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社会不適合者が凄腕のバリスタになっていた件  作者: エスティ
第6章 成長するバリスタ編
139/500

139杯目「詰みルートとの戦い」

 伊織の家に入ると、すぐに食事の時間がやってくる。


 彼女の家は小さな一軒家の2階建て。外観はボロボロだった。築50年の中古物件ってとこか。ガラガラと音を立てながら開閉する引き戸が時代を感じさせる。


 食事は質素なものだったが、割と美味かった。焼き魚定食とは渋いな。


「お母さん、あず君が今日JBrC(ジェイブルク)で優勝したんだよ」

「へぇ~、そうなのぉ~。おめでとうございます。やっぱり天才は違いますねー」

「僕は天才じゃない。コーヒーという1つのカテゴリーに誰よりも真剣に向き合ってきただけだ」

「そうですか。娘がいつもお世話になっております。娘は勉強頑張ってますか?」

「うん。頑張ってるよ」


 バリスタになるための勉強だけどな。


「最近娘の成績が下がっていて、このままじゃ志望校に受かりそうにないんです。どうすれば勉強ができるようになると思いますか?」

「学校の勉強は僕の専門外だから、分からない」

「えっ、でもあれだけの業績があるってことは、凄く良い大学を出ているんじゃないですか?」

「僕は中卒だ」

「中卒だったんですかっ!?」

「お母さん、失礼だよ」


 伊織の母親が思わず口を両手で塞いだ。高学歴じゃないと良い暮らしはできないと本気で思い込んでるタイプだなこりゃ。僕はすぐに確信した。伊織の母親を説得するのは至難の業であると。


「あぁ、ごめんなさい」

「まあそういうわけだからさ、勉強が苦手なら、無理にさせなくてもいいと思うぞ。中卒の僕でもこうして活躍できるんだからさ」

「そういうわけにはいきませんよ。他の子は良い高校に受かるために必死に勉強しているんですから、このままだと乗り遅れちゃいますよ」

「伊織は学校の勉強よりも、バリスタの方が向いてると思うぞ」

「基礎科目ができないと、社会に出てから恥かきますよ」

「生きていく上で基礎科目なんていらないし、別に恥かいたっていいじゃん。どうせできない奴はできないし、嫌な勉強を無理矢理させたところで、成人する頃には基礎科目の内容なんてほとんど頭から抜け落ちてるし、全面的に覚えてる人なんて、東大目指してるような、一部の奴だけだ」

「どうしてそう言えるんですか?」

「就労支援施設とかFラン卒の連中を見れば分かると思うけど、小中学校9年間の義務教育を受けたとは到底思えない読解力の人たちが山のようにいて、明らかに教育システムが機能していなかった。内容を覚えてない上に、社会に出た後全然活用してないし、あの時点で膨大な時間と労力を無駄にしたって認めてるようなもんだ。今の学校は子供のいる家庭から、お金と生きる力を吸い上げる悪魔の巣窟だ」


 今の教育制度の実態を懇切丁寧に説明した。伊織の母親は僕の話に何度も静かに頷き、残酷な事実を述べる度、驚きと失望を足して2で割った表情になっていた。要するに呆れだ。肝心なことは何1つ知らされないまま生きてきたことを2人は悔いている様子だ。悪魔の洗脳に抗うにはこうするしかない。


「だからさ、伊織を高校に行かせる件は考え直してくれないか?」

「そうは言っても、あなたのような才能もないのに、中卒で働くのはリスクだと思いますよ」

「僕だって最初は何もないところからのスタートだった。伊織はトップバリスタになれるだけの素質を持ってる。今の内から鍛えておけば、成人する頃には飯を食える大人になれる。伊織は学校の勉強が苦手だって分かってるのに、わざわざ学校の勉強が得意な連中と同じ土俵で戦わせる意味が分からない。負けるのが目に見えてるのに何でやらせるの?」

「いい加減にしてくださいっ!」

「「!」」


 伊織の母親が突然怒鳴り出す。どうやら逆鱗に触れてしまったらしい。


 今まで自分たちが正解だと思ってやってきたことを真っ向から否定されることに慣れてないんだ。


 猿なら木登り、魚なら水泳、鳥なら飛行の訓練をするのが当たり前だが、日本では得手不得手に関係なく全員に木登りをさせるような教育をしているからこそ落ちこぼれが出てくると丁寧に説明しただけなのに、何故怒られないといけないんだ?


