102杯目「合流する身内」
診察室で稲葉山先生と親父の間で問答が続く。
僕はたまに振られる質問に答えていたが、いずれも以前聞かれた質問ばかりだ。彼女とてマニュアルには逆らえないのだろう。親父は稲葉山先生の質問に淡々と答えている。
しかし、僕と離れて暮らすようになってから時間が経っていたのか、親父の僕に対する認識は昔のままで止まっていたようだ。何なら唯を同伴させた方が正確な説明ができるまである。
「ではあず君と2人きりにさせてください」
「は、はい……」
稲葉山先生の口から外に出るように言われ、親父はすぐに退室する。
「話すだけなら大丈夫みたいだね」
「話すだけでも一苦労だ。目もロクに合わせられないし」
「以前は話すのも困難だったから、進歩だと思うよ。小指の骨を折られても、そこまで症状が悪化しなかったのはどうしてかな?」
「それは――」
僕は咄嗟に唯の顔を思い浮かべる。
何故彼女の顔を思い浮かべたのだろうか……分からない……でも症状が以前よりも緩やかだったのは彼女のお陰であると、何の根拠もなしに思ってしまった。
「分からない?」
「――うん。自分でも不思議だ。どうやって治療すればいいかな?」
「治療したいんだ」
「僕が有名になるにつれて、日本人規制法が問題視されるようになってきてさ、全員が悪い奴じゃないって頭では分かってるのに、今でもあいつらを見ただけで怖気が走る」
「人間の脳って、悪いことはずっと覚えてるものなの。危険な目に遭った記憶を覚えておいた方が生命を維持する上で有利だから。でも精神面ではね、時としてその防衛本能とも言える機能が裏目に出ちゃうことの方が多いの。結構皮肉な話でしょ」
「人間は自分を守るために、精神病に罹りやすくなったわけか」
「結果的には……そうなるかな」
ということは……今の僕は日本人規制法が生命を維持する上で有利な行動であると脳が勝手に判断して警告し続けている状態である……ということか。
だったら、日本人規制法が不利になると、脳に錯覚させればいいんじゃねえか?
しかし、下手に動けば症状が悪化するだけだ……どうする?
「焦りは禁物。前にも言ったでしょ。PTSDに最も効く劇薬は時間なの」
稲葉山先生は僕の表情から焦りを読み取ったのか、先回りするように注意を促す。
「一生の内に治せるのかな?」
「それはあず君次第かな。あず君の場合は、心の奥底にある人間不信がベースになってるから、もっと人を好きになる努力をしてみたら?」
「好きになる努力?」
「まずは騙されたと思って、恋愛でもしてみたら?」
稲葉山先生は少し相手をからかうような表情で僕に進言する。
何を言うかと思えば……親戚とは違うベクトルだが、言っていることはそこまで変わらない。
結局、僕らは薬を買わされることもなく病院を後にする。精神病の薬は医者が儲かるために作られたものだと思っているし、買おうとは思わなかった。
「先生に何か言われたか?」
「恋愛しろだってさ」
「随分と画期的な治療法だな」
「恋愛は僕の専門外だ。なあ親父、恋愛ってどうやってするの?」
「ふふっ、やろうと思ってできるもんじゃねえ。いつの間にかしているもんだ。しかも厄介なことに、一目惚れを除けば、最初は自覚すらない」
「一目惚れ以外は自覚なしか。病気を治すより難しそうだ」
「あず君はモテるんだからさ、一度色んな女とデートしてみたらどうだ?」
「デートねぇ~。分かった、やってみる」
早速家に戻ると、親父の言う通りに行動を起こした。
実に馬鹿げていると、自分でも分かってはいるが、これも治療のためだ。
「唯、今度デートしないか?」
「ええっ!? で、でっ、デートですかっ!?」
「あー、えっと、無理ならいいんだ。忘れてくれ」
「別に嫌ってわけじゃないです。私で良ければ喜んで引き受けます。ただ、あず君の方から誘ってくるのって珍しいなって思ったので。あず君って、対人関係はいつも受け身なのかなって思ってたんです」
「僕もそう思ってた」
「何かあったんですか?」
「日本人恐怖症の治療をするために、医者から恋愛をしろって言われたからさ、そんな方法は僕には効かないってことを証明してやろうと思ったんだよ」
「あー、そういうことですか……」
唯が僕の目的を知るや否や、現実に引き戻されたかのように、さっきまでの笑顔がなくなってしまったばかりか、一気に落ち込みモードへと突入する。
治療のためにデートしてもらおうと思ったのだが、何かまずかったか?
