日常と崩壊 Ⅲ
一旦シャムセイル学院を離れたアルルとナタリーは途中で馬車を降ろしてもらい、徒歩で学院を目指していた。
天気は良い。散歩するにはちょうどいい日和である。
「アルル。どういうことですか?」
買い物に戻ると言っていたのに、途中で馬車を降りてしまってナタリーは困惑していた。
「いやぁ、あの、ユーリがさ、ちょっと変だったでしょ?」
苦笑を浮かべながらアルルは言う。
「変と言えば変でしたけど、それがこの行動とどう関係があると?」
「どうもねぇ、わたしの見解ではユーリはソーマくんのことを気に入っているようなのですよ、はい」
ナタリーはより困惑してしまう。
「そうは見えませんけどねぇ、はい」
「おそらくは本人も気付いていないものと、うん」
「それはいいとしてもわざわざこういうことをする意味がわかりかねます、どうぞ」
「ハゲルさんがわたしに真っ先に感想を求めたことをユーリは面白く思っていない様子、ですです」
「そうだとしてもアルルが気を遣う必要はないでしょう、でしょう?」
「面白そうです、はい」
「面白そうですね、はい」
意見が合致した。
「気を遣ってるってわけじゃないんだけどさぁ、あの二人には仲良くしてほしいなぁって思うんだ。でもでも、面白そうだからこっそり戻って二人の様子を眺めてみようって思ってるわけ」
「私は余計なお節介だと思いますけどね。ソーマさんがアルルを気に入ってるとしたらどうするんですか? ハゲルさんはそういった意味でアルルに感想を求めたのではないのですか?」
「うーん、ユーリに関しては男としてというか、おもちゃを取られるような気分じゃないかな。今は、多分。わたしはソーマくんのことはどう思ってるわけじゃないし。ただ助けてあげたいとは思うよ。知らない世界で心細いだろうしね。でももし、ユーリがソーマくんのこと好きになったとして、ソーマくんがわたしを、なんてことになってもわたしはユーリが大切だから」
「話が飛躍し過ぎだとは思いますが、その優しさで後悔しないようにしてくださいね」
「あっはっはー! わたしは元気で前向きが取り柄さー!」
そうなのだ。元気が取り柄だ。後悔なんてするわけがない。ソーマくんだから助けてあげたいと思ってるわけじゃないんだ。誰であろうとそう思う、はずだ。
「そういうことなら早く戻りましょう。少しだけ、胸騒ぎがします」
「ソーマくんの体の心配? ユーリだっていくらなんでもやり過ぎないでしょ」
ナタリーは意味深な表情を浮かべて、歩みを速めた。
相馬のことは別に心配していない。ユーリを信用しているからでもある。それとは別の、言いようのない不安がナタリーの胸の中を駆け巡っていた。急がないといけない気がする。何事もなければいいが。
二人は急ぎ足で学院を目指した。ユーリのように風を纏えれば早く着けるのだろうが、あのレベルまで風を纏ってしまえば霊力がすぐに尽きてしまう。
数分歩くと、もう学院は目前だった。学院を離れてからそう時間は経っていないはずだ。
その時に、巨大な竜巻が学院の中から巻き起こった。それは空に浮かぶ雲をも消し去りすぐに収まった。
あれほどの風を起こせるのはユーリしか考えられない。何かあったのだろうか。
ナタリーは学院の扉を開け、急ぎ中を覗き込んだ。しかし何も変わった様子はない。
何に対して不安を抱いていたのかはわからなかったが、安堵の溜息をついてユーリと相馬の姿を探した。
学院の中庭の隅、花壇のすぐそばで二人を見つけた。
ユーリが何やら花壇に水を撒いているところだった。綺麗な小さな虹に心を奪われる。
「な、ナタリー。急いでたけど、どうかしたの?」
息を切らしたままアルルがナタリーの隣に並んだ。
「いえ、何でもありませんでした。見て下さい、あそこ」
