表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
社会不適合者が凄腕のバリスタになっていた件  作者: エスティ
第7章 バリスタオリンピック編
158/500

158杯目「過去を清算するために」

 7月上旬、次はエスプレッソ部門だ。


 最も基本的な部門であり、最もコーヒー豆の多様性が問われる。


 片方は抽出のみだが、もう片方のシグネチャーが難問だ。


 3回続けて違う豆を使うわけだから、加える食材も変えなければならない。最も自信のあるシグネチャードリンクは決勝で使うとして、問題は予選と準決勝だ。ここで選択を間違えれば全てが水の泡。


 本当によくできた大会だ。全てにおいて完璧が求められる。


 全く同じ農園の同じ品種を用いた場合、プロセスが違っても、レパートリーポイントが発生しない。つまりゲイシャを使い続けるには、3種類の農園を利用しなければならないわけだ。


 エチオピアのコーヒー農園と契約を結んでいて本当に良かった。残る2つはうちが保有しているパナマとコロンビアのコーヒーだ。この3つに絞るところまではできたが、問題は組み合わせる食材だ。


「あず君、ブリュワーズ部門ですけど、使う抽出器具は決まったんですか?」

「一応決まった。ペーパードリップ、フレンチプレス、サイフォンの3つに絞った。無難にできそうなものから選んでみた感じだけど」

「あの、私はペーパードリップしか使えないんですけど、良ければフレンチプレスとサイフォンを見せてもらってもいいですか?」

「別にいいけど、じゃあ今からコーヒーブレイクするか」

「はい」


 まだ開店してから2時間くらいしか経ってないが、コーヒーの注文が来たら伊織にさせればいいし、もうすっかりコーヒーを淹れる作業に慣れているから安心だ。


 伊織のお陰で開発に没頭できるようになったのは大きな進歩だ。


 もはやカフェというより、コーヒー研究所になってしまっている。


「あず君、遊びに来たよ」

「ディアナ、久しぶり」


 久しぶりにディアナが遊びに来てくれた。ミディアムヘアーの金髪碧眼、クールさと可愛さが合わさった端正な顔立ち、スラッと長い体に目を惹くほどのバスト。僕と同い年とは到底思えないな。


「いらっしゃいませ」

「……あず君、まさかとは思うけど、こんな小さい子を働かせているのか?」

「伊織はもう15歳だ。労働も法律で認められてる」


 まあ、見た目が小学生にしか見えないからしょうがないか。


 美形ではあるが、童顔であるために年よりも若く見られている。僕に至っては未だに女子中学生と間違われる始末だ。大人びて見えるディアナとは対照的だ。


「その歳でバリスタデビューしてるのか?」

「ああ、トップバリスタの卵だ」

「それは興味深いな。コロンビアゲイシャを1つくれ」

「分かった。伊織、出番だ」

「彼女に淹れさせるのか?」

「信じられないかもしれないけど、彼女の抽出技術のセンスは僕よりも上だ」

「あず君よりも上か。将来化けるかもね」


 伊織はいつも通りタイマーつきのドリッパーを使い、ケトルに淹れた熱湯を丁寧に注ぐ。


「……! 美味い。惚れ惚れするような味だ」

「ありがとうございます。あず君はこの人と知り合いなんですか?」

「ああ、彼女はディアナ。今回のバリスタオリンピックのオランダ代表だ」

「オランダ代表なんですかっ!?」

「バレてたか」


 ディアナがニカッと笑いながら、あっさり正体を認めた。


 こういうところも可愛いな。クールビューティーなイメージだから可愛いところを見せられるとギャップ萌えしてしまう。彼女はオランダバリスタチャンピオンシップで史上初の3連覇を果たし、WBC(ダブリュービーシー)でも3大会連続でファイナリストになっている。


 地元オランダでは、若手ナンバーワンバリスタとして名高い。


「堂々と敵情視察か。良い度胸だ」

「私はもう使うコーヒーが決まってるから、できるのは観察くらいだけどな」

「じゃあうちの実験データを見ていくか?」

「いいのか?」


 ディアナがきょとんとしながら尋ねた。


 情報をシェアしなければ、同じ条件で参加しているとは言えない僕なりの拘りだ。


「うん、いいぞ。それで負けるとは思わないし」

「随分と自信家だなぁ~」

「自信がないとやってらんねえよ。今回は今までで最も厳しい戦いになるだろうし、他のバリスタ競技会の歴代世界チャンピオンの他にもバリスタオリンピック前回チャンピオンまで出場するからな」

