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社会不適合者が凄腕のバリスタになっていた件  作者: エスティ
第5章 経営者編
101/500

101杯目「完全独立」

第5章の始まりです。

ここから当分の間は大会より物語重視の描写になります。

 無事に葉月珈琲の法人化を済ませた。


 しかし、その前にも色んなことがあった。年末年始は引っ越しの準備に追われ、次々とダンボールに道具を入れていく作業に追われた。店をランクアップさせるよりも、引っ越しの方がずっと大変だ。


 2011年の元日を迎え、僕が璃子と共に親戚の集会に参加した時だった。みんな相変わらず進学や就職の話ばかりをしている。会うたんびにおんなじことを言ってるよあの連中は……そう思いながらいつも通り、部屋の端で大人しく座っていると、吉子おばちゃんが僕の近くに座り話しかけてくる。


 ――また見合い話でも持ってきたのかな。


「ねえねえ、あず君って今年から社長になるんだって?」

「ああ。事業がうまくいったから、店を大きくしようと思ってな」

「まさかあず君が優子ちゃんを雇うことになるなんてねー。ほんっと人生ってどうなるか分からないもんだねー。このまま優子ちゃんを()()()()させてあげたら?」

「冗談だろ。僕には勿体ない」


 就職の話こそしてこなくなったが、今度は結婚の話を積極的にしてくるようになったのだ。


 親に就職を勧めてこないよう釘を刺した影響だろうが、結婚の話に関する制約はなかった。つまりこの話をしてくるようになったということは、収入面の心配はしなくなったということだ。


 人に結婚を勧めるには、相手がいくつかの『条件』を満たしている必要がある。


 1つ目は十分な年齢に達していること、2つ目は継続的にこなせる仕事に就いていること、3つ目はある程度稼いでいることだ。僕はこれらの条件を意図せず満たしてしまったのだ。


 僕は成人してるし、バリスタの仕事を継続しながら事業を成功させている。それで結婚に相応しいと見なされたのだろうか。法人成りして店を大きくしてる時点で稼いでるって言ってるようなもんだし、多少の情報漏洩は仕方ないにしても……この話は嫌だなぁ。


「じゃあどういう人がいいの?」

「当分は仕事に没頭したい」

「だったら尚更結婚した方がいいよ。家の仕事をしてくれる人がいれば安心して仕事に没頭できるよ」

「家の仕事なら間に合ってるって。それに僕は自分の部屋に他人を入れたくないんだ。ていうか何でそんなに結婚してほしいわけ?」

「私はあず君に幸せになってほしいの。それに家族って良いもんだよ」


 なるほど、柚子が婚活に興味を持つようになったのは吉子おばちゃんの影響か。


 それが分かっただけでも収穫ということにしておこう。


 1月上旬、僕は早速行動を開始する。


 法人成りした後は引っ越しだ。会社名義で大きな自宅兼店舗を借りることになり、急ピッチで引っ越しを済ませた。僕、璃子、親父、お袋、リサたちと引っ越し業者の総出で、予定よりも早く引っ越しを済ませた。新しく買い込んだ自動券売機や大型のオーブンを設置し、使い方も覚えた。


 以前使っていた店舗は契約満了で返した。テナント募集中になる予定だったが、以前僕が住んでいた場所だったことを理由に住みたいという応募が殺到したらしい。一体何を考えてるんだか。住んだからといって僕みたいになれるわけじゃない。あくまでもその人次第だというのに。


「以前より大きいね」

「設備も整ったし、後はここにグランドピアノを置くだけだ」

「鈴鹿さんとの約束だもんね」

「――ここであず君の曲を聴きながらコーヒーを飲めるんですね」


 僕らは引っ越したばかりの大きな自宅兼店舗のカフェにいる。


 まだ多くのダンボールが山積しているが、一先ずこれで引っ越し完了だ。1階の奥には料理やスイーツを作るためのクローズキッチン、手前にはエスプレッソマシンなどが置いてあるオープンキッチン、向かい側にカウンター席が10席あり、その近くにはテーブル席が40席ある。