ナタリーが指差した先にアルルは二人の姿を捉えた。よかった。ちゃんと精霊術を教えてあげてるみたいだ。
アルルとナタリーは遠目からその様子を眺めることにした。幸いにもまだこちらには気付いていないようだ。
「うまくやっているみたいだね」
「どうやらそうみたいですね」
アルルはにっこりと微笑み二人を眺める。やはり奇妙な光景ではある。あのユーリが男の子と二人でいる。あの二人が意識しているかわからないが、周りの生徒もチラチラと視線を向けている。それ程珍しい光景だった。
「そういえば、ソーマさんの先天属性は何なのでしょうか?」
ナタリーは首を傾げる。
「どうだろうねぇ。やっぱり全部光ったりしたんじゃないの?」
アルルはナタリーに向き合い、同じ角度に首を傾げた。
「全て、ですか」
反対側へ首を傾げた。
「多分、ね。火と水を同時に使えたんだからさ」
またナタリーの首に便乗した。
「そうだとして、どうしてそのようなことが」
ナタリーは顎に手を当てて考えてみた。
「精霊術のない異世界から来たんなら、ジーナの精霊力を一気に受けたからじゃない?」
また真似をする。
「なるほど、そういう考え方もありますね」
ナタリーは閃いた表情と共にぽんっ、と手を叩く。
「なるほど~」
真似をした。
「アルル、うざいです」
「ナタリー、ひどいです」
本当にうざそうな顔をしたナタリーはユーリと相馬に目を向けた。ちょうど相馬が何かしようとしている。
ナタリーはそれを指差しだけでアルルに伝え、その先を目で追ったアルルは「おっ」と声を上げる。
「火属性ですね」
「そうみたいだねぇ。できるのかな? できるのかなぁ?」
アルルは両手を胸の前に組み、楽しみで仕方がない様子を隠すことなく二人を見つめた。
これで相馬の先天属性は火ということになる。まずは先天属性の精霊術を教えるはずだから。
「くらえっ! ファイヤー!!」
ここまで相馬の声が聞こえた。
相馬が放った精霊術を見て二人は唖然とする。精霊術自体ではなくて、それが向かった先だ。ユーリに直撃してしまったから。
少し煙が立ったあと、怒りに震えるユーリの姿が露わになった。
「くらえって言ってましたね」
「あっはっはー。……ハァ、行かないと、かな」
嘆息しているアルルが見るものは、火弾を作り上げているユーリの姿だった。
あれじゃあソーマくん死んじゃうって。やり過ぎないと思っていたけどそれは間違いだった。
そう思って、振りかぶったユーリを止めに入ろうとした時だった。
――――――――――――――!!
突如、耳に響く異質な音が周囲に響いた。頭を揺さぶられるような不快な音だった。
「な、何!?」
慌てて辺りを見渡すアルルだが、何も変わった様子は見受けられない。
「アルル、早くユーリの元に!」
ナタリーは状況を理解していた。説明するより先に行かなくてはならない。このことを知らせないと。頼りになるリーダーに。
ナタリーは危険察知能力が優れている。だから二人のサポートがやれてきたと言ってもいい。二人の身はいつも守ってきた。
アルルは言われるがまま、ただならぬことと察知しナタリーに続いて走り出した。
「ユーリ!」
「ナタリー!? それにアルル!」
ユーリはまず二人が現れたことに驚きを隠せなかった。オイゲンに行くと言っていたはずだから。しかし安心した。頼りになる二人が来てくれたことに。
「あなたたち、どうして……」
「話しはあとです。気が付きましたか?」
「……ええ。どこのどいつか知らないけど、随分と大胆じゃない」
さすがはユーリだ。とっくに気付いていた。ナタリーは少しほっとしてすぐに表情を険しいものとしてアルルに目を向けた。
「ど、どうしたの? 二人とも」
