揺り籠
山形圭司は苛立っていた。
「圭司、もう三十五でしょ? まさか結婚しないつもり?」
その怒りは圭司の母親――秋音からの一言から始まった。
その日の夜、自宅のベランダで煙草を吸っていた。
圭司の住む部屋は、五階建て集合住宅の三階だ。小高い丘の上に立っているため、そこから見る景色は彼のお気に入りだった。
突然、携帯電話が鳴った。出てみると相手は秋音だ。
「最近どう? 元気にやってる?」
から始まった会話であった。序盤は世間話で、食生活や仕事の話だったが、最終的に結婚の話になった。
「いつまで一人でいるつもり? 彼女はいないの? 都会に住んでるんだから、良い人いっぱいいるんじゃない?」
秋音の説教じみた言葉を聞いた圭司。持っている携帯電話に力が入った。
「うるせえ、結婚なんて俺の勝手だろうが!」
「なんなの、お母さんに向かってその言い方は!?」
子供を叱るような口調に、余計に腹が立った。
「話はそれだけか? なら切るぞ、じゃあな」
「ちょっと待ちな――」
キャラクター調の猫の携帯ストラップが揺れた。
圭司は一方的に通話を切ると、新たに上着のポケットから煙草を取り出し、口に咥えてライターで火をつけた。ふぅーっと息を吐き、夜の空に紫煙が舞った。
「また、結婚の話かよ……たくっ」
と、悪態をつく。
夏も終わりを告げ、涼しくなった夜風に身体が当たるも怒りの熱は冷めなかった。
三十五歳の圭司の周りで結婚したという話はよく聞く。小学生の子供がいる友人もチラホラ。
だからといって、結婚をする気が起きない。家庭を持った自分が想像できなかったからだ。
「うっせえなあ……」
隣の家から女の歌声が圭司を余計に苛立たせる。その歌声は耳に残り続けた。
その翌日。
時期を外した蝉が鳴く晴天の下、圭司の職場である屋上遊園地。
メリーゴーランド、観覧車などが軽快な音楽を奏でている中、一人用乗り物コーナーで、圭司は呆然としていた。
視線の先には怪しい物体を取り付ける業者。
隣にいる後輩の竹中に訊く。
「なあ竹中……あれは何だ?」
竹中は軽い口調で、
「バスタブっすねー」
「みりゃあわかるよ! 何であんなもんが遊園地にあるんだよ!?」
「新しいアトラクションっすよ。バスタブの中に入って、百円を入れると動くみたいっす」
竹中は新しいアトラクションのマニュアルを読み、説明する。
バスタブといっても、水が入っているわけではない。何の変哲もない白いバスタブがそこにあるだけ。
圭司には何が面白いのかわからなかった。
「なぁ、誰がこんなアトラクションに乗るんだよ……? 絶対につまらないだろ……というか誰がこんなもん置くの決めたんだ?」
「さぁ……、決めたのはこの遊園地の支配人だって聞いていますけど」
「あいつか……」
遊園地支配人--常にピエロの格好をした怪しい男。圭司は彼の素顔を知らない。出勤するときも、飲み会でも、彼はいつもピエロの姿だからだ。
圭司が思い切ってその理由を訊くと、秘密だよと不気味な笑みを浮かべていたのが印象的だった。
しかし支配人がプロデュースするこの屋上遊園地は、他の屋上遊園地が下火の中でも人気がある。だからか実害がないこともあり、誰一人彼の格好に文句を言う従業員はいなかった。
「まぁ、あの支配人が決めたのなら、大丈夫なんだろうな……」
そう言いながらも、圭司はバスタブのアトラクションが流行るとは到底思えなかった。
一週間が経過した。新しく設置したバスタブアのトラクションは、圭司の予想を裏切り、評判が良かった。行列ができることはなかったが、圭司がそのアトラクションの前を通ると、いつも誰かがバスタブに乗っていた。
利用者は主に子供だ。通常アトラクションで遊ぶ子供ははしゃぐものだが、バスタブのアトラクションに乗る子供は騒ぐというよりも静かで、中には寝てしまう子もいた。たまに大人も利用することもあったので、驚いた。
夕方、屋上遊園地は閉演時間になった。
圭司はいつものように残っている客がいないか確認をしていた。そのときバスタブが目に入り、足を止めた。
「本当に何が面白いんだ……」
圭司はバスタブに近づいた。水も入っていない、空のバスタブがそこにあった。
「まあ……試しに乗ってみるか」
そう思い立ち、バスタブの中に入り、百円玉を機械に投入した。
するとバスタブがゆっくりと前後に動き出した。その動作は波のように穏やかで、どこか懐かしい気がして落ち着く。