「アメリカ代表のマイケル・フェリックスだろ。今最高のバリスタと言われている彼が連覇を狙って出場すると聞いた時は驚いた。でもこの人が出るんなら、優勝するのはより一層難しくなるだろうな」

「同じ舞台で戦えるチャンスがまた巡ってきたんだから、むしろ好都合だ」


 前回は選考会すら出られなかった。あの雪辱を晴らす絶好の機会でもある。


 ディアナは僕のプレゼンやコーヒーを参考に競技を繰り返してきた。彼女のプレイスタイルは僕に結構似ている。彼女はしばらくここに滞在するとのこと。見学くらいなら別に構わない。いつもコーヒーの研究に使っているうちのキッチンや現時点での研究材料や研究成果なんかも全部公開した。


 理由はどの道簡単にはマネできるものじゃないことや、研究材料のデータを提供することでバリスタ自身の成長に繋がるためである。うちの会社の目標はバリスタの地位向上でもある。活躍するバリスタを増やすことで、会社の目的が達成されるなら安いもんだ。


「あず君はとことん我が道を行く人なんです」

「見ていれば分かる。そういえば、君があず君を射止めたんだってな。おめでとう。末永くお幸せに」

「ありがとうございます」


 ディアナは僕らを祝福してくれていたが、顔が少しばかり残念そうだ。一度はつき合ってくれと交際を打診してくれた。唯のために断ったことが分かったのだからショックだろう。でもディアナだったらすぐに良い相手ができるはず。センターフライに追いつけるキャッチャーのような性癖なんだし。


「あず君を悲しませたら駄目だよ」

「はい。いつもは私が泣かされてましたけど」

「あず君は女たらしなところがあるからな」

「別に女たらしってわけじゃねえよ。女が勝手に寄ってくるだけだ」

「あず君は膨大な量のシグネチャーの組み合わせと味を記憶しているみたいだけど、そのせいで嫌なことまでずっと覚えているように見えるよ」

「確かに細かいところまで覚えていますからね」


 暗記は得意な方だ。まともにテストを受けていれば優等生になれたかもしれない。でも僕にそんな生き方を貫く勇気はなかった。特に嫌なことは詳細に覚えているため、日本人を見ただけで、足が勝手に一歩下がってしまうくらいだ。覚えているが故の苦手意識である。身内以外の日本人を見ても大丈夫と言える段階ではあると思うが、まだこれじゃ駄目だと思っている自分がいる。


「お兄ちゃん、絵の具事件で弁償させられた絵の具の値段覚えてる?」

「税込みで2720円。今も日記にレシートを挟んでる」

「弁償させられたって、どういうことだ?」


 絵の具事件の全貌をディアナに話した。挫けそうになる度にあのレシートを見て、諦めてたまるかと自分に言い聞かせていた。あの時の屈辱に比べれば、バリスタ競技会での苦難は全然大したことない。