アルルは困惑していた。相馬もまた同様だった。ユーリとナタリーがこれほど慌てることなんてただ事でないのは明らかだった。
「学院に張ってあった霊力障壁が何者かによって破られました」
アルルもそれを聞いてすぐに事態を把握した。それがどういうことなのか。
「え? え? 何? みんなどうしたんだ?」
ユーリは相馬の問いに、静かに話し出した。
「学院全体を覆っていた霊力障壁が破られたのよ。外部からの侵入を阻止するためのね。内側から出ることは簡単だけど、一旦外に出てしまえば、あの門をくぐらない限りは学院の中に入れないのよ。普通は。そしてそれはこの学院関係者にしかできない」
「霊力障壁は学院長が張った強力なものです。それが何者かによって破られました。わざわざ障壁を解いたのですから、好意的な者でないのはたしかですね」
「えっと、つまり?」
「危険な状況です」
三人とも表情が険しい。
「ソーマ、仕掛けてくるようなら自分の身は自分で守りなさい。守ってやれる自信はないわ」
相馬に戦慄が走った。
学院主席のユーリがこうまで言っている。それほどの脅威がこの場にやって来たということだ。
「そうじゃなかったら、早く逃げなさい!」
逃げろと言われても、どこに逃げればいいのか、どうしたらいいのか相馬はわからなかった。相馬はその場から動けなかった。
「来ました!」
ナタリーは空を見上げ叫んだ。
一同が見上げた先には、人らしき影が浮いていた。
黒い外套を被った人物が空に浮かんでいた。地上からでははっきり見えない。外套の下からは足が二本見えている。おそらくは人間の足だ。それならば、風霊術師か。
その人物が何か呟いたような気がした。そして外套に隠れていた右手を天に向けた。そこに目に見えてわかるほどの霊力が収束し始める。
「やばいッ! ナタリー!」
「あれは私一人では無理です!」
ユーリは小さく舌打ちし、相馬とアルルを自分のそばへ寄せた。ナタリーもユーリのそばに立ち、協力して水の障壁を展開させる。
周りの生徒らはざわざわと騒ぎ立て、各々で障壁を展開させていた。これから精霊術が展開されることは学院生なら誰でも感じ取れることだった。ただ、その威力までは計れなかった。
「くっそ……ッ!」
ユーリにはこれから起きる事態が予測できていた。だが、どうしようもできない。この場から動くわけにはいかなかった。
ごめんなさい、許して……!
ユーリが悲痛な懺悔を胸にした時、空の人物の手に集まった霊力が弾けた。
それは花火のような、音と光。そこから放物線状に降り注がれるいくつもの熱線。美しい光の雨だった。しかしそれは触れたものを焦がし、溶かし、我が道を作るように進んでいく。
ユーリとナタリーは耐えた。己の霊力を振り絞って耐えた。障壁を破られるわけにはいかない。瞬く間に全滅してしまう。それは死ぬということだ。
耐えに耐え、ようやく光の雨が止んだ時、目の前には惨状が広がっていた。
ユーリたち以外に今の攻撃を完全に防ぎ切れた者はいなかった。胸を焼かれ、顔を焦がされ息絶えている生徒。息はあるものの重傷を負っている生徒。全員がこの場にいなかったとはいえ、学院の方にも被害は出ている。学院内には気付かぬうちにその命を絶たれた者もいるかもしれない。
晴々とした青空の下に広がった、地獄絵図の完成だった。
「う、うわあああああァァあアあアァアァああッッ!!」
「ちょ、ソーマくん! しっかりして!」
相馬は頭を抱え叫び倒れ込んだ。恐怖と、絶望に蝕まれて。
人が死ぬところなんて見たことがない。それが目の前で、死んだ。顔がわからないほどに焼け焦げて死んだ生徒もいる。血だまりの中で横たわる生徒もいる。人の肉が焼ける匂いがする。
何人死んだ? ナンニンシンダ??
