230杯目「山積する課題」
シドニーでのWACが終了し、シドニーやメルボルンでカフェ巡りを楽しんだ。
伊織も多種多様なコーヒーに触れ、また1つ大きな経験となった。
これで世界三大コーヒー聖地の全てを回った。ヴェネツィア、シアトル、メルボルン、どこも本当に優れたバリスタを輩出するための理想的な環境となっていた。いや、あれは魔境と呼ぶべきか。どれも洗練されたカフェが集中的に立ち並ぶ場所があり、名店でなければ生き残れなくなっている。
そこで多くのバリスタたちが切磋琢磨することでコーヒーが洗練されていき、結果的に世界の頂点を究めるバリスタが数多く出てくる仕組みだ。いつかは岐阜をコーヒー聖地として仲間入りさせたいと強く願い、優勝トロフィーを抱きしめながら、帰りの便で日本に帰国するのだった。
「あっ、おかえりー。やっぱり優勝してたねー。おめでとうございます」
「……ただいま」
1番最初に出迎えてくれたのは千尋だった。他の身内からも出迎えてもらった。
カウンター席に両肘をついたまま上機嫌に後ろを向いた。
これは早くも選考会での成果が表れたものと思われる。選考会では真理愛が村瀬グループの酒、想定中を用いたコーヒーカクテルが作られており、かなり大きな話題となった。この宣伝効果により、村瀬グループが葉月珈琲に擦り寄ってくる形となった。
「それでさー、父さんが葉月珈琲と業務提携を結びたいって言ってきたんだよねー。一応父さんからの要望は伝えたけど、あず君はこれを狙ってたんでしょ?」
「そうだ。杉山グループに見放されたばかりの村瀬グループにとって、その原因になったうちは間違いなく嫌悪の対象だった。そこで村瀬グループに対して敵意がないことを示すために、どうしても村瀬グループの主力商品である、この『想定中』を使ってもらう必要があったわけだ」
「そこまでの回避策を思いつくあず君も凄いけど、うちのお酒で作ったコーヒーカクテルでコーヒーカクテル部門の1位を取っちゃう真理愛さんも凄いよ」
千尋が真理愛を素直に褒め称えたが、真理愛は苦笑いをするしかなかった。この策はコーヒーカクテルに精通した真理愛でなければ成り立たない。本当によくやってくれたと。とりあえずこれで千尋を独立させながら村瀬グループとの融和を図ることには成功した。
「むしろ最初から課題が絞られていたお陰で、やりやすかったんですけどね」
業務提携をするのはいいが、このコラボの後で業績を伸ばせるかどうかは村瀬グループ次第だ。これ以上は面倒を見きれない。真理愛には危ない橋を渡らせてしまった。彼女は日本酒には慣れていない。その分研究に時間を割くことになってしまったせいか、他の部門のスコアがあまり伸びなかった。
「何とか2位通過できたから良かったけど、癖の強い日本酒なのによくやるよ」
「えっ、それじゃあ、真理愛さんが2位になったのって……」
「いえいえ、あれは私の実力不足が原因ですから」
「僕の我が儘のために……ごめん」
「いいんですよ。実を言うと、この案自体が私の発案だったんです」
「ええ~っ!」
千尋が人目を憚らずに叫んだ。一瞬静まり返ったが、璃子たちがどうにかその場を宥め、再び時が流れるように、いつもの雰囲気へと戻っていった。客が大勢いるんだから自重してくれ。
「千尋君が親の都合で人生を規定されている話は、かなり前から聞いていました。それで昔の自分と重ねていたんです。私もそうでしたから」
「重ねていたって、どういうこと?」
「私も両親に縛られていたんです。バリスタを目指していたんですけど、ソムリエになることを期待されていて、それが元でコーヒーカクテラーという、バリスタとバーテンダーの中間に位置する存在になったんです。元々は両親との妥協案で始めたコーヒーカクテルですけど、これで同じ悩みを持つ人を助けられるならと思って、自分から引き受けたんです……千尋君?」
「……ありがとう」
千尋は目から涙を流し、迷惑をかけたという申し訳なさが感謝へと変わっていた。
真理愛にハンカチを渡され、またお礼を述べながらハンカチを受け取り、涙を拭き取った。
