5―シッテルヨ―
「……逃げられちゃったかな」
苦笑をして、すぐ表情を引き締める。
廊下の片隅に移動してディスプレイを確認すると、思った通りの名前が表示されていた。
「……もしもし。変なときにかけてこないでよ。僕? まだ学校なんだけど」
「普通」に出たつもりだったが、相手にはおかしく感じたらしい。
「らしくないって、そっちがこうするように言ったんでしょ。
わざわざこんな時間にかけてくるなんて、何の用なの? ――父さん」
すぐさま返ってきた答えに、頭を抱えたくなる。
「話したいから」だって? ほとほと呆れる。
「さっきの話、聞いてた? 学生が学校にいるのは当たり前です」
ただでさえ、子供の学力不足が嘆かれる世の中だ。学習に関して口を酸っぱくする親がこの日本国ではほとんど。
だが、そんな世の理を根本から覆してくるのがウチの両親。
電話の向こうで展開する話に、どんどん眉間のシワが深くなるのを感じた。
「……学校に行くな? 公務員の言葉とは思えないね。
それは、来年受験を控えてる学生に対する挑戦なのかな。それとも、直接僕に対する挑戦?」
容赦なく問いただしたつもりだった。しかし、
――落ち着け。
そう言われてハッとする。話し合いに不利な条件を、自ら作ってしまうなんて。
「……こんなのはどうってことない」
できるだけ平坦な口調を意識する。それは、この場である種の敗北宣言であった。
認めたくない。だが「暴走」しかけていたことは事実だ。
――ほら見ろ、やはり明日は……。
その言葉を遮るように声を上げる。
「絶対に行かないから。病院なんて行ってるヒマはない。先生にもそう言っておいた」
断固とした意志だった。これだけは、なんと言われようと譲れない。
――もし僕がいなくなったら、彼女は独りになってしまう。
傲慢だと言われてもいい。驕りだとなじられてもいい。
だが彼女が僕を必要としてくれる限り、僕はそこにいなければならない。
「………………」
彼女の知っていることは、ほんの序の口に過ぎない。だが。
「もう僕は子供じゃない。ここには、僕を好いてくれる人がいる」
彼女のそれが、僕の持つ感情とは違っていたとしても、あのときとは違う。
……大切な人を、もう独りになんかさせない。
しばらくの沈黙が流れ、聞こえてきたのは嘆息だった。
――なら、明日は1日中晴れるといいな。
それは、よき登校日和を願ってくれる言葉ではない。
言外に言われた。ならば、逃げるなよ、と。
――明日は満月だからな。
追い打ちをかけるように付け足す父は、非常に性格が悪い。
通話を切り、息を吐きながら無機質な壁にもたれかかる。
「…………僕が月嫌いなの、知ってるでしょ」
ガラス越しに空を仰ぐ。
夏とはいえ長居しすぎた。薄暗い空には一番星がきらめいている。
遥か頭上で輝いているはずの月は……そもそも見たくもない。そういう主義なのだ。
「……ミブロ、か」
僕がこの名前を知っていたと聞いたら、彼女は怒るだろうか。
あんなに想われていた。だからついに言えなかった。「彼が誰なのか、知ってるよ」……と。
言えるはずがなかった。あの真剣な瞳が、僕に向けられていないと知れば。
でも、いつまでもこのままではいられない。
身を起こして歩き始める。
「ミブロ――お前の好きにはさせない」
本当に大変なのは、明日だ。明日カタをつけられなければ、それで――