「う、うおぇっ……」
相馬は胃の中のものを残らず吐き出した。
三人も相馬の表情を見て気が狂いそうになる。瞬く間に学院が蹂躙されてしまった。本当に何人死んだのかわからない。恐怖が襲う。怖い。しかし、しっかりと気を保たねばならない。
「ソーマくん! ソーマくん! しっかり気を保って! わたしを見て! ソーマくん!」
相馬の頬を叩きながら必死に呼びかけるアルルだったが、相馬の目はうつろで、焦点も定まっていなかった。
その間に、空の人物がゆっくりと地上に降り立った。
黒い外套の中から四人を見つめる妖艶に輝く琥珀色の瞳。それは人のものとは異なる、獣の瞳だった。
「よく耐えたわねぇ」
女の声だった。若そうな声だが歳はわからない。四人を嘲笑うかのように口端はにやりと吊りあがっていた。
ユーリは風を放つ。外套を払い、姿を確認するために。
ふわり、優しい風で外套のフードが捲りあがる。
ウェーブのかかった黒い長い髪。赤褐色の肌で吊りあがった両耳。琥珀色の瞳は獲物を捉えるようにユーリに向けられていた。
「まさか……ビオムサルワ……」
ナタリーが震える声で呟いた。
「あらん。知ってる奴がいるなんて、若いのに博識だこと。そう、あたしは火を司る大悪魔、ビオムサルワよ。覚えておいてねん、すぐに、殺してあげるけどね」
ビオムサルワは舌舐めずりをして、四人を見据える。
「見たところ、あなたたちが一番の実力者みたいだけどどうなのかしら。動けるのもあなたたちだけみたいだし。さっきの力を使うのは大変なのよ? 生き残ってくれちゃって、ああ面倒臭い。ねぇねぇ、おとなしく焼かれてくれると助かっちゃうんだけど」
クスクスと口元に片手を当て嘲笑う。絶対強者が弱者をどういたぶろうか快楽を感じているようだった。
「まぁ、使えないのも混じってるようだけど」
ビオムサルワは相馬を見て鼻で笑う。
ユーリは思考を巡らせる。最善の策を練る。いつものことだ。だが、今までで最悪の状況だ。できるだけ被害を最小限にしなければならない。
「アルル、ナタリー。ソーマを連れて逃げて。あいつはあたしが食い止める。そのうちおじいちゃんがどうにかしてくれるはずよ」
「無茶です! ビオムサルワは私たちが太刀打ちできる相手ではありません!」
「そうだよ! かないっこないって!」
「だからよ。あたしが時間を稼ぐからその間に。さぁ、早く!」
ユーリは二人を怒鳴りつけ霊力を練り始める。
「ナタリー、行こう。まずはソーマくんを」
「でもっ!」
アルルは火の使い手であるためにビオムサルワとの相性が悪い。自分がこの場にいても役に立たないことはわかっていた。ならば相馬を連れて逃げることが最優先だ。それに、ユーリは頼りになる友人だ。どうにかしれくれるはずだ。戻ってくるまで。
「ユーリが言ってるんだから間違いないんだよ! ナタリー!」
ナタリーは涙を浮かべるが唇をぎゅっと縛り、首を静かに縦に振った。ナタリーもまた、自分が役に立たないことはわかっていた。一人ではビオムサルワの攻撃は防ぎ切れない。さっきはユーリも一緒だから耐えられただけなのだ。だからといって精霊術による攻撃は専門外だ。これほどの相手に通用しないこともまたわかっていた。
「作戦会議は終わりかしら? せいぜいあたしを楽しませてねん。お嬢ちゃんたち」
「悪魔だか何だか知らないけど、随分と……余裕じゃないの!」
ユーリはいくつもの風の刃を放つ。いつもならばこれで標的の命を完全に絶つことを目的とした精霊術だ。しかし今はただの牽制に使う。この程度の精霊術が通用するとは思っていない。
