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社会不適合者が凄腕のバリスタになっていた件  作者: エスティ
第6章 成長するバリスタ編
138/500

138杯目「抽出メソッド」

 3月下旬、JBrC(ジェイブルク)の準決勝と決勝が行われた。


 この日のためにペーパードリップを徹底的に練習し、パナマゲイシャ、ナチュラルプロセスの魅力をプレゼンすることに決めた。品種やプロセスや焙煎や抽出器具によって様々に味が変わる中でも、特に素材の味が素直に表現されているものを1つ発見したため、これをプレゼンにしようと考えた。


 うちの店で使われているスペシャルティコーヒーは、世界中に流通しているコーヒー豆の中でも特に質の高い高級なコーヒーだ。流通している全てのコーヒーの内の僅か5%程度である。中でもゲイシャは群を抜いている。大会でもみんな揃って使うほどだ。最新式のマシンも抽出器具も一通り揃ってる。どこのコーヒー農園も知名度を得るためにうちと契約を結んでいる。故にどこの国からでも、あらゆるスペシャルティコーヒーを取り寄せられるようになっている。


 コーヒーの研究をする上で、うちの店ほど充実した環境はないと思っている。正直に言えば、僕は伊織が羨ましい。僕が学生の頃にこんな環境はなかった。今学生に戻ったら、1日中ここに居座って研究していただろう。それもあってか、うちのスタッフはみんな質の良いコーヒーを淹れることができる。


 基本的に担当業務を優先するが、欠員が出たら穴埋めに回る。これは僕ではなく璃子のアイデアだ。バリスタに欠員が出た日は休みにしようと思ってたが、璃子がこのアイデアを出したことで、結果的に全員がコーヒー、フード、スイーツの基礎を習得することができた。


 今後入社してくる人にとってはハードルの高い店になった。


 大会当日、真由の家から東京にある会場まで行くと、人だかりができていた。バリスタ競技会は9月か10月頃に行われる大規模なコーヒーイベントで開催されることが多い。この頃のJBrC(ジェイブルク)は2月か3月に開催される小規模なコーヒーイベントの中で行われていた。


「たくさん人が来てますね」


 伊織が大人数の観客に驚いている。彼女にも親の許可を取った上で一緒に来てもらうこととなった。この頃には春休みに入っている。春休みの宿題は1番後ろの解答を丸写しだ。伊織は授業の時間中にも教科書を読むふりをしてバリスタの基礎が書かれた本を読んでいた。評定は下がる一方だったが、彼女は気にしなかった。いざとなれば、わざと高校受験に落ちることも決めている。伊織の決意は固い。


「そうだな。できれば観客なんていない方がいいんだけどな」

「バリスタとしての自分を発信していく場じゃないんですか?」

「それはそうだけどさ、昔ならともかく、今だったら動画で生中継見れるだろ」

「私は間近であず君の競技が見たいです。お母さんを説得するのに時間かかっちゃいましたけど、どうにか来ることができました」

「お父さんの許可はいらないんですね」

「はい。お母さんは私が小さい頃、お父さんと離婚したので、今はお母さんだけなんです。もうすっかり慣れちゃいましたけど」

「……ごめん。知らなかった」

「いえいえ、気にしないでください」


 伊織が接客業のような物腰柔らかな大人の対応で唯を気遣っている。前々から思っていたが、僕より一回りも若い割に話し方に余裕があるというか、精神年齢が高い。いや、他の連中が幼すぎるだけで、本来はこれが普通かもしれない。母子家庭の貧困率は非常に高い。伊織の母親が彼女に安定した道を勧めるのも頷ける。子育てをしながら仕事をこなすのは大変だ。体があと2人分は欲しくなる。


 伊織は早い内から成熟した大人になることを求められていた。


 子供は周囲の環境に物凄く敏感だ。彼女が家庭内で伸び伸びと過ごすことを許されなかったのが容易に想像できる。良くも悪くも子供らしさがないのはそのためだろう。これは尚更後には引けない。