千尋の心は完全に僕ら側へと傾いた――。
彼を縛っていた心の天秤が、勢い良く引っ張られるように倒壊していく音が僕には聞こえた。
「僕は負けるリスクを考えて反対したけど、真理愛がどうしてもって言うから、最終的な判断は彼女に任せたってわけだ。でもよくやってくれた」
「自分で選んだんですから、自己責任ですよ」
「真理愛さん、言ってたよね。今回のバリスタオリンピックを最後に、ここから独立して、バリスタ競技会からも引退するって」
「はい。最後だからこそ、悔いのない競技がしたかったんです。死ぬ時に悔いだけは残すなって誰かさんが口を酸っぱくして言い続けてくださいましたから」
真理愛が一瞬だけこっちに目線を向けて言った。
利用する格好となってしまったが、彼女の目に悔いはなかった。
「真理愛さん、ラストチャレンジの時に僕をサポーターとして呼んでほしいな。今度は僕が真理愛さんを助ける番だよ。せめてこれくらいさせてほしい」
「ふふっ、いいですよ。あず君もそれでいいですか?」
「真理愛がそう言うなら、別にいいけど」
こうして、千尋が真理愛のサポーターを務めることに。
バリスタオリンピックの性質上、参加者以外の社員全員がサポーターなのだが、ポテンシャルに優れた千尋が率先して引き受けることは、主にカッピングを担当することである。コーヒーカクテルのカッピングは僕がやろう。なんか僕も手伝いたくなった。
この後、僕と伊織によるWACの土産話で盛り上がるのだった。
12月上旬、村瀬グループの社長にして、千尋の親父である村瀬社長がうちを訪問する。
千尋が来年のJBCに向けての相談を受けている矢先のことだった。
「――! 父さん!?」
ドアベルに反応して後ろを振り返った千尋が、度肝を抜かれた顔のまま固まった。扉を見ると、栄養を搾り取られた大木ように痩せこけ、白髪で細身の男性が厳しい表情のまま佇んでいる。目元が千尋に似ているが、どうやらこの人が御大将らしい。顔の皺だけで威厳を表しているように見えた。
「やっと見つけたぞ。全く心配ばかりかけやがって」
「何でここが分かったの?」
「休みの時はいつもここに来ていると聞いた」
「あんたが村瀬グループの村瀬千勝社長か?」
「そうだが……もしや、葉月社長かな?」
「ああ。まだ千尋を連れ戻す気でいるのか?」
「いや、そうじゃない。千尋を連れて挨拶に伺おうとしていたんだけどね、千尋が怪しんで逃げ回るもんだから、探すのに時間がかかった。この前はうちの日本酒を宣伝してくれたこと感謝する」
「いいんだ。ていうか、JBCに出すシグネチャーの相談じゃなかったのか?」
「それもあるけど、親父がしつこいから逃げてきたの」
千尋が言うには、てっきり捕まえられて、村瀬社長のもとに連れ戻されると思ったらしい。
目的地に本人がいたために、捕まえる手間が省けたってわけか。
さっきからとても心配そうにしながら、ずっと千尋の後姿に視線を向けている。千尋はそんな村瀬社長を直視することができず、カウンター席でエスプレッソを自棄酒のように飲んでいた。この日だけでゲイシャのコーヒーを3杯もがぶ飲みしている。そんな彼の隣に村瀬社長が腰かけた。
「エスプレッソ1つ」
「タブレットから注文してくれ。千尋、話くらい聞いてやれ」
「……」
僕がエスプレッソを淹れている間、2人の間には気まずい空気が流れている。
これじゃのんびりとした空間を提供するどころじゃないな。何故親父と息子ってやつは、こうも分かり合えないのだろうか。いつも最終的に戦いになってしまうのが欠点だ。
「まさかお前に彼女ができていたとはな。しかも年上か」
「年上が好きってわけじゃないよ。おこちゃまが嫌いなだけ」
「景子さんのどこがそんなに気に入らないんだ?」
「大人げないところかな。大卒のくせに簡単な日常単語の意味も分からないし、まともに話し合いができないし、感情論で全部ごり押してくるし、都合が悪いとすぐに脅してくるし、とても一緒にいて安心できるような相手じゃないよ」
「清楚で礼儀正しくて、俺の前でも大人しいぞ」
