1杯目「生い立ち」
世界的バリスタの半生を描いた物語です。
コーヒーがテーマであるため専門用語多めです。
脳内再生補助のため勝手に声優をあてておりますがここは無視してください。
これは現代日本の岐阜市を舞台としたフィクションです。
矛盾解消と誤字脱字修正のため一部書き直す場合があります。
これは、世間や常識や普通というものに抗い続け、社会不適合者と呼ばれた男が、コーヒー業界の第一人者と呼ばれるまでの……物語である。
まず初めに自己紹介をしておこう。
1990年6月8日生まれ、出身は『岐阜県岐阜市』、職業はバリスタ、身長は成人した時点で155センチ、葉月グループ総帥を務めていた。
一言で特徴を言えば、得手不得手が極端な人間だ。できることは世界で通用するほど究められるが、苦手なことは一般の人よりも下手である。手先の細かい仕事や頭脳戦なんかは得意だが、周りに合わせたり、力仕事をしたりするのは凄く苦手だ。後は料理、楽器、裁縫、動画投稿も行っている。正直に言えば、学生時代のことを話すのはあまり好きじゃない。しかし、僕自身のことを語る上では決して避けられない道だ。覚悟はできている。何故自分史語りを始めたのかと言えば、それは僕の知名度に対して僕の過去を知る者があまりにも少なすぎるためだ。
バリスタの頂点に上り詰めたまではいいが、みんな僕が才能だけで飯を食っていると本気で思っているらしい。そこである人に勧められて始めたというわけだ。
時間はかなり遡る――。
この僕、葉月梓は、大手コーヒー会社の課長である親父と、専業主婦をしているお袋の家庭に生まれた。大都市ではないが、ライフラインは十分に揃っていたから、特別田舎というわけでもない。家は商店街の中にあり、近所の人はみんな商店街の人ばかり。当時の親の暮らしは裕福でも貧困でもない中流層。少し離れた所にはおじいちゃんとおばあちゃんの住む家がある。子供でも歩いて行ける距離だから、家が退屈の時や、学校を休んでいる時や、長期休暇の時は定期的に訪れていた。
親戚がみんな近所に住んでいるためか、定期的に勢揃いすることが多かった。正月やゴールデンウィークやお盆には毎回会っている。親戚には外国人もいて、僕が英語を学ぶきっかけになった。みんなからは『あず君』と呼ばれている。しかもこの頃はバブルの絶頂期だった。おじいちゃんが趣味でコーヒーの焙煎をしていて、親父もその影響でコーヒーが好きだ。
つまりうちは3代揃ってコーヒー大好きマンというわけだ。
元々うちの親が女の子を望んでいたこともあって、梓と名づけられた。このせいで後々色んな人から女子と間違えられるようになる。ただでさえ今でも童顔とか声が可愛いとか言われる上に、名前まで女子っぽいから困る。個人的には気に入っているが。
一応言っておくと、僕は男だ。
髪は生まれながらの天然茶髪で、嗅覚と味覚が特に鋭い子供で、この天然茶髪が、後にとんでもないトラブルを招く要因になるが、僕は昔からこの茶髪が大好きだった。身長は低めで、背の順で並んだ時はいつも前の方だった。体型は痩せ型で虚弱体質だ。
この頃の岐阜市はバブル期ということもあり、特にアパレル業界は全盛期を迎えていた。
しかし、この生活は長く続かなかった。1991年にはバブルが崩壊し、親父の会社も大きな打撃を受けた。すると、親戚の中からも会社が倒産して職を失う者が現れた。
1992年には親父の勤めていた会社が倒産した。父さんだけに。
その後、1992年7月15日に妹の葉月璃子が生まれた。うちの親にとっては待望の女の子だった。目元が僕に似ているが、兄妹だから当然と言えば当然と言える。黒髪で大人しい普通の子供だったが、うちの親は僕を普通の子供とは見なさなかった。璃子は2歳の頃から言葉を話し始めたが、僕は5歳になるまでは言葉を話せなかった。何かの病気じゃないかと疑われたらしい。
