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社会不適合者が凄腕のバリスタになっていた件  作者: エスティ
第7章 バリスタオリンピック編
175/500

175杯目「過去の清算」

 バリスタオリンピックが終わり、僕らは祝勝会で一息吐いていた。


 身内から他人まで幅広い連中から、おめでとうの言葉を耳に耳に胼胝ができるほど貰った。


 穂岐山珈琲の連中はまるで自分のことのように喜びを分かち合っていた。さて、明日からは璃子が出場する大会に向けて精一杯サポートさせてもらうか。選考会時点で日本からエントリーしたバリスタは僕を除けばいずれも大手コーヒー会社だけだった。


 かつては大手が勝ち組、中小は負け組と言われてきた。僕はそういった言葉が大嫌いだ。というか人を二分する言葉全般が嫌いだ。だが僕らはコーヒー業界において、その法則を初めて覆した。


 どの大手コーヒー会社も成し得なかったバリスタオリンピックチャンピオンが……葉月珈琲というチェーン店すらない地方の中小企業から誕生したのだから。


 もう何も恐れる必要はない。自分に自信が持てるようになった。


 ふと、璃子がいる方向に目をやると、璃子たちはみんな涙を流し、僕の優勝を喜んでくれていた。


 僕は全ての部門で部門賞を受賞し、優勝トロフィーと合わせて史上初の総なめとなった。部門賞の黄金に輝く小さなトロフィーが5つもあるため、唯たちに持ってもらっていた。


 それぞれの部門を象徴するように、エスプレッソ部門のトロフィーは黄金のデミタスカップ、ラテアート部門のトロフィーは黄金のミルクピッチャー、マリアージュ部門のトロフィーは黄金のコーヒーカップ、ブリュワーズ部門のトロフィーは黄金のケトル、コーヒーカクテル部門のトロフィーは黄金のカクテルグラスが茶色い木製の土台に乗っている。まさか部門賞を全部取れるとは思わなかった。


 璃子は大会の準備に費やせたはずの時間を僕に費やしてくれた。


 璃子が大会で使用する作品についてはもう完成しきっていた。それほど足を引っ張るようなものではないと言っていたが、実際のところは分からない。だから少しでも遅れを取り戻してやろうと思った。でも今日中に帰れそうもないし、店は明日まで休みにするか。


 静乃、真理愛、小夜子たちが僕に近づいてくる。そういえば、小夜子たちも参加しているんだった。すっかり忘れていた。頑張り続けた反動が大きいのか、体が早く寝たいと言っている。


「あず君、もしかしたら世間との戦いに勝てるかもしれませんよ」

「どういうこと?」

「世間に当時の迫害を不当だったと認めさせればいいんですよね?」

「それはそうだけど……」


 真理愛と静乃が何かを企んでいるような顔をしている。何か策があるのか?


「なら話は簡単ですよ。日本人規制法を解除する代わりに、あず君への迫害を事実上容認した文科省に教育界を代表して謝罪してもらえばいいんです。それができない場合は日本人規制法はそのままにすると公表すればいいんです。今やあず君はコーヒー業界のスーパースターですし、バリスタオリンピック優勝によって、ますますうちの店に来たいと思う人が増えたはずです」

「つまり日本人規制法の解除を餌に、文科省に謝罪させるよう仕向けるってことか?」

「はい。世間に非を認めさせるには、もうこれくらいしか方法はないと思います」

「ということは、人によってはうちに来たいがために、文科省に対して僕への謝罪を迫る奴が出てくるかもな。世間の力を使って世間の代表に詫びさせるか。悪くないな」


 確かに文科省が謝罪したとなれば、世間への影響は大きいだろう。


 いじめの問題がずっと蔓延し続けているのは、世間の代表である国の怠慢も原因の1つだ。


 国に非を認めてもらうのは難しいが、試してみる価値はある。世間が詫びないのであれば、僕も世間の代行者たちを店に入れないことに対して罪悪感を持つ必要がなくなる。だが世間の代表に詫びてもらえさえすれば、僕は世間公認の社会不適合者になれるわけだ。


