日常と崩壊 Ⅳ
時は数分前に遡る。
ユーリがビオムサルワを引きつけてくれたおかげでアルル、ナタリー、相馬の三人は学院内へ逃げ込むことに成功した。ここも破壊されてしまえばそれまでだが、直接狙われるよりはマシだろう。
相馬はここまでアルルとナタリーに肩を支えられてきた。男が女の子に肩を支えられるなんて情けない、相馬はそう思いながらも足の震えが止まらなかった。
誰だかわからない生徒が絶命する瞬間が何度も脳裏に浮かぶ。その度に気が狂いそうになるほどの恐怖に襲われ、戦慄する。
嫌だ嫌だいやだいやだイヤダイヤダ嫌だイヤダいやだ!
死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない!
怖い、怖い、早く帰りたい。日本に、東京に、家に帰りたい!
「ううぅうぅぅ……」
相馬は学院内で降ろされるやいなや頭を抱えてうずくまった。
アルルはその様子を心配そうに見つめるが、悪いとは思うが今はそれどころではなかった。早く戻って少しでもユーリの力にならなくてはならない。
ナタリーは相馬を一瞥したあとすぐに中庭に向けて駆け出した。アルルも一瞬の躊躇いを見せたあとそれに続いて走り出す。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ!」
相馬は手を差し伸べる。助けを乞うように。すがるように。
「ソーマくん、ごめん、行かないと」
アルルは足を止め、振り返ることなく答えた。
「行ってどうすんだよ! あんな化物! 見ただろあいつの力! あんな奴がいるところに戻ったって何にもできゃしないだろ!!」
アルルはそこで振り返り、きつく相馬を睨みつける。
初めて見せる、アルルの怒りの表情だった。それが相馬に向けられていた。
「何ができるかなんてわかんないよ。だけど、ソーマくんは、友達が困ってても助けないの?」
「そ、そりゃ……助けたい、けど……」
「だよね!」
アルルはいつものように笑い、踵を返し駆け出した。何もできないかもしれない。それでも盾になるくらいはできる。友を守るためなら命だって賭けられる。だから行くのだ。ユーリがそうしてくれたように。
相馬は行ってしまったアルルの影を見続け、壁にもたれかかった。
迷いが生まれた。
行くのか、ここに残るのか。
何の力もないのに、戻ったところで足を引っ張るだけだ。それが当たり前だ。
しかし、あの三人は戦っている。自分と歳の変わらない女の子が戦っている。みんなを逃がすためにユーリは戦っている。ユーリを助けるために二人は戻って行った。
三人とも、自分自身以外のために戦っている。
力があるから。
違う。そういうことではない。敵わないと知っていてもなお向かって行った。友を救うために。自分を犠牲にしても守るために。
守られているだけでいいのだろうか。こんなところで怯えて震えているだけでいいのだろうか。
しかしどうしようもないのが現実だ。それに三人とは昨日会ったばかりだ。義理はあっても、情はない。
しかし義理は、あるのだ。
相馬は葛藤していた。
理想と現実は違うものだ。
行って助けられるものならとっくにそうしている。そうしたいと思う。
しかし怖い。とてつもなく怖い。震える。動けない。死にたくない。
戻れば確実に迫るであろう、自分の死。その恐怖を克服しようとしてもそれをできないのが人間である。
死ぬのは怖い。しかし、三人が死ぬことは、それ以上に怖いことかもしれない。
相馬が震え、悩んでいたところに叫び声が聞こえた。悲痛な叫び声だった。
これは、あの悪魔の声だ!
勝ったんだ!