それが合図と言わんばかりにアルルとナタリーは相馬を抱え学院内を目指して走り出した。ユーリを信頼して、振り返らずに走った。
「逃がさないわよ!」
「あんたの相手はあたしよ!」
風の刃を片手で軽く打ち払ったビオムサルワに対し、ユーリは風を纏い旋回しながら再び風の刃を放つ。
「なら、あなたから焼け死になさい!」
人ひとりくらいは軽く飲み込んでしまいそうな火球。ビオムサルワはそれを瞬時に作り出し、ユーリに向けて放った。火球は風の刃を喰らいながらユーリへと突き進む。
「それくらいッ!」
ユーリは速度を上げ、上空へ飛び上がりそれをかわした。
「なかなかの風の使い手ね。いいわ、少し遊んであげる」
ビオムサルワの背中から炎の翼が生え、それは自らが着ていた外套を燃やし尽くした。その翼を羽ばたかせ、ユーリを追う。
ビオムサルワの姿が露わになった。赤く燃えるような色の胸当てと腰まわりを覆いつくしている甲冑。最低限の装備だけを身に付けた、人間のものとは異なる鋭い爪を持つ手足の悪魔。
「あーっははははッ!」
愉快な笑い声を響かせながらユーリを追う。
対するユーリは次なる精霊術を展開させようとしていた。
ダメージを与えて動きを鈍らせる作戦だった。倒せなくても、痛手は追うはずだ。
「水の精霊よ力を貸して。凍てつく息吹を吹き荒れる嵐へ!」
向かってくるビオムサルワに対し、ユーリは竜巻を放った。その中には氷の刃が無数に飛び交っている。風と水の合成精霊術である。うまく直撃すれば風で切り刻まれている間に氷の刃が次々と突き刺さる、ユーリ渾身の一撃だ。
「敵の弱点を突く。戦いの定石ね。冷たいのは嫌よ、心まで凍っちゃいそう。――だけど、貧弱よ!」
ビオムサルワは炎の翼をはためかせ炎の竜巻を生み出し、ユーリの展開した精霊術に向けて放った。それは同等の力で氷混じりの竜巻を相殺していく。
「う、嘘でしょ!? あたしの最高の攻撃術を簡単に……」
「あらぁ、自信なくしちゃったのならごめんなさいねぇ。でもね、所詮人間にはその程度が限界なのよ」
こんな馬鹿なことがあってたまるものか。
ユーリは唖然とビオムサルワの姿を見下ろす。あれが効かないならば、ビオムサルワをどうすることもできない。
「危ないわよ?」
一瞬、ビオムサルワから気を逸らしてしまった。
気が付けばビオムサルワは目の前に迫っていて、炎を纏った横蹴りを繰り出していた。
「ぐっ……!」
ユーリは瞬時に水の障壁を展開し受け止める。しかし蹴り自体の衝撃は伝わり、鈍い音が体の中に響いた。そのまま宙に投げ出されてしまう。かろうじて意識は保つことができた。空中で意識を失うことはそのまま死を意味する。
「もう終わり?」
ビオムサルワは吹き飛ばされたユーリの眼前で妖艶な笑みを浮かべる。
ユーリは咄嗟に風を操り、重力も利用し急降下して距離を取った。執拗に追いかけてくるビオムサルワを視界に捉えながら作戦を練り直す。
危なかった。こちらから手を出してはいけない。当初の目的は時間稼ぎだ。出来るだけ無駄な霊力消費は抑え続けて、学院長が来るのを待つ。
正直、頼れるものはもはや学院長のシャムセイルしかいなかった。この学院でユーリより実力がある者はシャムセイルしかいない。精霊力を行使する戦闘に関しては学院の教師陣との差はないのだ。実際にこの中庭に出て来ている教師はいない。生徒の手当てにあたっているのか、最初の一撃でやられてしまったのかはわからなかった。
しかし頼りのシャムセイルは学院にいない。ユーリらとすれ違いでオイゲンに向かっていたから。
「鬼ごっこ? じゃあ、あたしがあなたを捕まえたら、それはあなたが死ぬ時ね」
