210杯目「狭すぎた世間」
柚子は本心ではバリスタの仕事と結婚を両立したいと思っている。
何かを両立すること自体容易なものではない。できる時点で立派なスーパーマンだ。
両立が難しいからこそ、予め自分の守備範囲を決めて守備範囲外の役割は他の人に任せる構図が成り立っている。仕事を優先している時点で結婚には向かないんだろうし、両立するにしても、どちらかの負担率を下げるのは必須だ。うちはハウスキーパーを雇ったり、身内に面倒を見させることで仕事と子育てを両立していたものの、子供が増えたことで唯がバリスタ競技会に徹しきれなくなった。
結果的に唯がバリスタ競技会から引退する格好となってしまった。
バリスタの仕事そのものを引退したわけではない。妊娠期間や授乳期間が増えたために、必然的にコーヒーを控えざるを得ない状況になってしまっただけだ。
「柚子、何かあったわけ?」
「経営者時代の話になるんだけど、私、経営しながら婚活をやろうと思ってたの。でも経営の仕事が忙しすぎて時間が取れなかったの。気がつけばもう29歳、そろそろ本格的に婚活しないと、仕事に追われていたら、婚期が過ぎちゃうの」
「柚子は何で結婚したいの?」
「――やっぱお母さんの影響かな。でもあず君の言うことも分からなくはないの。カップリングとか子育てとかする上で結婚制度が大きな足枷になっている側面もあると思うから」
「お見合いとかはしたの?」
「……してない」
柚子が言うには、親の紹介で出会った相手には基本時めかないという。
柚子の母親にして、僕の伯母でもある吉子おばちゃんは仲人の仕事をしており、昔で言うところのお節介おばちゃんだ。結婚してからというもの、個人情報保護法がなかった20世紀まではお節介おばちゃんとして活躍し、多くのカップルを成立させてきた。
21世紀になってからは、自ら結婚を望む者限定で仲人を務めている。
勝手に個人のプロフィールを明かせなくなっても、やってることはあまり変わっていない。柚子はそんなおばちゃんに憧れて婚活イベント会社を立ち上げたのだと思うと、何だかほっこりする。だが他人同士をカップリングすることに尽力した結果、自らは男たちを置き去りにした。
時は流れ、12月がやってくる――。
今年も色々あったなぁー。この頃には僕の影響なのかジェズヴェを嗜む人がちらほら出てきていた。
流石に日本中というわけにはいかなかったものの、中津川グループによるジェズヴェの宣伝は一応の成功を収めた。僕を世界へ行かせるための国内予選だったとしても、あれは中津川社長の好判断だったと思っている。僕に新たなバリスタ競技会に挑戦する機会を与えてくれたことに変わりはない。
「あず君、大変なの!」
突然、美羽がうちにやってくるや否や、いきなり慌てた様子で営業中の僕に話しかけてくる。
「どうかしたか?」
冷静な顔で返事をする。店内は人気ナンバーワンの伊織や、この年のワールドコーヒーイングッドスピリッツチャンピオンの真理愛を一目見ようと集まってきた客ばかり。僕としてはこの方がずっと落ち着くのだ。僕以外の人気者を作ることで、客の目線が集中することを防ぐ作戦は成功したようだ。
唯と入れ替わりでうちのバリスタになった柚子は、知識や技術こそあるが、バリスタ競技会に参加したことがないため、あまり人気が出ていない。璃子と優子はクローズキッチンの担当であるため、普段は表に出てこないが、璃子にはこの方がずっと合っている。
僕よりも社交性があるのに、何だか僕以上の対人恐怖症のように見える。
璃子はなるべく人と関わらず、1人で作業に没頭しやすい環境を望んでいた。理由は小4から大きくなり始めた胸を人からジロジロ見られるのが恥ずかしいからである。
「お父さんが会社の規模を縮小するかもしれないって言ってたの」
「会社の規模を……縮小する?」
「うん。今までは全国22の都道府県に全国チェーンを展開していたんだけど、もしこのまま業績が悪くなってしまったら、最悪来年からは、各地方の8つの大都市にある主力店舗以外は全部撤退することになるかもしれないの。穂岐山珈琲の正念場ってやつ」