「分かりました。私で良ければ協力します」
「……よろしく頼む」
それからというもの、唯を始めとした周囲の女たちと暇さえあればデートへ出かけるようになった。みんな最初は喜んでくれるものの、僕の目的を知った途端にどこか呆れた表情だ。
うちの店で家デートをすることも多かった。コーヒーの種類を彼女たちに聞かれる度に、オタクのように早口でコーヒーの産地からフレーバーまでを正確にペラペラと喋り続ける。
いや、ここまでくれば、もう立派なコーヒーオタクだ。
葉月珈琲で扱うコーヒーはその全てがスペシャルティコーヒーという最高級品種のみである。一般的なコーヒーも飲むが、それはプライベートの時だけである。
スペシャルティコーヒーを複数の世界大会で優勝経験のあるバリスタが扱っている店は、世界広しと言えど、うちの店だけだ。これだけでも十分に差別化を図れている。継続的に世界各国から客が来てくれているのが証拠である。みんなうちの希少性を理解しているようで何よりだ。
2月を迎えると、経営に余裕が出てきたのか、動画投稿にも力を入れるようになる。
某カードゲームと某ビデオゲームの『オンライン対戦』動画ばかりだ。コミュ障の僕にとっては画期的なシステムだった。人と話すことが苦手な人でも、家にいながら世界中の人と対戦ができる。こんなの没頭するに決まっている。雇用形態は相変わらず基本給+出来高だ。出来高なしだと、同一労働で仕事の速度や質に差ができた場合に、仕事ができない人ほど得をする社会主義システムになってしまう。
そこで僕は労働の速度や質が並み以上の出来だった場合に備え、明確な基準を作った上で、出来高をプラスするようにしていた。このシステムはうちのスタッフの士気を上げる上で大いに役立った。
専門分野の競技会で優勝した場合も出来高扱いで『ファイトマネー』が出るのだ。
うちがファイトマネーのシステムを始めたのは法人化してからである。
みんなに伝えると、去年以上にやる気を出すようになった。
これが、バリスタにおける、世界初となる『プロ契約制度』の始まりであった。
うちの社員の中から腕に覚えのある者が会社とプロ契約を交わし、大会終了時までの間、プロフェッショナルバリスタとして、大会で結果を残すことを義務付けられるのだ。
「へぇ~、大会で優勝したらボーナスが出るんだー」
「そういうことだ。だから今はバリスタとして頑張ってくれ。優勝できなかったとしても、大会に出た経験は、今後の人生で必ず役に立つ」
「あず君が言うと説得力あるね」
「じゃあ僕も大会に出てみようかな」
「ルイが出るのー。なんか恥かきそう」
「お姉ちゃんは恥をかくのが苦手だもんねー」
「恥をかくのが得意な人っているの?」
「ここにいるじゃん」
ルイが僕を指差しながら恥をかく天才の答えを出した。
リサは爆笑するが、すぐに客がたくさんいることに気づくと、恥ずかしそうにクローズキッチンへと戻っていく。店の営業中であることを忘れさせてしまうほど楽しいのだろうか。
こうして、葉月珈琲はあっという間に買い替えた設備投資の費用を取り返すのだった。
3月になると、衝撃的な出来事が起こる。『東日本大震災』が発生したのだ。
幸いにも被災地から離れている岐阜市からはほとんど被害が出なかった。しかし、これで様々な物事に影響が出た。みんなこのことを話題にしているため、ラジオではあえて話題にしなかった。こんな時でも、みんなと同じことはしないというやり方を貫いたのは僕なりの拘りだ。拓也は配慮だと思っていたみたいだが、地震の話題ばかりになるのもつまらない。
この時は日本中が自粛ムードになっていたが、うちは一切の自粛をしなかった。
3月は地震の影響で売り上げが下がってしまったものの、自営業時代の3月の売り上げを遥かに超えていた。目指すは年商1億円だ。僕と璃子の役員報酬は手取りでも平均収入を超えるくらいになった。あまり高くしすぎて所得税がかかることを嫌ったのだ。だが悪いことばかりじゃなかった。
4月を迎えると、世界で革命的な動きが起こる。
某世界的な動画サイトで『収益化』と『生放送』ができるようになったのだ。
特に収益化が一般開放されたのは大きい。この時からは動画で稼げるようになった。僕の個人チャンネルは登録者数が100万人を超え、法人チャンネルに至っては300万人を超えていたこともあり、4月以降は僕も会社も収益を上げられるようになっていたのだ。
取られる税金は増えちゃったけど……だが店の売り上げ以外にも稼ぐ手段ができたのはありがたい。
この時をもって、『動画投稿者』という職業が誕生したのである。