「親父は僕と一緒になった時の彼女を知らないから、そんなことが言えるんだよ。あいつらは村瀬グループを乗っ取ろうとしてる」
「何故そう思う? 何でも憶測だけで決めつけるのは良くない。お前はすぐ人を疑う癖がある。ビジネスでは相手を信頼することが第一だぞ。分かってるのか? このままだと取引を中止にされる。今年中にお前が態度を改めれば、先方も許すと言っている」
「……親父はいつもビジネスのことばっかり……もううんざりだよ」
千尋が下を向きながら言った。その呆れた様子からは、村瀬社長への失望が窺える。
傍から見ていても千尋の方が肝が据わっていることが分かる。杉山グループに嫌われることを恐れているのか、息子の将来より目先の目標を達成することしか考えていないところに心底呆れているのだ。
だが村瀬社長は杉山グループとの取引続行を諦めていない。政略結婚の失敗は決定的だが、この往生際の悪さからも、経営手腕の衰えが見て取れるのが実に滑稽である。
「杉山グループは将来的にうちを乗っ取るつもりだよ。この前も杉山社長の1番上の娘さんが嫁ぎ先のグループの社長になって、経営方針がガラッと変わって、結局杉山グループの傘下になっちゃったし、この結果を見れば一目瞭然だよ」
「まるで彼らを寄生虫みたいに言っているが、あの嫁ぎ先のグループは杉山家から嫁さんを貰わなかったら潰れているところだぞ」
「何言ってんの。急に方針を変えたせいで、業績が下がったのを見て傘下にしたんだよ。あれは立派な寄生虫だよ。どうもあのグループは好きになれないんだよねー」
千尋はその賢さ故、相手の企みが分かる。最初から傘下にすることは、彼もお見通しだったようだ。だが僕の推測では恐らく吸収合併にまで及ぶだろう。中部地方だと、村瀬グループの日本酒はそれなりに名が通っているブランド品だし、これを我が物とすることで更なる勢力拡大を図ろうとしている。
日本酒を主な産業とするグループをただ傘下に置くだけでは旨味がない。このデコボコな親子を見ながら思った。奴らは吸収合併のために次の手を打ってくるはずだ。
「俺はな、お前のためを思って言ってるんだ」
嘘吐け。それは相手の為じゃなく、自分のために使う言葉だ。
本当に相手のことを思って言っている人は、恐らく1%もいない。しかもそう言って相手が不利益を被った際には、自分で選んだ道だろと平気で言ってのける。だったら最初っから言うなって話だ。
「頼むから俺の言った通りにしてくれ」
「……僕は父さんの操り人形じゃない」
「おい、何を言って――」
「ここの人たちは自分の立場を犠牲にしてまで僕を助けてくれた。でも父さんも杉山グループも、自分勝手なことを言って僕を困らせてばっかりだ。もうこの時点でどっちについていくべきかハッキリしてるよ。親父がその気なんだったら破門で結構。もうグループのことなんか知るか。一瞬でも村瀬グループのことを考えていた自分があほらしいよ!」
「……」
千尋の決心は変わらなかった。村瀬社長はお代を払って引き下がるしかなかった。彼にとっては家に息子を復帰させる最後のチャンスだった。だが千尋は一度口にした言葉を引っ込めるなと言わんばかりに拒絶する。千尋が村瀬グループを見捨てたということは、これ以上配慮する必要はなくなったのだ。葉月珈琲が関わっていなかったとしても、この親子の縁はいずれ切れていた可能性が非常に高い。
「千尋、本当にいいのか?」
「いいんだよ。僕は僕の道を行く。僕は葉月珈琲の社員だから」
「まっ、あれは寝返るのも無理ねえか」
千尋は名実共に葉月珈琲の一員となった。
さて、これで千尋を取り巻く問題は解決した。来年のバリスタ競技会に迷いを持ち越すことはない。
この後、千尋とはシグネチャーについて、熱く語り合うのだった。
12月中旬、僕は璃子をJLACで優勝させるべく、璃子のラテアートの練習にみっちりとつき合っていた。1月にはJLACの予選が始まる。
