三年灯りの消えた家で毎晩ひとつ芯を切り「いてほしい」と言われました
ちくり、と焦げた芯が綴の指を刺した。たかが蝋燭の分際で、初対面の挨拶より先にこちらの指先を取り立てるとは、ずいぶん威勢がいい。
「三年前の冬に落ちましたね」
綴は燭台の前に膝をついたまま言った。背後で、家の当主らしい男が息を止めた気配がしたが、挨拶はあとでよろしい。焦げは待ってくれないし、待ちすぎた焦げは案外おしゃべりなのだ。
燭台には蝋燭が半分ほど残っていた。溶けた蝋は片側へ厚く垂れ、そのまま冷えて裾を広げている。芯の先は斜めに倒れ、最後に火を落とされた側だけが固く黒かった。
「なぜ分かる」
「芯の焦げが古うございます。蝋が固まった日に傾いたまま、誰にも触れられておりません。それに、こちら」
綴は芯の根元に爪を添えた。冷え切った蝋の表面には、冬の乾いた空気でできる細かな皺が残っている。
「三年ぶんの埃をかぶっておりますのに、蝋だけは上物ですわね。十本で四百文。四百文を三年寝かせるとは、ずいぶん贅沢な暗がりですこと」
返事はなかった。振り向くと、晶親は開け放した障子のそばに立っていた。まだ日は高いのに座敷の隅は青黒く、彼の顔まで暗がりに半分食われている。
この仕事を持ってきたのは、蝋燭屋の親方である伴朔だった。朝一番、綴の前へ芯切り鋏を置き、「古い蝋だ。見てこい」とだけ言ったのである。値段と品以外を口にすると舌が減るとでも思っているらしい。
「見て、どうするんですの」
「切れるなら切れ」
「切ったあと、点ける方はいらっしゃるので?」
「さあな」
なんと親切な依頼であろう。行き先の分からぬ荷を担がせるなら、せめて握り飯を一つ増やしてほしかった。
綴は懐から細身の芯切り鋏を出した。刃を開くと、座敷の冷気まで挟み込んだような音がした。
「この一本は整えられます。ほかの燭台も拝見してよろしゅうございますか」
晶親の目が、鋏から蝋燭へ移った。腰には火打石の入った袋が下がっている。袋の角は擦れているのに、口紐だけは三年ぶん固く結ばれていた。
「今夜も、そのままで」
「承知いたしました」
切るなではなく、そのままで。綴は鋏を閉じた。頼まれておいて仕事をするなとは、暗がりにも作法があるらしい。
立ち上がって一礼すると、また指が芯へ伸びかけた。綴はその指をもう片方の手でつかみ、何事もなかった顔で袖の中へ押し込んだ。
* * *
蝋もある。燭台もある。火打石もある。なのに家中の誰も火を点けないとは、飯と椀と箸を並べて米だけ炊かないようなものである。実に落ち着かない。
翌日、綴は雨路に案内されて家の中を回った。客間には五本、廊下には二本、台所には短いのが三本。どれも途中まで使われ、どれも同じ冬から息を止めている。
「ここまで揃っておりますと、点けないほうが難しくありません?」
「難しいから、三年こうなんですよ」
雨路は窓を拭く布を腰紐に挟み、さっさと先へ進んだ。働く者の足だ。暗くても柱の位置を外さず、敷居の高さを忘れない。慣れとは恐ろしい。灯油代を浮かせる妙案として売り出せば、世の倹約家が泣いて喜ぶかもしれないが、綴は一文たりとも買いたくなかった。
台所では奉公人が野菜を刻んでいた。刃先は確かに動いているのに、手元を照らすものは庭から差す夕暮れだけである。指まで具にする前に灯したほうが安い。指は生えてこないが、蝋燭はまた作れる。
「旦那様は、灯をお嫌いなのでございますか」
「嫌いなら、蝋なんて毎月買いませんよ」
棚の上には包み直された蝋燭が並んでいた。新しいものほど白く、古いものほど薄く黄ばんでいる。伴朔が三年間、一月も欠かさず納めた品だった。
「では、奉公の方々が遠慮を?」
「遠慮で包丁は握れません。命じられりゃ点けます」
「命じられておりませんのね」
雨路は足を止めた。奥座敷のほうへ目をやり、声を落とすのではなく、むしろ綴へまっすぐ渡した。
「姐さん。うちらは灯りが要らないんじゃない。点けていいのか分からないんです」
夕日が屋根の向こうへ沈み、台所の隅から順に形が消えていった。誰か一人が火打石へ手を伸ばせば済む。済むからこそ、誰も伸ばせない。
「許しを出す方が、お休みのようですわね」
「三年もね」