ユーリすら戦慄を覚えるほどの狂気を孕んだ微笑みだった。
……本格的にやばそうね。
地上では相馬を学院内に避難させ、戦いの場へと戻ってきたアルルとナタリーがユーリとビオムサルワを見上げていた。
二人は加勢するために戻って来た。しかし空中の戦いには参戦できない。とてもユーリのように動くことは無理だった。精霊術を放ったとしても当たるわけがない。
「ね、ねぇナタリー、どうにかできないかな。あれじゃいつまで持つかわかんないよ」
「悔しいですが、どうすることもできません。地上に降りてきてくれればいいのですが、私たちを逃がそうとしていたユーリがそうするとは思えませんし」
二人とも唇を噛み締めて戦いの行く末をただ見守るしかできなかった。
空中で逃げ回っていたユーリはだんだんとその速さを失いつつあった。全力で飛び回っていたので霊力の消費量も半端ではない。それなのに、ビオムサルワは平然とついてくる。本当に鬼ごっこでもしているように、遊ばれていた。
遊ばれている。このシャムセイル学院の主席、ユーリ・スタンフォーリアが。悔しくて悔しくて、涙さえこぼれてきそうだった。
死ぬ。
ついにはそんなことまで考え出した。逃げ切れそうもない。攻撃も通用しない。ここまで力の差を見せつけられたのは初めてだった。どうしようもない絶望感だった。心の中では助けを求めていた。
アルル! ナタリー! おじいちゃん!
「飽きてきたわね」
後ろにいたはずのビオムサルワは突如としてユーリの目の前に現れた。冷たい目でユーリを見据えて、炎の蹴りを放つ。
「がっ!」
今度は水の障壁を張る余裕もなく、ただ己の霊力のみによる障壁で防御した。先程とは比べ程にならない熱量と衝撃がユーリを襲う。それでもよく張れた。まともに受けたら人間の肉体などすぐに焼かれてしまうほどの熱量を纏っている蹴りだから。
ただ、腕を持っていかれた。制服は焼けて白い肌が露わになり、左腕の自由が効かない。
激痛に顔を歪めるユーリ。意識はあるがそれももう途絶えそうだった。息は荒く、視界もままならない。
うつろな目をしてビオムサルワを見上げる。ビオムサルワはそれを見ておもちゃが壊れてしまったかのようにつまらなそうに笑った。
そしてビオムサルワは巨大な火球を頭上に作り出す。
「よけてもいいのよ?」
もうユーリには思考を巡らせる気力がなかった。言葉の意味を理解することも困難だった。それは一瞬の判断だった。
さっき蹴りを受けたときに地上から声が聞こえた気がしていた。
逃げるか。
受けるか。
下を見れば、自分がよけた先にいるのはアルルとナタリーだった。
どうして……!
「ばいばい♪」
ビオムサルワは火球を放つ。それは周りの空気すら燃焼させながら一直線にユーリへ向かっていった。
迫る火球に対してユーリは妙に冷静だった。
逃げるか?
冗談じゃない。みんなを守るために生きてきたのだ。
ナタリーが受け止めてくれるかも、アルルが相殺してくれるかも、そんなことはもう考えなかった。
最期に、二人の方へ振り返る。
二人とも、生きて。
「ユーリーーーーーーッッ!!」
アルルの悲痛な叫びが空へ響き渡った。
火球は狙いを外すことなくユーリに直撃し、轟音と爆煙を上げ爆発した。
アルルは視界を覆い尽くす黒い煙を見つめ、ひたすらに自分を叱咤した。わたしたちがいたからだ。こんなところにいたからだ。あんなのよけれたはずなのに。
わたしたちがいたからだわたしたちがいたからだわたしたちがいたからだ!
「……………………え?」
煙の中で声を上げ、当惑していたのはユーリだった。
たしかに直撃した、はずなのに、何ともない。
どうして?
