2―ニゲナイ―
突然聞こえた声。暗くてよく見えないはずなのに、その姿だけはすぐに捉えられる。
息を切らせ駆け寄ってきたのは、もう帰ったと思っていた、そこにいるはずのない人。
でも見間違えようがない――若葉くんだ。
顔を合わせるのが辛い……それでも視線をグッと上げる。
どうしても、言いたいことがあったから。
「若葉くんの…………バカ!」
「えっ!?」
若葉くんだけじゃない。長谷川先輩、朝桐くん、日野くん、和久井くん、ここにいる全員が驚愕の表情を浮かべる。
「白々しいわね! なに驚いてるの!」
「ちょっと待って! そんなこと言ったらバレて……」
「そんなの、この際どうだっていいことだわ!」
湧き上がる心の内を、力の限り、怒りに任せてまくし立てる。
「バーカバーカバーカバーカ!」
「なんでそんなにバカバカ言われなきゃいけないの!?」
「バカだから!」
「そんな! もっと別の言い方ないの!?」
「ない! 罵りたいのにバッシングのボキャブラリーが極端に少ないことに今気づいた私の身にもなって!」
「悪口に精を出さなくてもいいと思う!」
「うるさーいっ! 悪口でも言ってなきゃやってられないわよこの状況! 何しに来たのよ、このバカ―ッ!」
「何しにって、探しに来たに決まってるでしょ! 荷物はないのに靴だけあるから、おかしいと思ってれば……。
こんな夜遅くまで残ってて、どれだけ心配したと思ってるの!」
「はいはいそれは悪かったですねぇ! ……って、え?」
思わず、固まってしまった。
若葉くんが怒ってる。でも、以前感じた恐怖は一向にやってこなかった。
叫ぶ若葉くんから感じられるのは、必死さと安堵。
探してくれていた? 私を?
そう思うと怒りは少し引いたけど、代わりに素直になれない気持ちが満たす。
「さっ……探してたって、先にいなくなったのはそっちでしょ! 『関わるな』とか言って、こっちの気も知らずに勝手に行っちゃってさ! 私がどれだけ寂しい思いをしたと思ってるの!?」
「……え?」
今度は、若葉くんがまばたきをする番だった。
「気づかなかった私も悪かった! 無意識のうちにたくさん傷つけてたってわかって、すごく後悔した!
だけど、私だって若葉くんに対する気持ちは嘘じゃなかったもの! 一緒にいて楽しいって、会えて本当によかったなぁって気持ちは本物だったもの!
私は独りぼっちだったから、どうしても友達が欲しかったの! 子供の頃からそれだけを望んでた!
だから若葉くんが優しくしてくれて、やっと夢が叶うって嬉しかった。それが……まさか、こんな……」
一緒にいると恥ずかしくなるのに、傍にいないと会いたくなる。
会えたとき、すごく嬉しいはずなのに胸が苦しくなる。
たくさんの矛盾の狭間で、私はずっと戸惑っていた。
「私……若葉くんに謝らなくちゃいけないことがある。だから、終わるまで待っててほしい」
正面へ向き直った私に、若葉くんが血相を変える。
「紅林さん、まさか……無茶だ!」
「若葉くんは手を出さないで! これは私の闘いなの!」
「そんなこと言ってる場合!? お願いだから早く逃げて!」
「ここで逃げたら、私が信じてきたものや、私を信じてくれたものを裏切ることになる! 私は、絶対に逃げないわ!」
「紅林さんっ!?」
じっと正面だけを見据える。長谷川先輩は驚きに目を見開いていたが、やがてニヤリと笑みを浮かべる。
「何だ何だと思って見ていれば……ハッ! こりゃ傑作だなあ! 校内一の不良ともあろう者が、ただのチンケな女だったとは!」
長谷川先輩はあざ笑うけれど、バレてしまったこと、後悔などしていない。
「朝桐くん、日野くん、和久井くん!」
声をかけられ、ハッと我に返った3人を見据える。
「本当に、仲間なんかじゃないの?」
「何を……」
「城ヶ崎のこと、本当は嫌ってなんかないんじゃないの?」
「違う! 俺たちはアイツのことなんか……」
「どうでもよくなったなら、どうして長谷川先輩と手を組んだの?
