精霊祭の舞台裏 Ⅰ
翌朝、早くにアルルは宿を出て行った。
向かった先はもちろんドグマキャリア学院だ。アドラス学院長を説得するため、そのための下準備といったところだろうか。ソフィアの手も借りて根回しをしておきたいと考えている。つまりはご機嫌を取っておきたいと思っているのだ。
宿で同室だったユーリとナタリーに見送られ、宿の外に出ると日の光が温かくアルルを迎えた。日の光を浴びるだけで力が沸いて出て来るようだった。
今日の服装は一応きちんとしたものにしておいた。さながら旅人のようだったポケットだらけのベストは脱ぎ、ユーリから借りた白いシャツを着た。そして昨日買ったユン・ドグマの伝統工芸品の髪飾りをつける。ばっちりだ。
「おはようございます」
宿の先で洗濯物を抱えた女性に会い挨拶を交わした。笑顔もばっちりのはずだ。
「よし」
準備は万端。気は引き締まっている。アドラス学院長に会えるかはわからない。会えれば運が良いと思って行こう。追い返されることも覚悟はしている。
泊まっていた宿からドグマキャリア学院までは坂と階段を合わせて五つ登る。階段も段差が一段一段均等ではないために歩くだけでも骨が折れる。近くの住人は慣れた様子だが、よく見て歩かないと転んでしまいそうだった。
そして最後の階段。これを登り切ってしまえば学院内部の校庭に出るというところでアルルは立ち止まった。
立ち止まった先に、アルルを待っていたように階段に腰掛けている人物がいた。
「よう」
アドルフだった。気だるそうに片手をあげ、小さく笑った。
アルルは怪訝そうにアドルフを見やる。昨日頬をはたいて以来だから多少気まずい。それよりもどうしてこんなところにいるのだ。
「何してるの? 昨夜は戻って来なかったみたいだし」
「およ、もしかして心配してくれちゃったのかい? なあに、オレもここに来るのは数年ぶりだったんでね、ちょっくら街を見て回ってたのさ。懐かしい顔にも会えたしな」
「ふーん。で、そこで何をしてるの?」
「おたくが来るのを待ってたんだよ」
言って、アドルフは立ち上がった。欠伸を一つして、涙目でこちらを見る。
「行こうぜ」
そして我先にと階段を上がり始めた。
「ちょ、ちょっと待って!」
慌てて引き止めた。何を言っているのかよく理解できていない。行こうぜとは、一緒に行くと言っているのか。何を馬鹿なことを。
「え、えっと、もしかしてだけど、一緒に行こうとしてるのかな?」
「おう、さっさと行こうぜ」
「えーっ……」
昨日あれだけもめたばかりなのに。
アルルはしばし頭に手を当てて悩んだ。明らかに嫌そうな顔をして悩んだ。見てわかってくれと言わんばかりに嫌な顔をして悩んだ。悩んだ末に。
「やだ」
やはり直接言った方がいいと思って言ってやった。
そもそも何を思って一緒に行く気になどなったのか。トラブルの元を連れていくなどまっぴらごめんだった。
アルルは一言言い放ちそのままアドルフの横を通り過ぎようとして、
「まあ待てよ」
つかまった。
「もうっ! なんなの? 邪魔しないでよ!」
「邪魔なんかするわけないだろ。連れてけよ。きっと役に立つぜ」
「やだやだ。絶対イヤ。役に立つわけないじゃん。疫病神だよ」
「じゃあこう言ってやろう。オレを連れて行けばジジイに会えるぜ」
「うっ……嘘だね」
微妙に反応してしまったことが悔しかった。アドルフがにやりと笑ったことが悔しさに拍車をかけた。こういう駆け引きは苦手なのだ。だからアドラス学院長を説得するにしても、自分の気持ちを素直に真っすぐに伝えることしかできない。
「嘘じゃねえさ。おたくはソフィア嬢に会いに来たんだろう? ならジジイにも会える。オレを連れてけばな」
こう何でも言い切ってしまえるところはすごいと思う。それにアドルフは何の根拠もなくこういうことを言う男ではないことはわかってきていた。しかしさすがにアドルフがいるからという理由でアドラス学院長に会えるとは考えにくいものだが。
アルルは品定めでもするかのようにアドルフの周りをぐるぐると回りながら眺めてみた。特に意味はない。アドルフは気にする様子も見せず自信に満ちた顔でアルルの返事を待っている。