煙が晴れてユーリの姿を見たビオムサルワが初めて驚いた表情を見せた。
「なっ! 直撃したはずよ!」
ユーリは不思議そうに手足を動かしてその感覚を確かめていた。左腕は変わらず痛いけれど、それはさっきの蹴りのせいだ。爆発はどうなった?
ビオムサルワを見上げて初めて気が付いた。自分の周りに白く光り輝く障壁が張ってあることに。
「絶対障壁。それはどんな攻撃も通すことはない」
ユーリの前に現れた銀髪の男、待ち焦がれたシャムセイル学院長である。
「おじいちゃん!」
「すまない。苦労かけたな」
いつも見せる柔和な笑みがユーリに安心感を与えた。シャムセイルはユーリに笑いかけたあと、ビオムサルワを見上げる。
「久しいな、サルワ。紅竜が現れたと聞いてまさかとは思ったが」
懐かしむように、宿敵に話すようにシャムセイルは言う。
「あらぁ。誰かと思えば、久しぶりね、シャムセイル。あの頃と何も変わらない、相変わらずの色男。あなた本当に人間?」
ビオムサルワはくつくつと笑みを浮かべながら言う。
「フッ、この姿を保つのには苦労している。ペットはどこだ?」
「あの子は今眠ってるわ。昨日遊んでたみたいでねぇ。それにここの殲滅くらいあたし一人で十分よ。それにしてもあなた、五十年前はそんな力は持っていなかったはずよ」
「私ではない。あの子だ」
シャムセイルはナタリーを指差して小さく笑った。
ビオムサルワは小さな驚きを見せ、にやりと口元を歪めた。
「へぇ。ここに一つ揃ってたなんてね」
「貴様の狙いはこれか」
シャムセイルは懐から小さな、黄色に輝くペンダントを取り出した。
「そうそう、それよそれ。渡してもらえないかしら」
「残念だが、貴様に渡すために封印を解いたわけではないのでな。貴様にはおとなしくしといてもらおう」
「冗談! あなた一人であたしの相手ができると思って?」
シャムセイルはどこに持っていたのか、長い鎖を取り出して素早くビオムサルワに投げつけた。不意をつかれたビオムサルワは鎖をよけきれずに受ける。それは自らの意思があるようにビオムサルワに絡みついていく。
「こんなもので」
ビオムサルワは鎖を引き千切ろうと力を込めるがそれは叶わなかった。動けば動くほどに鎖はよりきつくビオムサルワの体を縛り上げていく。
「な、なによこれ!」
「私が何の策もなくのこのこと姿を現すと思ったのか?」
シャムセイルは鎖の端を握ったままユーリのそばに寄り、先程見せたペンダントを手渡した。
「これをナタリーへ。ただ渡すだけでいい」
「え? でもそいつは」
「早くしてくれ。あれはいつまでも持つものじゃない」
よくよく見れば、シャムセイルの表情は決して涼しいものではなかった。シャムセイルも焦っていた。ユーリは自分にできることと思い、ペンダントを握り締めナタリーのもとへ急いだ。
地上に降り立つと、まず心配そうにアルルが走り寄ってきた。
「ユーリ! 大丈夫!?」
「アルル、あたしは大丈夫」
ではなかった。体中のあちこちが痛い。特に左腕は限界だ。しかし今はそんなことを気にしている場合ではない。これをナタリーに渡さないと。
「ナタリー、これ」
ユーリはペンダントをナタリーに渡す。折れてしまった左腕を悟られないように、右手でそっと渡した。気付かれたら、きっと先に治療をしようとするから。
そのナタリーは、どこか憔悴した様子でペンダントを受け取った。
「これは……?」
「わからないけど、おじいちゃんがナタリーに渡せって」
「どこか懐かしい輝きです」
そう言うのと同時、より一層の強い光がペンダントから放たれた。
「な、なに?」
「ど、どういうことになってるの? ねぇユーリ、これって?」
「あたしにもわからないのよ!」
