2―ナミダ―
「あなたが聡士くん?」
いつの間にか目の前に女性が立っていた。背の高い、金髪の、綺麗な女性だった。
はい、とだけ答えると、彼女の深海のような瞳がはにかむ。
「それじゃあ、今日からよろしくお願いね!」
「あ……ちょっと」
いきなり手首を掴まれ困惑。そんな僕を「早く早くー!」と女性はやけに嬉しそうに引きずる。
ため息をつきながら考えを巡らす。これは、僕がここに呼び出されたことと関係があるのだろうか。
僕がやってきたのは、とある公園だった。
遊具で遊ぶというより豊かな自然を楽しむことを目的としたような、一面緑のだだっ広い場所。
女性は僕を引っ張りながらどんどん進み、やがてひらけたところまで来ると手を離した。
「あなた、ずいぶん落ち着いてるのね。話に聞いた通りだわ」
「……おかしいですか?」
よく言われることだ。7歳児がこんなだったら可愛くない。
「いいえ?」
でも、女性は笑った。それは美しいけれども、どこか垢ぬけた笑みだった。
彼女は、今まで接してきた大人とは違う。こんな裏表のない笑顔で、僕を見る人がいるなんて。
「私ね、日本語は少し苦手なの。よかったら教えてくれるといいな。あ、それと京都の言葉も。すごく興味があるの!」
そうは言うけど、彼女は明らかに日本語が流暢である。
この場合、日本語しか知らない僕より、外人である彼女のほうがすごいのではないか。
「僕はあまり京都にいたことがありません。だから、京言葉は知らないんです」
「あら、そうなの?」
「……東京での検査が多くて、家に帰れない、から」
僕のことを知っているということは、彼女はこの体質のことも少なからず知っているのだろう。
わざわざ隠すのも億劫だから、包み隠さず話した。
……幼い兄弟は、顔を合わせたことの少ない兄に反発をする。
それも仕方ない。まだまだ父、母っ子だ。検査の付き添いのために大好きな父と母をとられる恨みは、子供ながらにすごい。
……僕は、家族にさえ受け入れられていない。
そんな僕を、両親と母方の祖母は励ましてくれたが、それが煩わしかった。
誰だって、僕のことを物珍しい目や敬遠の目で見る。その視線の数々を前に、平静なんて保てない。僕は暴走をする。
だから、僕に構わないでほしい。放っておいてほしい。
そうすれば、父さんや母さん、おばあさんまで、嫌な目で見られなくなるのに……。
不意に、何かが頭に触れた。
撫でられているとわかったのは、少し経ってからだ。
僕より頭2つ分は高いところから見下ろす深海の瞳が、温かい色をたたえている。
「あなたは優しい子ね。都ちゃんが自慢するだけのことはあるわ」
「……え?」
母が、僕のことを自慢? またそんなことを。いいって言ってるのに。
女性は僕の目線まで膝を折ると、肩に手を添えてきた。
「優しくていい子だけど、少し優しすぎるわね。言いたいことはハッキリ言わなきゃダメよ」
「あの……」
「その歳で我慢なんてしなくていいの。自分の思ってること、やりたいことは、隠さないでぶつけてやりなさい!」
あまりの勢いでたじたじになっていると、女性は今までで一番優しい笑みを浮かべる。
「家にずっと帰れないわけじゃないでしょ。もう少しで退院だって聞いたわ」
「……えっ!?」
そんなこと、僕は知らない。何も聞いてない。
「家族と失った時間はこれから取り戻せばいい。あなたは充分若いんだもの。
ただそれまでちょっと時間があるから、どうにかならないかなって、私、あなたのお母さんに頼まれたの」
「それは、どういう……」
退院の話もそうだ。彼女の言葉を理解しきれなくて、混乱してきたとき。
「お母さーんっ!」
高く、鈴を転がすような声が聞こえてきた。
「戻ってきたみたい。セラちゃーん、こっちよー!」
手を振る女性のもとに、やがてちいさな女の子が飛び込んでくる。
「お母さんきいてきいて! さっきね、お父さんとお花を見てたの。そしたらね、歩いてた女の人たちが、お父さんのこと知ってて、お父さん、なにかお願いされてたの!」
「え、お願いって……ほんと?」
「ほんとほんと! わたし見てたんだけど、お父さん、ずっとしゃべっててつまらないから、戻ってきたの!」
「……ねぇセラちゃん、聞いてもいい? お父さん、なんて言ってたのかな?」
「えーっと『今年のとれんどは』とか……『そこはまにっしゅなほうが』とか……よくわかんない」
「……何ですってぇ! こんな日にまで仕事話を持ち込んで! 超多忙なスケジュールを割いた貴重な休日に、愛娘とお出かけしに来た自覚があるのかしら!
