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プロローグ Ⅰ

「じょ、冗談、だよな……」

 瓜生相馬うりゅうそうま。どこぞの学校のブレザーに身を包んだ年頃の少年は、全く記憶にない森の中で黒い狼と対峙していた。森の中は高々しい大木がまだらに生えていて、その開けた空間に相馬はいた。

 一言で狼と言えど、それはただ姿形を形容しただけだ。狼は狼だろうが、その体躯は人間の数倍は巨大だった。人間の体など容易く噛み砕いてしまうであろう鋭い牙。その牙で咬みつかれようものなら体の三分の一は一気に食い千切られてしまいそうだ。四本でそびえる前足には大木でもなぎ倒せそうな巨大な爪が覗いている。四足歩行であろうとも、二足歩行の人間の背丈など軽く超えている。獲物を捉え、笑っているようにも見えるぎらつく瞳には相馬の姿しか映していなかった。

 グルル……。喉を鳴らし、少しずつ相馬に近付く。ひとたび飛べば瞬間とも言える間に相馬の元へたどり着いてしまうだろう。

(行ってくれ……!)

 本当に、冗談じゃない。夢かと思ってしまいたい。しかし、乱れる呼吸、激しい動悸、背中に流れる嫌な汗、全てが現実だと物語っていた。

 弱肉強食という言葉が今まさに当てはまろうとしていた。弱い者は強い者にとって餌でしかありえない。餌なのだ。人間はただの餌。狼にとって、相馬はただの血肉。己の腹を満たすであろう肉。それが目の前に呆然と立っているだけで見逃すわけがない。どんな味がするのだろう。そう言いたげにも狼は舌をぺろりと涎を垂らした。

 相馬はただただ行ってくれと願うだけだった。逃げ出そうものなら一瞬で追いつかれ、自分が肉壊に変えられる時を早めるだけだ。それに、足がすくんで動けそうもない。もはや目の前の狼と対話でもしてみるしかない。そんなことを思ってしまうほど相馬は窮地に立たされていた。

 相馬は生まれも育ちも日本の、生粋の日本人だ。そんな相馬には、死の恐怖と対面することなどこれが初めてだった。運動神経には自信がある。だがそれでどうこうできる状況ではない。スペックが違い過ぎることにも程がある。

 狼は一度体をすぼめたかと思うと、相馬に向かって駆け出した。互いの距離は約三十メートル。もちろん人間の速さではなく、その距離は一瞬でなくなった。

「――ッ!!」

 叫び声にもならなかった。

 死んだ。

 それだけが頭をよぎった。

 なんて十七年間だったんだ。思えばいいことなんてそれほど多くなかった。一度くらい、彼女欲しかったな。最後は狼に食われて死んでしまうなんて笑い話にもならない。

 ――その時、風が駆け抜けた。

 一陣の突風が相馬の横を通り過ぎた。その勢いに思わず目を瞑ってしまい、狼の姿を見失ってしまった。そう思った。たしかに狼の姿は相馬の前から消え去っていた。

 一瞬の影。日の光を遮られた相馬の瞳孔は開き、信じ難い光景をその瞳に映した。

 何かが太陽の光を遮った。見上げたところには、自分で飛び上がったとは到底思えない高さで腹を空へ向けて宙を舞っている狼の姿があった。狼の姿が小さくなってしまったものと錯覚してしまうほど、高い空へ舞い上がっていたのだった。それは重力に逆らっていると思えるほどの間、空中浮遊を続け、やっと重力の支配を受けたかと思えば、腹を空へ向けたまま地響きが起きるほどの衝撃と轟音とともに地面に叩きつけられた。

(…………えっ?)

 助かった。助かったことはたしかだ。しかし、相馬は砂煙の中、そう思うよりも先に状況の把握に努めていた。何が起こったのかまるでわからない。やはり夢でも見ているのだろうか。たしかにあの狼は自分に向かってきていて、咬み殺される寸前だった。しかし今は元いた場所よりも遠くで横たわっている。空を飛んだ。いや、投げ飛ばされた。あれほどの巨体が? おそらくは自分の足でもあんな跳躍はできないだろう。

「ちょっとあんた! 何ぼさっと突っ立ってたのよ! 死にたいの!?」

 女の声……が聞こえて振り返った。

 そこに立っていたのは白に近い金髪をなびかせていた少女だった。強気な緑眼で、目鼻立ちはこの上なく整っていた。透き通り、太陽の光など浴びたことのないと思わせるような白い肌。しかし太陽は彼女だけを照らしているかのように見えた。白いロングコートに身を包み、隙間からは赤いスカートが少しだけ覗いていた。