 絶対にあいつらを見返してやる。反骨精神が僕に無尽蔵な研究意欲をもたらした。


「それ請求できないのか?」

「もうとっくに時効は過ぎてます。何せ小1の時ですからね」

「僕が人間不信になったきっかけの事件だ。あの時からあいつらに会うたんびに、また陥れられるんじゃないかって思うようになった」

「それがずっとあず君を縛ってたんですね」


 唯が寂しそうな声で僕の心の内を形容する。


「ではこうしましょう。2720円を返してもらうよう学校に請求するんです。それくらい記憶力が良いんですから、あず君の性格を考えれば、やってないのは確実でしょうし」


 真理愛が右手の人差し指を上に向けながら提案をする。随分な無茶振りだな。


 冗談だとは思うけど、一応聞いてみるか。


「もう終わった話だって言うと思うけど」

「学校は当時の世間の代表ですよ。あくまで世間が罪を認めずに白を切ると言うのであれば、世間の代表である彼らとは今まで通り、距離を置き続けると言えばいいんです」

「つまり日本人規制法の解除と引き換えか」

「それなら小学校だけじゃなくて、中学校にも謝罪してもらいましょうよ」

「2720円の返還でこの問題を解決できるとはいえ、組織というのは往々にして責任を取りたがらないものです。謝罪ともなると、そう簡単にはいかないと思います」

「ですよねー」


 唯が下を向きながら声のトーンを低くして肩を落とした。


 早くこの問題を解決したい。そのためには何としてでも過去を清算する必要があった。僕が世間によって失われたままになっている心を返してもらう必要があるのだ。


 僕があいつらを拒否るのは心を失ったからだ。


「みんなが葉月珈琲に行くことを強く思うようになったら世間に対する圧力になると思ったんだけど」


 優子が残念そうに嘆いた。彼女も早く日本人規制法を解除したいのだろう。


 ――そうか、今分かった。僕が過去を清算するための条件は世間に負けを認めさせることだ。


 バリスタオリンピックで優勝するくらいの活躍をすれば、うちに来たいと思う日本人もかなり多くなるはずだ。日本人規制法を解除するための条件として世間の敗北を認めさせるということなら……過去の僕も納得するはずだ。僕は一度死んでいる。中学校追放処分の日、僕の心は一度死んだ。


 言ってしまえば、世間とは昔の僕が持っていた心の仇なのだ。


 世間に負けを認めさせることで、失った心を取り戻せば……日本人恐怖症は完治するはず。


「真理愛、その作戦、しばらく預からせてくれないか?」

「は、はい……ご自由にどうぞ」


 唯と真理愛は料理の注文を受けると、持ち場へと戻っていく。璃子も優子もクローズキッチンへと戻っていく。僕と伊織は二遊間コンビのように、手を伸ばしても届かないくらいの距離からお互いをずっと見つめ合った。伊織が恥ずかしそうに目を逸らすと、今度はディアナと目が合った。


「あず君は良い同僚に恵まれてるな。みんなあず君のことを第一に考えてくれている」

「みんな僕が自分で選んだ、最高の仕事仲間だからな」

「それもあるだろうけど、私はそれ以上に同僚を越えた絆のようなものさえ感じる。みんなあず君のことを心から愛してるように見える」

「恥ずかしいこと言うなよ」

「ふふっ、来て良かった」


 最高の誉め言葉だ。仕事と関係のないところで喜ばれたのは初めてかもな。


 やれやれ、負けたくない理由がまた1つ増えちまったよ。


 7月下旬、今後の方針が決まったと思ったらまた騒動だ。


 バックヤードで休憩していたかと思えば、真理愛は母親からのメールで顔が青褪めていた。


 彼女も彼女で、親から自立しきれていないところがある。


「あの、今日お母さんがここに来るんですけど、私を連れ戻したいみたいなんです」

「懲りないなぁ~。客として来てくれる分にはいいんだけど、真理愛はうちにとって貴重な戦力だし、離れられたら困る。しょうがない。真理愛の紹介で来た扱いで入店を認める」

「ありがとうございます」

「真理愛ちゃんって、お母さんから独立したんじゃないの?」

「私の中では独立したことになってますけど、お母さんの中ではまだなんです」

「いるんだよ。自分の子供を思い通りにしようとする親が」


 真理愛にはコーヒーカクテル部門におけるアイデア提供をしてもらっている。


 アイリッシュコーヒーをどこで出すかだが、やはり最も自信のあるコーヒーカクテルなのだから決勝で出すべきだろう。エスプレッソベースでもドリップコーヒーベースでも作れるのが幸いだ。