「さっきから聞いていれば、施設や大学で頑張っている人を馬鹿にするような発言ばかりで、どこにそんな事実があるんですか?」

「事実を裏付ける証拠なら潤沢に揃っている。施設もFラン大学も飯を食えない人間を餌にしている巣窟だ。一度行けば分かる。しかもそういう施設が年々その数を増やしてる。これは学校が飯を食える大人になれる教育をしていない何よりの証拠だ」

「とにかく、伊織は絶対に高校に行かせます。お願いですから、伊織の邪魔をしないでください!」


 無責任な台詞に、僕の堪忍袋の緒が切れた。


 構うもんか。もう言いたい放題言ってやろうと思った。


「伊織の邪魔をしてるのはあんたの方だろ!」

「どう邪魔してるんですか?」

「伊織にコーヒーの趣味をやめさせたそうだな」

「それは……友達から嫌われると思ったからですよ」

「そんなの友達じゃねえっ!」

「「!」」


 気づけば僕は感情的になり、思いっきり怒鳴ってしまっていた。


 少しの沈黙の後、落ち着きを取り戻し、再び話し始める。


「友達ってのはな、没頭していることを真っ先に応援することができて、不利な時には躊躇なく味方できる奴のことを言うんだ。お前ら日本人は周囲から嫌われることを恐れるあまり、友達という言葉の意味を履き違えてる。ちょっとでも人と違うことをしたら嫌って、周りに合わせるために自分を押し殺さないといけない奴を友達と呼ぶなら、そんなのこっちから願い下げだ」


 伊織が言いたかったことを代弁すると共に、僕に友達が1人もいない理由を述べた。


 伊織には事前に()()()()()がいるかどうかを聞いていた。一緒に遊ぶくらいの友達はいるが、心から通じ合える友達はいないと言った。


 結局、みんな嫌われたくないから惰性で合わせてるだけなんだよな。


 卒業すれば一生会わないような連中のために、没頭していることを諦めるなんて、そんなのどう考えても馬鹿げてるとしか言いようがねえだろうがっ!


「でも進学しなかったら、それこそ好きなことを仕事にできなくなると思いますし、仕事の選択の幅が狭くなってしまいますよ。それに誰もが好きな仕事に就けるわけじゃないんですよ」

「それは就職して生きていく場合の話だ。氷河期世代の連中は、大卒なのに好きな仕事に就けてない人が多いんだ。ずっと就職に依存しきったマインドで生きてきたから、景気に人生を左右される破目になったんだ。あの時点で就職=正解とは言えなくなったことくらい分かるはずだ。それにこれからは定年っていう言葉が死語になって、一生働いて生きていく時代がやってくる。年金の受給年齢が段々上がっているのがその証拠だ。受給額だって生活できないラインまで下がってるし、伊織が老人になる頃には年金制度自体が機能不全に陥っている可能性が高い。どうせ一生働くことになるんだったら、好きなことを仕事にした方がいいに決まってるだろ。それでも就職レールに乗せると?」

「そうです。あなたが言っていることは推論にすぎません。娘はちゃんと大学を卒業して、良い会社に就職して、良い人に嫁ぐのが1番幸せになれる道なんです。それが子供のためなんです」


 若かりし頃の自分の夢を娘に押しつけてるパターンだ。しかも結婚して相手の家に嫁ぐことが前提にあるってことは、子供にかかるコストを早く取り返したいんだろう。性懲りもなく昭和の正解ルートを引き摺ってるし、やっぱ親の価値観って30年遅れてるな。絶対真に受けちゃ駄目だ。