 仮にこの少女が先程の狼を投げ飛ばしたのだとしてもそうそうに納得ができない。見るからに少女だ。僅かだが見える華奢な体つきがそれを物語っていた。

「女の子……? 外人?」

「何よ。あたしが男に見えるってわけ? 命の恩人に対してまずはお礼くらい言いなさいよ。間抜け面」

 その容姿に見合った高く澄んだ声だった。

 ああ、天使か女神か。普段ならどういう手を駆使してこの少女と仲良くなろうか考えを巡らせていただろうが、初対面でいきなり蔑むような発言を受けてしまった相馬は目をぱちくりさせながら唖然とその少女を見回していた。

 いやそれよりも、命の恩人という言葉をその薄い唇は発したのだろうか。

「えっと、君は?」

「あんたねぇ、人の話し聞いてるの? まずはお礼を言いなさいって言ったのよあたしは。お・れ・い! まったく、そのままウェアウルフの餌にしちゃえばよかったかしら」

 怖ろしいことを口走る金髪緑眼の少女だった。なんとなく、本気でそう思っているのだろうと相馬は内心冷汗だらけだった。逆らってはならない。そう本能が告げているようにも思えた。

「た、助けてくれてありがとう。あの、さ、あれって、君がやったの?」

 あれ、横たわる狼を指差して相馬は言った。なるべく体裁を崩さないように、当たらず障らず、言葉を慎重に選ばなくてはならない気がする。

「ほーかーにーだーれーがーみーえーるー?」

 少女は詰め寄りながら、ここには自分しかいないことを知らしめるかのように言った。詰め寄り過ぎて、相馬と顔がぶつかりそうになった。相馬は女の子というものに対してそれほど免疫がなかったために無意識に顔を背けてしまう。

 相馬は「んん……」と口籠って距離を離した。少女は「ふんっ」と鼻を鳴らして輝かしい金髪をなびかせる。

「ところで、あんたどこから来たの? 見たところこの辺りの人間じゃなさそうだけど。ドグマ大陸? でもあっちの服じゃないみたいだしね。見たこともない格好よね」

 じろじろと、上から下まで舐めまわすように見られてしまい、相馬は気恥かしさを覚えた。そして思い出したかのように、ブレザーを脱ぎ始めた。

 暑かったのだ。

「なっ、あんた何いきなり脱ぎ出してんのよ!」

「いや、だって暑いから。夏並みの暑さだっていうのにこんなの着てられないし。その格好だって、見てて暑苦しいけど?」

「うっさいわね! 大きなお世話よ。あたしは全然暑くないもの。このコートはこう見えてもすごく通気性のいいものなんだからね。ちゃんと水の加護だって受けてるから耐久性だってバッチリだし」

 水の加護? 知らない言葉が出てきたが相馬は余計なことを言ってしまったような気がして後悔した。現に少女は敵対心むき出しの表情で相馬を睨みつけている。出会ってものの数分で嫌われてしまった。こんなことで彼女が欲しかったなんて思うこと自体間違っているのではないか相馬と自嘲気味に思う。

 こんなやり取りの中、二人は油断していた。ぴくりとも動かなくなっていた狼は息絶えたものと思っていたがそれは否であり、ゆっくりと身体を起こした狼は声を上げず、ただ真っすぐに二人に向かって駆け出していた。それにいち早く気付いたのは相馬だった。この少女は気付いていない。背後から迫っているのだから。

 相馬は目を見開いた。自分ではどうしようもできない。この少女があれを吹き飛ばしたと言うのならそれに頼るしかないのだ。

「あいつ! 起きてるっ! 来るっっ!!」

 指差しながら、片言で伝えることしかできなかった。

 少女は小さく「えっ?」と呟いたあと、表情を険しいものとして振り返る。その顔が影に覆われたかと自分で認識できたときには、狼はすでに跳躍していて、あとはただ重力に任せ二人を押しつぶすだけだった。影はそこまで迫っていた。

「まっ、間に合わ……っ!」

 唇を噛み締めた。到底耐えられるわけがない衝撃に身構えて、それしか出来なかった。

 今度こそ死んだ。頼みの綱であるこの少女でさえ震えるか弱い女の子と化している。もう助けてくれるものは何もない。また走馬灯のような妄想が相馬の脳内を駆け巡った。

 今度は、熱だった。

 僅かに熱を感じたかと思えば、狼は轟音を上げ、爆発した。正確に言うならば、何かが巨体に衝突して爆発した。それは狼に当たったあと弾けるように爆発し、空中を待っていた巨大な狼の身体を吹き飛ばした。巨体の主はさすがに苦しそうにうめき声を上げ、微かに痙攣しながら喉を鳴らした。