 世間が公認すれば、僕みたいな人間に対する同調圧力が弱まることは間違いない。


 唯との約束通り、日本人恐怖症は克服しつつあるが、日本人規制法解除の約束はしていない。


 それとこれとは別だ。まさに毒をもって毒を制す。世間に対して倍返しだ。


「どうして文科省に謝罪させる必要があるんですか?」

「文科省が謝罪したとなれば、僕を散々迫害していた当時の教育関係者も、迫害を事実上黙認していた世間の連中も、あの迫害を不当行為だったと認めざるを得なくなる。文科省は世間の代表だ。過去の清算を済ませないと、前に進めない気がするからさ」

「……分かりました。なら私もつき合います」


 唯が自信ありげな表情で僕に言った。唯は日本人規制法に対して人知れず心を痛めていた。ルールを知らないまま、うちに入ろうとした連中に表の看板を見せ、理由を説明しては帰ってもらっていたが、これに対する不満を他のスタッフが諸に受けていたことを僕は知っている。


 本来であれば、僕が言われていたはずの不平不満なのに……。


「なーに話してるのかな?」

「……秘密だ」

「教えてくれたっていいじゃーん」


 美羽はそう言いながら頬を膨らませる。そんな彼女を見かねた唯が事情を説明する。


「じゃあ、あず君がバリスタオリンピックで優勝したのは世間への復讐も兼ねていたってことなの?」

「はい。あず君の影響力が強まれば、世間も非を認めやすくなるんじゃないかってことです」

「ふーん、どうしても過去を清算したいんだー。今のあず君ならできると思うよ。応援してるね」


 美羽は笑いながら言った。彼女は僕が妥協知らずな人間であることを知っている。だからこそ止めはしなかった。僕ぐらいになると、止めるだけ無駄だと思われるらしい。


 ディアナとアリスも歩み寄ってくる。各国の代表も何人か招待されていた。


 穂岐山珈琲は本当に顔が広い。穂岐山珈琲もまた、世界中のコーヒー農園に手を伸ばしながらも次世代のバリスタやロースターの育成に心血を注いでいる。


「あず君って、結構優しいとこあるんすね」


 今度は愛梨が話しかけてくる。あの結果発表が終わってからずっと興奮が収まらない様子だ。僕には彼女が世界大会の魅力に心を奪われているように見えた。


「そんなんじゃねえよ。文科省が教育という名の迫害を不当と認めれば、昔の僕みたいな連中が不登校になるためのハードルが下がると思っただけだ。向こう30年は教育改革すらしないだろうし、愛梨がありのままの自分を否定されてきたのだって、教育制度によって普通の人間というありもしない概念を規定されたからだ……あんな悲劇は僕の代で終わらせたい」

「やっぱりあず君は優しいっすよ」


 愛梨が後ろから抱きついてきた。漏れなくダブルメロンの感触までついてくる。彼女には僕が優しい人に見えるらしい。僕はただ、善良な市民が生きやすい社会を作りたいだけなのだ。


 祝勝会では珍しく色んな連中と会話をした。


 結城は育成部の新たな部長として、みんなを引っ張っていくことに。


 しばらくは大幅な戦力ダウンによって、入賞も難しいだろう。他にも才能がありそうな人もいるが、あの育成方針では、予選突破はできても決勝を制するのは困難を極める。基礎はきっちりこなせるが、基礎止まりというか、究めた先にある可能性を泥塗れになりながら必死で掴み取る逞しさや、思いついたことを片っ端から試していく粘り強さに欠けている。


「あず君、もし良かったら……その……育成部のコーチをやっていただけませんか?」

「別にいいけど、来月以降でいいか?」

「えっ、やってくれるんですか?」

「ここを貸してくれたせめてものお礼だ。たまーにだったらいいぞ」

「――ありがとうございます」


 結城が満面の笑みで喜ぶと、今度は真由と拓也が僕に近づいてくる。


 真由はブログや動画で稼ぐようになり、家族からも独立した。某夢の国のバイトを辞めた後、関係者に誘われ、某夢の国の宣伝を公式に任せられるようになっていた。彼はテーマパークという趣味を仕事にできるようになったのだ。拓也は動画一本で稼ぐ仕事を始め、就職とは無縁の生活を目指すことに。


