1―カラッポ―
夕暮れの光が、優しくあたたかい。
だけど、空っぽな心には過ぎたものだった。
めったに人が通ることのない体育館裏。何かをする気にもなれず、私は帰り支度をしたまま、竹刀と膝を抱えてうずくまっていた。
下校時間はとっくに過ぎている。明らかな不当居残りだ。
先生たちに見つかりたくないからって、改修中の立ち入り禁止区域に居座ってる。
剣道場に向かうのを途中放棄したから、靴に履き替えないで上履きのままだし、本当にバカだ、私。
……昼休み以来、若葉くんと一度も話していない。彼から話しかけてくることもなかった。
「ははっ、嫌われてるなぁ……」
ずっと傍にいたから、近すぎたから、遠いことがこんなにも辛い……。
「……あれ? これ、なんだろ……」
頬を冷たいものが零れ落ちる。雨? でも空は晴れている。
「おかしいなぁこの雨。前が見えなくなってくるし……それに」
視界がボヤけ、胸がギュッと締め付けられる。
「何だか、苦しいよ……」
雨の正体に、いい加減気づいていた。
拭っても拭ってもとめどなく流れる涙は、おさまることを知らない。
……ひどいことを言ったのは、私が弱かったからだ。若葉くんのせいじゃない。
彼を傷つけた私に、傷つく権利なんてない。
――――パキリ。
小枝の折れる音に、反射的に顔を上げる。
とうとう夕陽にまで見放されてしまったのか。優しい光は跡形もなく消え去り、夜の更けてきた視界では周りの様子もわからない。
「なんだ、あの眼鏡と一緒じゃないのか。まぁいい」
ゆっくりと歩み寄る足音。目の前で薄気味悪い笑みを浮かべた人物には、見覚えがあった。
「長谷川……」
「先輩、だろ。礼儀のなってない後輩はきちんとしつけてやらねえとなぁ。――おい」
長谷川先輩が声をかける。と、暗闇の向こうから3人の男たちが姿を現す。
「お前たちは、城ヶ崎と一緒にいた……」
朝桐くんに日野くん、そして和久井くん……で、確か合っているはず。城ヶ崎と違って、部活中それなりに見かける顔だから。
その3人は、無言で長谷川先輩の後ろに立つ。とっさに竹刀を手に立ち上がった。
「何をするつもりだ……!」
「聞いてなかったのか? 礼儀をわきまえない後輩をしつけるんだよ」
「城ヶ崎は! アイツはどうしたんだ!」
「あんなヤツ、もう俺らとは関係ない! 城ヶ崎はすっかり腑抜けになっちまった。それも全部、お前のせいだ!」
悲痛な叫びで私を突き刺したのは、朝桐くん。
(私が、城ヶ崎を腑抜けにした……?)
意味がわからない。それに、この3人が長谷川先輩と手を組む理由も見当たらない。
「長谷川、コイツらに何を言った!」
「何? 何ねぇ」
長谷川先輩は、わざとらしく首を傾げ――
「別に変なことは言ってないぜ? 一言だけだ――そう、俺がミブロだってな」
――嗤った。
何を言われたのか、理解できなかった。
ゆっくりと言葉が思考回路を通過し、やっと繋がる。
(長谷川先輩が、ミブロ……?)
空耳だとするならタチが悪い。今まで憧れてきたもの、それが……こんなものだったなんて。
信じられない……信じたくない。
「その気色悪い髪にはいい加減吐き気がしてたんだ。もう拝まなくて済むなぁ」
愉悦に満ちた笑い声。
信じ、られない……。
3年前、私を助けてくれたのはなぜ? 気持ち悪いと言うなら、どうして助けてくれたの?
