233杯目「太陽と月」
土産物屋に緊張が走る。璃子も優子も僕の動向を見守っている。
葉月商店街の中央にある『土産物水野』には様々な日本の現具が置いてあるが、同時に凜の人生の決定権まで一緒に置いていた。今はそれが義務教育によって買われている状態だ。
何としてでも凜の手に取り戻す必要がある。商店街のすぐ近くには就労支援施設がある。僕としては何としてでもあの施設を取っ払ってしまいたいのだ。僕にとって施設は飯を食えない人間の溜まり場。あれが当たり前のようにどこにでもあるということは、飯を食えない人間が多いということだ。
これ以上そんな人間が増えれば、またあんないけ好かない施設が増えてしまう。
それだけは何としてでも阻止する必要があるのだ。
「――分かりました。そこまで仰るなら、娘の将来を預けます。ただし、バリスタの道を究められなかった時は、高卒認定試験の費用から大学の学費までを全額負担してもらいます」
「お父さん、私、バリスタの道に行くなんて決めてないんだけど」
「葉月珈琲塾に行ったんならバリスタを目指すべきだろう。それともやらないのか?」
おいおい、葉月珈琲塾に行ったらバリスタって、発想が短絡的だな。恐らく野球の強豪校に行ったら絶対プロ野球選手にならないといけないとか思ってんだろうな。たった1つの道しか思いつかないのはそれこそ敷かれたレールの上を歩く発想だ。無論、本人も気づいちゃいない。
葉月珈琲塾を卒業した後の進路は、本人たちが自由に決める。
別に葉月珈琲塾を卒業したからと言ってバリスタの道一本に絞る必要はない。葉月珈琲塾で培われた生きる力、没頭する力、創造する力は、他の道を目指す場合にも役立つからだ。
うちを卒業した連中がコーヒーという共通の趣味を持った友人に出会い、コーヒーグッズを販売する会社を立ち上げるかもしれないし、コーヒーにまつわる知識や専門用語が書かれた本を出版するかもしれないわけだし、バリスタにならずとも、いくらでも道はあるのだ。
うちは1年から3年もあれば全課程を修了することができ、卒業資格を得た生徒に対して発行された卒業証明書を持っていれば葉月珈琲にトップバリスタ候補生として特別待遇で入社することができる。但し、入社の意思表明期限は中学卒業までだ。うちを卒業する意味と言えばそれくらいだが、葉月珈琲塾を卒業していった子供たちの中に、生命力がない子供は1人もいなかった。
3年の間に子供たちは親と学校のせいで失った、創造性、主体性、没頭力を取り戻し、社会の荒波へと羽ばたいていく。卒業する頃には自習ができるようになっているため、指導も通学も不要である。
自分でこれをやりたいと思いながら没頭できること、周囲の人を幸せにしてやれること、こういったことができなければ、生きる力や地頭を持っているとは言えない。
自律を取り戻した子供たちには、もはや怖いものなんてないはずだ。
ふと、卒業生が時々葉月珈琲へと遊びに来てくれるようになったことを思い出す。
彼らのうちの何人かは起業したり丁稚奉公に行って手に職をつけたりしており、着実にやりたいことに没頭する人生を送っている。だから凜がバリスタになりたくないなら無理に目指す必要はない。
葉月珈琲塾の目的はあくまでもバリスタ修行を通して生きる力を身につけることであって、バリスタになることではないのだ。そう思っていたが――。
「……分かった。じゃあもし私がバリスタになったら、もう二度と私に学校行けって言わないでよね」
「ああ、いいとも」
「本当にいいのか?」
「自分の人生くらいは自分で決めたい。葉月珈琲塾に通っている内にそう思えるようになってきたの。みんな凄く楽しそうにコーヒーを淹れてるし、ラテアートだったらずっと没頭していられるから、本当にやりたいことを見つけるまではバリスタの仕事を究めたい」
「……勝手にしろ」
「やったぁー!」
普段は冷静沈着な凜が燥ぎながら僕に抱きついてくる。
余程親に拘束されるのが嫌と見た。ここまで啖呵切った以上は立派なバリスタにしてやらないとな。