「何がしたいの?」
回りながら聞く。懸念材料などいくらでもある。
「オレもお仲間ってやつのために一肌脱ごうってだけだよ。昨日の詫びって意味でもな」
そこでアルルの足は止まった。
詫び。
「……本当に悪かったと思ってるの?」
昨日の話しをぶり返したくはなかったのだが、どうしても聞いておきたかった。アドルフに、盗人だった男の口から詫びるなど、信用に値する言葉だろうか。
「きつーい一発で目が覚めたってやつ」
思わず右手を握り締めた。頬を打った時の熱が甦ったようだった。
「今度はあんなものじゃ済まさないかも」
「そうならないように、ちったぁ信用してもらえるように名誉挽回しとかなきゃな」
「どんな名誉があるっていうのさ」
「紳士だよ紳士。素敵なおじさま目指してっから」
「紳士なんて正反対じゃん。夢のお話しじゃん」
「ははっ、ひっでえなあ」
思わず少し笑ってしまった。自分で気が付いてすぐに頬を引き締める。まだ許したわけではないのだ。
「アドラス学院長と喧嘩しない?」
「ああ、もちろんだ」
「さらっと言えるところが怪しい」
「大丈夫だって」
「ユーリとも喧嘩しない?」
「しないしない」
「ソーマくんに怪我させない?」
「関係ねえだろ今」
「じゃあ……」
「おいおいもういいだろアルル。仲間には迷惑かけねえよ。それにアンバーを手に入れることを邪魔する理由なんざオレにはねえよ」
そう言われるとそうだ。また話しをこじらせてアドルフに利益があるとはアルルは思えなかった。だが逆もまた、こちらを手伝ってアドルフに何か利益があるとも思えなかった。本当に詫びる気持ちというだけで動いてくれているのならいいのだけれど。
そう思ってアルルは少し仕掛けてみた。アドルフの本気を確かめにかかったのだ。
「わかったよ。一緒に行こう」
「ようやくかよ。んじゃさっさと――」
「最後に一つだけ」
しつこいアルルにアドルフは諦めたかのように溜息をついて首を振った。
「ユーリに少しお金を返してあげて。雇い主様に手を出そうとしたことは契約違反でしょ? 用心棒さん。あれ、便利屋さんだっけ」
「んな契約交わした覚えはねえ」
「んん~?」
「……チッ、わかったよ、わかりました。少しだけだからな」
「わーい! ありがとう。約束だからね」
満面の笑みのアルルとは対照的にアドルフはわしゃわしゃと自分の頭をかきむしっていた。こんな小娘にいいように扱われているのが気に食わなかったのかもしれない。しかしこれでアドルフは本気だということがわかった。案外、この男は仲間というのを大事にするのかもしれない。少なくともこれからは、そういう目でアドルフのことを見られるとアルルは思った。
そして二人はドグマキャリア学院へ向けて最後の階段を上る。
階段を上った先にある校庭では、朝早くから生徒たちが忙しそうに精霊祭のための準備を行っていた。校庭にも学院にもさまざまな飾りつけがされようとしている。
「華やかだなぁ」
アルルは感嘆の溜息とともに呟いた。
「そりゃあドグマ大陸全土から人が集まるからな。別に何もおもしろいことがあるわけじゃねえってのに」
「それだけみんな神聖な式典を大事にしてるってことでしょ。アドルフさんは本当にひねくれてるよね」
アドルフは面白くなさそうに鼻で笑う。アドルフのことをこう言うアルル本人も、精霊祭にさほど興味があるわけではないのだが。アルルは信仰心は持ち合わせていなかった。ただ信仰自体を否定もしないし肯定もしないだけだ。何か信じられるものがあることはいいことだと思うから。
準備に追われる生徒たちを横目に、アルルとアドルフは学院の正門前にやってきた。そして昨日と同じように、呼び鐘を鳴らす。
精霊祭の準備で忙しいのかすぐに返事はなく、もう一度鐘を鳴らすと慌ただしい反応があった。
『は、はいお待たせしました! こちらはドグマキャリア学院です』
声を聞く限りどうやら応答したのはソフィアらしいのだが、一応アルルは確認する。
「えーっと、シャムセイル学院のアルケニア・ノーブル・ルルーブラントといいます。ソフィアさんはいらっしゃいますか?」
