霊剣士 Ⅰ
相馬は物陰から二人の男の様子を窺っていた。
宵闇に紛れながら、少しずつ距離を縮めていく。手には汗が滲み、呼吸も荒い。少しでも物音を立てようものなら気付かれてしまう。それほどに辺りは静まりかえっていて、人通りもない。やはり酒場の方に人は集まっているのだろう。
おかしい。
これはさすがに相馬でも思うことだった。ユーリの財布を盗んだであろう男と馬車を走らせていた御者が共にいるのだ。随分と前に馬車を降りた男が街にいて、それも男を乗せていた御者と話しをしている。
相馬はその会話をどうにか聞こうと距離を詰めようとしていた。二人の会話は談笑と呼べるものではなく、どう耳を澄ましてもここまで聞こえない。あと一つ建物の影を進めれば聞こえそうなものなのだが。
相馬の印象としては、よからぬ企み事を相談しているものとしか見えなかった。どうやら親密な関係に見える。ユーリの財布を奪ったであろう犯人が目の前にいるのだから、もちろん取り押さえるのが一番だ。それで事は万事解決。丸く収まる。大変だったと笑いながら夕食をいただける。
ただ、目の前の男が財布を奪ったと断定できない。もしかしたらユーリの勘違いかもしれない。この事態は相馬にとって全くの想定外なのだ。御者を探すだけのつもりだったから。
宿に戻れば三人が帰って来てるかもしれない。しかし戻れば目の前の男の行方がわからなくなってしまうかもしれない。ゆえに相馬はその場から離れることができなかった。このまま待っていれば帰りが遅いと心配して来てくれるだろう、そんなことを考えていた。本人を見つけたのだから、見失わないようにさえすればいい。
しかしやはり会話の内容が気になる。相馬は悪戯心が働き、建物の角を一つ曲がった。緊張から激しく脈打つ。しかしそれに負けないほどの好奇心もあった。少しだけ、この状況に心躍る。
相馬はさらに壁伝いに歩き、なんとか会話が聞こえる距離まで近づくことができた。息を整えて、二人の会話に耳を済ませる。
「オレは先に行ってっから。お前さんはまた気張って客乗せて来なよ」
「ああ。今日みてえな上玉が乗っかってくりゃ随分儲けなんだがよ」
「言っとくが、中身がからっきしだろうと報酬はいただくからな」
「へっへ、わかってるさ。あんたの腕は信頼してっから。いつも儲けさせてもらってるよ」
「ならいい。精々気張りなよ」
「へいへい。しっかしあんたも悪いのかお人好しかわかんねえな。金取ったらそのままとんずらすりゃいいのによ」
「……オレのは仕事だ。依頼主がいて、オレが依頼をこなす。それだけだ」
「知ってっか? そいつぁ共犯って言うんだよ」
「…………」
「おーおー怖い顔しなさんな。もう何も言わねえよ。こっちは仕事さえしてくれりゃ金は払う。そんだけな」
「それでいいさ」
二人の男はここで話しを打ち切って、御者の方は宿に入って行った。
相馬は息が詰まる思いで二人の会話に聞き入っていた。今すぐにこの緊張を解いてしまいたい。思いっきり息を吐きたい。心臓は全身に響くように激しく脈打っていた。
はっきりしたことは一つ。やはりこの目の前の男がユーリの財布を奪ったのだ。しかも御者と手を組んでの犯行だった。
相馬は一つ息を飲み、改めて物陰から男の様子を窺う。男はまだその場に留まっているようだ。絶対に見失わうわけにはいかない。財布が今どちらの男の手にあるかわからないが、御者は宿にいる。だからあとは目の前の男の行方さえ見失わなければいい。
相馬の右手には自然と力が入る。その手にはナイフの柄が握られていた。これではどちらが泥棒かわからない。今の相馬はまるで得物を狙う盗賊そのものに見えてしまっている。
そう、見えてしまっているのだ。
「……ったくよぉ、犯人と被害者が同じ街で夜を過ごすってのはどうなんだよ」
その呟きの意味を理解したあとでは遅かった。
一瞬で男の姿を見失ってしまった相馬は、いつの間にか地に伏せていた。自分の頬に押し付けられているのは男の手。そして地面の冷たい感覚が頬に伝わっていた。
「あ?」
「よぅ、盗み聞きとは趣味が悪いな坊や。ま、盗人のオレが言う事じゃないがね」
相馬はここでようやく自分が地面に押し付けられているのだと気が付いた。そして、身動きが取れないように腕も背中で押さえつけられていた。
「いつっ!?」