「凜、うちを卒業したら、真っ先に僕に報告だぞ。それまでしっかりとバリスタ修業しておけ。うちの仕事は修業の何倍もきついからな」
「分かってる。待ってて。必ずあず君のお店に就職するから」
凜は満面の笑みを浮かべながら言った。凜の父親は落ち着いた様子で新聞を読み始めた。勝手にしろと吐き捨てるように言っていた半面、内心は手放せないほど不安そうにしている。
璃子はモチーフをスマホに撮り、ラテアートの練習をすることに。
帰ろうとしたところで、真向かいにある優子の家に彼女を送ったところだった。
「優子」
「なあに?」
「優子が引っ越したら、愛梨はどうなるわけ?」
「あー、あたしが引っ越したら、ここの家を愛梨ちゃんに譲ろうと思うの。お母さんは老人ホームで暮らすことになって、もう戻ってくることもないから」
「老人ホーム?」
「うん。あず君のお店に就職したお陰で、念願の老人ホームの費用を確保できたの。もしあたしが家でお母さんの介護をすることになったら、あず君に迷惑がかかるって言うから、自分から進んで老人ホームに入りたがっていたのが叶ったの」
「優子さんはうちにとって、貴重な戦力ですからね」
「もう、褒めたって何も出ないよぉ~」
優子のポテンシャルには驚かされるものがあった。
種類を問わず幅広く作れる料理の腕、何を作っても一流の味になる魔法のような調理技術は女神の腕と称された。湯水のように湧いてくるアイデア能力、仕込みから掃除まで、何でも雑務をこなす手際の良さ、積極的に大会に出る性格なら、今頃は超有名パティシエにでもなっていたんじゃなかろうか。
味覚や嗅覚も鋭く、暇潰しで出場したJCTCには初出場でいきなり3位入賞するくらいだし、バリスタオリンピックではマリアージュ部門のスコアの底上げに貢献してくれた。ワールドチョコレートマスターズでは璃子が作ったチョコレートに優子のアイデアが反映されていた。
『主役が合う人もいれば、脇役が合う人もいる。だから世界は輝いて見えるの。それこそ、七色の虹のようにね。全員が主役の映画なんて存在しない。あたしには誰かを支える脇役の方が合ってるの。そうじゃなきゃ、多分ここまでの力は出せなかったと思う』
僕が大会に出る時、優子が言っていた言葉を思い出した。
優子がなかなか大会に出ようとしない理由を聞いた時、彼女は空を見上げながら答えた。
太陽があるからこそ月は輝く。優子はそう言いたげだった。
「じゃあ、また明日ねー」
「お疲れ様です」
「お疲れー」
優子を家まで見送ると、しばらくは璃子と一緒に自宅まで歩いた。
「お兄ちゃんって、学校嫌いの子供が放っておけないんだね」
僕と同じ景色を共有しながら璃子が言った。外は夕焼けが終わる頃だ。人通りが段々と少なくなり、同時に居酒屋などの店が開店していき、日光の代わりに照明がたくさん灯されている。
「なんかああいう子を見ているとさ、昔の自分を見ているみたいで、放っておけないというか、目の前で才能を摘まれていくのが口惜しくてな」
「葉月珈琲塾もそうだけど、要するに、お兄ちゃんと同じ匂いのする子を集めてるんだよね?」
「そうかもな。多分、全国には僕みたいなのが一定確率で存在する。その内のほとんどが大学まで行かされて引き籠りになっているとしたら、せめて岐阜市内だけでもどうにかできないかと思ってる。伊織は最初の例になるだろうな」
「じゃあさ、インターネットでコーヒーに強い興味を示している子供を集めたらどう?」
「集めるとは言っても、旅行で来てもらうのが限界だぞ」
「旅行でも相手の親が気に入れば、定期的に通ってもらえるようになると思うよ。家にいる時もお兄ちゃんの動画を見ながらコーヒーを抽出できるわけだし」
「うちに入塾するには不登校になるのが条件だ」
「その不登校の子だけど、段々増えてるみたいだよ。主にお兄ちゃんの影響でね」
「マジでっ!?」
