202杯目「天から授かったもの」
1月下旬、JLACとJCIGSCの予選が行われた。
うちから参加するメンバーはいつも通りだ。真理愛と美月に至っては連覇が懸かっている。葉月珈琲から複数人の日本チャンピオンが出ているためか、何度か講演会の要請を受けたことがある。
講演会なんかしなくったって、情報は全部ウェブ上に公開されてるんだし、講演会に来ている時点で調べる気ありませんって言っているようなもんだ。
そんなことを考えていると、大物がうちにやってくる。
マイスター夫妻こと、相川秀樹と相川優の2人だ。
長身でスラッとしたモデルのような体形で、とてもお似合いのイケメンと美女である。カジュアルな格好ではあるが、安っぽさは感じられない。相川は今伸びているIT業界の第一人者であり、テレビにもコメンテーターとして出演するほどの超有名人となっていた。
幅広い知識量、人間ができていると言われるほどの倫理観、先見の明を持っている。
性格も明るくてノリがいいし、勉強も運動もできて、主体性や創造性にも長けていて、嫉妬以外の理由で嫌う人がいない。人間のお手本と言っていい。
「あず君は知らないと思うけど、今じゃ秀君と双璧を成す存在って言われてるんだよ」
優さんが自慢げに言った。僕はテレビとか見ないし、良くも悪くも世間知らずだ。
大半のことは身内や常連が勝手に教えてくれるし、自分で情報を仕入れる必要もない。みんながテレビを見て寛いでいる間にコーヒーの研究ばっかりしてたような人間だし、分野は違えど、相川もこっち側である。テレビに出てはいても、見てはいないはずだ。既に知っている光景を見る必要はない。
「僕に言わせりゃ、マイスターの足元にも及ばねえよ」
相川に限って言えば、家柄も良いし、多才でオールマイティだし、ここまで選ばれし者感がある人も珍しいというか、隣に美人の妻がいるのも頷ける。勝つべくして勝ったって感じだが、僕にあって彼にないものもある。それは選ばれし者でない地位から這い上がったという実績だ。
上の上が最の上に上がることは難しい。だが下の下が最の上に上がることはもっと難しい。
僕が彼に誇れるところと言えば、それくらいだろうか。
「そういえば、今年も大会に出るんだっけ?」
「一応な。ジェズヴェの世界大会に出る予定だ」
「全然飽きないよなー。大会に出るのはもういいやって思ったことないの?」
「ない。出たことがない大会とかもあるし、出れば出るほど学ぶことが多い。大会によって勝利条件に近づく方法が異なるし、何より正解がない問題を解く楽しさがあるっていうか、他の人の作品を見るのも1つの楽しみではあるから全然飽きない」
大会中は自分のことで精一杯で、他の人の作品を見る余裕はないけど、サポーターがちゃんとメモを取ってくれているからありがたい。たとえ個人戦であっても、1人ではどうにもならないのだ。
その後は生きる力を育む教育が話題になった。
相川夫妻にも子供がいる。故に彼らにとっても子供の教育は特筆すべき関心事なのだ。僕にも子供がいるが、子を持つ親は生きる力を育むことにもっと敏感になるべきだ。
「じゃああず君は子供を学校には行かせないの?」
「当たり前じゃん。今教育を受けるだけだったら、オンラインでいくらでもできるし、授業なんかなくても自習ができるようになればそれでいいわけだし、言っちゃ悪いけど、今の時代に子供を学校に行かせないといけないと思ってる人は情弱だ。昔は外に出て人と会うような仕事しかなかったから、集団生活に馴染ませて、社会性を養う必要があったけど、今その必要ねえだろ」
「確かに。うちは家庭教師を雇って、たまーに集団生活に馴染ませる感じかな。今時従うことしか能がない人間を育ててもしょうがないからなー」
「全くだ。昔は労働者か兵士になるくらいしか選択肢がなかった。全員に同じことをさせる教育が一刻も早く兵隊を作る上で有用だったし、何も考えなくても年取ってるだけで勝手に出世するシステムだ。20世紀なら問題なかったけどさ、自分で考えて新しい価値を作っていく今の時代には無用の長物というか、施設やFランの連中があの教育の被害を諸に受けてる」
相川は僕の話を完璧なまでに理解してくれた。相川も割と僕の考えに近いようだった。
かつてここまで話が合う人がいただろうか。相川もまた、ITが先行していく時代に、社会との乖離が激しい昭和教育に疑問を感じている。やっぱ分かる人には分かるんだなー。自分の価値観が全てとは言わないけど、仕組みの方が間違っている場合もあるという視点は大事だと思う。
何度言っても世間には全くと言っていいほど浸透しない。それほどにまで根深い問題だ。
この日の夜、いつものように唯と一緒に風呂に入った時だった。
僕らは一緒に湯船に浸かりながら、向かい側にある風呂の扉を見つめている。
「マイスターさんと滅茶苦茶話し込んでましたね」
「何度か会ったことはあるけど、あいつもこっち側だってことは分かってたし、世の中に対して共通の疑問を持っている人と出会うと、何だか友達でも見つけた気分になる」