「大都市ってことは、札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、松山、福岡の8種類だけに留めて持久戦を始めるってことか。正念場だな」
「学校行ってないのに、よく分かるね」
「店舗拡大を考え始めた時から、地理を勉強していた」
ずっと社会科を学んでいるくせに、都道府県も分からん奴が平気でいるから怖い。
それにしても……穂岐山珈琲も落ちたな。美羽が言うには、穂岐山珈琲出身のバリスタが大会で結果を残せなくなった影響で売り上げが減少し、バリスタオリンピックの一件でスポンサーがごっそりいなくなったこともあり、一気に資金不足に陥ったという。穂岐山珈琲も2016年からプロ契約制度を始めているみたいだが、果たしてどうなるやら。僕が穂岐山珈琲に援助してもらいながら大会に参加していた時なんか、僕が優勝するたんびに祝勝会を催すほど元気があったのに、これほど呆気ないものとは。
「お父さんは元々こういう事態を予測していたみたいなの。コーヒー業界のために必死になってトップバリスタを輩出しようと、全国から優秀なバリスタを集めていたわけ」
「なるほど、だから僕を穂岐山珈琲に誘ってたわけか」
「そーゆーこと。もしあず君が穂岐山珈琲に入ってくれていたら、今頃は日本を代表するコーヒー会社になってたかもしれないのになー」
美羽が愚痴を零すように言った。それほどまでに穂岐山珈琲の衰退が寂しいのだ。
「どーだか。うちは営業すらサボってひたすら実験に没頭できる環境があったけど、そっちは決められた時間内しか実験できないし、他の人の意見も考慮しないといけないし、時期に関係なく営業したり、後輩を指導したりで時間を取られるし、最終的に参加者も使うコーヒーも全部老害が決定権を持っている上に奇想天外なアイデアを試せる土壌もない。育成部に入ってたら間違いなく埋もれていたと思う。桃花と陽向の事情を知っている美羽なら、分かるよな?」
クリエイターたるもの、他人の意見など聞くな。それが僕のモットーだ。
参考になることはあっても、丸パクリすることはない。
自分の道くらい自分で決められなくてどうする。
新しい発想が認められない制約ばかりの開発に何の意味がある?
松野はバリスタオリンピックで使っていたコーヒーやアイデアを自分のものにできなかった。プレゼンだって、他人が作った作品の紹介みたいに見えたし、寝食を忘れて没頭し、アイデアを突き詰めた人間の言葉ではない。そこにバリスタとしての血が通っていなかった。そんなものが人の心に響くわけがない。育成部の弱点が完全に浮き彫りになっていた。故に入社しなくてよかったと確信している。
何より育成部には、とことん没頭できる環境が整備されていなかった。実験中だってのに、かなりの頻度で誰かが話しかけていた。僕だったら怒鳴って追い返していたかもしれない。うちは朝から晩まで実験をしていたくらいだったし、僕にはそっちの方が合っている。
あそこまで制約が多いのは大手病とも言うべきか。無駄な会議や朝礼が多すぎる。
僕ならうずうずして会議室から飛び出していたかもしれない。
どんな作品を作るのかをいちいち会議なんてしていたら、あっという間に日が暮れちまう。話し合っている暇があるなら実験や練習に没頭するべきだ。何を大会に出すべきかは実験に没頭していれば自ずと分かってくるものだ。あんなことをしている間に何杯分の実験ができると思ってるのだろうか。
結果が欲しけりゃ行動しろ。調和することしか頭にない連中がいくら会議なんかしたって、ただの雑談か水掛け論になるだけだ。あいつらは議論のやり方すら教育で教わってないというのに、それで一体何を話し合えというのか。あいつらの姿は説明書もなしにパソコンを始めようとする原始人のようだ。
穂岐山珈琲が今まで結果を残してこれたのは、単に他のコーヒー会社がバリスタ競技会にそこまで力を入れていなかっただけで、それ故ライバルの少ない中で独り勝ちできていただけだ。