璃子はロングヘアーになっても何も言われなかったが、僕がロングヘアーにしようとすると無条件に髪を切られた。肩のあたりまで伸びると、必ず笑顔でこう言われる。
「そろそろ切った方がいいね」
実に不思議な光景だ。何故僕は髪を伸ばしてはいけないのだろうか。
それがどうしても気になって仕方がなかった。
親父の勤めている会社が倒産した後、僕と璃子は共におじいちゃんの家に預けられていた。両親共無職であるため、失業手当だけで子供の世話をするのが困難になったのだ。
会社が倒産するまでの親父は調子に乗っていた。
「正社員以外は仕事じゃない」
非正規を下に見るような言葉を豪語する人だった。バイトやボランティアで体を動かすのは、どうしてもプライドが許せなかったんだろう。そのため、次の仕事が全く決まらない。だがそれは無理もない話である。親父はもう35歳を過ぎていた上に、何の資格も持っていなかったのだから。当時の日本は終身雇用が当たり前で、中途採用に厳しい国だった。新人はスキルなしの成長見込みだけで入れるが、中途で入ったおじさんには何故か即戦力を要求される。当然、親父がそんなスキルを持っているはずもなく、僕の小学校強制入学まではどこにも採用されなかった。今までずっと大手の正社員だったことが忘れられず、ずっと意固地になって正規雇用を求め続けたからだ。
正規雇用のどこがそんなにいいのか、僕には分からない。
僕は小学校に強制入学させられるまでの間、おじいちゃんの家で伸び伸びと過ごしていた。他の人からはよく天然茶髪を指摘されたが、おじいちゃんは気にも留めなかった。
それもそのはず。おじいちゃんもまた、普通の人生を送っていなかったからだ。
おじいちゃんは意思が強い上に悪運の強い人でもあり、戦時中に神風特攻隊の搭乗員に選ばれると、それを強く拒否した。だがおじいちゃんの意見は通らず、遂に出撃する日が決まったが、その日は偶然にも天皇のラジオ放送が流れ、出撃を免れた。戦後の就職ラッシュに乗らず、自ら焙煎したコーヒーを出すカフェのマスターの仕事を始めた。就職しなかったのはスーツが嫌いだったからだ。
スーツは元々イギリス発祥の服装だから寒い地域に住む人が着る前提の設計だ。故にイギリスよりも南に住んでいる人には合っていない。元々スコットランドの労働着がモデルになっている分厚い服を夏場の日本で着たらそりゃ暑いに決まっている。だがみんなそれを着て炎天下の中を平然と歩いている。
あの人たちはきっとドMに違いない。おじいちゃんはそれを理屈では説明できなくても本能で察したのだろう。そういった経緯もあり、自分にも他人にも激甘なところがあった。だからおじいちゃんには何でも話せた。お金の都合で保育園や幼稚園には一切行かず、比較的平和な日々だった。
僕がコーヒーに出会ったのは5歳の頃だ。いつものようにおじいちゃんの家に遊びに行くと、不思議な光景を目にした。まるで某人気アニメのように横に長い昔ながらの家だった。
おじいちゃんはコーヒー豆の焙煎をしていた。焙煎されてホカホカになったコーヒー豆が次々と機械の外に放り出されると、コーヒー豆からは鼻を吹き抜ける芳醇な香りがした。
とても心地良くて、気分がさっぱりしたのだ。こんなに良い香りを嗅いだのは初めてだった。僕はそれを気に入ると、おじいちゃんに色々と話を聞いた。
「それは何?」
「これはコーヒーだ」
「コーヒーって何?」
「とっても美味いんだ。飲んでみるか?」
「うんっ!」
「コーヒーはな、ちゃんと声を聞いてあげないと美味しくならないんだ。コーヒーの声を聞いて、コーヒーが望むフレーバーを育てるのがバリスタの仕事だ」
興味津々におじいちゃんの作業を見ていた。
おじいちゃんは無表情のままコーヒーミルでひたすらコーヒーを粉々にする作業をしていた。
