1―ナツノツキ―
2人だけの図書室。私の葛藤も、ついに終わりを告げようとしていた。
「助動詞『べし』の文法的意味は、推量・意志・仮定・勧誘・婉曲・適当の6つ。文脈から考えて推量。
で、こっちは完了の助動詞『ぬ』の連体形だ! できたー!」
シャーペンを置き、書き上げたばかりのノートを目の前に掲げてみる。
「解説すっごくわかりやすかった! ありがとうね、若葉くん!」
「お役に立てたなら何よりです」
今度お礼をしなくちゃな……と考えながら教材を片付けていたときのこと。
クリアファイルから覗くノートの切れ端が目に留まった。
「それは……枕草子?」
「うん。懐かしいなぁ。中学のときに授業でやったんだけど、ここに入れてたの、すっかり忘れてたよ」
「大事に持ってたんだ?」
「えへへ……。清少納言って、四季の表現が綺麗だから好きなんだ。特に好きなフレーズがここに書いてあるの」
手元に視線を落とすと、まだあどけない文字が罫線に沿って書かれている。
「『夏は夜。月のころはさらなり。やみもなほ、ほたるの多く飛び違ひたる――』」
たった3行の短い文。これに、私は感銘を受けた。
「私ね、月を眺めるのが好きなの」
ノートの切れ端を覗き込んでいた若葉くんが、視線を上げる。
「月?」
「そうだよ。夏の満月が好きなんだ。
……ウチね、両親が仕事でよく家を空けるの。仕方ないんだって子供心に理解していても、やっぱり寂しかった。
夜みたいに暗くて静かな場所にいると、心細くなるんだ」
真っ暗な中にただ独り。長い長い夜の記憶は、今でも鮮明に残っている。
「でも、夏の満月って明るいうちから見えるでしょ。だから見てると安心するの。
――それに、夏の満月には大切な思い出があるし」
「前にも言ってたね。その思い出って、憧れの人との?」
「……うん」
ミブロと出会った夜も満月だった。だから、待ち遠しくてたまらなくなる。簡単に会えないとわかってはいても。
「紅林さんに想ってもらえるなんて、その人は幸せだね。妬けるなぁ」
「はいっ!?」
若葉くんを見るけど、目の前には微笑みがあるだけ。
う……何なんだ、この気まずさ。
すっかり忘れてたけど、若葉くんと2人きりという状況。
若葉くんはいつも通り笑ってるから、冗談だっていうことは一目瞭然なんだけど、私は違う。
恥ずかしさのあまり、机に突っ伏してしまう。
「ずいぶんとお疲れですね?」
「今度行われる試合に向けての、連日の調整によってもたらされた疲労のせいです……」
というのは嘘に決まっている。
昨日あれだけ休養を取ったのに、何を言っているのだか。
「まさか、まだ調子が完全に戻ってないんじゃ……学校に来てもよかったの!?」
「だ、大丈夫! 私、回復が早いのがチャームポイントなの!」
「治りが早いのが長所なんて……いつ怪我や病気をしても平気みたいな言い方……」
若葉くんの表情が明るくなるどころかどんどん暗くなっていく。もう頭を抱え込みたくて仕方ない。
突然、若葉くんの右手が伸びてくる。
脊髄が反射の信号を出そうとする頃、その手はすでに私を捉えていた。
長い指が私の前髪を掻き上げ、手のひらが額に触れる。同じようにして、若葉くん自身の額にもう一方を当てる。
「熱はないみたいだけど……」
私はといえば、額に感じる手のひらの、予想以上の大きさと温かさに固まっていた。
顔が熱くなってきたのを、若葉くんは律儀にも見逃さなかった。
「頬が紅潮してる。これから熱が出るかもしれない。早めに休んだほうがいいよ!」
ガタリと椅子を揺らし、立ち上がる若葉くん。このままでは有無を言わさず保健室に連れて行かれそうな勢いだ。
「いやいやいや! 気のせいだって! 見てほらピンピンしてるでしょ!」
「今は平気でも、後からキツくなってくることもあるだろうし……」
本気で心配してくれるから、冗談抜きで胸が痛くなった。
「ごめん、嘘ついた! さっきのため息、部活疲れなんかじゃない」
「じゃあどうして……」
「それは……言えない」
「どうして? 迷惑になるから?」
「ち、違うよ! 若葉くんを頼ってないわけじゃないの。どう言ったらいいのかわからないだけ。
もしものときは真っ先に話すから、今は気にしないで?」
「……うん、わかった」
若葉くんは渋々、といった様子でうなずいてくれた。
「そうだ紅林さん、ひとつ……いいかな」
「えと……何?」
「ほら、今朝言い合いしてた人がいるでしょう。確か」
「……ああ城ヶ崎? 彼、何か恨みでもあるの? ってくらいケンカふっかけてくるの。私、嫌われてるのかなーあははっ!」
「そうかな。仲が良さそうだったけど」
「えぇ! どこを見たらそうなるの?」
「自分の感情を他人にぶつけるっていうのは、なかなかできないことだよ。
紅林さんは、なんだかんだで彼に心を許しているんじゃないかな」
「心を、許してる……」
意識はしてなかったけど……話す機会は若葉くんの次に多いと思う。
口が悪くても、よくよく考えれば乱暴をされたわけでもない。意外と律儀で親切な面は、ちらほら見え隠れしていたような。
……案外、悪い人ではないのかな。
心の中でそう思っていたのだと気づかされる。
けど、いきなり「仲良くしてください」とも言えないよね。
「紅林さん、今すぐ僕とケンカしてって言ったら、できる?」
「……えっ、出来ないよそんなことっ!」
「だから、今はそれでいいんじゃないかな。どうやら僕には、紅林さんを怒らせることはできないようだし」
「えっと……?」
「人っていうのは、いつも笑っているわけにはいかないでしょ? ときには怒ったり、泣いたりすることも必要なんだ。
だから紅林さんが本気で怒れる相手がいることは、大切なことだと思う」
そこで、若葉くんは目を細める。
「……本当はそういうのも全部、僕がしてあげたいけど、紅林さんにとっては、違う誰かとコミュニケーションをとることも大事なんだから」
呟く表情が寂しそう……。
そういえば最近、彼はこんな顔をする。
いつも笑っている若葉くんが真剣な表情をしたから、違和感を覚えただけなのかもしれないけど。
そう納得しているのに、どこか腑に落ちないような気持ちが拭えなかった。
――このときの私は、何も知らなかった。
この先に待ち受けるものの、重大さを。