決まったやり方で1番を取れると思ったら大間違いだ。正解のない問題を解く能力が著しく低い人間ばかりが残った今の穂岐山珈琲の面々では、これからのバリスタ競技会を勝ち抜くのは厳しいだろう。
「没頭……か。それが育成部に足りないものなんだね」
「うちは今、不登校児を専門にバリスタ指導する葉月珈琲塾っていうのをやっていてさ、そこには昔の僕みたいに、学校の勉強以外のことに没頭してきた連中がいっぱいいるわけ。その中からバリスタの仕事に適性がある子供を選別して、葉月珈琲塾を卒業できた人は特別待遇でうちに入社する権利を得る」
「それお父さんに聞いたよ。10代前半の内にバリスタ修行をさせて、中学を卒業したら葉月珈琲に入れるんでしょ。でも何人くらい葉月珈琲に入れるつもりなの?」
「結構少ないぞ。卒業生が1000人いたら、うちに来るのは多くて5人くらいかな」
葉月珈琲塾は単にトップバリスタ候補生を育てるためだけではない。何より生きる力を身につけるための人間教育を施す場でもある。だからうちに入らなかったとしても、うちにいた経験は決して無駄にならない。しかもうちの塾に入るには不登校児であることを条件としている。
理由は簡単だ。学校に通っていたら塾に通う暇がないし、学校の価値観に染まりすぎると、常識で頭がガチガチになり、確実に雑魚キャラ街道まっしぐらだ。そんな奴はどんなに指導しても、親と学校に邪魔されるのが目に見えている。子供の不登校を認められる親であれば邪魔にならない。不登校児は悪魔の洗脳を免れた貴重な生き残りだ。変に固定観念を植えつけられていない分柔軟な発想がしやすく、新しいコーヒーを創造する際に大いなる武器として役立つだろう。
子供の数自体は減っているが、不登校児は増加の一途を辿っている。
学校が如何に頼りない害悪な存在であるかが浮き彫りになっているのだ。
「分かった。あず君のやり方を育成部に取り入れるように言ってみる」
「期待せずに待ってる」
回答を見つけたように満足そうな顔の美羽がコーヒーを飲み干し、お代を払って去っていく。今じゃすっかり当たり前になったカード払いだが、当然他の店舗でも現金廃止を義務化している。これを当たり前だと思えない人は絶対雇いたくない。葉月珈琲塾も行かないのが正解だ。葉月珈琲が投稿しているバリスタ修行用動画を見て自習する方がずっと効率が良い。できることなら、学習も全てオンライン化したいところだ。僕が目指している在宅勤務や仕事のオンライン化という理念は、後々やってくる世界の混乱期において、大きな真価を発揮することとなった。
12月下旬、クリスマスを目前に控えた頃、柚子が僕に相談を持ちかけてくる。
何でも、吉子おばちゃんの勘違いから見合い話が成立してしまい、この日の営業終了後にうちで柚子のお見合いをすることになってしまった。お見合いの相手は柚子よりも少しばかり年上の中年男性だ。
まだ見ぬ相手に緊張を隠せない様子の柚子だが、これは相手の方から話しかけるまでずっと沈黙を守り続けるパターンと見た。自分で相手を見つけたいがそんなスキルはなく、人に紹介してもらうのもどうかと考えている内はカップリングなんてまず成立しないだろうな。一度デートくらいしてみればいいのに。相性が良いかどうかなんてのは、つき合ってみて初めて分かるもんだ。人に交際を手助けすることはできても、自分からは声をかけられない。これは女が受動的であるべきという教育の影響だろう。
「はぁ~、何でこうなったんだろ」
「まあでも、良い機会じゃねえか。相手はどんな人?」
「私より5歳年上の公務員で、教師なんだって」
「また吉子おばちゃんの大好きな公務員か。ここんとこ世間はずっと不景気だったみたいだし、公務員はかなり人気があるからな。柚子、多分これが楽に結婚できるラストチャンスだ」
「分かってる。女は30を過ぎたらカップリングしにくくなって、検索欄から姿が消えるもんね」
覚悟ができた横顔からは今までにない闘争心を感じ、未来への落ち込みや焦りも表れていた。柚子が言っている検索欄から姿が消えるとは、柚子が登録している婚活サイトの話である。大半の男は何歳になっても20代とつき合おうとする傾向が強いため、20代のみとフィルターをかけてからお見合い相手の候補を検索する人が大多数を占めている。30を過ぎれば多くの女がフィルターにかけられ、サイトの検索欄から姿を消すことを意味している。婚活事情に詳しい柚子ならではの危機感であった。