 玄関からすぐ右端にはグランドピアノを置くためのスペースが開いており、左端には英語でメニューの書かれた自動券売機が置かれている。2階には僕の部屋と璃子の部屋と余りの部屋が2つほどある。この余りの部屋を同居人や宿泊客の寝室にする。2階にはキッチンとリビングがある。


 自営業時代よりも格段に広くなった。何より自分用の部屋を持てるようになったのが大きい。以前の2階はキッチンと寝室がごっちゃになった狭い部屋だった。しかも僕の部屋はスペースが広めで、動画投稿がしやすい環境が整っている。これで親父が僕の代わりに家賃を払うこともない。この家は独立の象徴になるだろう。外観も凄くオシャレだから気に入っている。


 店舗名は『葉月珈琲岐阜市本店』という名前である。


「いつオープンするんですか?」

「グランドピアノをここに置いた次の日だな。リサとルイに研修させないといけないし」

「柚子を去年辞めさせたのって、新しい環境に馴染ませても、大学を卒業したら、すぐに起業して仕事を辞めちゃうからだよね?」

「それもあるけど、うちは1月が新年度だから、きりが良かったのもある。うちはあくまでも日本の中にある内陸国のつもりでやっていく」

「店が変わっても、お兄ちゃんはお兄ちゃんのままだね」


 璃子が呆れ顔ともホッとした顔とも受け取れる表情で形容する。唯はカフェの広さに圧倒され、目をキラキラと輝かせながら最新型に買い替えたばかりのエスプレッソマシンを興味津々に見つめている。


「お兄ちゃん、こんなに買ってお金大丈夫なの?」

「心配するな。後で回収するから」


 家計の心配をするように璃子が言った。


 忘れてはいけないのが、あのグランドピアノだ。


 思い立ったらすぐ行動と言わんばかりに、鈴鹿のいる見尾谷楽器店へと足を運び、唯もおまけのように一緒についてくる。いつも通りのがらーんとした店内にたった1人ポツンと居座る魔性の女。その手には体の一部となっているスマホを握っており、彼女が僕に気づくと、嬉しそうな笑みを浮かべる。


「いらっしゃい。今日は唯ちゃんも一緒なんだ」

「はい。あず君がグランドピアノを買いに行くと言うので、一緒に来ちゃいました」

「えっ! それじゃあ――」

「うん……随分と待たせたな」

「……あず君……ありがとう……やっと……引き渡せる」

「「!」」


 気づけば、鈴鹿の目からは大粒の涙が流れていた。それほどにまで嬉しかったのだろうか。鈴鹿の弟の形見でもあるこのグランドピアノを買うと言ってからどれくらい経つだろうか。


 その間に何人からも欲しいと言われ続け、断り続ける彼女の心情はどんなものだったか……僕には全く想像がつかない。だが1つ確かなのは、鈴鹿が僕を信じて辛抱強く待ち続けてくれたことだ。