思わずぽかーんとしながらのけ反ってしまった。璃子が言うには、全国中にコーヒーに強い興味を示している子供が増え、その内の何割かは集団に馴染めなかった不登校の子供らしい。
僕が学校不要論を唱え続けた成果が少しずつ表れ始めていた。不登校であれば、必然的に動画を見る機会が増え、結果的に僕の動画に辿り着く確率が高くなる。彼らは僕の動画を通して今の社会を知り、洗脳が解けた状態に戻るや否や好きなことをし始めている。僕の考えに対して好意的な親もいるため、一度ああいう子供たちを保護者ごと集めて葉月珈琲塾に通わせるのもいいかもしれない。遠出の子供、うちの地域外に住む子供の場合、定期的に来てもらい、課題を与えた上で、解決手段や習得手段は子供に委ねる。インターネットを駆使すれば、どこにいても葉月珈琲塾と同じ教育を受けることが可能だ。
「とりあえず子供向けのマニュアルを作って、後は子供に任せるとかでいいかも」
「じゃあ葉月珈琲塾のマニュアル動画とか作ってみようかな」
「また課題が増えちゃったね。でも全員同じにするとなると、かなり時間かかるかも」
「そうでもないぞ。全員同じにする必要はないし、基礎だけ教えた後は、子供たちが勝手に学び始めるだろうし、動画の文字を理解するために文字を勉強したりするようになるだろうし、基礎学力の心配もいらない。『バリスタ革命』はこれからだ」
「ご飯を食べられる大人になれるといいね」
「食べていくだけだったら誰でもできる。人に頼ることを恥ずかしいって思わせるような教育さえしなければな。ただで何でもやる人にでもなったら、飯ぐらい奢ってもらえるだろ」
「ふふっ、お兄ちゃんらしい」
帰宅すると、璃子はラテアートの練習をし始めた。
自ら日本文化のモチーフを見ながら、練習用のインスタントコーヒー用の小さなエスプレッソマシンを使い、エスプレッソがコーヒーカップに注がれていく。どうやらモチーフが固まったらしい。
近づいても全然気づかない。そっとしておいた方が良さそうだ。しばらくは璃子を1回に置いたまま先に夕食を済ませ、後から2階に上がってきた璃子に夕食のメニューを提供する。
「璃子、ずっとラテアートの練習してたの?」
柚子が璃子に話しかけた。この日は柚子もカッピングで忙しかった。唯は3人の子供たちを落ち着かせてから寝かせており、子供の面倒を見て疲れが溜まっていたのか、唯も眠ってしまっている。
「うん。ちょっと夢中になりすぎたかも」
「段々あず君に似てきた気がする」
「ええっ!? いやいや、それはないから」
「璃子はさー、大会が終わったらどうするの?」
「……今は何も考えてないかな。柚子は?」
「私はバリスタ競技会に出続ける。今度はJBCに出場して優勝を目指すの。JCTCで優勝してから、色んな男の人に声をかけてもらえるようになってね、それで色んな大会に出たら、良い男に出会えるんじゃないかって思ったの」
「柚子にかかれば、どこも婚活会場だね」
「うん。だから相手が見つかって、結婚するまでは続けようと思ってるの。あず君と唯ちゃんを見ていたらさ、私も子育てしたくなってきたから」
うちが良いお手本になっているなら何よりだ。
2月中旬、JLAC決勝の日がやってくる。
前日に東京で泊まっていた僕と璃子は直前まで練習を繰り返した。
モチーフも無事に見つかり、後はそれをラテアートで表現するだけだった。
当日はサポーターとして蓮が璃子を手伝うこととなり、黙々とステージの設置を行っている。璃子は世界的な某動画サイトでも有名になっていたことから、会場には璃子の応援に駆けつけたファンが大勢いた。あいつも人気になったな。昔はあず君の妹って呼ばれていたのが、今は璃子ちゃんだ。
「璃子ちゃーん! 頑張れー!」
「璃子ちゃん! ファイトー!」
あれだけ熱心になれるファンを持てて幸せとは思うが、璃子は対人関係が苦手だ。人前では普通に接することができるが、内心では物凄くビビっている。外に出て人に会いに行くような仕事はまず無理と言っていたが、璃子が18歳の時、璃子のグラビア写真集を宣伝のために発売してからは外で一層声をかけられるようになったそうな。お陰でチョコも多く売れるようになったから結果オーライだ。