『アルケ……あー、アルルちゃん? ちょっと待っててね』
やはりソフィアだった。正解だ。ちょっとうれしい。
通信が終わり、学院の正門が開かれる。
正門をくぐり見た先には、ソフィアが走ってくる姿が見えた。精霊祭の準備で本当に忙しいのだろう。それならそれでもっと前もって準備すればいいのにと思うアルルだった。
息を切らしながら必死で走ってくるソフィアだったが、こちらの姿を確認して急に立ち止まった。そして後ろを向いて、何やら忙しなく服や髪をいじり始めた。そしてこちらを向いたかと思えば、必死で走っていた様子とは打って変わり、規律よく歩いてくる。表情もどこか引き締まっていた。
アルルは訝しくソフィアを見ていたが、どうやらソフィアの視線はアドルフの方に向けられているようだった。不安が的中した。やはり連れてくるべきではなかった。ソフィアの視線は厳しく、おそらくは昨日の事件のことでアドルフを警戒しているのだ。
「どういうご用件でしょうか」
呼び出したのはアルルだったのだが、ソフィアはアドルフに向けて口を開いた。
「これはソフィアさん。本日もまた一段と見目麗しく」
爽やかな笑顔を見せそう言ったのはもちろんアドルフだ。ソフィアはその笑顔とこの一言で、落ちた。
「や、やだ。相変わらずお上手ですね」
「いえ、これほどのこと、ソフィアさんなら言われ慣れていることでしょう」
「も、もうっ。本気にしちゃいますよっ」
「はっはっはっ」
なんだかなあ。アルルは自分のことなどまるで目に入っていないソフィアと気持ち悪い笑顔を見せるアドルフを交互に見ていた。自己アピールのつもりだったのだがソフィアはこちらのことなど忘れてしまっているようにも思えた。
「こほんっ」
わざとだ。もちろんわざと咳払いした。
「あっ、ご、ごめんねアルルちゃん。えーっと、なんだったっけ?」
ようやく気付いてくれてた。それでもソフィアはアドルフのことが気になるのか、顔を赤らめながらアドルフの方をちらちらと見ている。アルルは嘆息する。アドルフなんかのどこがいいのだ。見た目はたしかに悪くはないかもしれないが性格があれだ。本性を暴露してやろうか。
「あの、昨日はすいませんでした」
だがアドルフの本性を暴露するのはうまくいってからにしよう。いまやアドルフのおかげでソフィアの機嫌は上々だ。
「あ、昨日のね。何があったのって、聞いてもいいのかな?」
そう言われて思わずアドルフに目を向けるアルルだった。こいつのせいだとは今は言えない。言わない方がいい。ソフィアを騙しているようで申し訳ないが、今はまだ話せない。
「言えないのなら、無理には聞かないよ。でも、アドラス学院長相当怒ってたから、気にならないっていえば嘘になるかな」
「ごめんなさい」
素直に謝るしかなかった。あの後のソフィアのことを考えれば大変だっただろう。
「やっぱり、まだ怒ってますよね?」
「うーん、昨日のことは言わないけれど、まだ怒ってるかな。でも精霊祭のことがあって、今はそっちの方で忙しいから」
「そうですよね……」
やはり、今会うのは難しそうだ。アンバーの話しまでとはいかずとも、せめて一言でも謝ることができれば次に会いやすくなるのだが。
「会えません、よね?」
一応、聞いておくことにした。
「あ、あはは、アドラス学院長に? 無理、だろうねえ」
引きつった笑みで答えられた。ソフィアも気苦労が多いようだ。
ここまで来たが、仕方がない。アドラス学院長に対してソフィアですらこの様子なのだ。ここで無理を押し通して門前払いを食らう羽目になっても困る。今日のところはおとなしく引き下がるしかないだろう。
そう思ったところで、動いたのはアドルフだった。
「ソフィアさん」
アドルフはソフィアに近づき、その手を両手で握りしめた。
「えっ、ひゃっ!? あ、あの、アドルフひゃん!?」
そしてアドルフは顔を寄せ、ソフィアの目を見つめる。ソフィアは目を回してでもいるかのように気が動転しているようだった。
「どうか、僕のお願いを聞いていただけないでしょうか」
「お、お願い?」