雨路は竈の熾火に灰をかぶせた。その火を蝋燭へ移すこともできただろうが、火箸はまっすぐ灰の中へ戻された。
「綴さんなら、起こせますか」
「わたくしは芯切りです。人起こしは商いの外でございます」
「でしょうねえ」
「ですが、寝床を少し居心地悪くするくらいなら」
綴は台所の短い蝋燭を一本取り、芯の傾きを確かめた。指先には、使われる日を待ち続けた蝋の冷たさだけが残った。
* * *
閉じられる家の最後の灯には、妙な癖がある。よく燃えるのだ。今さら働き者ぶってどうするのかと思うほど、まっすぐ、長く、家財が運び出されるまで燃え続ける。
綴はこれまで三軒で、その最後を見た。一軒目では空になった長屋で一本、二軒目では売られる屋敷の玄関で一本、三軒目では奉公人まで去った店先で一本。火が短くなるのを待ちながら食べた握り飯は、どれも芯まで冷えていた。
最後は鋏を鳴らし、燃え尽きる前の芯を落とす。蝋が指につく。拭っても爪の脇に白く残り、その家がなくなったあとまでついてくる。終わったものほど、しつこく手に残るのだから困ったものだ。
三度目の翌朝、伴朔は綴の指を一瞥しただけだった。
「米粒か」
「蝋でございます。親方の上物が、わたくしの爪に居座っておりますの」
「なら取るな。看板になる」
「うちの看板、ずいぶん小さくなりましたわね」
伴朔は返事の代わりに次の注文票を寄こした。その中に、晶親の家へ納める蝋燭もあった。使われないと知っていて納める蝋は、売り物なのか、便りなのか。親方に尋ねても、きっと重さしか答えまい。
晶親の家を二度目に訪れた晩、綴は例の座敷で鋏を布に包んだまま座っていた。向かいでは晶親が火打石の袋を握っている。口紐はまだ固い。
「お前は、なぜこの仕事を受けた」
「親方が行けと申しましたので」
「それだけか」
「代金をいただけるなら、たいていの場所へ参ります。真夜中の墓場は割増しでございますが」
晶親は笑わなかった。ここで笑われても、それはそれで腹が立つのでよしとする。
綴は包みの上へ両手を置いた。鋏の冷たさが布を通して掌へ上がってくる。
「消すところしか見たことがございません」
晶親の指が、火打石の袋を少し強く握った。
「ですから、灯し方を教えることはできません。旦那様へ、灯すべきだと申し上げるつもりもございません」
「では、何をする」
「芯を切ります」
綴は布を解き、鋏を取り出した。昨日見た台所の一本を燭台ごと運んでもらい、焦げた先を刃の間へ入れる。
ちん、と小さな音がした。
切り落とした焦げを受け皿へ置き、整えた芯を中央へ起こす。火は点けない。燭台を晶親の前へ戻し、鋏だけを持って立ち上がった。
「本日はこれで」
「それだけか」
「それだけでございます。余計な仕事は別料金ですわ」
帰り際、雨路が包んだ握り飯を持たせてくれた。握り飯は大きかった。綴は歩きながら食べたい誘惑と戦い、結局、門を出て三歩で負けた。
* * *
次の晩も、綴は一本だけ芯を切った。客間のいちばん短い蝋燭を選び、ちん、と鳴らし、燭台へ戻す。
「今日はそれですか」
「短いものから片づけるのが商いの常でございます。長い蝋ばかり残しても、棚の見栄えがよろしいだけですもの」
「うちは店じゃありませんよ」
「三年ぶん仕入れて使わない家は、店より在庫がございますわ、姐さん」
雨路は鼻で笑い、燭台を受け取った。その夜も火は点かなかった。
三晩目は廊下の一本。四晩目は台所の一本。鋏の音がして、燭台が戻され、綴は帰る。火打石は棚や腰や盆の上にあり、誰の手にも取られなかった。
五晩目、綴は切った芯をいつもより長く眺めた。長すぎれば煤が出る。短すぎれば蝋に火が届かない。見慣れた長さのはずなのに、今夜は刃先が一分ずれて見えた。
「姐さん」
「なんでしょう」
「火が点かないのは、芯のせいではありませんよ」
「存じております」
「なら、その顔はやめなさいな。蝋燭に試験で落とされた娘みたいですよ」
それは困る。わたくしのほうが専門家ですのに。綴は胸の中で蝋燭へ減点を申し渡し、燭台を雨路へ押しつけた。
それでも帰り道には、自分の切った芯だから点かないのではないかという考えがついてきた。職人の腕は便利なもので、うまくいけば自慢でき、うまくいかなければ夜道で勝手に首を絞めてくる。
