151杯目「新たな家族と共に」
バリスタオリンピック編の始まりです。
あず君にとっての大舞台が遂に幕を開きます。
世界最高峰のバリスタ競技会を是非ともお楽しみください。
2015年の正月がやってくる。
唯と打ち合わせした通り、ブログやSNSに唯との交際と妊娠を報告した。
僕は短文で済ませたが、唯はかなりの長文だった。
反響は大きく、昼を迎えると、うちでの親戚の集会に唯と一緒に参加した際、色んな人から詳細を聞かれた。出会ってからずっと惹かれ合ってきたこと、バリスタ修行で距離が縮まってきたこと、世界大会でも助言をくれたために優勝できたことを話した。
世間が嫌いであるため、記者会見はしなかった。代わりに動画の生放送で質問に答えることに。
記者の質問は記事にするために聞くような中身スカスカな質問ばかりだ。視聴者からの質問の方がまだマシだと思った。ニュースでも大々的に報道されて結婚を示唆する記事もあったが、僕は明確に結婚はしないと言っている。20世紀で賞味期限が切れたお飯事制度につき合う気はない。
ただでさえクレジットカードの普及などで、名字を変えるデメリットが段々大きくなっている。日本は結婚する場合にどっちかが名字を変えないといけないが、名字を変えるのに莫大なコストが必要だ。名前が一致しないと使えないツールがこれだけ増えてるのに、わざわざ名字を変更しないといけない意味が分からない。しかも離婚した場合、男が女に財産分与しなければならない場合が多い。
今や3組に1組が離婚する時代に突入しているし、女も稼ぐようになっているにもかかわらず、未だに男が女を養う前提の仕組みで、明らかに男が割を食う制度だ。結婚していないと子供に悪影響と言われたが、子供に必要なのは結婚じゃなく、子育てが満足に行える環境だ。
遺産相続ができない問題も無問題だ。以前からブログやSNSに遺産のことを書いている。僕が死んだら遺産は全て会社に寄贈する。人間いつ死ぬか分からないのだから、決めておいて損はない。子供に遺産を継がせたところで、基本的に食い潰されるだけなのだから、社会に還元した方がいい。
貯金なんてしてないし、収入の半分以上をコーヒー農家への寄付に回しているため、それもあって各農園から優先的にコーヒー豆や情報を貰うことができる。
僕にとってはこっちの方がお金よりも価値のある財産だ。
これこそ、僕が最先端のコーヒー豆を大会で使える理由である。
事実婚のデメリットは対策済みだ。
「あず君が唯ちゃんとできてたとはねー」
「ビックリさせて申し訳ないです」
「まさか未成年の子に手を出すなんて」
「手を出されたのは僕なんだけど」
親戚たちの話題は僕と唯の事実婚一色に染まっていた。唯はこの時から親戚の集会に積極的に参加するようになる。唯はその愛嬌のお陰か、すぐに親戚たちから家族の一員として認められた。
……ただ1人を除いては。
「お姉ちゃん、何しょげてんの」
「別にしょげてない。でもあず君と唯ちゃんにはガッカリした。そんな大事なことをずっと隠してたなんて信じられない。私は認めないから」
「別に認めてもらわなくて結構」
柚子は終始機嫌が悪かった。吉樹が言うには、去年も赤字を記録したことで滅入ってるんだとか。
楠木マリッジは創業以来黒字を記録したことがない。今度また赤字を記録すれば会社を畳むことを考えなければならなくなる。葉月珈琲は年間だと赤字を記録したことがない。これは世界大会を通してうちの店を知った外国人観光客のお陰だ。うちには毎日客が来る機会があるものの、柚子の会社はイベントに決して安くないコストをかけないといけない上に、イベントに客が来てくれなければ丸々大損だ。
相当ストレス溜まっている。しばらくはそっとしておこう。
「唯ちゃんも隅に置けないねぇ~」
リサがからかうように言いながら僕の隣に腰かけた。
「誰かとつき合うなんて思ってもみなかったなー」
「あたしは薄々気づいてたけど、まさか妊娠してたとはねー」
「だからこの頃店に出てこなかったんだ」
「まっ、そういうことだ。あー、そうそう。リサたち4人は今年から投稿部に異動してもらう。今後はいつもの場所で、料理動画を定期的に投稿してくれ。うちに来る必要はないし、部長はルイに任せる」
「うん、任せといて」
「あたしたちも有名人の仲間入りかー。サインとかー、強請られるんだろうなー」
「調子に乗って炎上するような動画だけは投稿するなよ」
「分かってるってー」
2つあるチャンネルうちの1つである法人チャンネルの運営権を投稿部に委譲した。これで個人チャンネルの運営に専念できる。広告部の大輔と優太もかなり頑張ってくれていた。お陰でホームページの管理ができているし、海外に向けた店の宣伝も僕なしで継続的に行えるようになっている。