「ええ。ぜひともアドラス学院長に会って、昨日のことを謝罪したいのです。頼めるのはあなたしかいません。何かあった場合の責任はもちろん僕が取ります。そして、あなたの身に何かあった場合の責任も、ね」
「えっ、せ、へ、へきにんっへ!?」
もはやソフィアはろれつも回っていない。アルルはただただ、うわぁ、と思うしかできなかった。
「男が女性のために取る責任なんて、決まっているでしょう?」
「ひゃあああああああっ!?」
ついにソフィアは頭を抱えてうずくまってしまった。それほど衝撃的だったのか、自分の立場を考えて葛藤しているのかアルルにはわからなかった。ただ動揺しまくっているだけにも見えるけれど。
しばらくうんうん唸っているソフィアを眺めていると、そのソフィアは急に立ち上がり、
「ご案内します」
そう言った。
どうやら、アドラス学院長に会えるということらしい。アドルフを見やると、片目をパチリと合図してきた。自分を連れていけばと、なるほどこういうことだったらしい。
うまくはいったけれど、どうにも納得できない自分がいた。恋愛ごとに憧れがあるから、こういう手法はやはり気が重い。そしてアドルフの丸め込み方がうまいことが気に入らなかった。女の敵だ。
「アドルフせんせ。ちゃんと責任取ってあげてよね」
だから言ってやった。
「もちろんさ」
また気持ち悪い笑顔を向けられた。
しかし、このあとにアルルはほくそ笑むことになる。
アドルフには誤算があった。あれほどの反応を見せたソフィアだったが、それ以上にソフィアが女だったのだ。
学院長室までソフィアが案内しているのだが、その間ソフィアは常にアドルフに寄り添っていた。アルルはその後ろをにししと笑いながらついて行った。その間、ソフィアは新居はあそこに建てたいやら、子供は最初いらない愛が欲しいやら、家具はあれが必要であれが必要ないやら、食事の好みやら、新婚旅行の行き先やら、そういうことを幸せそうに楽しそうに話していたのだ。初めは快く返事をしながら話していたアドルフも、学院長室に着く頃には一気に老け込んだように見えた。
アルルはいい気味だと思いつつ、目の前に現れた学院長室の扉に息を飲む。
「着きましたよ。あなた」
「あ、ありがとうございました。必ず何事もないように終わらせます……」
ぜひどうにでもしちゃってください、という言葉を残して、ソフィアは精霊祭の準備があると行ってしまった。
「ねえ、いいの?」
「あそこまで飢えてるとは思わなかったぜ。責任は金で済ませるつもりだったんだが、金だけじゃ済みそうにねえ」
一発殴ってやった。女心を弄ぶのも大概にしろ。
ともあれ、無事に学院長室にたどり着くことができた。できるならばアンバーのことまで話したいけれど、そこはアドラス学院長の様子を見てからにしようと決めた。まずは昨日の不手際を謝ることから。誠意を見せることから。
そして、アルルは学院長室の扉をノック――しようとしたらアドルフがノックもせずに突入した。声を出す間もなかった。
「ちょっと!」
遅れて止めに入るがすでに遅かった。中には鋭い視線を向けるアドラス学院長とアドルフがすでに対峙していた。
アルルは身動きが取れなくなってしまう。ここまで来たのに、せっかくここまで来たのにまた昨日の二の舞なのか。絶望にも似た喪失感がアルルを支配していった。
そしてアルルは驚くことになる。予想だにしていなかったことだった。いい意味で、予想を裏切られた。
交わす言葉こそなかったものの、アドルフが頭を下げたのだ。
「あっ」
遅れてアルルも横に並び、アドルフと同じように頭を下げた。
「き、昨日はすみませんでした!」
ついでに謝罪の言葉を付け加えた。
何も反応はなかった。聞く耳持たずということだろうか。それとも自分たちに向けられる言葉はもうないということだろうか。
極度の緊張の中、頭を上げようか上げるまいか迷って、恐る恐る頭を上げた。
「ひっ」
上げなければよかった。アドラス学院長はいまだ鋭く睨み付けていた。その威圧感だけで気を失ってしまいそうだった。
体が強張る。直立不動の姿勢になり、小さく震えて、目線はいまだ頭を下げ続けているアドルフとアドラス学院長を行ったり来たりしている。