「油断大敵ぃ♪」

 ゆだんたいてきぃ♪ そんな風にも聞こえた、この状況に似つかわしくない柔らかい声。金髪の少女は「あっははは……」と面目なさそうに笑いながら声の聞こえた方を振り向いた。相馬も釣られて同じように首を傾ける。混乱しながらも、ただただ少女に便乗するだけだった。

 振り向いた先にいたのはまたしても女の子。右手を大きく開け、二人に向かってニカッと満面の笑みを浮かべていた。そして金髪の少女と同じ白いコートと赤いスカートをひらつかせながら嬉しそうに金髪緑眼の少女に駆け寄って来る。

「ユーリ。ウェアウルフなんかにやられそうになっちゃってた。にししっ」

 金髪の少女をユーリと呼び快活に笑うこの少女は、栗色のセミロングの髪をしていて、大きくて赤い丸い瞳が意地悪そうにユーリの緑色の瞳を見上げていた。ユーリを綺麗と評するならこの少女はまさに可愛いという言葉がぴたりと当てはまるほんわかとした少女だった。意地悪で言った先程の言葉も、この少女が言うと可愛らしく聞こえたので、相馬は思わず顔が綻んだ。

「こっ、こいつが邪魔したせいよ!」

 あらぬ罪を着せられる相馬だったが、抗議の言葉は出て来なかった。服を脱いだことで気を逸らせてしまったのなら一理あると、妙に納得してしまった。しかしそれはユーリが鋭い視線で相馬を睨みつけていたことの方が要因は大きいのだが。

 ユーリの言い訳がデマカセであることがわかっているように、相変わらずその少女は意地悪くユーリを見上げている。

「と、とにかく助かったわ、アルル。ありがとう」

 ユーリは照れ隠しのように頬をかきながら赤眼の少女、アルルに礼を言った。

「どーいたしまして。ナタリーももうすぐ来るはずだよ。ところでところでー、んん~? ユーリの邪魔をしたという君は一体誰かな? 誰かな?」

「それはこっちも聞きたい。君たちは一体何者なんだ?」

 そんな相馬に突っかかるのは、ユーリだった。

「質問に質問で返すなんて、顔と一緒に育ちの悪さが出てるわね。本当に助けられたことを感謝しているのかしら。いーい? あんたは誰で、どこから来たのか、どうしてこんなところにいるのか、順番に答えなさい」

 傲慢な態度のユーリに露骨に嫌な顔をしてしまった相馬だったが、助けられたことは事実なのでとりあえず質問に答えることにした。

「俺の名前は相馬。瓜生相馬。あと、どこからって言えばいいのか、君たちは外国人みたいだから、日本でいいのかな。その、東京ってとこから。街の名前なら、渋谷。どうしてこんなところにって言われても、それは本当に俺が聞きたいことなんだ」

 それに対してユーリとアルルは揃って首を傾げた。

「えっとー、ソーマくん。君は自分がどうしてここにいるかわからないってこと?」

 アルルの問いに相馬は首を縦に振って答えた。自然と東京から来たと言えたこともこれに所以している。普通、どこから来たと尋ねられて日本と答えるものはいないだろう。なぜなら今は日本語で話しているからだ。飛行機に乗って墜落事故でこんなところに迷い込んだわけでもない。

「気がついたらここにいたんだ」

 ユーリとアルルは再び首を傾げた。

「記憶喪失?」

 そうではない。相馬には欠けている記憶など何一つなかった。無論、昔の記憶など覚えていないこともあるが、ここ最近の出来事は覚えている。失ったことすら覚えていないと言われればそれまでだが、相馬にはここに辿り着くまでの記憶もたしかにあった。

 では何故「気が付いたらここにいた」などと言ったのか。迷いの森、不思議の国に迷い込んだような感覚。しかし、まさにそれだったのだ。その通りのことが相馬に起きていた。

 瓜生相馬。彼は東京で暮らしている普通の高校生だ。いや、だった。相馬の身には最近不可解なことが起きていた。それは、頭の中に響く声。他人には聞こえない。相馬にしか聞こえない声だった。

『来い……』

 ひたすらに自分を呼び続ける声。男の声とも女の声ともわからないそれは、初めのころはただの幻聴としてしか捉えていなかった。しかし、最近でははっきりと頭の中に響き渡るものになっていた。繰り返し、繰り返し、幾度となく呼びかけて来る。それが自分にだけ聞こえるものだとわかったのも最近のことだった。聞いたことのない声。しかし、妙に懐かしい感じのする声だった。

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