思われるくらいの地位に上り詰める必要があった。


 しばらくして結果発表が行われる。


 ここでほとんどのナショナルチャンピオンが脱落となるが、特に心配はしなかった。


「4人目の決勝進出者は、日本代表、イオリーモートースー!」


 拍手喝采と共に、伊織が他のファイナリストたちがいる場所へと移動する。


 その顔は幸せに満ちていた。ようやく飛べるようになった鳥のようだ。


 日本、中国、台湾、イタリア、スイス、スウェーデンの代表6人が決勝進出となり、明日の大会3日目に全てが決まる。伊織が優勝できるほどの逸材かどうかが試されている。


 この日の夜はホテルで夕食となった。僕、伊織、伊織の母親の3人で席に着いている時だった。


「あず君、久しぶりだね」

「あれっ、中津川社長、何でここに?」

「伊織の応援に来た。決勝進出おめでとう」

「おじさん。静乃はどうなの?」

「もうだいぶ体調が安定してきたみたいだよ」

「よかったぁ~。この頃ずっと会いに来てくれなかったから心配で」

「まあ、妊娠中だからね」


 どうやら伊織の母親が呼んでいたらしい。


 僕らは4人で夕食を食べながら今までのことやこれからの事業を語り合った。中津川グループは去年の暮れに解散し、ただの大手コーヒー会社へと降格した。今はジェズヴェなどの抽出器具を専門にしたカフェを展開している。収まるところに収まったというか、うちにとって脅威になることはない。


 日本には無数のグループ企業がある。


 その内の1つが解散したというだけで、あまり大きなニュースにはならなかったが、中津川グループの解散により、岐阜県内におけるコーヒー事業の影響力を葉月珈琲が独占することとなった。


「――静乃も、莉奈も、伊織も、みんな立派に育ってくれて本当に良かった。静乃はともかく、莉奈と伊織は将来どうなるかが本当に心配だった。莉奈はメイド喫茶のマスター、伊織は葉月珈琲を代表するトップバリスタ。君には感謝してもしきれない。本当にありがとう」


 丁寧に話しながら中津川社長が頭を下げた。やっぱり心配だったんだな……2人の将来が。


「僕は背中を押しただけ。伊織たちがここまでやってこられたのは彼女たち自身の功績だ」

「だとしても、あず君の影響は本当に大きいと思う」

「莉奈と伊織があのままだったらどうしてたわけ?」

「その時はうちでバリスタとして雇っていたかもしれないけど、その頃にはやる気そのものが死んでいたかもしれない。あず君が言っていた教育問題は私も常々感じていた。だから君が伊織を学校から出してくれた時、本当は感謝していたんだ」


 中津川社長が言うには、ほとんど教養を身につけないまま、新卒で入社してくる若者が後を絶たず、中津川珈琲では新入社員に向けた再教育が行われているんだとか。


 10年以上かけて体に染みついた従順性や同調性は簡単には取れないぞ。


 結局、こういうところに皺寄せが来てるんだよなぁ~。


 だがそれだけならまだマシな方だ。中には読解力や理解力が著しく低いばかりか、コーヒーにまつわる専門用語すら知らないまま入ってくる人もいる。あれだけの時間をかけた成果がこれか。これじゃ人的資源にもなりゃあしない。うちは有能しか雇わないって決めてるけど、即戦力ばかり求めるやり方ではいずれどこかで頭打ちになる。人間力に長けた人材の確保はうちにとっても課題となっている。


「中津川珈琲からも次世代を担うトップバリスタを輩出したいんだが、このままだと立派なバリスタになる頃には中年になってしまうし、うちが存続している保障もない。君が言っていた通り、世の中の変化は恐ろしく速い。今のままじゃ、間違いなく置いていかれてしまう」

「だったら新卒採用を止めればいいじゃん。みんなが新卒採用をやめて、より能力の高い人ばかりを雇うようになれば、必然的に競争力は高まっていくし、うちは引き籠り予備軍みたいな連中を葉月珈琲塾で預かって、将来的にバリスタの才能がある卒業生の何割かを事実上うちで雇う形式になってる。バリスタになりたい人なら、いつでも歓迎だ」

「君が珈琲塾を経営しているのは知っているけど、松野君たちの珈琲塾とはどう違うのかな?」


 中津川社長が真剣な眼差しで尋ねた。伊織たちも僕らの話を真剣に聞いている。


「全然違う。松野珈琲塾は元からバリスタやってる人を育ててレベルを底上げする場所。それに対してうちは根っからの人間力を育てる場所だ。トップバリスタになるのに1番必要なのはバリスタとしての知識でもなければ技能でもない。人間力だ」

「人間力? それまたどうして?」

「何を目指すにしたって、失敗や困難はつきものだ。まずはコーヒーの学習を通して、失敗を恐れないようにする逞しさを習得することに重きを置いているわけだ。知識とか技術とかを教えるのもいいんだけどさ、そもそもめげない人間にしないと」


 うちは美味いコーヒーを辛抱強く納得がいくまで淹れる。どうやったらもっとコーヒーが美味くなるかを子供自身に考えさせ、実験を繰り返させることで自主性や辛抱強さが育つ。


 美羽が言うには、松野珈琲塾や穂岐山珈琲育成部を辞める者が後を絶たない。僕が最後に行った時のメンバーは1人も残っていないんだとか。新陳代謝どころか、全細胞が脱走する勢いだな。


 これも恐らく……逞しさを身につけられなかった代償だ。

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読んでいただきありがとうございます。

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