「子供のためか……ふっ……大人は……子供のためと言って最悪なことをたくさんしてきた」

「そこまで言われなくても、娘は立派に育てているつもりです」

「子供は育てるものじゃなく育つものだ。親の出る幕はない」

「……私の方から誘っておいて申し訳ありませんけど、食べ終わったら帰っていただけませんか?」


 あーあ、これ絶対折れないやつだ。だから感情論しかできないおこちゃまは嫌いなんだ。


 食事は全て食べ終えていた。もうここに居座るのも限界だ。


 そう思った僕は立ち上がり、玄関へと向かう。


「ああ、そうするよ。そこまで言うなら勝手にしろ」


 愚痴るように言いながら、玄関で自分の靴を履いた。僕の頭の中は不満でいっぱいだった。


「――最後にこれだけ言わせてくれ。もしこのまま伊織が高校や大学に行ったら、確実に飯を食えない大人になる。嫌な勉強をずっとさせられている内に、やがて魂と知性の抜け殻になって、働くでもない学ぶでもない機能不全に陥ることが目に見えてる。そうなった時、あんたはその責任を取れるのか?」

「……」

「あんたが子供のためと言ってしたことが、伊織を不幸にする結果になったら、伊織は一生自分の過去を恨んで生きていくことになる。伊織から社会で生きていく力を奪った時、その道を強いた親として、一生責任を背負っていく覚悟があるのかって聞いてんだよっ!?」

「「!」」


 また怒鳴ってしまった。こんなのいつもの僕じゃない。何かがおかしい。


「やっ、やめてください! いつものクールなあず君はどこに行ったんですか?」


 伊織が慌てて宥めようと駆け寄った。僕はハッと我に返った。


 伊織の母親はこの場に立ち尽くしたまま、思い詰めた表情だ。


「――もし責任を取れないというなら……あんたも……この国を作った連中と変わりない」


 愚痴を言い残し、伊織の家を去っていく。言いたいことは全部言った。嫌われちまったけど。でも何であんなこと言っちまったんだろ……だがこの時の僕には確信があった。


 このままだと伊織が施設にぶち込まれ、教育システムの犠牲者の1人に数えられる確信が。


 伊織は施設やFランの連中と似ている。優しい、真面目、大人しい、言われたことはできるが、やりたいことは言えない。かつての伊織はこの全ての特徴に当てはまっていた。だがこの日、彼女の中からその内の1つが消えた。これは喜ばしいことだ。


 人間としては凄くできているけど、何というか、社会の荒波の中を生きていけるような逞しさが感じられない。どっちでもないところを突破していく力がない。弱々しくて見ちゃいられねえ。


 そんなことを考えながら、僕は不機嫌な顔のまま帰宅するのだった――。


 翌日、葉月珈琲で祝勝会が行われた。


 唯、優子、リサ、ルイは外国人観光客の他、美咲たちとも仲良く話していた。


 伊織も誘ったが、彼女は来なかった。きっと親に止められたんだろうと想像する。惰性で学校に行けば魂と知性の抜け殻にされることは、先人たちが証明済みだろうに。


「感情的な上に、核心を突いたら黙るし、話にならねえよ」

「ふーん、お兄ちゃんもたまには人の世話を焼くんだね」

「……そんなんじゃねえよ」

「私はお兄ちゃんに賛成だけど、伊織ちゃんのお母さんが言うことも分かるなー」

「何でだよ?」

「みんなと一緒なら怖くないっていう人は、自分で自分の人生を決めてこなかった人だから、昔の自分を思い出しちゃうんだよね。言ったでしょ。学校は多数派でないと殴られるゲームだよ。多数派ゲームをずっと続けてきた影響で、自分の子供にも多数派でいてほしいマインドになってると思う」


 ほう、璃子が学校を批判するとは珍しい。このまま伊織が不才になっても、あの親は恐らく責任を取らないだろう。このままじゃ進学させられちまう……どうする?


 とても祝勝会を楽しめる雰囲気ではなかった。みんな僕の異変を知りながら、知らないふりをしてくれている。璃子には既に伝えた。後は璃子が勝手に伝えてくれるだろう。


 4月上旬、大学を卒業したばかりのルイがうちの正社員に昇格した。


 ルイは就活をしていたが、うちよりも居心地が良くて条件の良い企業がなかったらしい。まあ、ここは身内ばかりだから無理もないけど……伊織は相変わらず来なかった。それだけが心配だ。