相馬は駆け出していた。
光を求めて。
まだ戦いは終わっていないとは知らずに。
そして見てしまった。ビオムサルワが今、圧倒的な力で三人を押し切ろうとしている光景を。
どう思ったわけじゃない。体は勝手に動いていた。
気が付かぬうちに覚えたばかりの精霊術を放っていた。それは見事にビオムサルワの頭に命中した。
注意を逸らすだけでもいいかもしれない。そう思い相馬は次々と火弾を放った。いくつかは外れたけれど、いくつかは命中している。
それが迂闊だった。
相馬の姿を捉えたユーリは大きく目を見開いた。
「あんの馬鹿! なんで出て来たのよ! ナタリー!」
「同時展開は無理です!」
ビオムサルワは熱線を放ちながらも相馬を睨みつけている。
ユーリは願うように心の叫び声を上げた。逃げろ。早く逃げろと。
「雑魚がッ!」
ビオムサルワは口から火球を放った。それは相馬の火弾を次々と打ち消しながら相馬へと向かう。
「うわああああああッ!」
相馬はすぐに後悔した。
やはり出てくるんじゃなかった。
相馬は目を瞑って覚悟した。しかし火球が直撃する寸前、相馬の体に伝わったドンッという衝撃。相馬はその場から弾き飛ばされ、代わりに相馬のいた位置に飛び込んできたのはユーリだった。熱線を抜ける際に制服のコートの裾は焼き切られ、ブーツも焼かれ足には大きな火傷を負っていた。
相馬とユーリの目が合う。
ユーリはにんっ、と笑っていた。
その笑顔を瞳に映して、相馬の目の前で起こる爆発。目も開けられない光と衝撃が相馬を襲った。
そして煙が晴れて見えたのは、力なく横たわる少女だった。制服も輝かしい金髪も焦げて、それだけでも重症が窺える。
相馬はすぐに駆け寄り、ユーリの体を抱き起こした。美しい顔も埃だらけで、体のあちこちで出血していた。特に足はひどい。皮膚は焼かれ、赤黒い肉がむき出しになっていた。
「お、お前! なんで!」
「お……お前って、呼ぶなって、い、言った、でしょ。弱い者、ま、守る……。それ、が、あた、しの、役目。はや、く……逃げ……なさい……」
優しい笑顔だった。しかしその声は今にも消えてしまいそうに弱々しいものだった。
相馬は何度も首を横に振って、ユーリを抱きかかえた。
「な、なにを……! おいて、行き、なさい……!」
「嫌だ! 一緒に逃げるんだ! 絶対置いて行かないからな!」
「ば、ばか……。むだに、しないで。あたしに、ここまで、さ、させたん、だから……。逃げ切って、みせなさ……いよ」
「ふざけんな! 俺だって、俺だってこんなお前を見捨てて逃げたりなんかしねぇ!」
その二人をビオムサルワはしらけた様子で眺めていた。
「雑魚を庇って、馬鹿な子。今度こそ、ばいばい♪ 風に揺らぐ金髪のお嬢さん♪」
そしてもう一度、火球を放つ。
絶体絶命だった。
相馬は焦る。逃げ出そうとはしなかった。迫る火球から目を逸らそうともしなかった。
「ちくしょーッ!」
どうにかしないと、何とかしないと!
守らなくては、ユーリを守らなくては!
(我々よ、力を欲するか?)
守らなければ、そう思った時、あの声が相馬の頭に響いた。この世界に連れてきた忌々しい声。しかし今はすがれるものならばなんだっていい。助けられるのならばどうなってもいい。
「くれっ! 力をくれーッ!」
お前は、我々だ。
火球は相馬に直撃した。
「クックク……。今度こそ死んだな」
ビオムサルワはほくそ笑み、煙が上がる相馬がいた場所を見つめる。黒煙が晴れるのをまだかまだかといった様子で待つ。
「友情か愛情か! そんなくだらないもので命を落とすなんて人間はほんとに馬鹿!」
言いながら笑いを堪えていたビオムサルワに突然訪れたものは、悪寒だった。
「なによこれ、火を司る大悪魔が悪寒? 笑えないわ」
自嘲気味に笑ったビオムサルワはすぐに鋭い視線を煙に向ける。その途端に煙の中から巨大なつららが飛び出してきた。ビオムサルワは咄嗟にそれを上空にかわした。
ビオムサルワはアルルとナタリーへの攻撃も止め、黒煙を凝視している。
巨大なつららの一撃が二人を助けることに繋がった。
立ち上がる煙が晴れてそこから姿を現したのは、先程震え逃げ出し、無謀な攻撃を仕掛けた相馬の姿だった。ユーリを抱え、鋭い目つきでビオムサルワを睨みつけている。
相馬はユーリを抱えたまま、アルルとナタリーのもとへ歩み寄る。
そしてユーリをそっと地面に寝かせた。
「ナタリー。ユーリを治療してやってくれないか。重症だけど、生きてるから」
「えっ、あ、はい。ソーマさんは……」
「行ってくる」
それだけ告げて、相馬は風を纏い空へ飛び立った。
残された二人は相馬の背中をじっと見つめる。
「あの時のソーマくんだった」
「ええ、意識はあるようでしたけど」
お願い……。二人は祈るような気持ちで少年の背中を見送った。
ビオムサルワは自分のもとにゆっくりとやってくる相馬の姿を見下ろしていた。