もうすでにどうしていいのかわからなくなってしまった。
「幻魔法の継承者よ」
「は、はいっ!」
声をかけられて心臓が口から飛び出しそうだったが、同時に少しほっとした。
「うぬも頭を上げい」
それに答えてアドルフは無言で姿勢を正した。
「たしかアルケニアという名だったか」
「は、はい! アルケニア・ノーブル・ルルーブラントです!」
「そなたと他の二人の事情は把握しておる。フラティの血筋の者じゃな」
「えっと、そう、らしいです。わたしがあの英雄の血を引いているなんて思ってもいませんでした」
「ウィズ・フラティは好奇心旺盛な若者じゃった。誰とでも分け隔てなく接して、三人の中ではもっとも人懐っこかったの」
「はあ……?」
「さて、おぬしは魔法のことをどれだけ知っているのじゃ?」
「え、えっと、詳しくは、知りません……。ただすごい力だってことくらいしか……」
アルルも、ユーリでさえ、ナタリーが光魔法を使うまでは魔法の力のことを知らなかったのだ。かつての英雄が使った力が魔法だったということもビオムサルワの一件以来に初めて知った。英雄が、何か特別な力を持っていたことくらいは知っていたのだが。
「すごい力か。その通りじゃ」
「…………」
「魔法とは、大気中に充満している精霊力を使わない力。特殊な術式を用いた力じゃ」
「魔法の力についてご存じなんですね」
「なに、昔聞いたことがあるだけじゃよ。仕組みを説明されたがさっぱりわからんかった」
「アドラス学院長ほどの方が……」
「やつらは〝見つけた〟と言っておった。今では英雄と呼ばれておる三人ではあるが、元はただの考古学者じゃ。冒険家と呼んだ方が正しいのかもしれんがの」
「そ、そうだったんですか」
「魔法はどれも古の力じゃ。使えない者にとっては謎の力、未知なる力なんじゃよ」
「…………」
「その中でも、おぬしが、おぬしの血が継承している幻魔法は、もっとも危険な力じゃ」
「えっ……」
体の熱が冷めていくのがわかった。
「そ、それはどういう……?」
「幻魔法という名はウィズ・フラティが名づけた。アルケニアよ、この世にある世界はジーナだけではないことは知っておろう?」
「はい。悪魔がいる魔界に、あと、幻界と、それと……」
そこまで言って、相馬が来た地球のことは伏せておこうと口を噤んだ。そして、自分が言った言葉であることに気が付いた。
「そうじゃ。幻魔法とは幻界に住まうものの力を借り得て使役する力なのじゃ」
「え、えっと、よくわかりません。幻界に住むものって、なんなんですか?」
「わしも詳しくはわからぬ。ウィズ・フラティは神獣などと言っておったが。なんでも、幻界への扉を開いて彼らの力をその身に憑依させるのじゃと」
「……そ、それが、危険な力なんですか?」
「それだけならば素晴らしい力じゃよ。じゃがの、わかるか? その力を使うには、幻界への扉を開く必要があるということじゃ。つまりは、世界の境界線をまたぐということなのじゃよ」
「あっ……」
アルルは危険だという意味を理解した。依然ならば言われても気付かなかったかもしれないが、いまならばわかる。悪魔、ビオムサルワと一度対峙してしまっていたからだ。境界線を越える力、それがあるから幻魔法が危険なのだ。
「そしてもう一つ、一度だけじゃが、わしはウィズ・フラティをこの手にかけようとしたことがあるのじゃ」
次々に驚く内容が飛び出してきて、もはや言葉も出なかった。
「かつてウィズ・フラティが幻魔法の力を使ったとき、暴走したことがあっての。憑依した力を制御できずに村ひとつを消し去ったのじゃ。幸い、異変に気が付いてすぐに村人は避難させたからの、人に被害は及ばなかったが。ビオムサルワが赤子に思えるくらいに強大な力じゃったわい。今でもよく覚えておる。古の魔道士、ライネル・ゲイシュハルトとわしで奴を抑え込んだ後、奴は『間違えちゃった』などと快活に笑っておったわ」
アルルは生唾を一つ飲み込む。アドラスは鼻で笑っていたが、とても笑い話には聞こえなかった。全然手に負えなかったビオムサルワがちっぽけな存在に思えるほどに、幻魔法の力は恐ろしく強大なものなのだから。