コーヒーミルは手動で回してコーヒーを粉々にしていく器具であり、機械動力を伴うものはグラインダーと呼ぶことをこの時に知った。それを回し終えると、さっきまで豆だったコーヒーが粉々になっていった。おじいちゃんがそれをポルタフィルターと呼ばれるコーヒーの粉を入れる器具に移し、それをタンパーと呼ばれる道具でタンピングした。
コーヒーをポルタフィルターに押しつけるためのものであり、コーヒーの粉を圧縮する作業のことはタンピングと呼ぶ。おじいちゃんはそれをエスプレッソマシンにはめ込んでスイッチを押す。そしてすぐにコップを設置すると、コップの上からコーヒーの液が落ちてきた。
こうしてできるのがエスプレッソだ。おじいちゃんはそのエスプレッソに砂糖と牛乳をかけ、スプーンで掻き混ぜた。おじいちゃんが作ってくれたのはカフェラテだった。
それを飲んだ瞬間、あまりの美味さに一目惚れしてしまった。
「美味いっ!」
満面の笑みで雑に味の感想を言った。
砂糖が入っていたこともあって凄く甘く感じた。もしブラックコーヒーを飲まされていたらコーヒー嫌いになってたかもしれない。それを考えると、第一印象の重要性がよく分かる。僕の味覚にピッタリとハマったかのように、この日からコーヒーを忘れられなくなった。毎日のようにおじいちゃんの家に連れて行ってもらったり、うちの親に頼んでカフェラテを淹れてもらったりしていた。
これが僕とコーヒーの、運命の出会いだった。
しかも今度はドリッパーに重ねたペーパーフィルターを通してケトルから熱湯を注ぎ、ドリップコーヒーを作る作業をしていた。今思うと、よく子供に任せられたと思う。
ここまでは凄く楽しい生活だった。
しかし、僕の小学校強制入学が決まってからは生活が一変した。この国には残念なことに、義務教育というクソ制度がある。僕みたいに集団が嫌いな人間にとっては地獄みたいな制度だ。
璃子はおじいちゃんの家にいたが、僕は親の家に戻ることに。
親の家の方が学校が近い上に、親父のバイト先が決まり、お袋もパートの仕事をするようになったからである。しかし親父は納得していなかった。
正社員以外は仕事じゃないという言葉が、そのまま当時の親父を縛っていた。つまらないプライドなんか捨てて、とっととバイトをすれば良かったものを。親父は商店街のカフェでフルタイムのバイトとして働き、お袋はスーパーでレジなどの仕事をするパートになっていた。
共働きでも世帯年収は以前の半分以下になった。
2人の子供を満足に養える生活の水準には程遠いものだった。欲しい物をロクに買ってもらえなかった上に、近所の子供が持っているようなおもちゃなんかは全く持てなかった。
「ねえお母さん、これ買って」
「だーめ、うちは貧乏だから買えないの」
僕はおもちゃで遊んだことはないが、それでも何とかなっていた。僕に物欲がないのは、恐らくこの影響だろう。家ではインスタントコーヒーを淹れたり、ピアノを弾いて遊んだりしていた。親父がコーヒー好きであることもあり、家にはペーパードリップやサイフォンなどの器具がある。おじいちゃんがいつもコーヒーを淹れていて、僕も見よう見まねでコーヒーを淹れていた。
ピアノはバブルの時期、お袋が親父に強請って買った高級品。お袋はピアニスト志望だったが、技術的に習得が困難であったこと、女性の社会進出に乗っかったことを理由に諦めた。ここで僕は意外な特技を発揮する。一度聞いた曲であれば何でもピアノで再現した。ドレミの音階をあっという間に覚え、聞いたことのある曲を頭の中で流しながらピアノを弾くだけで当たり前のように再現できてしまった。
「うまいじゃん! 将来は天才ピアニストかも」
「ピアノじゃ安定して食っていけないぞ! 大手正社員か公務員だ」
「子供の夢くらい好きに持たせてあげればいいのにー」
「プロになれるのはほんの一握りだ。大博打をすることもないだろ」