璃子としては売れなくても最高のチョコを作れればそれでいい感覚だったんだろうが、あれはもっと世に知れ渡っていい。璃子の作品は真心そのものだ。
チョコレートであれ、ラテアートであれ、見る者を惹きつけるだけの何かが備わっていた。
璃子の競技が始まり、第1競技者として先陣を切った。
練習通りの流れ作業で次々とラテアートを描いていく。フリーポアラテアートでは達磨と伊勢海老、デザインカプチーノでは歌舞伎役者の浮世絵をエッチング技術を駆使しながら再現している。
アートバーではでんでん太鼓を描いていた。棒と紐の部分を赤色に染め、太古の部分にある3つの斑点をチョコレートシロップで表現し、見事なまでのでんでん太鼓がくっきりと出来上がった。
「――璃子さんがこの大会を選んだのって、あんまり喋らなくてもいいからなんですかね」
僕の付き添いで来た伊織が言った。
いずれはバリスタオリンピックを目指す身として、璃子の競技に興味津々だった。大会を間近で見た経験も含め、伊織の10代の時のバリスタとしての経験値は、10代の頃の僕を上回るペースだ。
「間違いないだろうな。チョコアートもラテアートも、手先の細かさを活かせる職人技だ。璃子とは相性の良い競技会だろうし」
「璃子さんは精神的にも技術的にも、とても繊細ですもんね」
「細かいところまで気を使うところは僕に似たかもな」
「伊勢海老がかなり細かく描かれてますね。今にも飛び出してきそうです。私もあんなラテアートを描けるようになりたいです」
「できる。伊織も手先は細かい方だ。バリスタオリンピックだったらフリーポアとデザインカプチーノを合計6種類考えればいい」
「あず君は日本を代表する動物を6種類書いてましたよね」
「そうだな。テーマに沿って考えた方がやりやすいからな」
「じゃあ私もテーマを考えておきます」
伊織が期待を膨らませながら言った。せめて決勝進出するくらいの実力を身につけさせておきたい。
そのためには一刻も早くコーヒーカクテルを学んでおく必要がある。4月になれば伊織を拘束している競技は全て終わる。その先まで決めておきたいところだが、今は集中させてやりたい。
「あっ、璃子さん終わりましたね」
「5年連続ファイナリストなだけあって、このステージに慣れてるな」
「連続でファイナリストって凄いですね」
「JBCだと、10年以上連続で予選突破してる人もいるし、ルールをしっかり押さえておくだけで、予選突破はできる。逆に言えば、そういう人でも予選突破が難しくなってきたら、バリスタ競技会のレベルが上がったと認識していいんじゃねえかな」
「璃子さん、去年までと全然雰囲気が違いますね」
「今回は僕がコーチに就いたし、以前よりもずっとやりやすくなってる。去年まではテーマを絞ることができていなかったから、その弱点を克服した今の璃子は、もう手がつけられないと思うぞ」
「ラテアートは自由度が高いからこそ迷うわけですね。テーマを決めて描くモチーフを絞るのは迷わないようにするためですよね」
「その通り。ある程度縛りがあった方がアイデアは思いつきやすい。選択肢が多すぎると、決めるのに時間がかかっちゃうし、自由なところが実は罠だったりする。僕はそれに逸早く気づいたからこそ練習時間を確保できたわけだ」
「だから璃子さんにテーマを絞ることを提言してたんですね」
伊織には良い勉強になったと思う。これでラテアートに迷いを持ち込むことはないだろう。璃子の結果次第では引き続きコーチを務めることになるが、4月までは伊織のコーチに回りたいところだ。
夕方になると、結果発表の時間がやってくる。
そして――。
「ジャパンラテアートチャンピオンシップ優勝は、株式会社葉月珈琲、葉月珈琲岐阜市本店、葉月璃子バリスタです。おめでとうございます!」
周囲から歓声と拍手が送られ、璃子はそれらに対してお辞儀で応えた。