竹刀を持つ手が、ガタガタと震えを増した。
怖い。……足が動かない。
情けない。伊達に剣道をやっていないのだと、どの減らず口が言ったのか。私1人では、何もできないじゃない……。
「おい、やれ」
「…………っ!」
声も表情もなく近づいてきた3人は、私の腕をひねり上げた。その拍子に竹刀を取り落としてしまう。
手首に鈍い痛みを感じながら、ゆっくりと視線を上げる。
……私は今、空っぽだった。
衝撃、混乱、恐怖。
色んなものが混ざり合い、ぐるぐる回って境目がわからなくなって、考えるのもバカらしいと、糸がちぎれたように思考が途切れてしまった。
不服そうに近づいてきた長谷川先輩は、グッと私の髪を引っ張る。
「誰に向かってデカイ態度を取ってるのか、わかってんのか」
……そんなの、わかるわけない。
あの日、あの夜、私を助けてくれた人の強く優しい手が、今、私を貶めようとしている。
あの手のぬくもりは覚えているのに、背筋を這うのは強い嫌悪だけ。
私はこの3年間、何を思ってきたの? 何に憧れて、何を目指してきたの?
……答えがわからない。そんなもの、なかったんだから。
私が憧れ目指してきたものは、理想と遠くかけ離れていた。
その人がどんな人なのか知ろうともせず、自分の中で決めつけて、ほかのことなんか気にしないで。
――若葉くんを、傷つけた。
『僕が今までどんな気持ちで紅林さんと一緒にいたのか、わかる?』
目先のことばかりに気を取られて、すぐ傍のことにさえ気づかなかった。彼がくれた笑顔に偽りなどなかったのに。
……私は、何をやっているの?
「……せ」
腹が立った。
「――放せッ!」
腹が立った。情けない自分に。
「コイツ……!」
長谷川先輩や朝桐くんたち3人が手を離し、後方に飛びのく。
すぐさま竹刀を拾い、睨みつけてくる長谷川先輩に向かって構える。
「やる気か? さすが血の気の多さはウワサ通りといったところか」
交錯する視線。息を吐く。今どうしたいのか、それを考える。迷ったときに戻るところはいつも同じ。
そう、お月さまのところ。
懲りないな、と自分でも呆れる。でも深く信じてしまったものはそう簡単に絶やせやしない。
あの声、背中、手。私が覚えているのはほんの少しだけ。でも、確かなことはある。
『調子に乗るなよ。妄想はテメェの脳内満足だけにしとけ。――失せろ』
……ごめんね若葉くん。またあなたの気持ちを考えないで行動しちゃうかもしれないけど、これだけは証明させて。
心を決め……私は竹刀を下ろす。
「……何の真似だ」
眉をひそめる長谷川先輩を、真っ直ぐ見据える。
「私は、暴力は振るわない」
「この状況下でもか? 頭がイカレてんじゃないのか?」
「何と言われようが、私は決して暴力は振るわない」
冷酷かもしれない。彼ほどの人なら、あのときあの男を打ちのめすことなど造作もないはずだった。
暴力で相手を打ち負かすのは簡単なこと。
でも彼は力に頼ってなんかなかった。ただ強い言葉だけを相手に返す。
怖がられてもいい。怯え、逃げ出してくれたら上等じゃないか。理不尽な暴力で傷つかずに済むのだから――。
冷酷でも何でもない。それは相手を傷つけないための、優しさだった。
その優しさこそが本当の強さで、私が憧れたものなんだ。
「ナメてんのか」
「違う。――私の信じていた人が、そうだったからだ!」
太陽と違って、月はいつでも姿を見せてくれるわけではない。
でもいつだって夜空に浮かんでいて、孤独な闇を照らしてくれた。
月は私の道標。母が言ったように、いつだって私を見守ってくれている。
強く、凛と輝いていた。その輝きはこんなに曇ったものじゃない。
あの人は、むやみに人を傷つけたりしない。
……そうだ、疑う必要がどこにある。ずっと信じてきたじゃないか。
私の信じてきたものは、間違いではない。
「――紅林さんっ!」




