序章
今から六十年ほど昔、青森県の八甲田山系の裾野に杉沢村という村があった。
しかし、ある日のこと、この村に住む一人の男が突然発狂して住民全員を手斧で殺害し、犯行後、男もまた自らの命を絶ってしまったため、村には人が一人もいなくなってしまった。
この事件により村として成立しなくなった杉沢村は、事件を覆い隠そうとする自治体によって密かにその存在を抹消された。地図の上から名前を消され、青森県の公式記録からも名前を消されたのである。
廃墟と化した杉沢村にはそれ以来近づく者はなく、六十年以上の歳月が静かに流れていった……
「その杉沢村の話しが、あの名探偵・金田一耕助が活躍する『八つ墓村』のモデルってわけかい?」
柏木圭一は咥えたタバコの先端から立ち昇る煙を見つめながら、助手席の隣である運転席に座る山崎誠二に聞いた。
「ああ、杉沢村の事件は地元の老人たちによって語り伝えられ続けた。自治体がいくら隠しても人々の意識の中には杉沢村の惨劇は消せなかったんだ。作家の横溝正史はこの事件を伝え聞いて、あの『八つ墓村』を執筆したらしい」
山崎はハンドルを巧く操りながら言った。
すでにアスファルトで整備された道ではなく、草木に囲まれた凹凸の激しい夜の砂利道へと車は走っている。むろん、周囲に明かりなどなく、頼れるのは車のヘッドライトだけだった。
「本当かな?」
助手席に座る柏木は、運転席の灰皿にタバコをこすりつけて消した。
「でも、私のお父さんが、おじいちゃんに似たような話を聞いたことがあるって言っていたわ」
後部座席に座る高橋由紀が、身を乗り出すように助手席の柏木に囁くように言った。この三人は、青森県にある私立大学のミステリー研究会のサークル仲間である。
ミステリー研究会とは言っても、怪奇現象などのホラー系の“ミステリー”という意味ではなく、探偵小説、推理小説を指す“ミステリー”の研究会だった。
「あんまり信用できる話しじゃないな」
柏木が苦笑した。
「どうして?」
由紀が再び身を乗り出して柏木に聞いた。
「君のおじいさんは事件の当事者じゃないだろう。杉沢村に知り合いがいたら別だが……それに似たような話だろ、杉沢村のことじゃないかもしれない。噂話だよ」
「その噂話の真相をこれから確かめるために杉沢村に向かっているんだ」
山崎はハンドルを両手でしっかり握りながら、山深い道で車をゆっくりと走らせる。
「しかし、どうしてこの道がわかった?」
柏木が、どこを見るでもなく聞いた。
「中川先輩が彼女とドライブに行って迷った時に見つけたらしい。先輩達は恐くなって先へ行くのをやめたらしいが……正確に言うと、詳細な道は覚えてないらしい。さっき抜けてきた古いトンネルを抜けて、グルグルと山道を回っている内に着いたんだそうだ」
「何故そこが杉沢村とわかったんだ?」
「目印があるんだよ……それも気味が悪い目印がね……」
「まあ、俺は両親ともに青森県出身じゃないし、お前たちにその話しを始めて聞いた時から信用してねぇけど……」
また、柏木はタバコに火をつけた。紫煙がゆっくりと吐き出された。それ以降はしばらくの間、沈黙が続いた。
さらに山深くなる道を走り回っている内に、山崎は不意に車を停車した。
「着いたぜ」と、山崎が助手席の柏木と後部座席の由紀の方を、交互に見て嘲るような笑みを浮かべて言った。
古ぼけた鳥居が、車のヘッドライトに照らされていた。鳥居のすぐ下には大きな岩が二つ、腰を降ろしているようにあった。そのうちの一つには髑髏のような形に見える。
「髑髏岩の祀られた鳥居が杉沢村の入り口であるという噂がある」
山崎はつぶやくように言うと、車からゆっくりと降りた。
柏木は車から降り立つと、足元にタバコを落として、靴で踏み消した。
車から降り立った途端に三人全員が、寒気を感じた。真冬ではあったが、冬の寒さとは何かが違う寒気を感じた。背筋が冷たくなるような悪寒である。
「やっぱり恐いからやめようよ」
由紀が二人に言った。
「そう言わずに行こうぜ」
柏木と山崎は嫌がる由紀を連れ出し、足を踏み込んだ。三人並んで、鳥居を潜ってゆっくりと先を進んだ。静寂が三人の周囲を包み込んでいる。
すると、何の前触れもなく三人の前に空き地が広がり、そこに四軒の古びたあばら屋が姿を現した。
美しい銀色の色の蜘蛛の巣が三人の眼前をかすめ、由紀が小さな悲鳴を上げた。四軒のうち、一番荒れている家に三人は足を踏み入れた。むせるように屋内は埃っぽかった。
柏木と山崎が顔を上げると、二人の顔からサッと血の気が引いた。その家の木造の内壁には大量の乾いた血の跡があったからである。
男二人が背筋に寒い物を感じた時、
「いやあー!」
と、由紀が突然、甲高い悲鳴を上げた。
「どうした!」
山崎が聞いたが、その声はすでに恐怖で震えていた。不安が彼を支配していた。こんな所に来ない方がよかったのだ。
「人の気配がするの!誰かに見つめられている気がするのよ!」
三人はあばら屋の外へと飛び出した。確かに彼らを囲むように大勢の人がいる気配を感じた。どす黒い殺気さえ感じた。
この静寂を打ち破り、死者の安らかな眠りを妨げた三人に、殺人鬼に殺された人々の怨霊が怒りを露わにしているように感じた。
「どうなってんだよ!」
柏木がヒステリックな悲鳴に似た声を上げた。恐ろしい場所に来てしまったと悟った。やはり、噂は本当だったのだ!