 元々就職という生き方自体が向いていなかったのだから、必然と言えるだろう。


「あず君っ! おめでとうっ!」


 遅れてやってきたお袋がいきなり僕に抱きついてくる。


「優勝おめでとう。念願のバリスタオリンピックチャンピオンだな」

「なかなか楽しめた。後は璃子だけだな」


 僕が璃子の方に目をやると、美羽たちと仲良く話していた。


 今日で穂岐山珈琲とは最後の交流になるかもしれない。


 悔いのないよう、話したいことは全部話しておけ。


「よお、またやってくれたな」


 松野が清々しいまでの笑顔で話しかけてくる。


「まあな。もうバリスタ競技会には出ないのか?」

「いや、俺は挑戦し続ける。まだ伸び代があるってことに気づいたし、限界を感じるまではやり続けるつもりだ。ずっとここにいたら、お前みたいに好き勝手な研究ができないしな。大した奴だ。あのマイケルに勝っちまうなんてな」

「そうか。じゃあ次は松野の応援でもするかな」

「けっ、余裕かましやがって」


 松野がそっぽを向いてしまった。プライドに触ったかな。


 まあでも、今日は存分に自分を褒めてやりたい。


 祝勝会が終わると、僕らはホテルへと戻り、最後の夜を過ごした翌日、岐阜へと戻るのだった――。


 10月中旬、あの死闘から数日が経過した。


 東京はコーヒーブームが続いている。葉月商店街もまた、アジア人初のバリスタオリンピックチャンピオンゆかりの地として人が訪れるようになっていた。うちの店には長蛇の列ができている。行列が長くなればなるほど、料金が割り増しになるにもかかわらず、客は喜んでうちに居座ろうとする。


 テイクアウトを選ぶ客も多かったし、混雑はしなかったが、バリスタオリンピックで使われたメニューを要求されたのは面倒だった。璃子たちに負担はかけたくなかったが、璃子たちは客のために、マリアージュ部門で僕が使ったメニューを期間限定で提供していた。


「お兄ちゃん、10月下旬から優子さんと一緒にパリに行くから、しばらく店空けるけど、大丈夫?」


 心配そうな顔で璃子が僕に尋ねた。璃子は日本代表として11月にパリで行われるワールドチョコレートマスターズに参加する。ワクワクしている反面、僕のことが放っておけない様子だ。


「大丈夫だ。僕も一緒に行こうか?」

「お兄ちゃんは店の仕事があるでしょ。アジア人初のバリスタオリンピックチャンピオンだし、店の顔としてしっかり稼いでもらわないと」

「そうそう、こんなにお客さんが来てくれてるのに、あず君までお店休んじゃったら、唯ちゃんたちが大変でしょ。あと数年も経てば、過去の栄光になるんだから」

「まっ、それもそうだな」


 やけに冷静だな。先のことまでちゃんと考えてるし。


 いや、僕が妹離れできていないだけなのかも。当分は忙しくなりそうだ。璃子は大会でゲイシャのコーヒーを使う予定だ。ゲイシャのコーヒーで作ったスイーツは本当に美味い。


「璃子、悔いのないよう燃焼してこい」

「……うん」


 璃子が笑顔で返事しながら頷く。璃子には何の迷いもない。きっと良い結果を残せるはずだ。


 それより問題は日本人客だ。バリスタオリンピックがあまりにも有名になりすぎたことで、うちの問題が浮き彫りになってしまっていた。予定通りに計画を実行した。あの教育制度が原因で僕が迫害を受けたことを文科省が認めれば、うちが日本人規制法を解除することを発表すると、みんなが一斉に文科省への謝罪要求をするようになった。これが教育改革の圧力になればと思った。簡単にはいかないことくらい分かってる。でも可能性を1%でも上げられるなら、努力を費やすことを惜しまない。世間の代表が非を認めさえすれば、世間との戦いに勝ったことになる。