さっき、私のせいで城ヶ崎が腑抜けになったって言ってたよね。私がいなくなったら城ヶ崎が元に戻るんじゃないかって、そう思ったんじゃないの?
本当は城ヶ崎のこと……心配してるんでしょう?」
「……っ、それは……」
視線を伏せ、俯く3人に、長谷川先輩は苛立ちを募らせる。
「んだよお前ら。紅林さえいなけりゃいいんだろ。だったらやっちまえよ。こいつはただの女なんだぜ。お前らがかかれば一瞬だろうが」
「……けど」
「いい加減にしろよ! 俺の言うことが聞けねぇってか! ハッ、所詮お前らも城ヶ崎と同じ腑抜けだったってことか」
「彼らを悪く言わないで!」
「ほぉ、この俺にたてつくのか。ミブロの恐ろしさは知っているだろう?」
「何を言っているの? ミブロは私を助けてくれた。そんなことも覚えていないのね。
――やっぱりあなたは、ミブロじゃない。私利私欲のためだけに友達を思いやる心を踏みにじる人なんかが、ミブロのはずがないわ」
憧れだった。
強く凛とした姿に、弱い私は当然のように目を奪われた。
でも、私が本当に憧れたのは強さなんかじゃない。
優しい心。本当に大切なものを守ろうとする彼に、私は憧れた。
今まで信じてきたものを、私が信じないでどうするんだ。
「少しは使えると思ったんだが……バレたもんは仕方ねえなぁ」
不気味な笑みは真実を現す。
私が信じていたものは、この人にとって私をおびき出す餌に過ぎなかった。
「そんなことのためにミブロを名乗るなんて、許せない!」
「だからといって、お前に何ができる? ただの女が男に勝てるとでも?」
そう、私はただの女。
最凶の不良でもなければ、剣道の達人でもない。だけどね。
「ただの女で何が悪いの? 金髪だから不良だなんて、それはあなたたちの勝手な押しつけよ!」
みんな表面の私しか見てくれなくて、大切なところは素通りしていた。
そんなとき立ち止まって、初めて目を向けてくれた若葉くん。不良という殻に隠された本当の私を、見つけ出してくれた。
彼が綺麗だと褒めてくれた髪。私には、恥じることなど何ひとつない。今なら言える。
「これが『私』よ! 弱い私が本当の自分よ! でも、それでもいいって言ってくれる人がいる。ありのままで充分だって、私のことを受け止めてくれる人がちゃんといる。
だから私は、もう自分を押し殺したりなんかしない。みじめだって言われても、私自身を偽ったりなんかしない! 絶対に逃げない!」
「だったらお望み通りここで果てさせてやるよ! ははっ、残念だったなあ! お前が信じたミブロは助けに来てくれないんだぜ!」
長谷川先輩が踏み出す。でも私は動かない。逃げないと決めたから。
「彼が来てくれなくたっていい。これは私の闘いだもの」
もう独りじゃないと、教えてくれた人がいる。
「私を信じてくれた人がいるもの!」
ちゃんと見ていてほしい。
誰も傷つけたくない、自分の気持ちに素直になって、笑って顔向けできるように。
私の勇気を認めてほしい。あなたに。
――若葉くんに。
私の顔を真っ直ぐに狙う拳が見えた。
ゆっくりと目をつむる。不思議と恐怖はなかった。
心は静まり、闇に包まれる。感じる。ひそやかな気配、あの月の光を。
お月さまはいつだって、私を守ってくれる。
それだけじゃない。今の私には、心の支えになってくれる人がいるの。
だから怖くなんかないよ。私は、逃げないから。
「食らえ!」
拳が真っ直ぐに空を切る音。その軌道を顔面に感じる。
――今こそ勇気を。
ぐっと唇を噛み締め、足の裏に力を入れた。そして――
月明かりが、遮られた。