「おっと、おとなしくするんだな坊や。叫び声一つでも上げりゃ腕の一本じゃ済まなくなるぜ」
相馬の顔を押さえる手に力が込められ、さらに相馬の顔が地面に押し付けられる。
「は、離しやがれ……ッ!」
「はいそうですかと離すわけねーだろ。ましかし、このまま坊やがおとなしくお嬢ちゃんたちのとこに戻るってんなら解放してやんよ。オレはその間にとんずらする。どうだ、わかったか?」
「ふ……ざけんな。盗ったもん、返せ」
男は乱暴に相馬の腕を締め上げる。
「がっ――」
「おっと、叫ぶなよ」
男は相馬の口を塞ぎ、力任せに相馬の顔を地面にこすり付けた。
「オレにはいたぶる趣味なんてないんだよ。殺るときゃスパっと殺っちまうからさ。坊やもそっちの方がいいってのかい? おとなしくすりゃ帰してやるって言ってんだ。黙って従いなよ」
「…………」
相馬は諦めたように体の力を抜いた。それに安堵の表情を浮かべたのは上に乗りかかる男だった。
「よーし。聞き分けの良い奴は嫌いじゃないぜ」
抵抗する気がなくなったわけではない。相馬は地面にひれ伏せている中で意識を集中させていた。
相馬が今唯一使える精霊術、それは手から火の玉を飛ばす火弾だ。そしてその発射口である右手は男にキメられている。
ただ、感覚ではその手の平は男の方を向いているのだ。
相馬は虹を見る。目の前で揺らぐ四色の虹だ。その中から赤い帯を手繰り寄せるようにイメージする。それをさきほどから意識していた自分の霊力と混ぜ合わせ、掴まれていた右腕の手の平から一気に放出した。
自身への多少の巻き添えは覚悟していた。傷ならあとでナタリーに治療してもらえばいい。そんなことよりもこの男をどうにかすることが優先だった。
精霊術は成功したはずだった。放った感覚があった。しかし背中への衝撃はなく、代わりに背中にかかっていた重量感がなくなった。
相馬は飛び起き、辺りを見回す。
「がっ!?」
それと同時に頬に強い衝撃を受けた。一瞬意識が途絶え、二度三度てんてんと地面を転がる。慌てて体を起こして膝をつくと、頬には激しい痛みが襲ってきた。その後に、自分が殴り飛ばされたことに気付いた。
「くっそっ! いってぇっ!」
頬を押さえながらやっとのことで立ち上がると、男は悠々とこちらを見据えていた。
「坊や、精霊術師だったんだな。しかしまあ、どうやら新米のようだ。どうせ使うなら気配は消しな。それに危ねえんだぜ、あんな至近距離で精霊術なんて使っちゃあよ」
「ちっくしょ……ッ!」
相馬は再び男に向けて火弾を放った。しかし頭に血が上り冷静さを欠いた相馬のそれは、男に最小限の動きで楽々とかわされる。間髪を入れず相馬は次々と火弾を放つ。しかしそれも全てかわされてしまった。そして肩で息をする相馬を見て男は鼻で笑う。
「はっ。おいおい、それしか使えないのかい坊や。ダメダメだな。よくそんなんで旅のお供が務まるもんだよなあ」
相馬は唇を噛み、鋭く男を睨みつける。そしてゆっくりと、腰の方に手を回していく。火弾が通用しないとすれば、相馬に残された武器はオイゲンで買ったナイフだけだった。
「えっ?」
そこにはあるはずのナイフがなかった。直接目で見ても、鞘はあってもナイフが消えていた。
「探しものはこれかい?」
男がうすら笑いを浮かべてナイフをちらつかせる。それは間違いなく相馬が持っていたナイフだった。動きを封じられているときに奪い取られていたのだ。
万事休すだった。もとよりあんなナイフでどうにかなるとは思ってはいなかったが牽制くらいにはなる。刃物を持っていれば迂闊に手は出せないはずだったのに。
「ほらよ」
男はナイフを相馬に投げ返した。そのナイフは相馬の足元に落ちる。相馬は一瞬、呆気に取られるが、すぐにそれを拾い上げて男に向けた。精霊術を使うよりもこっちの方が緊張する。今さらながら麻痺していた緊張が襲ってきた。
「来るなら来な。ただ、そのつもりならオレも抜くぜ」
男は自分の腰の得物に手をかける。相馬の持つナイフとは比べものにならない代物だ。人の命くらい容易く奪い去ってしまうだろう。
普段の相馬ならお手上げ、降参するところだった。ただ、今は一人だ。自分がこの男を逃してしまうとおそらくもう二度と見つけ出すことなんてできない。
誓ったのだ。
あの三人を守ると。