「伊織、うちに来ていること、同級生にばれてないよな?」

「はい。定期テストのお陰で遊びに誘われることもないので、私だけ1人で下校しても全く怪しまれないです。後をつけられないように気をつけてますけど、どうして私が葉月珈琲で修業していることが、他の同級生にバレちゃいけないんですか?」

「もしバレたら何であいつだけってなるだろ。あいつらは嫉妬深いんだ。1人だけ自分たちを出し抜いている奴がいれば、全力で毒沼に引き摺り込もうとする。嘘だと思うならバラしてみろ。あっという間にクラスから孤立するだろうな」

「……やめておきます」

「賢明な判断だ」


 会場に着くと、手続きを済ませ、持ち込んだ荷物を運営側に預ける。


 美羽たちは来なかった。松野の予選落ちへの配慮だろうか。ていうかここで予選落ちするようじゃ、次のバリスタオリンピックの選考会が心配だな。


「あず君、頑張ってください」

「ああ、任せろ」


 伊織に応援されると自然と応えたくなる。準備時間中は僕と唯の2人でセッティングを行う。コーヒー豆は競技開始前にグラインダーで細かく挽くことが認められている。


 競技者に求められるプレゼンは『味覚説明』と『顧客サービス』の2つである。


 味覚説明は競技者が自分のコーヒー飲料のセンサリーによる体験の詳細を述べる。顧客サービスは競技者の魅力、プロフェッショナルな競技、模範的なコーヒーサービスの経験を持つものでなければならない。革新的で創造的なコーヒー体験をさせるほどスコアが上がるとルールブックには書かれていた。諸に僕の得意分野だ。準決勝では、パナマゲイシャの魅力をアピールするべく、簡単なパンフレットをジャッジに配布し、後はいつも通り英語でプレゼンをした。


 すぐに結果発表が行われ、決勝へと進出する。決勝でもやることは準決勝と同じだ。


 プレゼンを行いながら、自分が選んだ抽出器具でコーヒーを抽出することになるが、味だけじゃなく香りも評価の対象であるため、途中で一度ジャッジにコーヒーの香りを嗅いでもらった。ペーパードリップ以外にも色んな抽出器具があるものの、参加者の大半がペーパードリップを使っていた。数ある器具の中でも抽出技術の差が露骨に表れるからだ。抽出の上手さが分かる器具と言ってもいい。


 自信のある人はペーパードリップを使うのがお決まりになっている。僕も例に漏れず最初から使うと決めていた。僕がペーパードリップを始めたのは5歳の時だ。その頃からおじいちゃんがつきっきりで教えてくれていた。普通は熱湯が熱いからと子供には触らせない人が多いが、僕がやりたいと言ったらおじいちゃんはあっさり承諾してくれた。危ないから駄目なんて言われていたら、僕はここまで抽出技術を磨くことはできなかっただろう。小さい頃からずっとコーヒーの抽出に関わってきた僕にはコーヒーの声や抽出のプロセスによる味の変化が手に取るように分かる。


JBrC(ジェイブルク)決勝を始めたいと思います。最初の競技者です。第1競技者、株式会社葉月珈琲、葉月珈琲岐阜市本店、葉月梓バリスタです。ご自身のタイミングで始めてください」


 黙ったまま頷き深呼吸する。この競技で抽出すべきコーヒーは1種類のみ、しかもそれに10分も時間をかけられる。話す時間に余裕がある分、プレゼンが重視されているわけだし、言うほどマルチタスクはいらない。これほど僕にとって有利な条件はなかった。


「タイム。今回体験してもらおうと思っているのは、雑味がなく極限まで洗練されたコーヒーだ。僕が5歳の時にペーパードリップでコーヒーを淹れ始めた時から雑味のない洗練されたコーヒーを追い求めてきた。僕はまず、時間帯毎に出やすい成分を調べた。初めはフレーバーとアシリティー、次に甘味、渋みや苦味といった抽出で引き出したい部分から抑えたい部分に変わっていることが分かった。3回注ぎをする際、フレーバー、アシリティー、甘さを引き出し、渋味や苦味を抑えるメソッドを考えた」