 かつての僕の魂が蘇り、日本人恐怖症も完全に克服できるはずだ。


 それまでは粘り強く戦い続けることになるだろう。


「伊織」

「はい」

「バリスタ競技会に出てみるか?」

「私でも出られる大会があるんですか?」

「ああ、これだ」

「ジャパンハンドドリップチャンピオンシップ……ですか」


 僕が伊織に紹介したのは、ジャパンハンドドリップチャンピオンシップ、略してJHDC(ジェイハドック)というマイナー競技会だ。所謂ペーパードリップ限定のブリュワーズカップであり、予選は8分以内にが運営側が提供するコーヒー豆を使用し、2つのサーバーに量の異なる2回の個別の抽出を行なうドリップ競技だ。決勝はドリップ競技に加え、運営側が提供するシングルオリジンのコーヒー豆を使用し、プレゼンテーションを伴うコーヒー抽出を行なう。競技者は2つのサーバーに量の異なる2回の個別の抽出を行ない、3人のジャッジに各サーバーから1杯ずつ、合計6杯のカップを提供する。


 誓約書を提出すれば16歳からでも出場できる。予選には毎年200人のバリスタが参加し、最大で18人が決勝に進出できる。伊織の腕を見るにはピッタリの大会だ。唯が出ていたバリスタ甲子園も考えていたが、時期が過ぎてしまっていた。あの時の伊織だったら断っていたのが目に見えるけど。


 バリスタ甲子園の正式名称はハイスクールラテアートチャンピオンシップ、略してHLC(エイチエルシー)である。決勝トーナメントが毎年兵庫県で行われることからバリスタ甲子園と呼ばれている。


 できればこれにも出てもらって、経験を積んでもらおう。


「あず君って、本当に大会が好きなんですね。まだあの死闘が終わったばかりなのに」


 伊織が呆れながらもクスッと笑った。


 僕はいつの間にか、戦闘民族になっていたらしい。


「バリスタ競技会が僕をここまで強くしてくれたからな」

「それ、分かる気がします。練習しておきますね」

「登録は募集が始まったら僕がやっておくから、伊織は練習に集中することだ。この膨大なルールをちゃんと覚えないといけないしな」

「……はい」


 バリスタオリンピックを制した今、僕が次にするべきことは何だ?


 遂に世界最高峰のバリスタに上り詰めた。でもその先のことまでは全く考えていなかった。目標がある時が1番幸せなのかもしれん。あの一夜から、ずっとそんなことばかりを考えていた。


 この日の夜、僕はベッドの上に横たわり、唯に相談することに。


「そーゆー悩みを持つ人って、他にはなかなかいないと思いますよ」

「何で?」


 唯の顔を見ながら言った。薄着越しに見える豊満な胸に目が行ってしまい、ジッと眺めていた。


「ほとんどの人は途中で諦めちゃいますから」

「――いつからボーッと過ごすことに抵抗を覚えるようになったんだろうな」

「元々はのんびり暮らすためだったんですよね?」

「うん、確かにそうだった」


 元々は競争に参加することなく、有名になることもなく、のんびりと毎日コーヒーが飲める生活さえできればそれでいいと思っていたし、夢を叶えるまでは、その想いをずっと封印してきた。


 今、僕は封印を解除できる立場にいる。やっと夢が叶うのだから、もっと喜んでもいいはず。


「あず君は楽しく働くのが習慣になっちゃってますからね」

「ずっと我武者羅に生きている内にここまで来ちゃったからなー。昔よりも好き放題できる立場になれたし、そろそろのんびりしてもいいのかなって」


 唯は僕にヒントを出してはくれるが、ああしろこうしろとは言わない。


「夢って、1つだけじゃ駄目なんですか?」

「いや、いくらでも持っていいと思うぞ」


 ――ん? 待てよ。僕は楽しく働くことが、のんびり生きることと対立するものだと思っている気がする。だったら別にどっちをやってもいいんじゃねえか?


「じゃあ、のんびり暮らしながら楽しく働こうかな」

「ふふっ、あず君らしいですね」

「バリスタ競技会は機会があれば出ることにする」

「引退はしないんですね」

「引退って言葉嫌いなんだよな。引退しちゃったら、またやりたいと思った時に戻れなくなるじゃん。いちいち宣言するのもめんどくさいし、やりたい時にやりたいことをやる人生の方が僕には合ってる気がする。コーヒーへの情熱を持っている限り、僕はずっとバリスタだ」