もしこの時、親から背中を押されていたら、僕はピアニストになっていたかもしれない。この特技も後々活きることになるが、そのことを当時の僕は知らない。
僕は嗅覚と味覚が人一倍鋭かった。料理に何が入っているかがすぐに分かるほどだ。ハンバーグに刻んだピーマンを1粒だけこっそり入れられた時も、すぐピーマンの苦味に気づいて泣き出してしまい、周囲を驚かせたことがある。それもあってか、好き嫌いの激しい子供だった。
「何でピーマンなんか入れたの!?」
「ごめんね。気づかないと思ったから」
「気づかなかったら何入れてもいいの!?」
「分かった分かった。もう入れないから。ねっ?」
小さい時から野菜嫌いで、飲食店で食べる時は野菜抜きと注文するくらいだ。元々はそんなに酷くなかったが、こればかりはあの完食指導が悪いとしか言いようがない。
小学校強制入学までは本当に充実した日々だった。この時点で普通と呼ばれている子供とはかなりかけ離れているが、ここまでで子供がたくさん集まって知り合う機会が全くなかったし、集団生活に支障をきたす遠因になったかもしれない。僕も璃子も幼稚園や保育園には全く行かず、経済的な事情でずっとおじいちゃんの家に預けられていたというのもあるが、今思うと行かなくて正解だった。
1997年4月、近くの小学校に強制入学させられる。何故さっきから強制入学と呼んでいるのかと言えば、僕の意思ではないからだ。好きで学校に行っていた子供は間違いなく少なかったはずだ。自分の意思ではないのに入学したという表現は間違っている。
それなら強制入学させられたの方が文法上は正しいはずだ。ここは絶対に譲らない。
僕は妙に拘りの強いところがあり、他人から何を言われても、絶対に曲げない信念の持ち主だった。この信念が、後に嵐を呼ぶことになるなど、知る由もなかった。
うちの親とランドセルを買いに行った時であった――。
「お母さん、僕ピンク色がいい」
「だーめ。男の子なんだから黒か青にしなさい」
「何で男の子は黒か青なの?」
「男の子だから。みんな黒か青なのに、1人だけピンクは恥ずかしいでしょ。赤とピンクは女の子の色なんだから、文句言わないの」
お袋が言いながら青いランドセルをレジまで持っていく。
僕の好きな色はピンクだ。可愛くて、愛おしくて、見ているだけで落ち着く優しい色だからだ。数ある色の中で最も優しさ成分に溢れた色だと思う。なのに何故男がピンクを好きになってはいけないのだろうか。理由を聞いたものの、まともな回答はなかった。結局青のランドセルを買うことになったが、大いに不満だった。子供の好みを大人が勝手に決めるんじゃねえよ。自分だって何かを強制されたら嫌なくせに、よく人にはああしろこうしろと言えるもんだ。
そんなことを考えながら重くて青いランドセルを背負っていく。入学式は緊張と不安しかなかった。校長は期待も不安もあるでしょうがみたいなことを毎年言ってた気がするが、不安はあっても期待なんて微塵もない。僕は基本的に他人には無関心だからだ。
この入学式っていう行事はどうにかならないのか? 校長の顔を覚えてもらうためだろうけど、別に校長の顔なんて覚える必要ないだろうに。どちらかと言えば圧倒的に一人遊びの方が好きだった。教室の中だけでは退屈すぎて、授業中に立ち上がったり歩き回ったりしていた。
ずっと座ってるのが耐えられなかった上に、授業自体がつまらなくて、まるで座禅のようであった。みんなよくあんなのに耐えられるよなと思った。
親からも担任からも酷く怒られた。
「もっと周りに合わせて、みんなと遊びなさい」
なんて言われていたが、趣味が合わないのに遊んでも退屈なだけだ。
「全然周りの子と遊ぼうとしないんですよ」
「うちの子はずっと一人遊びが好きだったので」
「このままだと暗い子になっちゃいますよ」
一人遊びが好きなだけで暗い子扱いとは。自分にとって都合の悪い子の間違いじゃねえのか?