営業時間終了後になり、全ての客が店から去っていく。
入れ替わるように吉子おばちゃん、柚子のお見合い相手、お見合い相手の母親が姿を現した。
挨拶を済ませると、テーブル席に4人が座り、早速お見合いが始まった。
お見合い相手は千藤という人だった。黒髪ショートヘアーのオールバックで、如何にも真面目そうな表情を崩さず、黒いスーツ姿で爽やかな感じの人だ。僕が思い描いていた公務員のイメージそのものだ。スマホで千藤さんを調べている間、柚子と千藤さんは両家の母親同士の会話を聞きながら静かに過ごし、作業を終えた璃子と優子、1階に下りていた唯が柚子たちの様子を見守っている。
「葉月梓さんのいとこなんですねー」
「はい。あず君が活躍して有名になってからは、もう本当に鼻高で」
「うちの子は真面目だけが取り柄でして、梓さんには遠く及びませんが、とっても良い子なんです」
「そうなんですねー。うちの柚子も普段はここで働いているのですが、なかなか自立しない子で、しかも気が強いので、何分貰い手が大変だとは思いますが、根は優しい子なんです」
「お母さん、余計なこと言わなくていいから」
後はお決まりの台詞を言った後で両家の母親が退席し、全員分の勘定を済ませて帰っていく。
2人共会話の中心人物がいなくなって不安そうだ。
しばらくの間、沈黙が葉月珈琲の店内を支配する。
「……あの……ご趣味は?」
「えっと……コーヒーです」
「あぁ~、それでカフェなんですね」
他愛もない話が続き、僕らは遂に1階で夕食を食べ始め、唯は子供たちの面倒を見ようと2階へと戻っていき、優子は柚子のカップリングを祈りながら帰宅した。話を聞く限りでは、そこまで問題なさそうに思えた。だが1つ懸念がある。教師は公務員の中でも飛び抜けて社会不適合者率が高いのだ。社会経験もなしに大卒と共に教師になる者が多いため、学校の外を経験していないまま教壇に立つ。社会常識から大きくかけ離れた状態のまま年を重ねると、今度はおかしなルールを作る側になる。
一応柚子にはそこだけを確認するように言ったのだが、なかなか聞き出す余裕はなさそうだ。
「あの、財布を忘れてしまいました」
意外にも沈黙を破ったのは店に戻ってきた伊織だった。場の空気を察したのか、目が点になり、財布を取りに慌ててバックヤードまで颯爽と走り抜けていった。
すぐに戻ってくると、伊織と千藤さんの目が合った。
伊織はすぐに僕の後ろに隠れた。何やら怯えている様子。
「どうしたの?」
「耳貸してください」
伊織は恐る恐る僕の耳元に顔を近づけた。
その目からは只事でないことが伝わってくる。知り合いなのは確かだろう。
「あの人、小4の時の担任で、自己紹介でコーヒー好きを知った途端、みんなの前で女の子がコーヒー好きなんて変だよって言ってきたんです。それで私、コーヒーの趣味を封印する破目になったんです」
「はぁ!?」
――何……だと……こいつのせいで……伊織は危うく生きる力を失いかけたってのかよ。
だから他の生徒も同調して、伊織の趣味を否定せざるを得なくなっちまったわけか。
段々と腹の底から煮え滾る怒りが込み上げてくる。伊織の告げ口を聞いた瞬間、こいつをカップリングさせる気はなくなっていた。千藤さんは自分がしたことさえ忘れ、伊織に微笑みかけた。だが伊織は拒絶するかのように、また怯えながら僕の後ろに隠れた。
「あの子と知り合いなんですか?」
「ええ、教え子です。本巣はちょっとシャイなところがあるんですが、とても真面目な生徒でした」
「そうなんですね。あの子、ここに就職して、今じゃ立派なバリスタなんですよ」
「あっ、そうでしたか。あの子は昔からコーヒーが好きみたいでして、夢が叶って何よりです――」
「どの口が言ってんだ!?」
「「「「「!」」」」」
怒鳴った瞬間、周囲が一気に凍りついた。
この恥知らずを分からせるため、千藤さんに詰め寄った。