特に部長である大輔の仕事ぶりはかなりのものだった。
バブル崩壊、就職氷河期、リーマンショック、東日本大震災という、あの魔境続きの時代を生き延びただけのことはある。特に根性は相当鍛えられているはずだ。
「レオとエマも投稿部に異動させんのか?」
親父が困った顔で僕に近づき、葉月ローストの心配をする。
美月がいるとはいえ、このまま店を回すのはキツイか。
「あの2人は若いだけあってインターネットに精通してるし、ちゃんとした倫理観を持ち合わせてる。今や1000万人ものチャンネル登録者数を誇るチャンネルを扱うんだ。ノリで選んでねえぞ」
「とは言ってもなー、いきなり2人も戦力を攫われたら、うちの店は毎日押し寄せる客を捌けなくなるんだぞ。あと1人は欲しい」
「心配するな。葉月ローストは基本コーヒー豆しか出してないんだからさ、50人分の席でも3人いればそれなりに回るはずだ」
「シフトの都合で欠員が出た時のために、あと1人雇ってくれねえか?」
うちから離れた店とはいえ、親父は人事権を持っていない。親父は先見の明もなければ人を見る目もなかった。そんな人に人事権を持たせれば、面接がうまいだけのポンコツを雇う危険性がある。
「分かった。2月に選考を行うから、2月までは3人で耐えてくれ」
「はぁ~、正社員も楽じゃねえな」
親父は下を向きながら息を吐いた。
フードにスイーツまで出していたら、本物のブラック企業だったな。
そんなこんなで僕は唯との事実婚を済ませ、婚活戦線から早くも離脱した。今までよりずっと仕事に集中しやすくなり、他の女からも言い寄られなくなって良いこと尽くめだ。
――しばらくして騒ぎが沈静化すると、伊織の15歳の誕生日を祝い、店の営業がスタートする。
1月中旬、5人で店を回していると、腹痛を訴えた唯が病院へと運ばれた。
「おぎゃあ! おぎゃあ!」
子供の泣き叫ぶ声が病院内に響き渡る。
「あず君……無事に生まれましたよ」
唯が掠れたような声で母子共に無事であることを告げる。
2015年1月16日、長女の葉月紫が生まれた。
天然茶髪で甘えん坊な可愛い女の子だ。顔はどちらかと言えば僕に似ているけど、かなり大人しい性格は唯に似ている。僕の生放送では紫の誕生を祝うコメントが寄せられた。
まるで王女が誕生したような反応だった。ファンからは育児休暇は取るのかと聞かれたが、うちは在宅勤務だから仕事をしながら育児ができるのだ。バリスタの仕事をしている時は唯に育児を任せ、動画を作っている時は子供の面倒を見ながら作ることに。唯は定期的に授乳をする必要があるため、育児休暇を取る必要がある。もちろん育児休暇中も給料は出ている。教育方針としては、まず日本語と英語を覚えさせることだ。僕と会話する時は日本語で、唯と話す時は英語で話すというルールを作った。これで両方共自然に習得できる。唯もこの方法で最初から両方話せたらしい。うちは子供を子供としてじゃなく、あくまで大人として扱う。産んだからには見返りを求めないスポンサーになるつもりだ。
子供が学校に行きたくないと言ったら行かせない。学校が何のためにあるのかを説明した上で、行くかどうかは子供に決めさせる。とは言っても、今はパソコン、スマホ、タブレットでいくらでも学べたり稼げたりする時代、学校も会社も行く必要がない。学校で学べるのは、精々人間の愚かさくらいだ。
義務教育がなんだ。人々を生き易くするために法律があるのに、法律のために人々が生き辛くなるのは本末転倒だ。職業選択の自由の中に無職が含まれているように、子供の教育にだって不登校という選択肢があっていいはずだ。必要に迫られてから勉強したっていい。いくら勉強しても覚えないのはやりたくないからだ。苦痛で脳が覚えることを拒否しているなら、無理に勉強させる必要はない。
大体は学校を出たらまず使わない知識ばっかりだし、調べたら分かるものに至っては覚える必要すらないと思っている。どうせ学校に行かせたって、勉強しない奴はしないのだから。
「あず君、バリスタオリンピック選考会と本戦ってルールが違うんですか?」
ラストオーダーを過ぎたある日、この日のバリスタ修行を終えた伊織が僕に話しかけてくる。
「基本的な部分は一緒だけど、選考会とは明確に違うところがある。『レパートリーポイント』というかなり厄介なシステムだ」
「レパートリーポイント?」
「簡単に言うと、それぞれの部門で予選と違う作り方をすれば、通常スコアに別のポイントとして加算されるというシステムで、要は引き出しの多さを求められてるってことだ」
