飢えた男
男は飢えていた。
長く続く日照りでここには害虫と呼ばれる羽虫の一匹さえ見当たらない。
ジリジリと照りつける太陽の下で僅かに残る木陰から罠を見つめる。
「どうか今日こそ獲物が掛かってくれ…。」
男はパサパサの唇を噛み締めてそう呟いた。
獲物が罠にかかれば、それを食べて生き延びられるかもしれない。
男はもう数日胃の中に食べ物を入れていなかった。
僅かな朝露を舐め喉の渇きを癒すような状態が何日も続いている。
ドウッ…と砂埃を巻き上げながら強い風が吹き男は思わず目を閉じた。
男は一瞬の涼しさを感じたが、次の瞬間には噎せ返るような暑さに戻る。
暑さを感じると共に我に返った男は、風で罠が壊れたのではないかとヒヤヒヤしながら照り付ける太陽の下に無造作に置かれた自らの罠へと視線を戻した。
そこには、こんな灼熱の砂と埃の地には全く似つかわしくない女がいた。
女は二手に分かれた月の光色の柔らかそうな髪の毛を頭上に高く纏め、真っ白なブラウスを身に纏い男が見たこともないような柔らかそうな素材の鮮やかな紅色のスカートを身に纏っていた。
男は思わず息を飲む。
女は罠にかかっていたのだ。
男は喜び、そして迷った。
罠にかかった女を喰うべきか。
女を食えば、あと2、3日は生きながらえるだろう。
幸い女はこちらにも気付かず、また自分が罠にかかっているとは気付かないようで、優雅に周囲を見回している。
透き通るような白い素肌は水々しく飢えた男の欲望を刺激した。
男は女に近付くことにした。
「こんにちはなのだわ」
まるですずらんが風に揺られて奏でる音楽のような可憐な声が男に投げかけられる。
男の脳裏に「この女を喰わずにあと1日でも待てば雨が降り当分は生きられるのではないか」などと言った考えが浮かぶ。
しかし、雨などここしばらく見ていない。
正直この憎々しいまでに晴れた空と乾いた空気では明日雨が降る確率は果てしなく低い。
今目の前にいる女を喰うか、自分が死ぬかの瀬戸際なのだ…と男は揺れる自分の心を叱咤した。
男の思惑を知ってか知らずかニコニコと微笑む女に男は手を伸ばした。
女の首を自分の手に持った白い紐で一気に絞める。
女は一瞬驚いた顔をしたように見えたが男は目を逸らし、血の気を失う女の顔にまで白い紐を巻きつけた。
ミシミシという女の身体が軋む音や感触が男の手に伝わってくるようだった。
生きるために俺はこの女を食べるのだ。
女の身体を紐でグルグル巻きにし終ると男は精魂尽き果てたように両膝を地面についた。
ジリジリと太陽は男の照り付けている。
白い紐の下から透ける鮮やかな紅い色、血の気を失いギチギチに締め付けられている女の四肢。
男は女を抱き締めると、紐を掻き分け女の首筋に歯を立てた。
あるはずの感覚がない。
そして男は声にならない声をあげて泣いた。
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少年は夕方に庭の蜘蛛の巣に張り付いた美しい紅い花弁と地面に落ちて事切れている一匹の大きな蜘蛛を見つけた。
花弁は蜘蛛の糸でグルグルに巻かれており、どうやら蜘蛛が蝶か何かと間違えたように見えた。
猛暑続きな上、ここは高層マンションの20階。
一体いつから、そしてなぜ蜘蛛が少年の家のベランダにたどり着いたかはわからないが、蜘蛛の餌になるようなものはここにはなかったのだろう。
ベランダのプランターに咲くホンモノガワと呼ばれる花が揺れている。
少年は蜘蛛をプランターの上にそっと置いてやると窓を閉めた。