2―ハナレナイデ―
「わたし、結木桃って言います。覚えていただけたら嬉しいです!」
わぁ……可愛い名前。
桃ちゃんは身体の向きを変えると、若葉くんにもお辞儀をした。
「荷物を取ってくださって、ありがとうございます、若葉先輩」
「僕のことを知ってるなんてすごいな。よく見てるね」
もしかしなくても、これは若葉くんの冗談だ。「こんな地味男の存在に気づくなんてすごいね~」という。
それが事実でないにしても、若葉くんには自覚がないわけで。
だからこんな風に返されるなんて夢にも思わなかっただろう。そして私も。
「はい。紅林先輩ととても仲睦まじいなぁって思ってましたから」
「「…………」」
なんかサラリと言われたけど。
「桃ちゃーんっ!?」
「あ、はいっ?」
ハッ、しまった! つい心の中の呼び名そのままを口にしてしまった!
やむをえない。不良の威厳は損なわれるが、これが私の呼び方だとしておこう! ……で!
「また突拍子もないこと言ったな! どの辺が!」
「……話してる姿とか、でしょうか」
「詳しく!」
「話しているときはとにかく仲がよさそうで、まるで……」
「まるで?」
「お父さんとお母さんみたいです」
「……く、詳しく!」
勇気を振り絞って続きを促す私に、桃ちゃんはとんでもないことを言ってのけた。
「紅林先輩は強くてカッコよくてお父さんみたいで、若葉先輩は優しくてにこにこしててお母さんみたいだなって思いました」
……「若葉くんお母さん説」は否定できない。私も実際そう思ったことがあるし。
それにしても、私がお父さん? 若葉くんに母性があるならば、不良の私には父性があるということですか……?
キーンコーンカーンコーン。
何とも言いがたい複雑な思案を、予鈴が中断させた。
「あ、わたし、次が移動教室なので失礼しますね。本当にお世話になりました」
「待ちな」
「はい?」
「またこんなことがあったら、私か若葉に言うんだよ?」
「……はいっ!」
ホントに嬉しそうにお辞儀するから、私も誇らしく思いながら、桃ちゃんを見送った。
「……まさか、あんなことを言われるなんてね。紅林さんがお父さんで、僕がお母さんだなんて」
「ホントびっくりしちゃった。言うにしても逆だよね!」
「……あのさ、紅林さん、ちょっといいかな。それってつまり……」
ぎこちなく視線を伏せながら、若葉くんがちいさく呟く。
「どっちにしてもその……夫婦ってことなの?」
「…………………………………………」
――馬鹿だ。自ら墓穴を掘るような真似を。私はこれほど、自分を馬鹿だと思ったことはない。大馬鹿者ぉ……!
「紅林さん」
「は、はいぃいっ!」
「今日……おかしくない?」
「き、気のせいじゃないかな! 私がおかしいのなんてしょっちゅうじゃない。気にしなくてもいいと思うよ!」
作り笑いしながら一歩後退したとき、
「――どうして逃げるの?」
明らかに、彼の声音が変わった。
逃げる……私が?
「やだなー若葉くん! どうして逃げる必要があるの?」
若葉くんは何も言わず私を見つめている。
疑われているのだろうか。そんな不安が、私に新たな嘘をつかせる。
「ちょっと用事があって。先に教室帰ってて? じゃあ……」
若葉くんに背を向ける。とたん、唇を引き結んだ。
(……卑怯だ、私)
それなのに足は止まってくれなくて、一歩を踏み出そうとする――
「嘘だね」
呟きが聞こえた。それがどういうことなのか理解する間もなく、私の身体は宙に浮く。
全身が大きく傾いだ。目を見開く。
……しくじった。
けれど、私の身体をぐいっと強い力がさらった。
何が起こったのか、理解不能だった。
「気にする必要がないってくらい平気なら、どうして階段から落ちそうになるのかな」
我に返る。確かに、目下には階段があった。踊り場までの高さを認識すると、ゾッとする。
でも落ちなかった。若葉くんの腕が、私を引き寄せていたから。
触れているのは腕だけじゃない。彼の体温が背中越しに伝わって、頭の中がオーバーヒートしてしまう。
「若葉くん! 私は大丈夫だから、離して!」
「駄目。離したらまた逃げるでしょ」
追い打ちをかけるように、私を抱き締める腕に力がこもる。
「……っ! ごめん若葉くん、私、もう逃げないから! お願いだから離してっ!」
ほとんど悲鳴に似た声で訴えると、腕の力がゆるんだ。ホッとしたのも束の間。
「そんなに僕に触れられるの、嫌?」
「それはちが……」
「じゃあどうして逃げたの?」
口ごもった私に、若葉くんは声を低くした。
「……言えないの?」
どうしようもなくなって、俯く。
反論できないのは、何か後ろめたいことがあるからではないか。……そう責められた気がした。
「私にもよくわからないの。ごめんなさい……」
若葉くんがピクリと身じろぐ。
それからため息が聞こえて、声音は少し高くなった。
「ちょっと意地悪すぎたね。そんな顔をさせるつもりじゃなかったんだ。……ごめん、言い方が悪かった」
「え?」
「朝からおかしいなって思ってたんだ。全然話しかけてきてくれないし、どうしてなんだろうって見たら上の空で、ほっとけなくて……。
……いくら心配でも、無理に聞いちゃいけないよね」
若葉くんは笑ってる。なのに胸が痛くなったのは、それが切なそうな笑みだったから。
「言いたくないなら言わなくてもいい。僕はもうそれを問い詰めたりしない。
だけど……ひとつだけ、僕のワガママを聞いてくれる?」
若葉くんの手が伸びてきて、私の手に触れた。
すぐにもう片方の手も触れてきて、両方の手で私の手をそっと包み込んだ。
「……離れて行かないで」
若葉くんの手は大きくて、まるで壊れ物を扱うかのように優しく触れている。
「ほんの少し、今日だけでいい。一緒にいて。できるだけ僕の傍を離れないで」
「若葉、くん?」
「そうすれば……僕は僕のままでいられる気がするから」
ギュッと、包み込む手に力が入った。
彼が何を言っているのかわからない。
そもそも私はなぜ若葉くんから逃げたのか、それすらもわかっていなかった。
頭が混乱して、わけもわからないままうなずいてしまった。
若葉くんは微笑む。心の底から。
このとき私が感じたのは、若葉くんが安心してくれたんだなぁということと、何か大切なものを受け止め損ねたような、そんな気持ちだった。