しかも、私というものがありながらほかの女の子に……っ!」
「お母さん、どうするの?」
「決まってるわ! あの馬鹿ケン……じゃなかったお父さんを連れ戻しに行ってくるから、セラちゃんはここで待ってて!」
「うん。行ってらっしゃい! お母さん!」
「ええ、行ってくるわ。そういうわけだからこの子のお相手お願いね、聡士くん!」
「え……」
去り際、にこっと笑われたのは気のせいだろうか?
女性は声をかける間もなく行ってしまった。けれど、入れ替わりに残ったのは。
「こんにちはっ!」
女性の面影を引き継いだ女の子。
「あれ? あなた、目が緑色」
「……っ!」
うろたえ後ずさる僕とは対照的に、女の子はにいっと笑う。
「キレイな色だね。葉っぱみたい!」
……どうしたらいいのか、わからなくなってしまった。
固まった直後、女の子が金の髪を持つことに気づき、ビクッとする。
「あ。あなたも、これ変って思う?」
僕の視線の気づいてか、女の子はちょっと気落ちした様子で首を傾げる。
「……いや、そういうことじゃなくて……ただ、驚いて」
嫌な風に思っただろうか。とぎまぎする僕に、女の子はこれでもか! ってくらいの笑顔を向けてくる。
「みんな、わたしには似合わないって言うの。でもね、わたし、この髪好きなの。お月さまと一緒だから!」
……絶句した。こんなところまで月が出てくるなんて。
俯いた僕を女の子が覗き込んでくる。
「どうしたの?」
「嫌いだよ。……月なんて」
あの色を目にすると、落ち着かなくなる。
それは僕が僕でなくなる前触れだったから、嫌うのは当然の感情なんだと……そう思っていたけど。
「そんなこと言わないでっ!」
ずいっと詰め寄られ、僕は動けなくなる。
「お母さんが言ってたもん。お月さまはとってもキレイなの。わたしをずっと守ってくれるの。
……でも、夜のお空にずっと独りぼっち。強そうに見えるけど、本当はすごく寂しがり屋なんだって。
だから、わたしがそばにいるのっ!」
大きな茶色の瞳は揺れ動いている。
泣きそうなのに、女の子はぐっと唇を噛み締める。
「独りぼっちが寂しいのは、わたしがよく知ってるもん。だから、お月さまは独りぼっちにさせないもん!」
僕は、何とも言えないような気持ちになった。
生まれて初めて、月がうらやましいと思ったのだ。
『独りぼっちにさせない』
そんな風に想ってもらえる月が、うらやましかった。
僕がこの子の「お月さま」になれたら、どうなるだろう。独りにさせないって、一緒にいてくれるって言ってくれるのかな?
そんなことを考えて、気づいてしまった。
心の奥底で、独りぼっちが寂しいと感じていたことに。
「だいじょうぶ?」
「え?」
「すごく……悲しそう」
――突然、何かが頬を伝った。
「何だ、これ」
僕にはそれが何かわからなくて、なぜ視界がぼやけるのかもわからなかった。
「泣いてる。やなことがあったの?」
「……泣いてる?」
言われて、やっと気づいた。この雫の正体が、涙であることに。
「……なんで、こんなもの……」
人前で泣くのは初めて。動揺する理由は、それだけで充分だった。
「ええっと、んと……そうだ! あなた、名前はなんていうの?」
「名前? ……聡士」
「ソウジ? じゃあソウくんだね。初めまして! セラです。わたしたち、これでお友だちだよ」
「……とも、だち?」
「うんうんっ! お友だち! わたしがいるから、悲しいことがあってもだいじょうぶ。笑って。ねっ!」
――その言葉は反則だ。
抑えていた涙が一気に溢れ出した。
「あっ、泣いちゃった! ねえねえ、そんな顔しないでよ。ほら笑って!」
僕を笑わせようと、一生懸命に笑顔を向けてくれるその温かさが、胸いっぱいに満ちる。
「……ありがとう」
嬉しくて、無意識のうちにそう言っていた。
女の子は一瞬まばたきをして、満面の笑みを浮かべる。
「すごくキレイな笑顔っ! お母さんよりキレイかもって思っちゃった!」
「そうなの?」
「そうなのっ! あ、ソウくんはこれから何をするの?」
「僕? 1人だし、何も」
「じゃあ、一緒に遊ぼ。1人じゃつまんないもん!」
……たった十数分の外出で、僕が学んだこと。
満面の笑みの女性に手首を掴まれたら最後。
「ほら、あっち行こっ!」
抵抗しようとしたって、まぶしい眼差しを前に、すっかりほだされてしまうのが関の山ってこと。
他人に振り回されている真っ最中なのに、嬉しいと思う僕がいる。どんな光よりもまぶしい笑顔につられ、僕は笑った。
それは偶然だったのだろうか。……いや。
この子だったからなのだろう。
堅く閉ざされた殻の内側から『僕』を引き出す少女の存在が、とても深く心に刻まれた瞬間だった。