稼ぎは個人用チャンネルから入ってくる分だけで、法人用チャンネルから入ってきた稼ぎは会社の利益である。当時は動画で稼げるなんてことなんてみんな知らなかったため、身内にだけこっそり教えたのだ。すると、璃子も早速動画を投稿した。流石は僕の妹なだけあって行動が早い。リサたちにも教えたが、パソコンで稼ぐなんて胡散臭いと言って突っぱねた。この決断が僕らの命運を分けた。
4月は残りのオープニングスタッフ、唯と優子が無事に合流する。
僕はマスター兼バリスタ担当、璃子はマスター代理兼パティシエ担当、リサはシェフ担当兼接客係、ルイはコック担当兼衛生係、優子はパティシエ担当兼衛生係、唯はバリスタ担当兼接客係となった。
それぞれの適性に適正な役割を当てはめた。
バイヤーはそれぞれが必要に応じて行い、仕入れの負担を分散する。もちろん会議なんてしない。
営業初日のことだった――。
「ふーん、あず君もやればできるじゃーん」
優子が褒め称えながら嬉しそうに僕に抱きついた。
何度か下見に来てもらってはいたが、クローズキッチンまで来てもらったのはこれが初めてである。もはやこの店は僕1人のものではなかった。
ここは世界最高峰のカフェであり、身内の生命線でもあるのだ。
「有言実行って、こういうことを言うんだね。でもさー、これだけの機材を買うのにかなり予算かかったんじゃないの? そんなお金どうやって用意したの?」
「全部去年稼いだ予算から出してる」
「そんなに稼げるようになってたんだー」
「予め購入してから引っ越した後、輸送してもらう方法を採った。だから全部経費だ。しかも以前より多くの客を迎えられるようになったし、売り上げもあり得ないほど上がった。今月の時点で経費を全部取り返せたから、もう心配はいらねえよ」
「……」
優子が呆気に取られた表情で僕を見つめている。
「やっぱあず君は就職しなくて正解だったね」
「そうですね。優子さん、これからもよろしくお願いします」
璃子がペコリと頭を下げ、改めて修行を懇願する。立場上は璃子が優子を雇用している格好ではあるのだが、やはり腕前や経験は優子が勝るため、クローズキッチンにおいては事実上の指導者である。
「うん、よろしく。ふふっ」
「お兄ちゃん……ありがとう」
「僕何かした?」
「うん。お兄ちゃんはまだ修行が必要な私のことも、ずっと貧困に耐えていた優子さんのことも助けてくれたじゃん。感謝してる。未熟なまま放り出されたらどうしようかと思ってたから」
「身内で固めたかっただけだ」
「ふふっ、あず君らしい。あたし、あず君に身も心も捧げるつもりで働かせてもらうね」
「葉月珈琲のためじゃなくて僕のためかよ」
「入社は必要過程でやってるだけ。どこで働くかよりも、誰と一緒に働くかの方が大事だよ。一緒にいる人が信頼できる人じゃないと駄目だと思うし」
「……」
僕は優子の入社した理由に感心する。
面接も試験も全くしなかったが、優子の方からはしっかりと審査されてたんだな。
「あのー、私のこと忘れてませんかー?」
そんなことを考えていると、唯が不機嫌そうに後ろから僕に呼びかける。
「忘れてねえぞ。唯も今日からうちの一員だから、しっかり頼むぞ」
「はい。よろしくお願いします」
「よろしく。唯ちゃんはバリスタ担当だっけ?」
「はい。しばらくはお客さんに出せるようになるまでは、あず君のお手伝いですけど、エスプレッソとカプチーノは出せるようになりました」
「へぇ~、じゃあ修行の成果はあったんだー」
「あれは地獄の日々でした……コーヒーを見るのも嫌と思ったこともありました」
唯は下がったテンションのまま、今までの修行の日々を語った。
ちょっとやりすぎじゃないかと思うこともあったが、僕が彼女に与えた試練は、いずれも死ぬ気で頑張れば乗り越えられる範疇と言えるものだった。かつて周囲の環境が僕に与えた試練は、いずれも死ぬ気で頑張っても乗り越えられない無理ゲーと言っていいものだった。人が人に試練を与える時は、死ぬ気で頑張れば乗り越えられるものに調整すべきであると思っている。
この程度で潰れるようでは駄目だとか、そういう問題じゃない。ちょっとやそっとの逆境とか、本人の力ではどうにもならない逆境とか、そういったものは他人が判断するべきものじゃない。同じハードルであっても、人によっては高くも低くも感じるものだ。故に相手自身に課題を作らせた。
定期的にエスプレッソ、カプチーノ、ペーパードリップ、フレーバーカッピングを試験し、試験日以外は好きに過ごしてもいい。だが唯は良くも悪くも真面目で頑張り屋なところがあったために、必要以上に練習をしすぎたが、彼女が破門になることはない。僕がしたことと言えば、試験の合格ラインを少しずつ上げていったことくらいだろうか。今度はペーパードリップを客に出せるようになってくれれば何よりだ。唯と優子が合流してからは、注文から提供までがよりスムーズになった。これで更に1人当たりの負担が減る。唯は結局進学しなかった。もしうちが潰れてしまえば、彼女は確実に路頭に迷う。僕の影響で無学歴になったのは事実なのだから、責任を持って彼女を守っていきたい。