技術の方は申し分ない。だがどんなラテアートを描くかの段階で躓いていた。僕が出場した頃は植物のラテアートが主流だったが、今は専ら動物のラテアートが主流となっており、今までに見たことのないラテアートを描くバリスタがWLAC歴代チャンピオンに名を連ねていた。しかもみんな1つ1つのラテアートに共通のテーマを持たせていた。テーマに一貫性がなかったのは璃子だけであった。何1つ関連性のないところに迷いを感じていたが、それは正解だったようだ。
「璃子はさ、どんなラテアートを描きたいわけ?」
「それがさー、全然思いつかないというか、植物も動物もあんまり好きじゃないというか、なんかどれも好んで描こうって気になれない」
なるほど、璃子はもっと自分好みのラテアートを描きたいわけだ。
ラテアートと言えば、植物か動物だ。璃子はそのイメージに囚われ、自分が思い描いているものを描けずにいた。それがずっとJLACのファイナリスト止まりだった理由か。
いくら腕があっても、固定観念に囚われていると、うまくいかないもんだな。
「だったら好きなものを描けばいいじゃん」
「好きなものって言われても、結構漠然としてるんだけど、日本らしいものを描きたい」
「マジで漠然としてるな」
「お兄ちゃんって、歌舞伎の浮世絵とか描ける?」
「ラテアートだったらできるぞ」
「えっ……」
目が点になっている璃子に、スマホで東洲斎写楽の浮世絵を画像検索してもらい、映っている歌舞伎役者の横顔が描かれた役者絵を見ながらミルクピッチャーを動かし、ラテアートを描いた。
「――お兄ちゃん凄い」
璃子の目の前には、デザインカプチーノで描かれた歌舞伎役者の横顔がある。
璃子がずっと描きたかったのは、こういう絵だったのかもしれない。璃子は日本代表になった後のことをずっと考えていた。ラテアートを通して世界に日本のイメージを伝えたかったが、昔のように桜を描いたくらいでは評価されないことが分かっていた。それでいまいち決定打に欠けるものばかりを描いてしまっていた。つまり、璃子は日本代表として、日本のイメージを描きたいのだ。
「まずはこれを覚えろ。やり方も動画にしておくから」
「ありがとう。でも投稿はしないでよ」
「分かってる」
璃子の中にあるイメージがハッキリした。自分が何を描くべきなのかも。まずは璃子が日本のイメージを画像で希望し、それを僕がラテアートにして描き方を璃子に伝授するというものだ。最終的には新しいラテアートの描き方を自力で習得してほしいが、いかんせん今は時間が足りない。
大会が終わったら、みっちり教えてやるか。
元からあるものを覚えるだけでは、新しい時代を切り開いていけない。元々ないものや、誰も成し遂げたことのない業績を上げる人間が、今まで以上に必要とされている時代だ。
「こんな感じでどうかな?」
数日後、璃子がラテアートを見せてくれた。
「うん。これならいけるんじゃね」
「ホントに?」
「予選はフリーポアとデザインカプチーノを2杯ずつだから、残りはフリーポアだけど、他に何か描きたいものとかってある?」
「うーん、達磨とかかな」
「達磨ねぇ~。ちょっと検索するか」
すぐに達磨の画像を検索し、達磨を見ながらフリープアラテアートを描いた。
「良しっ、できた」
「お兄ちゃん、やっぱり凄い」
感心しているのかドン引きしているのかよく分からない顔で璃子が言った。
童貞を殺す服に、目が吸い込まれるような魅力を持つ豊満な胸、大人しくて子供っぽい小顔、腰まで伸びているポニーテールがいつも以上に可愛く思える。
子供の時から変わっていない子供っぽい声も澄んでいて、いつまでも聞いていたくなる。
「璃子ってさ、何でラテアート始めたんだっけ?」
「元々はお兄ちゃんの影響だけど、ずっと前蓮にラテアートを褒めてもらってから、本格的にやり始めたというか、何だかんだで1番うちとお客さんを繋いでくれるのがラテアートだと思うし、胸が邪魔にならなかったら、もっと早く始めていたと思う」
「いつも思ってたけど、結構邪魔になってるよな」
「下が見えないから、持ち運びの時不便だし、本当はCカップくらいが良かったけど、このGカップのせいで外に行くのも億劫だし、胸なんてなくなってしまえばいいと何度思ったか」
「勿体ないこと言うなぁ~。世の中には少しでもでかくしようと努力する人がたくさんいるってのに、贅沢な悩みだと思うけどなぁ~」