「ずっと待たせて……その……済まなかった」

「ふふっ、いいの。私との約束を果たすために、必死に頑張っていたことくらい知ってるんだから」


 鈴鹿は涙を流しながら僕の体をそっと優しく抱いた。


 唯はその様子をジッと見守り続けている。彼女には悪いことをした。僕のことを好きだと知りながら他の女と抱き合っているところを見せつけてしまった。


「鈴鹿、あのピアノはいくらで売ってるの?」

「お金はいらない。ずっとあず君に受け取ってほしかったし、あれが店に置かれている限り、私はずっと解放されないままだから」

「えっ、でも――」


 僕が言い返そうとした時、鈴鹿は右手の人差し指を僕の唇の前に出す。


 もう何も言わなくていいと言わんばかりだ。


 指が離れた後も自然と口を閉ざしたまま、彼女の言葉に耳を傾ける。


「大切な人の形見に、値段なんてつけられない」


 この時、僕は何て野暮な質問をしてしまったのだと、自分自身を情けなく思った。


 ――こんなの……ちょっと考えれば分かるはずなのに……。


 やっぱり僕は……社会不適合者だ。


「凄く高いとか言ってなかったか?」

「ええ……お金じゃ買えない思い出がたっくさん詰まってるから」

「だから売りたくもないのに店に置いてたわけか」

「いつかこのピアノを受け取るのに相応しい人が現れるってずっと信じてたから。それがあず君だったというだけ。これはたまたまじゃない。運命なの」

「鈴鹿さんって、ロマン好きなんですね」

「ロマンが好きじゃなきゃ、アーティストなんて目指そうって思わない。あず君もずーっとこっち側の立場なんだし、分からなくはないでしょ?」

「……まあな」


 鈴鹿はしっかりと清掃が行き届いているこのグランドピアノにそっと手を置いた。旅立っていく弟に最後の挨拶をすると、彼女は家族を見送る時のような、優しく寂しそうな顔でピアノを見つめている。


「寂しいか?」

「寂しくない――と言えば嘘になるかな。でもこれで、弟はあず君の人生の一部になって、この優雅な音楽と共にずっと生き続けるんだと思うと、嬉しくも感じるの。私、あず君の家にこの子を届けたら、お店を畳もうと思ってるの」

「ええっ! お店畳むんですか?」

「うん……だからこの光景を、しっかりと目に焼きつけておいてね」


 唯は唐突な『辞職宣言』に驚くが、分かりきったことだ。鈴鹿はここに留まる器じゃない。彼女に会う度に、いつも心のどこかで世界へ羽ばたきたいと叫んでいるように思えた。


 鈴鹿が最も好きな曲を確信した時からずっとだ……。


 いつ来た時にもグランドピアノの上に『翼をください』の楽譜を置いていたことからも、曲に対する思い入れが窺える。本当は彼女も羽ばたきたくて仕方なかったのだ。


 意外……とも思ったが、今は至極当然だと思っている。


「目的を達成したからか?」

「ご名答。これで私を縛るものはなくなった。安心して次への一歩を踏み出せる……他の誰でもない私自身の人生をようやく歩める気がするの」


 だから彼女は……愛情も呪いも本質は同じと言っていたのか。


 鈴鹿の弟に対する愛情は、同時に自分自身をこの場所に縛りつける呪いでもあった。だがこの呪いが解かれたとしても、愛情までもが失われることはない。


 意味が全く同じ言葉ではないのだから。


「店を畳んだらどうするんですか?」

「またピアニストを目指す。今度は……本気で……ね」

「……応援してる。ピアノのことは心配するな」

「うん……ありがとう」


 鈴鹿は僕の頬に優しくキスをする。


「「!」」


 僕も唯も同時に驚いたばかりか、顔が引き攣ったまま固まっている。


「そんなに驚かなくてもいいでしょ。あず君にはこっちの文化の方が合ってると思ってたんだけど」

「いきなりされたら驚くに決まってるだろ」


 咄嗟に僕も鈴鹿に仕返しをするように頬にキスをする。


「「!」」


 今度は鈴鹿と唯が驚きの顔を見せる。


「さっきのお返し」

「ふふっ、あず君らしい」


 手続きを済ませると、0円と書かれた領収書を手に葉月珈琲へと戻る。


 後日、僕の家にあのグランドピアノが届いた。この部屋に唯一足りなかったパーツが揃った。昨日までの心のつっかえも取れたし、全ての準備は整った。


 元日から約2週間程度で引っ越し、ピアノの設置、スタッフ研修を済ませると、社長である僕、役員である璃子、バイトであるリサとルイの4人で店の営業を始めることに。唯と優子は4月から合流する予定である。それまでの間、唯は見習いとして業務を手伝うこともなく、ただひたすらコーヒー作りに没頭する。日曜日は相変わらず休業日だ。とは言っても仕入れの仕事があるため休みではない。