 そんなことを考えていると、真理愛の母親がやってくる。


 うちには日本人規制法があるっつーのに良い度胸だ。


「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

「ありがとう。真理愛ったら、こんな所で油売って」

「売ってるのはコーヒーだぞ」

「お母さん、私はここでやっていくって決めたんだから、邪魔しないでよ」

「あなたがうち以外でやっていけるわけないでしょ。シェフ担当と聞いたけど、バリスタはいいの?」

「普段は料理の担当をやらせてもらって、時間が余ったらコーヒーカクテルの開発をしているの。ワインだって扱ってるし、これも立派なソムリエ修行だよ」


 最終的には親の会社を継ぐところは変わらないらしい。


 だが今はバリスタでいたい。それが彼女の本音だ。


「今お父さんの会社が乗っ取られそうになってるの」

「……何で?」

「最近会社の売り上げが下がってきていてね、バリスタオリンピックが東京で行われることもあって、東京はすっかりコーヒーブームになってるの。このままだと日本から撤退しないといけなくなるわけ。だからね、今こそ真理愛の協力が必要なの」

「そんな……」


 真理愛は目を半開きにさせながら俯いた。コーヒーとワインの両方が好きな人がいても、常に両方飲むとは限らない。故に片方が流行れば、もう片方の消費量が必然的に下がる。


 東京はバリスタオリンピックの影響でコーヒーの売り上げが伸びる一方だ。


 当然、コーヒー以外の飲み物の需要が下がっていても何ら不思議ではない。


「なら撤退すりゃいいじゃん」


 淡々と答えた。ビジネスの世界に情けは無用だ。


 需要がないなら、潰れるか規模を縮小するしかない。それはどこの企業だって同じだ。ていうか会社のために娘の人生を犠牲にしようとする神経がよく分からない。


「あなた、何言ってるんですか?」

「一過性のブームで潰れるんなら、それまでの企業だったってことだ」

「うちが撤退したら、真理愛もスイスに帰らないといけなくなるんですよ」

「彼女が帰る必要がどこにある?」

「真理愛は東京でソムリエになるために日本まで来たんです。もし『東京支店』がなくなったら、私も真理愛も日本に居座る理由がなくなります。そうでしょ?」

「……うん」


 さっきから言ってる意味が全く分からないんだが。


 撤退したところで、真理愛がここに居座ることには何の問題もないはずだ。


「真理愛、事情を説明してくれ」

「はい。私はスイスの生まれですけど、いつか日本でお父さんとお母さんの会社を経営してみたいと思っていたんです。ただ、世界進出しているとは言っても、スイスの本店以外は、全部世界各国の首都に1店舗だけレストランを置いている状況なんです。昔は20ヵ国以上の国に50店舗以上も展開していたんですけど、ソムリエがなかなか育たないせいか、各国からの撤退を余儀なくされているんです」


 真理愛が言うには、ソムリエが売りのレストランチェーンを謳っていながら、肝心のソムリエが育たないばかりか、優秀なソムリエが次々と他の企業に引き抜かれたせいで売り上げが減少し、各国のチェーン店を撤退させているのだとか。真理愛は日本に展開している店でソムリエになるという名目で来日しているため、東京支店が撤退した場合、彼女もスイスに帰ることを余儀なくされるという。


 しかもジャコブは真理愛ととんでもない約束を交わしていた。


「つまり君は、日本にある支店で後を継ぐことを条件にジャコブから自由の身にしてもらって、日本の支店が潰れたら、会社を立て直すためにスイスに帰らないといけないわけか」

「はい。今まで黙っていて申し訳ありませんでした」

「君が秘密の多い女なのは知ってるけど、こればかりは見過ごせないな」

「クビ……ですよね」


 真理愛がそっぽを向きながら静かに呟いた。


「何言ってんの。この程度のことでクビになんかするか」

「でも私、やっぱり約束を反故にはできません。お父さんとお母さんに育ててもらったんですから」

「うちとの労働契約はどうでもいいのかよ」

「そういうわけじゃありませんけど、あっちが先約ですから」


 ここは何とかするしかない。でもどうする? コーヒーブームの中で……ワインを流行らせたりでもしない限り――ん? コーヒーとワイン……そうだっ!