しかし、最も厄介だったのは天然茶髪を理由に迫害を受けたことだ。この手の時代錯誤とも言える幼稚な迫害は、学生時代が終わるまで続くことになる。
入学式の後でクラスに配属になったが、そこで担任から思わぬ指摘を受けることになる。
「何で茶髪に染めてるの?」
「染めてないけど」
「明日までに黒髪に戻してきなさい!」
「元からこれなんだけど」
この時点で会話が成立していないことが分かる。
担任どころかみんな黒髪が普通で、それ以外の髪色は異常だと本気で思っている。
しかもみんなの前でこの会話をしたことで、周りの生徒までもが黒髪以外は異常だと思い込むようになる。僕はこのことをお袋に伝えたが無駄だった。
「黒く染めるにもお金がかかるし、どうしよう」
――頭おかしいんじゃねえのか?
結局は黒く染めるだけの余裕がないこともあり、地毛証明書なるものを提出することになった。文字通り黒髪以外が地毛の場合に提出することになるらしい。中世の魔女狩りとおんなじレベルだな。
外国でこれをやったら間違いなく訴えられる。明らかに人権侵害だが、社会から隔離された日本の学校では通用しないのだ。多数派と違う者は容赦なく社会的制裁を受けることをこの時に知った。だが悲劇はこれでは終わらなかった。
他のクラスにさえ、黒髪以外の生徒が1人もいないため、僕だけが茶髪の生徒として咎められた。
地毛証明書を提出したものの、担任は納得しない。
「行事の時は黒髪にしなさいよ」
こんな人権感覚の欠片もない言葉を度々言われた。
これを聞いていた他の生徒からも、休み時間になる度に茶髪を指摘され、色々と聞かれた。
「茶髪がカッコ良いと思ってる?」
「別に……」
「髪染めるの楽しい?」
「染めてない」
茶髪に興味津々なクラスメイトたちに囲まれ、警察の取り調べのように質問攻めに遭った。クラスの人数に対して面積が狭すぎる教室を、まるで牢屋のように感じた。
――ただでさえ狭いのに集まるなよ。
眠たそうに目を半開きにしながら渋々反論した。
「生まれつき黒髪じゃない人もいる」
「茶髪の芸能人はみんな染めてるよ」
「だから染めてないってば!」
「赤ちゃんの時に染められたんじゃないの?」
ここまでくるともはや末期だ。しかも僕は顔が女子っぽい上に比較的ロングヘアーだった。担任からは髪を切るように言われたけど、僕は断固として屈しなかった。
悪いことをしているわけでもないのに悪行を改めるように言われたような気がしたからだ。
担任は切ってこないなら自分が切ると言ったが、それなら学校に行かないことを伝えると、これ以上は何も言わなかった。下校の時も僕だけが茶髪であったために目立ってしまい、最初は茶髪を指摘されるだけだったものの、次第にエスカレートして髪の毛を引っ張られたり、謂れのない噂を広められた。
「あいつ調子に乗ってるよな」
「茶髪とかマジダサいし」
下校中の生徒が僕を噂する。これを迫害と呼ばずして何と呼ぶのだろう。
たまらずお袋に自分の想いを伝えた。学校が窮屈でたまらないこともだ。
「――僕は生まれてきちゃいけなかったの?」
思わず目から涙が出た。気が抜けたように尋ねると、お袋は驚きの反応を見せた。
まさかそんなことを聞かれるとは思わなかったのだろうか。
「そんなことないよ。だから泣かないで」
うちの親は僕が茶髪だったことをあまり気にしていなかった。
しかし、学校での出来事を伝えると、途端に手の平を返した。
「今から床屋に行って黒髪に染める?」
この言葉に僕は口を開けながら絶句した。
うちの親は僕が我慢して黒髪に染めれば全てが解決すると思っていた。何故いじめられる方が変わらなければならないのだろうか。静かな落胆を隠さずにはいられなかった。
この時、僕は家にも学校にも、味方はいないのだと悟ったのであった。
生い立ちからしばらくの間は幼少期のため会話率低めです。
会話率は徐々に上がっていきますのでご了承ください。
葉月梓(CV:岡咲美保)
葉月璃子(CV:八尋まみ)