 1月中旬、『株式会社葉月珈琲』の初営業が始まった。


 既にリニューアルオープンする場所を宣伝していたこともあって大盛況だ。客は相変わらず身内と外国人観光客ばかり。自営業時代に来ていた客も大勢来てくれた。店内は以前より客席を増やして50席にまで拡張していたが、それでも外には行列ができるほどだった。初見の人には自動券売機の使い方を教え、コミュ障でも注文の受け付けができるようにした。


 カフェに来るというよりは、『アトラクション』を見に来るような感覚だ。うちのコーヒーを飲むことよりも、僕と直接会って話すことが目的の人が多かった。日本人規制法は相変わらずで、店の外には英語の注意書きが多くある中、唯一日本語で外国人観光客限定と書かれていた。


 日本のテレビは頼んでもいないのに、うちの店を日本人が入れない店と宣伝し、これに煽られた民衆が怒りと嫌悪を向けてきた。特に何もしなければ何も起こらなくて済むというのに……僕はニュースなんて見ないが、一般的なニュースから一部の人しか知らないニュースまで、みんなが勝手に教えてくれるお陰なのか、僕が情報通なのは相変わらずだ。日本人と話す時はそっぽを向いて静かに話すが、外国人と話す時は饒舌であることを拓也から指摘されていた。これはそれなりの訳がある。


 日本人と話す時は必要以上に『空気』を読まないといけない。そうしないとあいつらが怒るし、些細な失敗や違いにも敏感に反応するため、一緒にいるだけで息が詰まる。


 あいつらと一緒にいる時や外を歩く時は、反射的に体が空気と一体化しようとする。外国人と話す時は無駄に空気を読む必要がなく、緊張することなく話せる。この饒舌な接客を維持する上でも、日本人規制法は必要不可欠だった。僕がこのことをラジオで話すと、別に相手が日本人だからといって空気を読む必要はないというコメントがたくさん寄せられた。


 空気を読む必要がないなら、僕が昔受けていた社会的制裁に対して説明がつかないんだが。


 閉鎖的なのは学生の時だけで、学校を卒業すれば関係ないとも言っていたが、9年以上ずっと同じ教育を受けていた連中が社会に出て、そう簡単に変わるとは到底思えない。何よりかつてのいじめっ子が来た時にうまく対処できる気がしないことを説明した。だが僕の店が世界的な人気店になるにつれて、日本人規制法が徐々に問題視されるようになってきたのだ。


 外国人からも、あの看板は良くないと指摘されるようになった。


 そこで僕はあることを決断する。日本人恐怖症の克服だ。そのために様々な努力を始めた。以前も克服を考えたことはあるが、結局失敗に終わってしまった。


 まずは世界的な某動画サイトの方で、2つのチャンネルを個人用と法人用に分けた。


 個人用チャンネル『Azusa Channel』と法人用チャンネル『Hazuki Coffee』である。個人用は社会不適合者ラジオ、ゲーム動画、ピアノ動画、法人用は葉月珈琲のコーヒー、ラテアート、フード、スイーツ宣伝のためである。個人用チャンネルは日本語だが、法人用チャンネルは完全に英語である。


 昔はラテアート動画とピアノ動画だけで、文字も英語で無言だったが、個人チャンネルでは日本人向け動画を投稿する場合のみ日本語である。国内で動画を見てくれる人が増えた影響もある。この年からは個人用チャンネルでゲーム実況に加え、某生首キャラクターが人工音声で喋る動画を投稿するようになった。色んな某生首キャラクターを外見から音声まで自由自在に作るツールのライセンスを買った。


 2011年1月から発売された『ムービークリエイター』という革命的ツールだ。誰でも簡単に自分で作った物語などを投稿できるようになった。ハーバード大卒の日本人が作ったものらしい。どこの世界にも化け物はいるんだな。お陰で頭の中で作った世界を具現化することができた。この頃から自分で考えた某生首キャラクターを使ったオリジナルストーリーを投稿するようになった。パソコンも定期的に最新型に買い替えるようになっていく。新しい方が機能的で便利だ。