「あず君には既にたくさんの友達がいるじゃないですか。友達がいないんじゃなくて、あず君が心を開いていないだけですよ」
「そう見えるか?」
唯の方を見ながら言った。相変わらず良い体してるなぁ~。
やばっ! 興奮してきた! 彼女を相手に冷静さを保つのは至難の業だ。
「踏み込むのが怖いように見えます」
「……」
「どうせ誰も自分のことなんて理解してくれない。だから価値観の近い人に会うと、自分に合わせてくれてくれているだけなのかもって、思ってませんか?」
「……」
答える代わりに、可愛らしい体を抱いた。
よくそこまで分かるよな。この国には本音を言ってくれる人がなかなかいない。相川はともかく優さんはだんまりだ。認めも否定もしない態度である。学校でそれなりにうまくやってきた人に、僕の言い分なんて、1ミクロンも伝わらないと思っていた。
そんな複雑な心の中を唯には見透かされていた。
「唯だけだな、そこまで分かってくれるのは」
唯の耳元で小さく呟くと、彼女は僕をそっと抱きしめてくれた。
「真っ直ぐだけど、とても捻くれてて、曲がったことが嫌いで、いつも一生懸命に生きている。私はそんなあず君が大好きです」
「それ褒めてんの?」
「もちろん褒めてますよ。優勝トロフィーを総なめにするあず君も好きですけど、それができるくらいに諦めの悪い過程を踏んでいるあず君も好きです」
「唯……愛してる」
「……私もです」
抱き合いながら口づけを交わした。
ありのままの自分を……正面から受け止めてくれる人が1人いればそれでいい。
友達を100人作るよりも、たった1人の恋人を愛する方が僕には合っているらしい。唯は僕の悩みの全てを浄化してくれる聖水だ。そんな彼女のために家庭を守っていきたい。ただ支えてもらってるだけじゃなく、きっと返しきれないほどの恩を貰っているのだ。
「バリスタ競技会のレベルは年々上がってる。それはブランクができたらまず勝てなくなることを意味しているってわけだ。唯がこのまま子育てに集中することになったら、多分バリスタ競技会で優勝する機会が来なくなると思うけど、それでもいいわけ? 僕だったら絶対耐えられる気がしないけど」
「今までできていたことは『天から授かっていたもの』です。それができなくなったのは『天にお返ししたもの』ということです。才能ってそういうものだと思うんです。英語でも特定の分野に才能がある人をギフテッドと言いますし、辛いとは思いません。トップバリスタにならなくても、こうしてあず君に寄り添えるようになった証だと思ってます」
「……」
唯がうちにやってきたのは、トップバリスタになるためじゃなく、あくまでも僕と一緒に生きていきたいのだ。僕がずっと伊織とばかり仲良しそうに話しているのを見て、内心とても辛かったらしい。
トップバリスタでなければ僕に寄り添う資格なんてない。その思い込みだけが、唯のバリスタとしての才能を支え続けていたことを今になって知ってしまった。
無論、今でもバリスタとして店で働く分には申し分ない。だがもうトップは目指せなくなる。才能があるだけに、僕にはそれが胸を激しく絞めつけられるようにたまらなく惜しい。でも唯にとってのそれは自ら勝ち取ったものじゃなく、天から授かっていたものだと言うのだから驚きだ。
――器が違う。僕みたいなのが彼氏であることが申し訳なく思えてくる。
本当に……僕には勿体ないくらい、崇高で気品のある淑女だ。
それこそ……自分がちっぽけと思えるくらいには。
唯は自分にできなかったトップバリスタの夢を伊織に託したのだ。
2月下旬、JLACとJCIGSCの決勝が東京で行われた。
年齢制限によってJHDCくらいしか参加できない伊織にとっては見るのも貴重な経験だ。この日は思い切って店を休み、伊織も連れてきた。
見事決勝に残った璃子、美月、真理愛、俊樹の4人がベストを尽くして競技を終えていく。
この2つの大会は同じ場所同じ日程で行われている。それぞれのファイナリスト6人の中に葉月珈琲のバリスタが2人もいるのは誇らしい。それだけでも、鍛え方がまるで違うことを証明できているからだ。僕は定期的に葉月ローストを訪問しては、大会参加者たちに指導を施していた。
今までに培ってきた才能が天に持っていかれてしまう前に、少しでも分け与えておきたい。
大会中はコーチング禁止、僕がやってきたことをコピーさせるのではなく、彼らの個性を別の角度から補強する考え方だ。アンチ義務教育を掲げる僕としては、主体的なやり方で彼らを成功させたい。
何かを変えたいなら、変えるべき理由を証明すべし。
「皆さん、お疲れ様です」
伊織が参加した璃子たちに労いの言葉を贈った。4人は安心の笑みを浮かべた。
この可愛らしいふわふわした笑顔でこんなことを言われたら、やっぱ嬉しくなるよなぁ~。店1番の人気者になったことも頷ける。うちの若きエースは最強のホスピタリティの持ち主だ。
「後は結果発表だけですね」
璃子が微笑みながらも緊張している様子で言った。