「聞いたぞ。みんなの前で伊織のコーヒー好きを変と言ってコーヒーの趣味をやめさせたんだってな」
「えっ!? ……それ、本当なんですか!?」
「いっ、いやあの、私は本巣が自己紹介の時に、趣味はコーヒーと大人びたことを言うものですから、みんなからいじめられないように、ちょっとした注意喚起をしたんです」
千藤さんが額から汗を流し、慌ただしい様子でポケットからハンカチを取り出した。
この時点で自分が犯人と認めたようなもんだ。子供の夢を応援するはずの教師が夢を潰そうとしたばかりか、いじめを誘発するとは。注意喚起なんて言葉で誤魔化せると思ったら大間違いだぞ。
「おかしいな」
「えっ……」
「確か伊織の学校は子供の夢を応援することをポリシーとして掲げていたはずだ。でもあんたは伊織に注意喚起をしてコーヒーの趣味をやめさせ、危うくバリスタの道が閉ざされかけたんだぞ。これは明らかに学校のポリシーに反する行いじゃねえのか?」
「もう昔のことでしょう。無事に夢が叶ったんですから、いいじゃないですか」
「そういうわけにはいきません。私は結婚相手に対して、第一に誠実さを求めています。ちゃんと本当のことを言ってください。お願いします」
柚子が頭を下げ、丁寧に懇願する。たとえどんな弁明をしようと、伊織の夢を潰しかけた事実を柚子が知ってしまった時点で、もうカップリングの心配は無用と言っていいだろう。
「……分かりました」
千藤さんは全てを白状した。千藤さんはコーヒーを苦手としており、子供ながらコーヒーを趣味としている伊織が生意気に見えたらしく、それで出鼻を挫いてやろうと思ったらしい。
――何てくだらない理由なんだ。とても大人の器じゃない。
伊織はあまりの悔しさにこの場で泣いてしまい、僕の胸に泣きついた。無理もない。こんなちっぽけなプライドを満たすために自分の趣味が封印させられたと思うと、やっぱ悔しさしかないよな。
「千藤さん、申し訳ありませんが、今回の話は……なかったことに」
すっかりと気持ちが冷めきった柚子が氷のような声で言った。
「……はい」
「あーあ、こんな可愛い子を泣かしちゃって。もしこんなことが世間にバレたら、下手すりゃ退職金なしの懲戒免職かもなー」
「どうか、公にするのだけは勘弁してください」
「だったらさ、伊織に対して言うべきことがあるんじゃねえの?」
「……」
千藤さんが押し黙った。伊織はそんな彼を背にして泣き続けている――。
「伊織、前を向け」
「……はい」
伊織が前を向くと、目の前には申し訳なさそうな顔で俯く千藤さんが佇んでいる。
「……済まなかった」
千藤さんが伊織を前にして頭を下げた。
「これでいいか?」
「はい。あんなことが起きてしまったのはコーヒー業界の地位が低かったのが原因だと思っています。いつか必ず、世界一のバリスタになって、男性も女性も、大人も子供も、そんなの関係なく、コーヒーが好きな人たちが堂々とコーヒーが好きだと言える社会を築いていきます」
「……そうか」
終始緊張感を隠せない千藤さんが逃げるように立ち去っていく。柚子は座り込み、抜け殻のように無気力だ。危うくコーヒー嫌いとカップリングするところだった。少しは懲りたんじゃなかろうか。
「弁明の1つもできないとは……情けない男だ」
「まあまあ、もう解決しましたし、これで学生時代に残したまましこりが全部取れた気がします」
「破談になっちゃったぁ~!」
「ごめんなさい。私のせいですよね」
「いいの。ああいう非常識な人とつき合う未来を防いでくれたんだから、むしろ運が良かった。世間って思ったより狭いんだね」
「あず君、さっきはありがとうございました」
「仲間だろ。当然のことだ」
「はいっ!」
伊織が満面の笑みで言った。やっぱり伊織には笑顔が似合う。思わぬ形で過去を清算した伊織は封印された力を解き放つかの如く、大きく活躍することになる。
僕らはいつもの身内同士でクリスマスを過ごし、この年を終えるのであった。
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