それはこの旅を守ると言っても過言ではない。そのためには男が盗んだ手紙が必要なのだ。今逃げ出すわけにはいかない。
そう思えば覚悟は一瞬で決まった。
「うおおおおおおっ!!」
相馬はナイフの切っ先を男に向けて突進した。何の策もない。ただの特攻だ。
「チッ。あほうが」
男は小さく舌打ちして、剣の柄に手をかけたまま腰を沈めた。
その時、空から声が聞こえた。
「バカーーーーッ!!」
辺りに風が巻き起こり、突風によって相馬は吹き飛ばされた。
相馬は吹き飛ばされながら思う。この風は身に覚えがある。何度も吹き飛ばされた風だ。遠慮というものを知って欲しい。
遅いんだよ。
「ぎゃっ!」
相馬はそのまま建物の壁にぺしゃりと張り付くような形で激突した。ナイフはすでに風で飛ばされてしまった。痛い。殴られたときよりよっぽど痛い。
「あんた! バッカじゃないの!? 時間稼ぐんならもっとマシな方法で稼ぎなさいよね! あんた死ぬとこだったわよ!」
相馬の目の前にふわりと降り立つ、ユーリ。いつ見ても風になびく金髪は美しかった。
また助けられた。これで何度目かわからない。しかしユーリの風は嫌がらせのように相馬を建物の壁に貼り付けている。息ができない。死にそう。助けられたあとはいつも殺されそうになる。
「ぐっ、ぐる……ッ! ぐるじ……っ!」
相馬は窒息しかけていた。そろそろやめてもらわないと本当に死ぬ。
しかしユーリの厳しい視線はすでに盗人の男に向けられていた。もはや相馬のことなど眼中に入っていない。長く追い求めていた仇を見るような目をして薄く笑い男を睨みつけている。
「ちょっ……マジ、で……ッ!」
しかしユーリは気付かない。あげくにはそのまま男に向けて話し始めた。
「そういえば行き先は言ってなかったわね、間抜けな泥棒さん。よりによってあたしたちがいる街に来るなんてね。そのまま海を渡って逃げるつもりだったのかしら?」
「オレのミスじゃないさ」
男は鼻で小さく笑う。ユーリが現れたことにも動揺はなく、余裕の笑みだった。
「相棒はどこ? そいつもあとで懲らしめなきゃいけないのよ」
「おー怖い怖い。しかしお嬢ちゃん、それじゃまるでこのオレを先に懲らしめるような言い方だな」
「当然でしょ。このあたしから盗みを働いたこと、後悔させてあげるわ」
ユーリは霊力を練り始める。それによって相馬に当てられていた風の威力も強まった。
相馬はすでに意識朦朧としていた。骨まで軋んでいる。ついには仲間に殺されるという最悪な結末を覚悟したとき、救いの手は思ってもよらぬところからやってきた。
男が構え、ユーリが精霊術を放とうとした時、相馬の目の前で突如爆発が巻き起こった。それはユーリの風を打ち消し、ようやく相馬を風の呪縛から解放した。
ユーリもさすがにこれは無視できなかったようで、何事かと辺りを見回す。すると街の奥から駆けて来る人影があった。
「ユーリ! いっつもいつもやり過ぎだってば!」
相馬の命を救ったのはアルルだった。アルルは倒れ込んだ相馬に駆け寄り、その身を抱き起こした。相馬は息を荒く吐き、目の前の天使を涙目で見つめる。
「た、助かった……。アルル、本当に、本当にありがとう!!」
「あ、あはは……」
相馬は涙と鼻水を垂れ流しながら感謝した。アルルはそれを見て少し腰が引けていた。
「あ、あれ?」
その二人を見てようやく状況を理解したユーリだった。
「あ……」
相馬は何も言わず、黙ってユーリを睨みつけた。助けてもらったことは事実だが殺されかけたことも事実、よって帳消しだ。怒りたくもあるが、ユーリにも感謝せねばなるまい。しかし腹立たしい。かなり苦しかった。
「ユーリ、頭に血が上り過ぎ。いつものユーリらしくないよ。手紙のことで焦ってるのはわかるけど」
アルルが窘める。ユーリはいたずらでやり過ぎることがあるが、ここまで周りの状況が見えていないことは珍しい。
「こ、こいつが馬鹿みたいに突っ込んでいくところだったから、あ、焦っちゃってたのよ! ……わ、悪かったわ、ソーマ」
相馬もアルルも呆然として頬を赤く染めるユーリを見た。ユーリが素直に謝ったのだ。そしてアルルはにんまりと笑って言う。
「ふっふっふー、そっか。そっかそっかー。ふふんー」
「な、何よ」
「ユーリはソーマくんが心配だったんだねー」