 それもあって動画投稿がしやすい環境を徐々に整えていった。


 1月下旬、カフェのマスターとして店の営業を終えた後、寝るまでずっと動画制作に没頭する生活を確立していた。以降、この生活スタイルは変わっていない。


 起きている時間は常に好きなことをして楽しむ生活。


 僕はこの生活を『ワークアズライフ』と呼んでいる。


 この頃、日本でもようやく労働災害が問題視されるようになり、『ワークライフバランス』が叫ばれてきた時期だ。だがそれを重視すればするほど月曜日が嫌いになっていくため推奨はしない。遊ぶように生きていれば、曜日とか時間とかに関係なく、日々を楽しく過ごすことができる。


 こんな生活ができるのは一部だけと言われたが、昔の日本では誰もがやっていたことだ。


 みんな物事を難しく考えすぎだ。もっと気楽に考えりゃいいのに。


 拓也とも度々ラジオの生放送をするようになった。カメラの前に僕と拓也が座り、言うべきことよりも言いたいことを優先的に愚痴り続けた。これがあいつらの生態を知る上で大いに役立った。何故あいつらは僕を迫害したのか。その根本的な原因さえ分からない内はあいつらを絶対に許せないと思った。


「そもそもあいつらは何で僕を迫害したと思う?」

「自分たちと違う人間を排除するように教育されとったからちゃう?」

「何のために?」

「あず君がゆうてた通り、この国は工場製品を作る教育やから、全部同じ色で揃えなあかんっていう風潮があったと思うわ。実際の工場とかも1つだけ違う色とか違う形をしてたらそれだけ弾かれてまう。俺高校の時な、工場でバイトしとったから分かるんよ」

「とどのつまり、教育が悪いってことか」

「今思うとなー、いじめっ子の連中も、あの教育システムの被害者みたいなもんやで。だからそんなにあいつらを責める必要もないと思うで」

「正直に言うと、今の僕はあいつらを受け入れられない。だからさ、僕があいつらを許せるようになるまでは、日本人の入店は身内だけにさせてもらう。どうしても来たい人は身内の紹介で来るか、世の中が変わるまで辛抱強く待ってほしいな」


 こうしてみると、僕は思ったより弱い人間だ。あいつらが店に入ってきたところを想像しただけで手が震えてくる。体があいつらを受け付けるのを拒むかのように。


 身内の紹介ならOKとは言っても、条件はかなり限定的だ。


 僕の知り合い以上で、人となりをよく知っている人だ。何か問題を起こした場合は紹介した人が責任を問われ、1年間紹介権を失い、紹介権を行使できるのは1年に1回までとした。


 これくらいしないと受け入れられないとは……我ながら重症である。


 親父に誘われ、久しぶりに稲葉山先生がいる病院へと赴く。病院特有の薬のような匂い、大した病気でもないのに待ち続ける大勢の患者たち、相変わらず老人が中心である。どこでもこうなんだろうか。


「葉月梓さーん、1番扉へどうぞ」


 ようやく僕の番となり、受付からコールされる。


 僕と親父は受付の案内通りに1番と書かれた引き戸の前まで移動する。地面を擦るような音を立てながら引き戸を動かす。中は最初に入った時と変わらない診察室、横を向いたまま椅子に座り、机の上にある書類を書き留めている稲葉山先生がいる。横には患者用と思われる真っ白なベッドがある。


「こんにちは。お久しぶりですね」


 稲葉山先生が僕らに気づき挨拶する。


「こんにちは。息子がまたお世話になります」

「……」

「昔よりは改善したみたいだね。競技会にも出るようになったみたいだし」

「見てたのかよ」

「私もあず君のファンだから。影ながらずっと応援してたの。あず君は私が診てきた人の中で最も成功している人だから、あず君がPTSDを克服してくれれば、みんなに希望を与えられると思うの」


 やはり僕は……希望を与える側なんだな。ずっとあいつらに希望を奪われ続けた僕が、あいつらに希望を与える立場になっているなんて……よくよく考えてみれば実に滑稽だな。


 つまらないことを考え、クスッと笑いながら診察を受けるのだった。

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