喜びよりも安堵の方が大きかった。璃子のホッとした笑顔を見れば分かることだ。
璃子は出場5回目にしてJLAC優勝を収め、6月にベルリンで行われるWLACに出場することとなった。これで葉月珈琲から4人目の日本代表が決まった。
これで8種類あるメジャー競技会の内、4つのバリスタ競技会の日本代表を葉月珈琲から輩出することができた。これには会場にいた松野たちも思わず息を飲んだ。
「葉月、後で顔を貸してくれないか?」
「別にいいけど、璃子と伊織も一緒でいいか?」
「ああ、構わない」
真剣な眼差しで松野が言った。彼は葉月珈琲勢の強さの秘密を知りたがっていた。
僕らに注目していたのは、何も彼だけではない。松野の隣にいる根本を始めとした、松野珈琲塾所属の教え子たち、そして全国のコーヒーファンだ。
しばらくして黄金のミルクピッチャーが土台に乗った優勝トロフィーを膝に乗せた璃子が中央にいる形となった大会関係者たちの集合写真を撮ると、全日程を終えた璃子がようやく解放された。
「はぁ~、やっと終わったぁ~」
「お疲れさん。疲れたでしょ。あそこのカフェで飲もうよ」
「うん、分かった。松野さんたちも一緒なんですか?」
「ああ、ちょっと君たちと話したいことがあってな」
「話したいこと……ですか?」
きょとんとした顔で璃子が首を傾げた。
僕、璃子、伊織、松野、根本の5人はカフェに入ると、まるで会合のようにテーブル席に座り、松野たちの話を伺うことに。松野たちからの主な質問は何故そんなにもチャンピオンを輩出できるのかというものだった。これを聞いてくるということは、まだ自分たちの敗因に気づいていないということだ。
「前にも言ったと思うけど、うちは練習時間に制限を設けない。それに大会1ヵ月前は店の営業を休んで練習に没頭することになってる。他のコーヒー会社はそこまでする余裕がないから、仕事の合間と休みの日にしか練習しないだろ。そこで差がついてんだよ」
「うーん、悩みどころですね。もし僕が1ヵ月も練習ばかりで仕事をしていなかったら多分クビです」
「だったらフリーランスで出場して、自宅で好きなだけ練習すればいいじゃん」
「それができるような設備も経済的余裕もないですよ」
松野たちの敗因は明らかだった。教え子を多く作って数に物を言わせ、全員に同じ練習をさせるというものだった。しかも店の営業時間中はロクに練習を重ねることもできない。仕事をしなければお金を稼ぐことができないという葛藤と闘いながら過ごしてきた彼らに、一歩踏み出す勇気はなかった。
これじゃ何のための塾か分からない。自分たちの中から1人でも多くのトップバリスタを輩出して、世界へ羽ばたく人間を増やすのが目的の塾ではなく、あくまでも国内予選出場レベルのバリスタを量産するのが限界であった模様。せめて大会の1ヵ月前くらいは、練習に没頭することを許容するべきだ。
「松野さんは職業としてのバリスタの質を高めるだけで、世界に行けるトップバリスタを輩出するところまで到達してないんだよ。せめて塾を常に開放するとかあるだろ」
「葉月が言った通り、塾は24時間いつでも利用できるようにはしたけど、うちの教え子たちがやってくるのは、仕事が終わってからの数時間、もしくは夜勤する人が昼間訪れるくらいだ」
「僕は大会前、時計なんか見ないで、ずっと練習してたぞ」
「「……」」
気づけば夜が明け、抽出のしすぎで手が動かなくなった日もあった。
だがその分、コーヒーと感覚を一体化させる術はしっかりと身につけた自負がある。これで負けたら才能がないと、胸を張って言えるくらいには自信を持っている。
いや、自信がなかったからこそ、誰よりも長く練習したと言っていい。そんな僕を見てきた周囲の同僚たちにとって、仕事の合間だけ呑気に練習することなど、到底考えられない。
穂岐山珈琲の連中が勝てるようになるには、まだまだ時間がかかりそうだ。
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