「もうバイトがいなくなっちゃったね」

「そうだな。これからも学生以外は全員正社員で雇おうと思ってる」

「どうして全員正社員なんですか?」

「単純に同じ条件で給料が違うのは不公平だし、人を雇うなら即戦力が欲しいからな。バイトの負担率は減らしてるつもりだけど、お手伝いにしておくのは惜しいからな」

「でもそれだと、人を雇う条件が高くなっちゃうから、まずはお手伝いとしてバイトで雇って、うちで育成してから正社員にするってのはどう?」


 優子が昇格制度を提案する。頑張った人が報われるのが目に見える形で分かるわけか。


「今回は優子の案を採る。バイトで適性を見極めてから正社員にするかを決めても遅くはないか」

「うちで修行していた子の場合はうちの仕組みも知ってるし、できる子は飛び級で正社員にしたら?」

「じゃあそうするか。即戦力になれる場合は最初から正社員にすればいいし」


 うちが即戦力で人を雇う場合、実技試験で才能ある人を雇い、うちで職人としての腕を徹底的に鍛え上げる。作業がスムーズにできるようになれば出来高を上げていく。


 一人前になったら経営学を教えて、切りの良いところで起業家デビューしてもらう。


 理解が早い人は飛び級にする。雇うのは15歳からだが、見習いとして訓練を積ませるなら10歳からでもいいと思っている。唯も14歳の時にうちまで訓練をしに来ていた。自分の意思で来ているわけだから児童労働ではない。そもそも素人が作ったものは店で提供できないわけだし。


 既に伊織が見習いとして毎日のようにバリスタ修行を受けているが、この頃なかなか来てくれないのが残念だ。修行の後はうちで働くも良し、他で働くも良しだ。色んな意見があるだろうが、どうせ大人になったら稼ぐ側になるんだから、小さい内から自分で飯の種を作れるようにしてもいいはずだ。


 僕がこう思ったきっかけは、施設やFランの連中である。


 彼らが学校卒業後に飯を食えない理由として、得意を活かせず、苦手の克服ばかりをさせられ、何かできないことがある度に叱責されてきた環境に加え、働き方を知らないのも大きな要因だ。僕は幸いにも魔境から抜け出せたが、あの調子で高校や大学までズルズル行ってたら、今の僕はなかっただろう。


 あんなやり方で子供の生きる力を育てるのは無理だ。僕が見てきた彼らは総じて自己肯定感が低く、文句を言ったり、インターネットサーフィンをするばかりで、具体的な行動は何もしない負け癖がついていた。これだけでも驚嘆に値するが、僕が特に驚いたのは、あの連中が誰1人として金融教育を受けていなかったことである。職業訓練を受けている立場なのに、経済の仕組みを全く知らない。


 資本主義社会において金融教育を受けないのは、武器を持たずに戦争しに行くようなものだ。


 やはり彼らは負けるべくして負けた――。


 そういう意味では、彼らと一緒に過ごした時間は有意義だった。拓也は施設を卒業した後もネカフェに行くような感覚で時々遊びに行っていた。あの時僕が会った連中は、みんな低賃金労働の企業に就職していった。今はそんなことをしなくても、家にいながら好きなことをして稼げる時代だというのに。


 就職が苦手なのに就職以外で生きる発想がない。故にあいつらは苦手な土俵で藻掻くしかない。あれじゃ一生底辺労働者だろう。言い方は悪いが、身内にはああなってほしくない。身内や仲の良い人には金融教育を受けるよう進言している。なるべく頭を使って体を使わずに労働効率を上げるようにして、楽して稼げるようにはするが、日本人にとって、楽して稼ぐのは悪でしかない。


 働かないのも駄目、楽して稼ぐのも駄目。あいつらと仲良くするには、社畜になるか社畜のふりをするしかないのだ。故にあんな連中には近づかないようにしている。道を歩いている時、お前は才能で稼げていいよなと、雑魚キャラ丸出しの台詞を何度か言われたことがあった。そういうあんたらは才能がないと確信できるほど何かに取り組んだことがあるかと言ってやった。他人に嫉妬している暇があるなら自分を高める努力をするべきだ。無駄に嫉妬を買うため、楽をしていた部分は言わなかった。


 1年ぶりに岐阜コンの運営側で参加した。あの時は他のことに時間を割けなかった。


 柚子は喜んでいた。葉月ローストは好評につき、店を増築するためにしばらく休業していたが、これで50人分の席を確保し、リニューアルオープンしていたために多忙を極めた。葉月珈琲が焙煎済みのコーヒーを提供するのに対し、葉月ローストは焙煎したコーヒー豆を売るのが主体である。