「ああ、こりゃあいい……。確かにこれなら乗りたくなるのもわかるな……」
気持ちがよくなった圭司は、仕事の疲れもあって次第に眠くなっていった。目の前には黄昏の空が広っている。瞼が重くなり、ゆらゆらと揺れるバスタブの中、意識が遠のいていった。
圭司はとある夢を視た。
見覚えのある庭先に立ち、目の前にある古い日本家屋を眺めていた。家の中には、若い女が子守唄を歌いながら、ゆりかごを優しく揺らしている。ゆりかごの中にはスヤスヤと眠る赤ん坊。暖かい日差しが二人を照らし、ひとつの絵画のような光景だった。
女は歌い終わると、優しいまなざしを赤ん坊に向けて囁く。
「圭司、あなたは大きくなったらどんな大人になるのかな? ちゃんとお嫁さんをもらうのかな?」
女は赤ん坊の頭をそっと撫でた。
圭司はここが自分の実家だと気がついた。そのことから赤ん坊が圭司で、女は若い時の秋音であると理解する。
秋音が赤ん坊の圭司にまで結婚のことを話していた。そのことが馬鹿らしく見えて嘲笑う。
「残念だったな。三十五歳になっても結婚していないぞ」
圭司の声は秋音には届いていないのか、三十五歳の圭司には見向きもしなかった。
秋音はそのまま赤ん坊の圭司に話し続けた。
「でもね、お母さんは絶対に結婚してほしいとは思ってないのよ」
その言葉に圭司の笑いが止まる。
「ただね、家族を持った幸せを知ってほしいの。だって、お母さんはあなたを産んで本当に幸せなんだもの」
秋音はニッコリと微笑む。その笑顔に圭司は衝撃を受けた。今まで見たこともないような笑顔で、本当に幸せそうだった。
今まで秋音が結婚をするように執拗に迫ったのは、世間体を気にしてのものだと思っていた。だから秋音の聖母のような微笑みと言葉は、胸に強く突き刺さった。
圭司はひとりでに口が動いた。
「かあ……さ……ん……」
--そうつぶやいた瞬間、視界は真っ白になった……。
圭司が目を覚ますと、空には星が輝いていた。屋上のフェンス越しには宝石のように煌めく夜景。
バスタブから出て、大きく伸びをする。座った姿勢で寝ていたにも関わらず、不思議と心も身体もスッキリしていた。
「帰るかな」
誰もいない屋上遊園地で独りつぶやく。なぜか自然に口元から笑みがこぼれ、足取りも軽かった。
圭司は家に帰り、一息ついてベランダに出た。涼しい風が気持ちよく感じた。
ポケットから携帯電話を取り出した。電話帳から目的の人物を探しだし、通話ボタンを押す。
数回のコール音がしたあと、
「もしもし圭司? どうしたの急に?」
秋音の驚いた様子の声が電話越しに聞こえた。
圭司は気恥ずかしさを感じながら、
「いやちょっと……、話したいことがあってだな」
「うん」
「…………」
そのあとの言葉がなかなか出てこない。圭司から率先して秋音に話すことなど今までなかったからだ。
沈黙が続く。
口火を切ったのは秋音だった。
「……何かあったの?」
優しそうな母の声を聞き、心が熱くなる。圭司は思い切って、
「実はだな……、彼女を、今度そっちに連れて行くから」
「えっ!? そ、それって……」
思いもよらなかったのか、秋音のうわずった声が聞こえてきた。
電話するたびに彼女はいないのかと言っているにも関わらず、いざ言われると動揺するらしい。
圭司はおかしくなって、笑ってしまう。
「じゃ、そういうことなんでよろしくな。また連絡するから」
「え!? ちょ、ちょっと、待ちな――」
圭司は会話を続けるのが恥ずかしくなり、すぐさま通話を切った。
ベランダに静寂が戻る。
大きく息を吐き、ポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつけた。肺に充満する煙をふぅーっと吐く。
圭司は空を見上げた。丸い月が慈愛込めた微笑みを浮かべている。
そのとき隣の部屋から女性の歌声が聞こえてきた。その歌声を聞いて、秋音を想い、幸せな気持ちになった。
その歌は優しい母の子守唄だった。
お読みいただきありがとうございます。
『風呂』と言うキーワードを見たときに、最初に思いついたのは白いバスタブでした。だからと言って、そのまま登場するのも面白くないと思い、アトラクションになりました。
昔懐かしの屋上遊園地にノスタルジーを感じながら、書き上げました。