バリスタオリンピック本戦のルールはこうだ。
参加人数は選考会と裏予選を突破した100人、予選のスコア上位10人とワイルドカード獲得者5人が準決勝進出、準決勝のスコア上位5人が決勝に進出し、決勝まで生き残った5人で優勝を争う。
ファイナリストはメダルとトロフィーが授与され、他のバリスタ競技会のチャンピオンと同様、公式にトップバリスタの称号を与えられる。決勝ではそれぞれの部門のスコアに応じた部門賞がある。
ファイナリストの中で該当する部門のスコアが最も高い者がそれぞれの部門賞を受賞する。準決勝からはテクニカルジャッジが消滅し、テクニカルポイントの代わりにレパートリーポイントが導入されるのだ。レパートリーポイントは準決勝から適用される重大なルールである。準決勝では予選と違う作り方を、決勝では予選と準決勝の両方と違う作り方を求められる。全く同じ作り方をしても減点はされないが、歴代のファイナリストはいずれもレパートリーポイントを狙っているため、優勝を狙うのであれば稼いでおきたい。管理能力を問われなくなる代わりに引き出しの多さを求められるようになり、創造性がより重要になるのである。テクニカルジャッジが消滅するのは、管理能力を重視するとバリスタの創造性を殺してしまう可能性があるからで、生半可なバリスタの決勝進出をより一層困難にしている。下手に味を変更するとレパートリーポイントが加算されても予選より低いスコアになる可能性もある。
『エスプレッソ部門』
エスプレッソ2杯+エスプレッソベースのシグネチャードリンク2杯。準決勝以降、コーヒー豆の種類を変更するとレパートリーポイントが加算される。シグネチャーの作り方自体は同じでも構わない。
『ラテアート部門』
フリーポアラテアート2杯+デザインカプチーノ2杯。準決勝以降、ラテアートにおけるイラストを変更するとレパートリーポイントが加算される。牛乳と豆は好きなものを使えるが、着色禁止である。
『マリアージュ部門』
フードとコーヒーの2セット+スイーツとコーヒーの2セット。準決勝以降、フードとスイーツの種類を変更するとレパートリーポイントが加算される。コーヒーはアルコールが禁止であること以外はどんな工夫を施してもいいが、コーヒーの味が支配的でなければならない。
『ブリュワーズ部門』
ドリップコーヒー2杯+ドリップコーヒーベースのシグネチャードリンク2杯。準決勝以降、機械動力を伴わない抽出器具の種類を変更をするとレパートリーポイントが加算される。
『コーヒーカクテル部門』
エスプレッソベースのカクテル2杯+ドリップコーヒーベースのカクテル2杯。準決勝以降、アルコールの種類を変更をすると、レパートリーポイントが加算される。
「ルールが忙しい大会ですね」
「この大会で優勝するには、少なくとも30通りのパターンを用意しないといけないわけだ。まさに引き出しの多さが鍵になってるバリスタ泣かせの大会でもある。決勝は予選と準決勝の両方と被らない作り方をしなきゃいけないけど、レパートリーポイントの倍率も上がる」
「創造性でしたら、あず君の右に出る人はいないと思いますけど」
「考えるだけなら誰でもできる。でもな、いくらレパートリーポイントが入るとは言っても、味が良くなかったら何の意味もない」
「だから他の大会には出ないことにしたんですね」
「そゆこと」
豆や抽出器具を変えるとなると、それだけでもコーヒーの味は変わってしまう。抽出したコーヒーを素の状態で提供する場合ならともかく、シグネチャーは相応の工夫が必要だ。
たった1種類のシグネチャーを作るだけでも困難だというのに。
どうやら大会ってやつは、参加者の我慢強さを試さずにはいられないらしい。
思わず欠伸が出てしまった。ルールブックを読み漁っているだけで日が暮れそうだ。それほどルールの数と準備が多い大会だ。心してかからないと。開催場所まで持っていくべき道具もかなり多い。開催場所が東京だったのは幸いだ。メジャーな抽出器具や食材であれば現地調達もできるが、できれば自分で厳選したものを使いたい。前回大会では穂岐山珈琲のサポートで2人共どうにか準備するべき道具を全て調達することができたそうだが、海外まで運ぶのは苦労しただろう。
松野に至っては地元開催であり、正真正銘のホームゲームだ。
「あっ、そろそろ帰らないと」
伊織が慌てた様子でバックヤードへと走っていく。制服にはもう慣れたらしい。後はうちに就職するだけだが、これで終わりじゃない。伊織にとってはここからが本当のスタートだ。
――やっと本当の自分として生きられるんだ。
「おぎゃあ! おぎゃあ!」
「はいはい、お昼寝しましょうねー」