おそらくはこの中で一番強大な敵、そいつがやってくる。震える。心躍る。強者と対峙するこの瞬間はなにものにも代えられない。この高揚感。どれほど楽しませてくれるのだろうか。
そして少年と悪魔は対峙した。
「あなたはただの雑魚だと思ってたわ。ごめんなさいね。さっきのお嬢さんは死んだかしら?」
「…………」
相馬の目はうつろだった。しかし、しっかりとビオムサルワの姿を捉え、その口元は少し笑っているかのようにも見えた。
「余計な言葉はいらないってことかしら。あたしもう疲れちゃってるんだけどねぇ。いいわ、さぁ、踊りましょう!」
不意打ちとも呼べる一撃だった。ビオムサルワは相馬に向けて火球を飛ばす。相馬はそれを楽にかわし、突撃を始めた。対し、ビオムサルワは炎の竜巻を発生させ、向かってくる相馬に放つ。相馬はそれを水の竜巻を作り相殺した。
「器用なものね! 風を纏いながらにしてその水の威力!」
ビオムサルワは高笑いを上げながら相馬との距離を取る。
楽しくて仕方がない。一対一でここまでやれる人間がいるなど、喜ばしいことだ。ビオムサルワの表情は狂気に満ち溢れた笑いを浮かべていた。
先手を仕掛けるのはビオムサルワ。笑い声を上げながら火球をいくつも作り上げ、相馬に投げ飛ばす。相馬は防戦一方だが、軽々と身を翻して火球をかわしていく。
ビオムサルワはそれを見てにやりと妖艶な笑みを浮かべた。
相馬がかわしたはずの火球は、相馬を取り囲むように空中で制止していた。
「あはははっ! その子たちからは逃げられないわよ!」
ビオムサルワは拳を握り締めた。すると相馬の周りに浮かんでいた火球が一斉に相馬へ向かい走り出す。
逃げ道はなく、次々に起こる爆発。塵一つ残すまいと爆撃が相馬を襲う。その衝撃は辺りの大気まで歪ませていた。
「死んだわね」
ビオムサルワは呟く。
しかし煙が晴れて見えたのは、平然と、傷一つなく浮かんでいた相馬だった。
「そんなはずは……!」
これにはビオムサルワも驚愕した。逃げ道を無くし、確実に葬り去るための攻撃だった。それを全くの無傷でやり過ごされたのだ。
相馬はビオムサルワの姿を捉え氷の刃を放った。次々と、間髪入れずに放つ。まさに氷のマシンガンだった。ビオムサルワはそれを旋回しながらかわし、炎の剣を作り上げた。
「霊力が通用しないのなら切り刻むまで!」
ビオムサルワは氷の刃をかわしながら相馬に近付き頭上から炎剣を振り下ろす。と、甲高い金属音が辺りに響いた。相馬は左腕に鋼の盾を装着し、炎剣の一撃を防いでいた。
「どこにそんなもの!」
相馬は炎剣を受け止めたまま右手に氷の剣を作り出し、横薙ぎに払う。ビオムサルワはそれを上空に飛翔してかわす。相馬は追撃し、縦振りの一撃。ビオムサルワはそれを炎剣で受け止めた。
しかし、ビオムサルワはさらに驚愕した。
相馬の持つ氷の剣は蔦植物に姿を変え、ビオムサルワの肢体に絡みついた。そしてそれは次に強固な岩へと姿を変え、動きを封じる。
「なっ!? 錬金!? 風を纏ってるはずよ!?」
錬金は土霊術だ。人間が反する属性の精霊術を同時に展開できないことは悪魔にとっても常識だった。しかし相馬は違う。自在に全ての属性を操ることができる。
「お前は、まさか……っ!」
ビオムサルワの言葉などには耳を貸さない。相馬はビオムサルワの体を拘束していた岩の塊を溶岩に変えた。
「がああぁあぁッ!」
皮膚の焼ける匂いが立ちこめる。
火を司る悪魔が火にやられるなど、屈辱的なことだった。
体の自由を取り戻したビオムサルワは後方へ下がる。それを逃さぬ相馬の追撃。先程ビオムサルワが仕掛けた攻撃のように、氷の刃をいくつもビオムサルワの周囲に漂わせた。そして拳を握ると一斉に目標へ向かう。
「くッッそがぁ!」
ビオムサルワは炎を衝撃波を放ち、迫る刃を消し去っていった。
全ての氷の刃が消し去られたあと、相馬はビオムサルワの目の前に姿を現した。
相馬は氷剣を上段から一閃。ビオムサルワの左肩から脇腹までを切り裂き、傷口を凍りつかせた。
「がふっ……。くそ……こ……このままやられるわけには……」
ビオムサルワは胸当ての中から黒光りする丸い玉を取り出し、握り潰し弾けさせた。すると、辺りを漆黒の闇が覆い尽くした。
(次は……殺してあげるから……)
闇の中に声を残して、ビオムサルワは忽然と姿を消した。
その闇が晴れ渡った時、相馬の糸が切れ、重力に任せた自然落下が始まった。落ちると確実に死ぬ。すでに相馬の意識はなかった。
悪魔をも凌ぐ力を持った少年の姿は、日の光と重なり神の子をも連想させた。地上に産み落とされた神童。しかし、相馬は人。翼を持たぬ人間は本来飛ぶことを許されない。
ふわり、優しい風が吹く。
相馬を包み込む、柔らかい風だった。
「これでおあいこね。でも、ありがとう」
神の子を抱く、黄金の女神。
意識朦朧と戦いの行く末を見つめていた生徒たち、アルルとナタリーにすらそう思わせるほど、二人の姿は神々しかった。