 フレーバーをアシリティーを引き出すために1投目は熱湯の量を多めにし、酸味と甘味を多く引き出すため、2投目はゆっくりと注ぎ、3投目は最後まで一気に注ぐ。渋味や苦味が出てしまう直前に抽出を止める。これらを伝え、それぞれにペーパーフィルターが入った3つの円錐プラスチック製ドリッパーに3回注ぎをし、時間を最新式のドリッパー置きに付属しているタイムウォッチで正確に計る。


 1つだけであれば自分で数えられるが、複数個管理するならタイムウォッチが必須である。ラッキーなことに、熱湯を注いだ瞬間から自動的に温度や時間を計ってくれるドリッパー置きを見つけられた。


 僕が3回注ぎをする時は、右手で反時計回りに注ぐと決まっている。これが最も注ぎやすいのだ。


「今回使っている水は、活性炭が入っている濾過器を取りつけて、更に沸騰させた純度の高い軟水だ。そして今回使うコーヒー豆は、パナマ、ブリランテ・フトゥロ農園、標高約1000メートル、ナチュラルプロセス、ゲイシャのコーヒーだ。この農園ではハニープロセスでのみ作られていたが、農園の園長が代替わりしてからは様々なプロセスのコーヒーが生産されるようになり、フレーバーに多様性が生まれた。水出しで抽出されたこのコーヒーはジャスミンのようなアロマに加え、甘味と酸味のバランスが取れているのが特徴で、洗練された純度の高いレモンティーのようなフレーバーを感じる。飲んだ後は徐々にチョコレートの風味が強くなり、アフターはオランジェットを感じる。プリーズエンジョイ」


 抽出が終わった後はサーバーに抽出されたコーヒーをセンサリージャッジに嗅がせ、熱湯で予熱しておいたコーヒーカップにコーヒーを移して提供する。


 伊織からはレモンのような酸味が強いと指摘されていたが、抽出メソッドを工夫したことで丁度良い酸味と甘味のあるコーヒーを抽出することができた。


 伊織は予選の段階から、この大会における事実上のコーチとなっていた。


 ドリップコーヒーのセンスは僕よりも上であると感じた。


「コーヒーの抽出は奥深いものがある。コーヒーの種類だけメソッドがあり、メソッドに正解はないと思っている。コーヒーは話すことができない。それを代わりに伝えるのがバリスタだ。僕らバリスタはコーヒーの声であるべきだ。伝えられたかどうかはアロマやフレーバーが教えてくれる。僕はこの大会を通して改めてそれを認識することができた。最高のコーヒーを提供できたことに感謝する。タイム」


 タイムは9分54秒、何とか間に合った。


「第1競技者、葉月梓バリスタの競技でしたー。さあ、それではインタビューの方へと移らせていただきます。丹波さん、お願いします」


 ――えっ! 丹波ってまさか……。


「よっ、久しぶりやな」

「何故君がここに?」

「あー俺なー、協会の会員になってな、今回のインタビュアーを担当することになったんや。せやから競技者としてはな……もう引退したんや」


 丹波は整った黒髪で紺色のスーツを着ていた。彼とは色んなバリスタ競技会で会っていた。あの頃はまともに話すことさえできなかった。今は神戸でカフェを営みながら協会の会員として活動している。


 うちのコーヒーを味わいたかったのか、葉月ローストがオープンした時は真っ先に駆けつけたほど。あの味は親父だから再現できたと言っても過言ではない。


「やっとまともに話せるようになったんやな」

「全然目を合わせられないところは変わらないけどな」

「あず君の会社が持ってる農園のコーヒーやったっけ?」

「うん。色んな思い出が詰まった農園だ」

「フレーバーと酸味と甘味を引き出して、渋味や苦味はカットするメソッドにすることで、レモンティーのようなフレーバーになるんやなー」


 丹波が日本語訳されたメモを見ながら話題を振ってくる。


 全部英語で分からない人も多いが、英語は一度に多くの言葉を短時間で話すことができる。合理性を考えても、こっちを優先すべきだと思った。元々は日本語の不器用さを誤魔化すためだったが、ずっと話している内に英語が洗練されていた。イギリス人の客からはネイティブと間違われた。伝わりやすさを意識したことで、自然と正しい英語を身につけることができた。人間何かに縛られている方が努力できるのかもしれない。リストバンドを身につけて動きにくくした方が筋肉がつきやすいように。