「そんなことは言ってないでしょ! 馬鹿には厳しいお仕置きが必要だったの! し、心配なんかしてないんだから!」
「はいはい。だってさ、ソーマくん」
アルルは相変わらずの笑みを相馬に向ける。相馬は深く溜息をついて立ち上がった。アルルに一言礼をして、ユーリを見てもう一度深く溜息をついた。そして爽やかな笑顔を作り出した。
「悪かったよ、心配させて」
「なっ!?」
ユーリの顔がさらに赤みを増す。相馬はこれを仕返しで良しとした。
「さて、と。お待たせ、どろぼーさん。待っててくれてありがとう」
アルルは男に向き直り、拳を向けて言う。
「よく言うよ。隙を見せてくれなかったのはそっちだろ。まあオレも、どうやら確かめたいことがありそうなんでね」
男は言うと、鞘に収められていた剣を二本とも抜き、両手に構えた。右手には暗闇の中でも鈍く輝く細身の両刃の剣。そして左手に持つ剣に、ユーリもアルルも相馬も目を丸くさせた。それは柄こそ立派なものだったが、ただの木剣。兵士が訓練用に持たされている模擬剣に毛の生えたようなものだった。男はそれを三人に向け突きつけた。
ユーリは馬鹿にするように小さく笑う。
「何それ。そんなものを自慢げにぶら下げて、泥棒したくなる気もわかっちゃうわ。あんたがどれだけお金に困ってたって、やる気なら遠慮しないから」
「おいおい、そっちがやる気だったんじゃねえの? それに、あんまし舐めない方がいいぜ」
「あらそう。黙って盗ったもの返してくれるんなら、軽いお仕置きで勘弁してあげようと思ってたんだけど」
「嘘くせえ。それに、確かめたいことがあるっつっただろ。精霊術師が三人。まあその坊やじゃないとして、アンタかそっちの嬢ちゃん、どっちかだろ」
「どういうこと?」
「いいさ、やればわかる。来なよ、なんなら三人でもいいぜ。財布返して欲しけりゃ力づくで奪い取んな」
「そっちこそ舐めんじゃないわよ! 覚悟しなさい!」
ユーリは先制と言わんばかりに風弾を放つ。相馬の火弾と比べ、速度が違う。風霊術の特徴としては速さが上げられる。ユーリの得意とする戦法は速さで翻弄しつつ強烈な精霊術を浴びせることだ。しかし突風の速さに匹敵する風弾を一撃、二撃と軽くよけられ、ユーリは風を纏い低空を滑走し旋回を始めた。そして移動しながら風弾をいくつも放つ。しかし全て紙一重でよけられた。
「チッ」
ユーリは舌打ちし、一つ風の刃を飛ばす。人間相手には本来使うことのない風霊術だ。その風は鋭く、触れるものを切り裂く。たとえ一撃だろうとも人間が喰らえば致命傷になるのだ。いくら相手が憎き盗人とはいえ殺してしまうわけにはいかない。風弾は当たったところで大した痛手にはならない。それが相手に余裕を持たせているのかもしれない。ゆえに殺傷力の高い術を放った。ここでは牽制に使う。
しかし男はそれをも体を軽くひねるだけで紙一重でよけてしまった。最小限の体捌きで、体勢すら崩さない。それだけでかなりの死線を潜り抜けてきたことが窺えた。どうにも一筋縄ではいかないようだった。
ユーリは一度旋回をやめ、中距離から男の様子を窺う。
「やっぱりただの盗人じゃなさそうね」
「お嬢ちゃんこそ、全然力出してないっぽいな。いいんだぜ、遠慮しなくてもよ」
「どうなっても、知らないから!」
ユーリは強く風を纏い、男の周りを高速旋回し始める。そして次々に小さな竜巻を作り出し、男を全方位から包囲した。それを男に向けて一気に収束させる。逃げ場は失くした。裂傷は負うだろうが死んでしまう程強力なものではない。ユーリが全力を出せば周囲の建物もろとも吹き飛ばしかねないのだ。
「オレの名を言ってなかったよな」
男は身を守ることも逃げ出すこともせず、悠然と呟いた。そして竜巻が収束する寸前、男は左手に持っていた木剣をその場で一回転するように振るった。
「なっ!?」
辺りが静まりかえる。
ユーリが放った竜巻は何もなかったように一瞬で消え去ってしまった。
「オレはアドルフ。アドルフ・ベスターだ」
アドルフはにやりと笑い、左手の木剣をユーリへ向け突き出した。
「そしてこいつは、霊剣クルス。あらゆる精霊術を打ち消すあらたかな剣さ」
ユーリは困惑する。それは傍で見ていたアルルと相馬も同様だった。
「オレの異名も教えといてやるよ。オレはこう呼ばれてんだ――」
アドルフは不敵に笑う。
「〝精霊術師殺し〟」