結果発表までの間が1番緊張する。それは他のみんなも分かっていたようだ。
「そうですね。あの、1つ気掛かりなことがあるんですけど」
「どうかしたんですか?」
「実は……穂岐山珈琲のバリスタが1人も決勝までいってないんです」
「言われてみればそうですね。一体どうしたんでしょうか」
「昨日結城さんからメールで聞いたんですけど、結城さんもJLACに出ていたんですけど、結城さんを含めた穂岐山珈琲のバリスタたちが全員予選落ちしてたんです」
「「「「「!」」」」」
おいおいおい、穂岐山珈琲は大手コーヒー会社の中でも、トップバリスタの育成には特に力を入れているはずだぞ。1軍レギュラーですら予選を突破できないってことは、やっぱり大会のレベル自体が上がっている証拠だ。いや、それ以上に正解のない問題を解ける能力が物を言うようになってきたってことだ。今の僕ですら予測不可能、誰が優勝しても不思議じゃない。
――国内に敵がいなかったあの頃とは違うんだな。
「やっぱりそれだけ競技レベルが上がったということでしょうか」
「決勝に上がってきた人たちと少し話したんですけど、みんなあず君の競技を研究して、それを参考に腕を磨いて勝ち上がってきたって言ってましたよ」
「あず君が競技レベルを上げていたんですね」
「というより、模範回答みたいな競技じゃ駄目だってみんな気づいたんだ。穂岐山珈琲のバリスタが全員予選落ちしたのは、模範解答が通用しなくなったからだ。前々から思ってたけど、穂岐山珈琲は意外性に欠けるっていうか、美月が型破りなラテアートを描くようになったのもうちに転職してからだし、見る人をビックリさせようっていう発想を持った人が生き残る傾向が強い」
「意外性ならあず君に鍛えられましたからね」
真理愛が嬉しそうな顔で言った。だが美月は浮かない顔だ。
きっと古巣が不調になっているのが心配なんだ。穂岐山珈琲にとっては前代未聞のスランプだ。全盛期にはファイナリストを穂岐山珈琲のバリスタだけで埋め尽くしたこともあった。僕がまだ日本の国内予選に出る前なんか、実質穂岐山珈琲からの日本代表を決める大会だったし。
僕と競合するようになってからは、ファイナリストが段々と減り始めた。
しかも松野や美羽が引退してからは更なる弱体化を強いられている。これじゃ張り合いがない。まるで義務教育を引き摺ったような育成方針がバリスタたちの個性を殺しているし、内部に信用のできない上司がいたために、才能溢れるバリスタたちを手放す形となった。
桃花と陽向はバリスタ競技会出場を目指して修行中だ。
下半期から開催するバリスタ競技会にも出場することになっている。
「育成部がこのまま成果を出さなくなったら、来年以降の予算に影響が出ます」
「予算に影響が出るって、どういうこと?」
「育成部にはスポンサーがいて、年度成績によって来年度の予算が決まるというルールなんです。なのでもし予選落ちが続けば、来年度の予算をスポンサーにカットされてしまうんです」
「あれだけの設備を揃えるには、スポンサーが必要だもんな」
「はい。これから行われるJCIにJHDC、下半期に行われるJBCにJBrCに懸かってますから、もしここで結果を残さないとまずいですよ」
「君の課題じゃないだろ」
「そうですけど――」
「穂岐山珈琲だったら、一度僕が様子を見に行ってやるから、美月は自分のことだけ考えろ」
「分かりました。色々とお世話になった会社ですから、もし何か困っていることがあったら、どうか助けてあげてください。お願いします」
美月が頭を下げながら懇願する。本当に優しい人が多いから困る。自分にはストイックだけど、他人には優しいからこそ、みんなに好かれているのだ。
「……今日はもう遅いから無理だけど、伊織がJHDCの決勝までいったら、コーチとしてまた東京まで同行しないといけなくなるから、その時伊織の学習の場として訪問するかも」
「! 分かりました。穂岐山社長に伝えておきます」
美月は満足そうな顔で言った。悲しそうな顔で我が儘を通すのはある種の暴力とも受け取れるけど、穂岐山珈琲の内部事情が全く気にならないと言えば嘘になる。
助けられるかどうかは分からないけど、現場の把握くらいはできる。
伊織はプレッシャーをかけないでよと言わんばかりに頬を膨らませた。
かっ、可愛い。思わず惚れ惚れしてしまう。僕にだけこういう顔を見せてくれるあたり、結構気を許されているような感じがする。次はもっと高い順位を目指そうな。
夕刻、JLACとJCIGSCの結果発表が行われた。
璃子はJLAC6位、美月は5位、真理愛はJCIGSC優勝で2連覇を果たし、俊樹は4位だった。相変わらず真理愛が頭1つ抜けている。流石はバリスタオリンピック選考会で日本代表の一歩手前までいっただけのことはある。煮詰めていけば、次の選考会で代表入りするかもな。松野は競技者から引退し、結城は落ち目だ。穂岐山珈琲と競合することはないだろう。
――本当にこれでいいのかな?