「真理愛さん、いなくなっちゃうんですか?」

「今はまだ大丈夫ですけど、東京支店は数ある『海外支店』の中でも特に大きなマーケットです。そこから撤退するということは、経営が相当厳しい証なんです」

「だったら潰れないように、ワインの需要を高めればいいんだろ?」

「それはそうですけど、そんな方法なんて……」

「君は何のためにコーヒーカクテルを究めてきたんだ?」


 方法は見つける。なければ作る。それが葉月珈琲のモットーである。今や真理愛はうちの貴重な戦力にして、身内の1人でもある。身内ならそれだけでも助ける理由としては十分だ。


 彼女だけは……絶対に手放さない。


「バリスタの底力、見せてやろうぜ」

「一体何をするつもりですか?」


 真理愛の母親が心配そうに尋ねた。


「バリスタオリンピックで、ワインをベースにした新しいコーヒーカクテルを作る」

「「「「「ええっ!」」」」」


 僕以外の全員が時が止まったように驚いた。


 コーヒーカクテル部門に関しては具体的なメニューが決まっていなかったから運が良かった。


「コーヒーカクテルをうちだけじゃなくて、東京支店のメニューにする。これならコーヒーブームに乗っかりながら、ソムリエたちも活躍できるだろ」

「確かにその方法なら売れるかもしれませんね。あず君が開発したコーヒーを飲みたがっている人は山のようにいますから。お母さん、お願い」

「……コーヒーカクテルなんて邪道です」

「だったら一度飲んでみろよ。それとも店が潰れる様子を指咥えて眺めるか?」

「……」


 アイデアを提供してくれたお礼だ。とは言っても、真理愛を助けるためだけど。


「ではそのコーヒーカクテルとやらをお願いします」

「真理愛、注文が入った。自慢のマンハッタンコーヒーを淹れてやれ」

「は、はい。分かりました」


 確かこの人は真理愛の親父の会社を共同で経営しているだけじゃなく、ソムリエ学校の校長でもあるんだったな。アルコールを知っているなら、コーヒーカクテルの味だって分かるはずだ。


 真理愛が淹れているのは、僕がWCIGSC(ワシグス)で使ったマンハッタンコーヒーだ。僕と真理愛が魂を込めて作った渾身のコーヒーカクテルだ。


 真理愛の母親が今にも溢れそうなクープグラスを零さないように持ち、鼻でアロマを感じ取り、ゆっくりと口に運んでいく。ソムリエなだけあって、飲み方が洒落ている。


「……美味しい」

「だってさ」

「そりゃそうですよ。あず君は世界一のバリスタなんですから」

「淹れたのは真理愛だろ」

「ふふっ、そうでしたね。私はやっぱり、コーヒーが好きなんですよ」

「……」


 真理愛の母親はしばらくマンハッタンコーヒーを見ながら沈黙している。


 酒の美味さが分かるなら、この味の美味さだって分かるはずだ。真理愛が目指しているものと、この人になってほしい娘像は一致していない。子供ほど思い通りにならないものはない。いつかは僕も思い知る日が来るのだろうか。できれば良い意味で期待を裏切ってくれる子に育ってくれるといいが。


「葉月社長」

「どうかした?」

「娘のこと、よろしくお願いします。バリスタオリンピック、是非とも応援させてもらいます」

「それは嬉しいけど、1つ約束してくれないか?」

「約束ですか?」

「ああ。もしコーヒーワインが売れたら、今度こそ真理愛を自由にしてやってくれ」

「……」


 真理愛の母親がまた黙ってしまう。


 数秒ほどこの場が重苦しくなるが、彼女はようやく覚悟ができたのか、その口を開いた。


「……分かりました。但し、コーヒーワインが売れなかった時は、真理愛を連れて帰りますからね」

「上等だ。二度と子供の人生に口出しするんじゃねえぞ。真理愛は僕が守る」

「ちょっ、ちょっとあず君! いきなり何言い出すんですかぁ!」

「それはあなた次第ですよ。葉月社長」

「あず君でいいぞ」

「では私はこれで。真理愛、あず君に迷惑かけるんじゃないよ。あなたはうちの代表なんだから」

「分かってる」


 真理愛は突然の約束に慌てふためきながらも勘定を済ませた母親を見送った。ワインをベースとした新しいコーヒーカクテルか。難しいけどやるしかない。今はこれしか真理愛を守る方法はない。


 真理愛は母親の哀愁漂う背中を見ながら、扉が閉じるまで後姿を見つめていた。

気に入っていただければブクマや評価をお願いします。

読んでいただきありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