急激に自分の中に恐怖が蔓延していくのを感じた。ただ単純に、幻魔法に対しての恐怖だった。
「一歩間違えれば、世界を滅ぼしかねない力なのじゃ。わかるな、アルケニアよ」
それが、アドラス学院長の答えだった。アルルがこの場にやってきた意味は言わずとも理解されていたのだ。
「あっ……はい……」
返す言葉は見つからなかった。
そんな力だとわかって、それでもただ力が欲しいというだけの理由で封印を解いて欲しいなどとは言えなかった。幻魔法の力を使うことに対する責任も今のアルルは持ち合わせていなかった。
自分が暴走したら、と考えてしまう。
ユーリたちや、それ以外の民間人にも迷惑をかけてしまうかもしれない。もしかしたら自分が人類の敵になってしまうかもしれない。そんな恐ろしい思いに駆られていた。
「アドルフ」
「…………」
アルルは涙目になりながら、声をかけられたアドルフを見上げる。アドルフは無表情でアドラスを見据えていた。
「一つうぬに詫びよう。魔法は精霊術を凌駕する力じゃ。わしらでは対抗できまい」
駄目押しの一言だった。アドルフに向けて言ったものの、これはそのままアルルへの言葉だった。
危険で強大な力だということを念を押された形だった。対抗という言葉がさらに危険さに拍車をかけた。
アドルフは、何も答えず小さく会釈した。
「あ……ありがとう、ございました」
そして、アルルとアドルフは学院長室をあとにした。
アルルは肩を落として廊下を歩いていた。アドルフはそのあとを無言でつけている。
落ち込んでいるのはアンバーの封印を解いてもらえないからではなかった。幻魔法がどんな力なのかを知って、その力の前に、打ちひしがれていたのだ。
とてもではないが、自分に使いこなせる力だとは思えなかった。
また、みんなの役に立てないんだ。
そう思うと、涙があふれてきた。
足が止まり、背中にアドルフがぶつかる。
「おっと……」
アルルは泣き顔を見られまいとうつむいた。
「アドルフさん、ごめんね。せっかくアドラス学院長に会えたのに。でも何も言わないで聞いてくれててありがとう」
「あー、もう余計な口出しはしねえよ。むかついてはいたがな」
「励ますくらいは、してくれていいよ」
「ははは、じゃあまあ、元気だしなよ」
出るはずもない。これからどうすればいいのか。みんなに何と言えばいいのか。何もわからなかった。みんなに合わせる顔がなかった。
力が必要なことはわかっているけれど、それでも、怖い。
なによりも、みんなに迷惑をかけてしまうかもしれないことが怖かった。
「ごめんね、みんな」
もう自分には、アンバーを手にする勇気が、ない。
「何を謝ってんだよ」
「…………」
「おたくはまだ何も悪いことはしちゃいねえだろ」
我慢できずにアドルフの方を振り返る。涙が流れていることもお構いなかった。
「だ、だってわたしには! もう魔法を使うことなんて……ッ!」
悔しさがあった。魔法の力の恐怖に負けてしまっていたことの。
「だから、おたくはまだ何もしちゃいない。謝るのは、あいつらに迷惑をかけてしまったあとでいいだろうが。まあもしものときはオレが止めてやるよ。オレさまが一番つええしな」
「えっ……?」
「あんだよその顔は。そんときのことを謝ってたんじゃないのかよ」
「あっ……」
この男は、幻魔法を使って暴走したときのことを言っている。謝るならそのときに謝れと。まだ何も始まっていないと。
暴走すること前提というのが少し悔しかったが、
「そ、そのときは、よろしく頼むね」
鼻水を、ズズッとすすった。
簡単に諦めてどうするんだ。
ウィズ・フラティがそうだったように、自分にだって仲間がいる。
「まあ実際に間違えちゃったで村一つつぶされちゃたまらんがねえ」
「あはっ」
覚悟が足りなかったのかもしれない。
力を手にすることの、覚悟と、責任だ。
「そのときはさ」
アルルは、そっとアドルフの腰にかけてある剣に手を触れた。
「わたしを殺してでも止めてね」
にっこりと笑ってそう言った。