まだ生まれたばかりの紫が何かを訴えようと泣き叫んでいる。
唯は帰ってきた時からずっと紫に英語で話しかけている。僕も紫に日本語で話しかけ、2人で面倒を見ていた。日本語と英語がごっちゃにならないかと心配もされたが、日本語自体が段々と英語に染まりつつあるんだし、別に問題ない。言葉なんて通じりゃいい。子供が日本を嫌になって海外に出ていく時に英語が話せれば、かなりハードルが低くなる。今は引き籠っていても仕事ができるため、出ていく意味もあまりない。基本的に子供の意思や適応力を馬鹿にしない方針だ。
子供の扱いに慣れてくると案外簡単に思えてくるが、おむつの取り換えだけは一生できそうにない。ただでさえ嗅覚が強すぎて耐えられない。ここは他の人に任せた。こんな時は親の家に預けるのも1つの手かもしれないが、うちの親に預けたら間違いなく前時代的な教育を受ける。僕が祖父母の家に預けられた時、おじいちゃんが自由すぎる人だった。固定観念に囚われない人間になる手助けとなったが、うちの親はサラリーマンの価値が下がっていく時代にサラリーマンを作るような教育を信仰していた。子供が生まれ、唯が退院した時からハウスキーパーを雇うことを璃子に勧められた。何でも、かなりの腕前を持つハウスキーパーを知っているんだとか。
友達の家に住み込みで働いていたハウスキーパーと知り合いだが、解雇されて途方に暮れていたところを璃子が拾う格好となった。やはり持つべきものは妹である。
「あず君、その人に任せて大丈夫なんですか?」
「大丈夫だ。ハウスキーパー歴はかなり長いみたいだし、僕らがいない時に見張りをしてもらうだけでもだいぶ助かる。35歳の女性で婚活中、一度会ってみたけど、大人しい人だったし、部屋は唯が使ってた客用の部屋を貸してやればいい。子育てとは言っても、生活の一部に変わりはないんだし、任せられるところはとことん頼っていく。そのために保育園とか幼稚園があるんだしさ」
「分かりました。じゃあしばらくは任せてみますか」
1月下旬、そのハウスキーパーが時間通りにやってくる。
クールで大人しい感じの黒髪ロングヘアーの女だった――。
瑞浪理恵。僕より10歳年上のアラフォー氷河期世代だ。
今年の初めに35歳に突入したことを気にしていた。姉御肌で家事育児が大の得意。親が保守的であったためか、花嫁修業をさせられた。しかし、就職氷河期がやってくると、結婚どころではなくなり、彼女も高卒で就職を余儀なくされたが、家事育児以外はできないため、清掃の派遣社員となった。
派遣切りに遭い、少子化ではあるが、そこそこ需要のあるハウスキーパーとなった。昔は他人に子育てをさせるのはNGという風潮があった。今は共働きが進んで、ハウスキーパーへの理解も深まったと思いたい。彼女はあくまでも補完であるため、家事全体の内、余った部分の仕事をさせていた。
「まさかあず君から依頼を受けるとは思ってもいなかったなー」
「こういうのは1番経験がありそうな人に任せた方がいいと思った」
「ねえ、結婚ってそんなに駄目な制度なの?」
「そうだな。したい人はすればいいと思うけど、時代遅れだ」
「あず君は結婚相手に求める条件とかあるんですか?」
「ない。そもそも結婚を求めてない。あんたはあるの?」
「瑞浪でいいよ。私は大卒で身長180センチ以上で年収600万円以上かな」
「瑞浪はその人に見合ったスペックを持ってるのかな?」
「よっ、呼び捨て……まあいいけど。それは条件が妥当じゃないってこと?」
「妥当だったら、もう結婚できてるよな」
呆気なく言うと、瑞浪は落ち込み気味の顔になり、しばらくため息を吐きながら後ろを向き、机の拭き掃除をしている。何でアラフォー独身の女ってのは、揃いも揃って頭の中がお花畑なんだろうか。
三高の男が人気なのは分かるけど、そういう人は他の女からもモテるし、三高の男だって、数ある女の中から若くて可愛い子を求めるし、子供が欲しい人なら尚更傾向が強くなる。
婚活に参加している時点で、問題児であるという自覚を持った方がいい。こんな当たり前のことが分からない時点で相当やばい。瑞浪は自分を客観視する能力が欠如している。ちょっと考えれば分かることだろうに。でも残念ながらこういう人は氷山の一角だ。特に婚活市場においては当たり前の光景で、自分のことを現実主義者だと思い込んでいる理想主義者が山のように居座っているのだ。
婚活イベント会社や結婚相談所は、施設やFランの婚活版といったところか。
瑞浪といい、あの連中といい、先が思いやられるな。
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瑞浪理恵(CV:風花ましろ)