ナタリーは慌てふためく二人を他所にペンダントをそっと自分の首にかけた。そして胸の前で握り締め、柔らかい笑みでその光を見つめる。
「わかります。流れ込んできます」
光が、収まった。
「な、ナタリー?」
「いきます」
アルルが心配そうに呼ぶが、ナタリーはそれに笑みだけで答え、ビオムサルワを見上げて右手をかざした。
「コロナ」
ナタリーは呟くように言った。
光。
それがナタリーの手から伸びた。一直線の光線だった。輝かしい、雲の切れ間から射すような光の線。天から地上に降り注がれる光そのものだった。
そして、光はそのままビオムサルワを貫いた。
「わあああぁぁああぁっ!! ぐわぎゃああぁあぁっ!!」
この世のものとは思えない悲痛な叫び声を上げるビオムサルワ。それが光線の威力を物語っていた。
光が消え、ビオムサルワの肢体から煙が上がる。光を失った瞳でぐったりと首が垂れ下がり、腕と足も力無く鎖の間から垂れ下がっていた。
「す、すごい力……」
呆気に取られるユーリとアルルだった。
手も足も出なかった悪魔をたった一撃で……。
「ナタリー。今のは?」
「光魔法。対悪魔には効果的な力です」
ナタリーは満足気な笑みを浮かべてユーリの問いに答えた。
「ま……ほう? 光? 意味わかんないけど、でもでも、どうして?」
「それは、このペンダントを手にすると自然に流れ込んできました」
詳しいことはわからない、ということだろう。
とにもかくにも安心した。どんな力であろうとも、ビオムサルワを退けることができた。
――死ななかった。
一番安堵の表情を浮かべていたのはユーリだった。
一度は死を覚悟した。いや、死んだと思った。火球の直撃の瞬間を見たから。でもナタリーが助けてくれた。光魔法とかいうのを使って命を救ってくれた。今回だけじゃない。今まで何度も助けてもらった。アルルだって心配してくれた。ナタリーを突き動かしてくれた。ソーマを運んでくれた。やっぱり、一人で戦うよりも三人がいいな。
ようやく、三人の顔に笑顔が戻った。
しかし、まだ終わらない。
「ガアアアアアァァアアアアッ!!」
咆哮とも呼べる叫び声に三人は空を見上げる。
「きっさまらぁアアア!! 許さんぞー!」
判断が遅れた。
「お前たち! 逃げろー!」
シャムセイルが叫んだのと同時、ビオムサルワからとてつもない霊力が放出され、鎖もろともシャムセイルを吹き飛ばした。そして間髪入れず、ビオムサルワは地上の三人に向けて熱線を放った。最初に見た熱線の雨が一点集中されたものだった。普通の障壁ではどうやっても防ぐことのできない、必殺の攻撃だった。
「みなさん後ろへ!」
ナタリーは瞬時に絶対障壁を展開させる。今思いつく、唯一対処できる障壁。どんな攻撃も通さない光魔法。
最強の矛と最強の盾の凌ぎ合いだった。
ご丁寧にもビオムサルワが使役する紅竜の時と同じ格好になった。またか、とナタリーは冷や汗をかいていた。
こうなってしまえばお互いの持つ体力と霊力に勝敗は関わってくる。
「はーっはっはっ! いつまで持つかしらねえ!」
元々、悪魔と人間では潜在的な力が絶対的に違う。このまま防戦一方では力尽きるのが目に見えていた。
「れ、霊力消費量が大き過ぎます。早く、なんとかしないと……!」
ぐぅ、歯を食いしばり耐えていたナタリーもついには崩れ、片膝をついてしまった。
傷は治せるけれど、体力は回復できるけれど、霊力を分け与えることなんてできない。ユーリは満身創痍だ。紅竜の時とは違いアルルの力では確実に押し返せない。
どうしようもできなかった。
「はーっはっはっはが!?」
ビオムサルワの頭で何かが小さく爆発した。ビオムサルワは衝撃が伝わった方を睨みつける。
そこにいたのは、震えながらも次々と火弾を放っている相馬だった。