不意に三人の背後で、土を踏む気配がした。三人は一斉に振り返った。
杉の木の陰から男が姿を現した。その手には手斧が握られている。どす黒い物が手斧の刃にこびりついているのが見えた。
三人は同時にそれが何かわかった。血である。
眼が鋭く、唇が薄い残酷そうな男であった。白い息を吐きながら、男は不気味に笑った。一瞬、その瞳が妖しく青く光ったように見えた。
彼らは悲鳴も上げずに、無防備に後ろを向いて走り始めた。車へ戻るためである。
殺人鬼はまだ生きていたのだ!いや、違う!怨霊だ!三人は無我夢中で走り続けた。
いつの間にか、男二人は消えており、由紀だけが懸命に走っていた。おかしい!いつまでも、車のあった場所に辿り着けないのだ。百メートル足らずの距離であったはずなのに。
木々は由紀に無関心にただ立ち並び続けていた。同じ場所をぐるぐると走っているように、その不変は気味が悪く、徐々に由紀を恐怖のどん底へと叩きつけた。無機質な木々の羅列が、由紀をこの不気味な森に封じ込めるような気がした。
周囲の木々が揺れ始め、雄叫びを上げるような轟音で歌いながら、由紀の方へと襲いかかるように思えた。
やがて、どうにかして、由紀は車まで戻る事が出来た。
幸いに山崎は、車のキーを差したままにしていた。由紀は近くの住民に助けを呼びにいこうと運転席に乗り込み、車を発進させようとキーを回した。ところが、なぜかいくらキーを回してもエンジンはかからなかった。マフラーは鈍い音を虚しく立てるだけだった。
由紀は今にも泣き叫びそうな衝動に駆られながらも何度も、何度もキーを回し続けた。
その時……
ドン!ドン!ドン!
突然、車のフロントガラスから大きな音が鳴り響いた。ひょっとすると、はぐれた山崎と柏木が車の元へ帰ってきたのではないか――と、由紀は希望と不安が入り混じった心持ちで、恐る恐るフロントガラスの方へ振り向いた。
見ると、車のフロントガラスを血に染まった真っ赤な手が激しく打ちつけていた。そればかりではない、車の前後左右の窓に無数の血まみれの手が現れ、一斉に窓ガラスを突き破るかのような勢いで叩き始めたのである。
「イヤァッ―――!!」
彼女は、前身から絞り出すような叫び声を上げて、運転席にうずくまり、意識を失ってしまった。
翌日の早朝、地元のとある住民が山道の途中で、血の手形が無数につけられた車の中で茫然自失となっている由紀の姿を発見した。
彼女の髪は恐怖のためか、一夜にして白髪と化していたという。
その後、由紀を発見した地元の住民によって、近くの病院に運び込まれた彼女はそこでの恐怖の体験を虚ろな表情で語った。
しかし、由紀を発見した住民によると、車のあったその付近には古ぼけた鳥居も廃墟もないばかりか、その周囲は断崖絶壁であるという。
病院の通報により、青森県警が由紀が乗っていた車を調べると、由紀と同じ大学に通う山崎誠二という男子学生の車であると判明した。その山崎という男子学生が同乗していなかったことから事件性を疑った刑事たちは、由紀に事情聴取しようと病室を訪れたが、病室に姿がなかった。
それ以降、彼女は行方不明になり、彼女の連れであった二人の男性もまた行方をくらましたままである。
これが呪われし悪霊の村・杉沢村の怪談である。