育成部が廃部になれば、コーヒー業界における日本の競争力は間違いなく落ちるだろう。
1軍2軍に分けるのは気に入らねえけど、全国から多くのトップバリスタの卵を集めているコーヒー会社だ。なのにファイナリストが1人も出てこないのは教育をアップデートしていない証拠だ。ここは一度行ってやるか。今年から始めた新店舗に行く予定だったけど、これもコーヒー業界のためだ。
葉月珈琲はこの年の1月から、滋賀県米原市に2店舗オープンした。
1店舗目はメイドカフェの『喫茶葉月』である。
古風な物件にメイドカフェという比較的新しい文化を取り入れた店舗だ。うちのコーヒー農園で採れたコーヒー豆を中心に売っている。値段は張るものの、オープン当初から大盛況を記録している。
2店舗目はコーヒー抽出器具専門店の『雑貨葉月』である。
世界中から集めた抽出器具や、コーヒーにまつわる小物までを販売している他、焙煎の要素も取り入れており、焙煎したてのコーヒーを飲める飲食スペースも確保した。こっちもかなり売れている。
削り合いにならないよう、両方共少し距離を置いた位置にオープンしたが、何より僕のネームバリューがあるし、あまり関係なかったかもしれない。だが念には念を入れてだ。
良い条件で現地採用をした結果、店長も料理人も接客係もすぐに見つかった。
日本は人件費が安いから本当に楽だ。
こうして経営者目線で日本を見ると、いかに経営者にとって都合の良い国であるかをより一層思い知らされる。労働基準法を破っても大した罰則がないんじゃ、そりゃ過労死も増えるわな。やっすい賃金で長時間働かせている時点で、うちには売りがないと言っているようなものだ。その点、うちは短時間で大きな利益をサクッと稼げるように仕組みを工夫している。故に営業時間も短めで済んでいる。
午後9時、真理愛の祝勝会をしようと葉月珈琲に集まった。
伊織は帰る時間だが、既に伊織のお袋に遅くなるとメールを送ったらしい。これで伊織も祝勝会に参加できるわけだが、酒が飲めない伊織がいるんじゃ、みんな酒なんて飲み辛いわな。
コーヒーカクテルは僕や真理愛だけに留め、伊織にはコーヒーを提供した。
「やっぱりあず君のコーヒーは美味しいです」
「手順を間違えなかったら、誰が淹れても一緒だ」
「お客さんはコーヒーじゃなく、あず君が淹れた事実に対してお金を払っている感じがします」
「それは指名料金を取らないとな」
「意地汚いです」
「冗談だって」
「冗談に聞こえないです。メイドカフェも抽出器具専門店も本当にオープンしてしまうんですから」
伊織の言葉に、ついクスッと笑ってしまった。
そう言われてもなー、この行動力が成功の源なんだよなー。うまくいくかどうかはやってみるまで分からない。やってみるところまでを実行するハードルが、僕の場合は下がりきってしまっているのだ。
「無理だったら撤退すればいい。今頃広告部は滅茶苦茶忙しくなってるだろうな」
「お店の宣伝は大変ですからね。しかも2店舗を同時にオープンするなんて無茶ですよ」
「無茶かどうかはやってみてから言うもんだ。僕は経営者としてはまだまだだ。今はこうやってノウハウを積み上げていくしかない。人は行動することでしか結果を出せないし、行動しなかったら失敗もしないけど、成功もあり得ない。迷ってる暇なんてない。伊織も迷った時はまずやってみろ。どういう結果に終わろうとも、必ず得るものはあるからな」
「……はい」
いずれ天に返さないといけないなら、僕はこの才能が尽きる前に全てを授けたい。才能と実績のバトンを繋いでいくのも社長の仕事なのかもしれない。
全ては……僕の人生を変えてくれたコーヒーのために。
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