唯は今年から開催される第1回『バリスタ甲子園』への出場を希望していた。
高校生に相当する年齢の者のみが参加できるフリーポアラテアートの大会だ。僕がバリスタ競技会で優勝したことで、全国の高校生たちが刺激を受けて始めたものらしい。
「あず君も璃子さんも大会で結果を残してますから、私も続けるように頑張ります。トップバリスタを目指すなら、まずは色んな大会に出たいですけど、どれも18歳以上じゃないと参加できないんです」
「本来競技会っていうのは、大人が出る前提のものだからねー。10代であれだけの功績を残せるあず君がおかしいだけだから、焦る必要はないよ」
「ですよねー」
店の営業が終わる頃には、唯も優子もすっかり仲良くなっていた。
WBCに参加する時、もう少し誕生日が遅ければ出られないところだった。今の唯が出ても結果を残せるとは思えないが、ポテンシャルだけなら十分だし、彼女の3年後が楽しみになってきた。唯は僕と違って、誰とでも仲良くできる能力を持っている。だからこそ唯を接客係にしたのだが、この人間性の質は、僕にはない立派な武器である。
「あず君、私にフリーポアラテアートの指導をしてくれませんか? 今までやってきたような簡単なものじゃなく、もっと難しいラテアートじゃないと、到底勝てる気がしないんです」
「――別にいいけど、大会までにできるようになる保証はないぞ」
「はい。お願いします」
こうして、僕と唯による二人三脚の特訓が始まった。
まずはバリスタ甲子園で唯の実力を確かめられそうだ。高校生が出る大会としては丁度良いのかもしれない。大学生なら協会が主催する国内予選がある。7月の予選を勝ち抜いた32人が8月の決勝トーナメントに進出する。全部で8つの地方からそれぞれのベスト4が集結する。
僕はこの年の某カードゲームのビデオゲーム部門国内予選に出場する。この時は拓也がデッキ構築に協力してくれたこともあり、無事に優勝することができた。僕は8月にアムステルダムで行われる某カードゲーム世界大会ビデオゲーム部門日本代表となった。
バリスタの方も次に出る大会が決まった。6月にハワイで行われる予定の新たな世界大会、ワールドシグネチャービバレッジカップ、略してWSBCだ。
国内予選がなく、登録して現地集合して行われる。この年が第1回の大会であり、毎年ハワイで行われる。参加するきっかけは外国人観光客からの紹介であり、早速参加登録を済ませた。本来であれば、今頃はとっくにバリスタオリンピックの準備をしていたんだろうが、今更とやかく言っても仕方ない。
今できる中で最高の仕事をするべきだ。悩んでいる暇はない。
そんな中、お袋からまたお見合いを勧められた。
「あず君、今度のお見合いの相手だけど、こんな人はどうかな?」
お袋が当たり前のようにお見合い写真を持ってくる――これでもう何度目だろうか。
「まあ、一度会うだけ会ってみる」
「えっ、あず君お見合いするんですか?」
「しばらくはお見合いにつき合うことにする。これも日本人恐怖症を克服するためだからさ、まずはあいつらに慣れないと」
「あず君、あんまり無理しない方がいいですよ。何というか、お見合いって、あず君に全然合ってない気がするんですよね」
「……何で?」
「あず君が病気を発症した原因は、つき合う相手を選べなかった部分が大きいので、つき合うならあず君自身が相手をしっかり選ぶべきじゃないかと思って」
確かに唯の言うことも一理ある。
だがそれを言うなら、外国人観光客だって自分で選べるわけではないのだから、根拠として弱いと感じた。何より僕自身があいつらに向き合わなければ、問題は永久に解決しない。そんな気がしたのだ。対人関係の面で言えば、以前の僕の方が生きやすかった。あの頃の感覚を取り戻すのは簡単じゃない。
今までどんな困難だって乗り越えてきた僕なら、この問題だって乗り越えられる気がするのだ。
「あず君、病気を治すんだったら、まずはあず君の方から心を開かないと駄目。あず君のお店は日本人規制法さえなければ完璧なんだから、地道に治していこっ」
「……うん」
浮かない顔で力なく返事をするしかなかった。
この時、お袋はある理由から僕にお見合い写真を毎週のように持ってくるようになる。親からようやく解放されたと思ったのに……本当の意味で僕が開放されることになったのは、まだまだ先の話である。
子離れできてない親ほど厄介なものはない。
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