2―イタミ―
(おかしいですぞ……)
休み時間、私は土屋先生に日直の仕事を仰せつかったはず。
これでも力仕事には自信があったんだけど、「僕が行くね!」ってスマイルもらっちゃって。
口を挟む間もなく、大量のプリントをせっせと用意する若葉くんを、職員室の外で待つことになった。
「……ホント、不思議な人」
編入生って注目されるものだし、誰かしら話しかけてくれるものだ。
若葉くんほどの人柄なら、すぐに友達だってできるはず、なんだけど。
(昨日、若葉くんは私以外の誰かと話してた?)
考えてみても、頭の中は真っ白だった。
「アンタってホント勇気あるよねぇ、アキ」
そんなとき、どこからか聞こえてきた名前には、覚えがあった。
アキ……確か、クラスメイトにも同じ名前の人がいたな。遠藤亜貴さん。
何気なく壁から顔を出す。
すると職員室を横切る廊下をちょうど曲がったところで、その遠藤さんが何人かの女子と輪を作っているではないか。
(どうしたんだろ?)
顔を覗かせた私の耳に飛び込んできたものは――衝撃的な話だった。
「だって、嫌だったんだもん。紅林さんと日直なんて」
――聞き間違いであれば、どんなによかっただろう。
しかしその声は、はっきりと耳に残る。
「まぁ紅林さんは怖いもんね。できるだけ近づきたくないし」
「そうそう、昨日授業に遅れてきたでしょ。あれって、城ヶ崎とかいう不良とツルんでたからって話だよ」
「ヤダ、こわーい。それじゃあ亜貴がやりたくなくなるのも当然だよね」
……ズキン。
どうしたの、私。
いつも言われてきたのに、どうしてこんなに、胸が痛いの……?
「何言ってんのみんな。あんなの、怖いなんて思うわけないじゃない。
それよりも気に食わないのよ。さやかなんて、編入生をちょっとからかっただけでガン飛ばされたって言ってたよ。
私、そういう暑苦しい正義感って嫌い。不良なら不良らしく悪さでもしてろっての」
遠藤さんには、いつも見る人当たりのいい笑顔なんて全然なかった。
何のためらいもなく言葉を放って、そして笑う。
「だから編入生と名前を書き換えたの。
これくらいは許されると思わない? こっちは紅林さんと違って、か弱い女子なんだもの。正当防衛よ。
怪物には、貧相な獲物がお似合いだわ」
……ちょっと、待ってよ。
「それはどういうことだ!!」
気づいたら、足を踏み出していた。
遠藤さんたちが振り返る。
私は、持ちうる限りの理性を保つのに必死だった。
……私のことをけなすなら、好きなだけやればいい。
でも、ほかの人のことを悪く言うのは許せない!
「……みんな、もう行こ」
そそくさと、遠藤さんがきびすを返す。
「おい、ちょっと待てっ!」
腕を掴んで引き留めようとすると、
「いやっ! 離してよ!」
――パァアンッ!
乾いた音が鳴り響く。
あぜんとして、熱を持つ手の甲を見つめる。
遠藤さんも驚愕に固まっていた。自分でも信じられないのだろう。紅林の手を叩き払ったなど。
女子たちが一目散に走り去る。
ものの10秒も経たないうちに、全員の姿が見えなくなった。
あとには私が取り残されただけ。
「……痛い」
呟いた声は、掠れていた。
手の甲がジンジンと痛みを訴える。
でもそれ以上に痛いのは、胸だった。
「…………」
怖がられていただけだと思っていた。
私から歩み寄り、誤解を解けば、いつの日か打ち解けられる日が来ると信じていた。
けれど、何を己惚れていたんだろう?
私は怖がられてたんじゃない。
……嫌われてたんだ。
だからみんなは私に近づかない。
私に近づくものにも、近づきたがらない。
「紅林さん、こんなところにいたんだ。もう終わったよ?」
背後から届いた、聞くほどに嬉しくなるはずの優しい声。
なのに今は聞けば聞くほど、悲しくなるだけ。
「ごめん若葉くん。先に教室帰ってて」
か細くなった声を張り、平静を装う。
「……何かあったの?」
いけない、ダメよ、答えちゃ。
心配そうに訊ねる声へ耳を傾けてしまえば、つい弱気になってしまう。
答えてしまえば、また若葉くんに甘えてしまう。
「……ごめんっ!」
顔を上げずに、走り出した。
「紅林さん!?」
後ろから若葉くんの呼び声が聞こえる。
耳をふさぐ。
聞こえない。
聞こえない。
聞こえちゃいけない。
聞いちゃいけない。
前を見ずに走り続けた。
手が痛い。胸が痛い。
涙が出てくる。視界がどんどんぐちゃぐちゃになる。
私の心もぐちゃぐちゃ。もう、何が何だかわからない。
走っているうちに強烈な眩暈に襲われ、腹部へ刺すような痛みも感じた。
(……また、来た)
足の力が抜け、よろよろと無機質な壁にもたれかかる。
何かを言われると、よく腹部に痛みを感じた。
高校に入ってからが殊に酷かったけれど、最近はおさまっていた。
辛いことを忘れてたんだ。それはきっと、若葉くんのおかげ。
彼が話しかけて来てくれるだけでも、私にとっては大きな救いだった。
(でもそれも……もうダメ)
痛いところを押さえる。痛みは増す一方で、引く気配はない。
今までにないくらいの激痛だった。必死に耐えても一向によくならない。
視界が明滅する。
あまりの痛さに悲鳴が出そうになったとき、糸がプツリと途切れたように、私の意識は闇に堕ちていった……。