「無理すんな」

「いやいや、別に無理してるわけちゃうで! あーそうそう、1つ聞きたかったことがあるんやけど、あず君は全てのバリスタ競技会を制覇したらどないするん?」

「その時考える。確定すらしてない先のことをウジウジ考えても仕方ねえだろ」

「なるほど」


 全てのバリスタ競技会を制覇した後か。その頃にはコーヒー業界がメジャーな業界の地位にまで上がっていることを願うしかない。だが夢を実現した後、僕は一体何をすればいいのだろうか。


 恋人と静かに余生を過ごすのも悪くない。最初はのんびりとした平和な日常を過ごすために、こうして競争に参加したわけだが、望む暮らしを手に入れ、目標がなくなった時の自分が想像できない。


 多分これが……やりたいことを言えない状態なんだろうな。


 何なら今からでも望む暮らしはできる。労働からリタイアした後、一生遊んで暮らしてもお釣りが出るくらいには稼いでいるが、それだけじゃ満たされないと思う自分がいる。僕は既に1つの答えを見つけている。やりたいことを言えない人生は不幸であるという1つの答えを。


 それを身を持って体験している連中を山ほど見てきた。彼らの魂は全く喜んでいなかった。ずっとつまんなそうな顔で暇潰しをしていた。施設に行ったあの日のことは鮮明に覚えている。僕が彼らのような生き方だけは絶対にしたくないと強く思った証である。魂と知性の抜け殻のような人生を送っている彼らを見たあの瞬間から、かつての僕が望んだ暮らしは僕の心を満たす人生ではなくなっていた。昔の僕はのんびり生きられれば幸せだと思っていた。だがそれじゃ駄目だと彼らは僕に教えてくれた。彼らのように自らの信念を持たず、自らの想いを具体的な行動に移すこともせず、ただひたすらに寿命が尽きるのを待つだけの日々が僕には退屈すぎるのだ。それが分かっただけでも大きな収穫だ。


 昔の僕が今の僕の価値観を想像できなかったように、未来の自分の価値観なんてものは、きっと未来の自分にしか分からないんだろう。だったら僕は未来の自分が幸せでいてくれることを信じて、今を精一杯生き抜くだけだ。未来の自分を幸せにできるのは、今の自分しかいないのだから。


 5人全員が決勝の競技を終えると、すぐに結果発表が行われた。


「ジャパンブリュワーズカップの栄えある優勝は……株式会社葉月珈琲、葉月珈琲岐阜市本店、葉月梓バリスタです。おめでとうございます!」


 相も変わらず順位の低い順に発表されていき、僕は最後に名前を発表されて優勝した。


 WBrC(ワブルク)は6月にリミニで行われる。


 その時までにしっかり準備しとかないと。家でガッツリ練習できるし、課題もハッキリしているし、以前のWCIGSC(ワシグス)よりもずっと自信がある。


 大会が終わると、伊織を家に帰すべく岐阜へと向かう。


 この日の晩には家に帰す約束だ。タクシーを捕まえてすぐに乗り、車のトランクにスーツケースを入れてもらうと、タクシーの後部座席左から唯、僕、伊織の3人が座る。


 すぐに発進すると、しばらくして周囲を木々の緑が支配する。大都市から離れた証だ。


 ふと、僕は丹波の言葉を思い出す――。


 あの時はどうにか誤魔化せたけど、いざ考えてみると、少しばかり不安になる。僕がバリスタ競技会に参加し続けているのは、きっと先のことを考えたくないからかもしれない。


 今が忙しくなれば、先のことなんて考える暇もなくなる。


「あず君って、いつもタクシーで東京まで行ってるんですか?」

「うん。満員電車が嫌いでな、あれを避けるためだけにタクシーを使ってる。指定席の電車は前売り券を買ったら絶対その時間に乗らないといけないから時間に縛られることになるし、いつでも利用できるタクシーが1番僕に合ってると思った」