「伊織ちゃんに大会を勧めていましたね」

「早めに慣れておいた方が後々有利だろ」

「ということは、伊織ちゃんのコーチとかやるんですか?」


 コーチか、ずっと参加する側だった僕には別世界の話だと思っていた。


 でも今ならコーチをする側も悪くないかもしれない。


「コーチねぇ~、一度やってみるか」

「ふふっ、やりたいことが一気に増えちゃいましたね」


 唯が迷いの生じた僕をいつもの僕に戻してくれた。影ながらいつも貢献してくれているパートナーに恵まれていることを改めて実感する。僕は本当に幸せ者だ。


 10月下旬、璃子が優子と共にパリへと飛び立つ。


 優子は璃子のサポーターとして同行するが、競技中はずっと見守ることになっているため、あくまでも個人戦であるとのこと。だが璃子にとっては、そばで見守っているだけでも心強いだろう。


 僕はホームゲームだった分のアドバンテージがあった。国産の食材を無理なく使えた。何より身内の応援の中で自分たちの作ったコーヒーで勝てたのが本当に大きかった。


 璃子はアウェーでの戦いになるが、練習通りにやれば勝てるはずだ。


 遠征しても勝ち続けられた僕の実績がそれを証明している。店は4人で回すことになったが、真理愛の手際が良かったこともあり、いつも通りのメニューを提供し続けることができた。


「ふぅ、やっと終わりました。璃子さんと優子さんの存在が如何に大きいのかがよく分かりました」

「こんなにも大変な作業を毎日やってたんだな。パティシエはもっと給料上がっていいと思う」


 愚痴を漏らす伊織に対し、僕もつい愚痴を漏らしてしまった。


 忙しすぎると、思ったことが口から出やすくなるな。


「何でこんなに大変なのに給料の安い仕事があるんでしょうね」

「みんな経営者に足を見られてんだよ。日本は人件費が安いからなー」

「日本人は法律を守るって思ってましたけど、労働基準法は平気で破りますよね」

「日本人は昔っから法律なんて守ったことねえよ。あいつらが守ってんのは世間の掟だ。歴史的に見ても自分たちで勝手にルールを作ることにすっかり慣れちまってるからな」


 日本人はずっと法律というものを平気で無視してきた。朝廷という正規の政府がありながら、豪族、公家、上皇、幕府、軍閥といった連中が勝手に別の政府を作っていた。今だって企業や学校が法律を無視しながら、自分たちで勝手にローカルルールを作って、勝手に法律を守った気になっているだけだ。


 本来なら暴行になるはずの体罰も学校内なら教育となり、労働基準法違反の時間外労働もサービス残業という言葉で誤魔化せてしまう。要はみんなで法律を破れば怖くないという思想の下でおかしなローカルルールが成り立っている。これじゃもはや法律が意味を成していない。あいつらにとって法律はただの目安でしかない。僕がずっとあいつらと一緒に仕事をしてこなかった最たる理由がこれだ。


 あいつらの支配力が怖い。だから僕は鎖国した。でもいつかは鎖国を卒業しないといけないと思っている自分がいる。この前なんか……日本人と外国人の団体客が渋々帰っていく様子を見てしまった。


 もう治りかけているはずなのに、それでも心のどこかで世間の代行者たちを受け入れられずにいる自分がいるのだ。日本人恐怖症を心の中に押し留めようとする何かの正体は既に分かっている。


 かつて僕の魂を殺した世間を屈服させろと心が叫んでいる。こいつこそが日本人恐怖症の正体、すなわち過去の僕だ。中学を追放されたあの時から、こいつが僕の中に住み続け、世間の代行者たちを拒否し続けている。こいつの怒りを鎮める方法はただ1つ。世間と決着をつけることだ。


 文科省からはまだ返事が来なかった。まっ、流石に一個人の事情にいちいち構ってられないよな。


「あず君、どうしたんですか?」


 伊織が僕を下から覗くように訪ねてくる。


「えっ……」

「さっきからボーッとしてますよ」

「いや、何でもない」

「私はドリップコーヒーを淹れますから、エスプレッソとカプチーノをお願いします。ただでさえ人数足りないんですから、しっかりしてください」

「ふふっ、そうだな」


 クスッと笑いながらも、伊織の確かな成長を感じていた。


 今の僕にできるのは、璃子が無事に大会を終え、優勝を祈ること。そしてこの外国人観光客の群れを捌くことだ。少なくとも、今はくだらないことで悩んでいる場合じゃない。


 今年も段々寒くなってきたな。

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読んでいただきありがとうございます。

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