璃子は小4以来、段々と大きくなる胸に散々悩まされてきた。
少しでも突出した部分を見せれば、いじめの対象になることが目に見えている。璃子は大きくなった胸を隠そうと、胸を小さく見せるブラを探そうと必死になったこともあるくらいだ。
悩みの種である豊満な胸は商売に使える武器でもあった。
璃子がヤナセスイーツにいた頃は外見の魅力を買われ、店が潰れるまでは看板娘として客寄せという機能を果たしており、優子はあえて璃子を客席から見える場所でケーキを作らせた。この戦略が功を奏したのか店を続けながら修業期間をやり過ごすことができた。店が潰れれば修業ができる場所がなくなると思っていた優子による苦肉の策だったが、望まぬ相手から声をかけられることも少なくなかった。
璃子自身は誰とも関わらずにチョコを作っていたかった。
優子は璃子に済まないと思いつつ苦労をさせていた。だがようやく夢が叶い、人前に出る仕事をしないというカードを手に入れてからは、より一層生き生きとしている。
「需要と供給が合ってないだけだと思う。目立つのが嫌なのに、学年が上がる毎に男子から見られる回数が段々増えてくるし、だからさ、お兄ちゃんのお陰で道連れ不登校になった時は、正直ホッとしてた部分もあるし、レールからは外れちゃったけど、そっちの方が合ってるんじゃないかって思ったわけ」
「人と一緒にいるのを苦痛に感じてる時点で、外に出て人に会いに行くような仕事は璃子には向いてなかったってことか。もっと早く教えてくれたらよかったのに」
「今は引き籠って仕事ができるけど、お兄ちゃんがいない時は、私がオープンキッチンに出て仕事しないといけないから、それだけがネックかな」
「……」
シンプルだが、璃子の言葉にはズシッとくるような重みがあった。
外には出なくてもいいけど、まだ人と会う仕事を任せざるを得ない状況にしてしまっている。璃子は完全な引き籠りになりたいのだ。未だにそこだけは叶っていない。
少なくとも、今の状況では叶わぬ夢だ。そんなことをボソッと言えるくらいには成長したと言える。
不思議と1人でいる時の寂しさは感じられなかった。ちょっと前までは僕がいないと本当に心細く感じていたのが、今では1人でいたい想いへと変わっている。
僕はそんな璃子の願いを叶えてやりたかった――。
クリスマスがやってくる。いつものように身内だけを誘ってクリスマスパーティを行い、この日は唯と本物の夫婦の如く、のんびりと話していた。
「きっと璃子さんも、自由になりたいって思ってるんでしょうね」
「かもな。うちにいる間は自由になれないし、望まない仕事をしないといけない場合もある」
「誰かさんが毎年のように、大会に出場するからじゃないですか」
「それだけじゃねえよ。コーヒーとか料理とかも作らないといけないし、チョコだけに神経を集中できなくなってる。璃子が世界一のショコラティエになった時、うちの役割はもっとハッキリしてて、今よりもずっと本業に集中しやすかった。でも今は業務の自由化で、みんなコーヒーと料理を作ることになったせいで不便なところも出てきた。璃子は誰とも関わらずにチョコを作りたかった。今のままじゃ、璃子という個性を潰してしまいかねないと思ってる」
「璃子さんも、そろそろ変わる時が来たんじゃないですか?」
「……かもな」
うちの業務が段々と璃子の体に合わないことが顕著になってきた。
接客の度に神経を擦り減らし、クローズキッチンへ逃げ帰る璃子の姿を何度か目撃したことがある。僕以上の人嫌いと明確に知ってからは尚更分かるようになった。
客の善し悪しに関係なく、相手が人というだけで、必要以上に気を使ってしまう性格には、もっと配慮するべきだった。璃子にも得手不得手はあるのだ。
璃子の中に課題を残したまま、僕らは年を越すのであった。
第9章終了です。
次回から第10章バリスタコーチ編を投稿します。
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村瀬千勝(CV:亀井三郎)