「やっぱこのレモンティーのフレーバーがたまらないですねー。美味しいです」

「……」


 美味いのは当たり前だ。その先に感じたものを述べてもらいたい。


「どうかしたんですか?」

「いや、何でもない」

「もしかして、伊織ちゃんのことを考えてますか?」


 ついビクッと引き攣った表情になってしまう。


 唯はジト目になりながら、当たってほしくない予想が当たったことに呆れてしまう。


「分かりやすいですね」

「ごめん……やっぱドリップコーヒーの評価はあいつじゃないと駄目だ」

「あず君の舌だけでは限界があるってことですか?」

「審査の場では全員から文句なしの味と評価されないと、ハイスコアにならない。味は悪くないけど、今のままじゃ駄目な気がする。違和感を持ったまま世界大会に行くのは抵抗があるというか、いまいち決定打に欠けるというか、うまく説明できないけど、このままじゃ世界の頂点には程遠いぞって、コーヒーが僕に訴えかけてくるんだよなー」

「なるほど……天性の感覚ってやつですか」


 僕と伊織には、他の人には分かりにくいフレーバーまでをも見通す天性の感覚を持っていた。これはずば抜けた味覚と嗅覚の持ち主が授かった生まれつきの超敏感なセンサーってとこだ。世界大会にも、この天性の感覚を持った者たちがジャッジとして参加している。


 僕が違和感を持っているということは、彼らもこの決定打のないフレーバーに気づくということだ。


 JBrC(ジェイブルク)で使ったコーヒーとメソッドはうまくできているが、実に小さく収まったものだった。あれ以上のものはいくらでもあることが手に取るように分かった。だがこの天性の感覚が求める改善案を思いつけなかった。是非とも伊織の意見が聞きたかったのだが。


 4月下旬、伊織が来なくなったことを心配した僕は、彼女にメールを打つことを決意する。


 伊織もようやく落ち着いた頃だろう。


 午後10時、伊織のスマホにメールを打った。


『今空いてるか?』

『はい。どうしました?』

『最近来てないけど、体調でも悪いの?』

『お母さんが葉月珈琲に行くことに反対してるんです』

『情けねえな。本当にやる気があるなら、学校の帰りにでも来ればいいのに』

『それが、学校が終わったら真っ直ぐ帰ってくるように言われたんです』


 ――おいおい、何をどうやったらそんな意思決定になるんだ?


 原始的で保守的、あいつらは昔っから何にも変わっちゃいない。


 せっかく伊織が一歩前へと踏み出したというのに。


『伊織はどうしたい?』


 この問いかけに対してはしばらく返信が来なかった。


『分かりません』


 ――クソッ! また言いたいことを言えなくなっちまってるじゃねえか!


 どこで分岐を間違えたんだ? 伊織の母親と目を合わせたところか? いや、違う。伊織の自宅前で彼女を起こして、1人で帰宅させるべきだったのかもしれない。そうすれば会うこともなかった。


『学校はどう?』


 再び指を動かしながら文字を打ち、彼女に問いかける。


『分かりません』


 またか。分かりませんという言い方は、その質問には答えられないという意味合いもあるって、璃子が言ってた気がする。イエスかノーで答えられる質問をしろという意味だとしたら……。


『今幸せか?』


 送信後、しばらくこの文字と睨めっこをする。


『いいえ』


 やっとまともな回答が返ってきた。やはりそういう意味だったか。


『君のお袋は僕について何か言ってた?』

『はい。凄く理屈っぽい人と言っていました。でもあの日は久しぶりにお母さんと将来について話し合うことができました。ずっとお母さんが私のすることを決めて、私はそれに黙々と従うだけだったことに気づかされました。私は誰かに従ってばかりなせいで、自分の人生を他人事のように考えていたのかもしれないと思うと、ちょっと怖いです』

『今度君のお袋を連れてうちに来てくれないか?』

『説得してみます』


 ふぅ、何とか首の皮1枚繋がったか。もしこれを伊織の母親が断るなら、伊織の未来は断たれたと言っていい。それで彼女が不才になろうものなら、僕は彼女の個性を摘み取ったこの国を一生許さない。


 個性の敵は僕の敵、僕の敵は人類の敵だ。

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読んでいただきありがとうございます。

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