「私は……いつも時間に縛られてますね。朝早く起こされて学校に行って、受けたくもない授業を受けさせられて、やっと好きなことができると思ったら、もう暗くなってて、家事と宿題を終わらせて、気づいたらもう寝る時間ですよ」

「「……」」


 ――嫌だな……そんな1日。


 伊織はコーヒーと出会うまでの日々を語ってくれた。彼女の生活には自由の概念がなかった。まるで刑務所の1日だ。だが小4の頃、一息吐こうとお袋が淹れてくれたコーヒーを味わった時、その日の苦しみから解放された気分になったんだとか。伊織はコーヒーにのめり込み、勉強そっちのけでお小遣いを叩き、ブランドのコーヒーを集めていたが、周囲からは変わった子と見なされていた。


 学校でもコーヒーの話ばかりをして孤立してしまったため、母親と教師からはコーヒーの趣味をやめて勉強に専念するように言われ、ずっと封印し続けていた。


 しかし、静乃や莉奈を通して僕の活躍を聞いてからは、また気持ちが再燃したという。


「僕は運が良かったんだな」

「どう良かったんですか?」

「僕は勉強しろとは言われたけど、コーヒーをやめろとは全然言われなかったし、起業を邪魔されることもなかった。やっぱ環境って大事だな」

「……そうですね」


 なるほど、どうりで遠慮がちなところがあったわけだ。伊織にやりたいことを言えないようにしていたのは親と学校だった。ずっとバリスタになりたい気持ちはあっても、なる覚悟がなかったわけだ。


「伊織」

「はい」

「バリスタ修行だけど、もしやらされてる感が少しでもあるなら、無理に続けろとは言わない。自分の道くらいは自分で決めろ」

「私は大丈夫です。確かにブレていた時期はありますけど、あず君の活躍を間近で見ている内に、やっぱりコーヒーが好きなんだって気づいたんです。それに――」

「それに?」


 なかなか台詞を言い出せない伊織をアシストするように言葉を返す。


 彼女は覚悟を決めた顔だ。僕の方へと顔を向け、重い口を開いた。


「私もあの舞台に立って、みんなを魅了するバリスタになりたいです」


 伊織は自らの意志でハッキリと答えた。それは彼女自身の進歩を象徴する台詞であった。


 ――その気持ちをずっと大事に持っていろよ。


「やっとやりたいこと言えたな」

「はい。道は険しいでしょうけど……頑張ります……」


 隣を見ると、伊織は満足そうな顔でスヤスヤと眠っている。僕の右肩に頭をもたれさせながら。慣れない遠征は小さい体から体力を奪っていた。僕も途中で何度寝てしまったことか。


「寝ちゃいましたね」


 隣から唯が小さな声で囁く。


「大人なのか子供なのか、よく分からない子だな」


 空が段々と暗くなり、オレンジ色だった空を暗黒の色が支配する。


 しばらくして岐阜に着いた後、伊織の家で彼女を起こしてからインターホンを押した。伊織によく似た顔が扉の向こう側から迎え入れるように出てくる。伊織の母親だった。40代くらいだろうか。だが年を感じさせないほど若く見える印象だ。


「お疲れ様です。伊織、おかえり。ご飯できてるよ。あず君も一緒にどうです?」

「いや、僕は――」

「せっかくですし、いいじゃないですか。私は先に帰って荷物を片づけていますから、あず君は夕食をご馳走になってください。タクシー代は私が払っておきますから」

「あず君……お願いします」


 伊織が僕の腕を掴み、うるうるとした目で懇願する。


「しょうがねえな」


 結局、僕は勢いに押され、伊織の家で夕食をご馳走してもらうことに。


 身内以外の人の家で食事をするのはいつ以来だろうか。何だか懐かしい気持ちになる。唯はタクシーで帰宅し、僕らは伊織の家の中へと入っていく。


 これから想像を絶する体験をするとも知らずに。

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