七晩目、店へ戻すぶんの手つかずの古い蝋を伴朔の前へ置いた。包みはそのままで、火を入れていないから重さは変わらない。
伴朔は秤を出さなかった。包みを脇へ寄せ、代わりに新しい蝋燭の束を綴の胸へ押しつけた。
「来月ぶんだ」
「まだ一本も減っておりませんわ」
「芯は減った」
「焦げの重さまで勘定なさるんですの?」
「俺の蝋だ」
綴は束を抱え直した。上物である。三百文を超える。使われもしない品をまた持っていくなんて、商人としてはどうかしている。だが伴朔はもう背を向け、火の点いた作業台で次の芯を撚っていた。
八晩目、綴は新しい束を家へ置き、古い一本を選んだ。ちん、と切る。燭台を戻す。
「明日も来るんですか」
「蝋がございますから」
「減ってませんよ」
「親方が量りませんでしたの。仕方ございませんわね」
綴は帰った。背中に暗い門が閉じる音を聞き、今夜もだめだったかとは考えないことにした。考えないと決めたことほど、足元へまとわりつく。まったく、夜というものは暇らしい。
* * *
九晩目、門をくぐった綴は足を止めた。座敷の障子に、細長い金色が揺れている。
雨路を呼ばず、履物を脱いだ。廊下を急げば床板が鳴る。鳴らさないように歩くほうがよほど耳障りで、綴は自分の息まで袖へ包みたくなった。
座敷の中央で、一本の蝋燭が燃えていた。
昨夜、綴が芯を切った一本だった。炎は小さく、まっすぐ立ち、蝋の縁だけをゆっくり溶かしている。誰の姿もない。火打石も見当たらない。
いつもなら芯の長さを確かめる指が伸びた。炎へ影がかかる手前で、その指は宙に止まった。
点いた。
——ああ、間に合った。
何文ぶん燃えたかを考えようとして、数字が一つも浮かばなかった。蝋は上物だ。火も申し分ない。なのに値段だけが、ひどく役立たずになっている。
綴は鋏を出さなかった。座敷の端に座り、一本が燃えるのを見ていた。芯を長くしすぎなかったか、蝋だまりは偏っていないか、窓から風は入らないか。職人の目は忙しいくせに、手だけは膝の上で動かなかった。
やがて雨路が盆を持って入ってきた。灯を見ても驚かず、綴の横へ湯呑みを置く。
「お茶、冷めますよ」
「どなたが」
「知りません」
「まだ何も尋ねておりませんわ」
「じゃあ、お茶をどうぞ」
綴は湯呑みを両手で包んだ。聞けば答えが決まってしまう。決まれば、この一本が誰か一人の勇気になってしまう。家に点いた灯なのだから、家のものにしておけばよい。
「芯は切らないんですか」
「今夜は休業でございます」
「ずいぶん勝手な職人だ」
入口に晶親が立っていた。彼は灯のそばまで来たが、手を出さず、少し離れた場所へ座った。腰の火打石は、まだ袋の中にある。
「旦那様。今夜も、そのままで?」
「今夜は、そのままで」
同じ言葉なのに、灯は消されなかった。
翌晩、座敷には二本の灯が点いていた。一本目の隣で、昨日まで冷えていた蝋燭が新しい蝋だまりを作っている。
綴は二本を順に見た。指は上がらない。鋏は帯の内側で静かなままだった。
「増えましたわね」
「増えましたね」
雨路がそれだけ言い、二人ぶんの茶を置いた。二本の灯の下では、湯気まで昨日より太く見えた。
* * *
晶親は、灯を消していれば子を忘れずに済むと思っていたのではなかった。灯の下には空いた座布団が見える。小さな椀のなくなった膳が見える。日が暮れるたび、不在だけが明るく照らされるのが怖かった。暗がりは何も返さない代わりに、何も見せなかった。
三本目となる灯の芯を切る夜、綴は晶親の前で鋏を鳴らした。切った焦げを受け皿へ置き、刃を布で拭う。
「旦那様」
「なんだ」
「次は、こちらでございます」
燭台を押し出す。晶親は腰の袋を外した。紐へ指をかけたまま、長く座っていた。
綴は急かさなかった。励ます言葉も探さない。職人が口を出して炎が立つなら、世の中の竈はずいぶん騒がしいことになっている。
やがて固くなった結び目がほどけた。晶親は火打石を取り出し、片方を握り直した。
「あの子がいないことを、灯の下で見るのが怖かった」
石の角が擦れ、乾いた音がした。一度目は火花だけ。二度目も芯へ届かない。
「暗ければ、戻らないものを見ずに済むと思った。だが、戻らないことまで消えはしなかった」
三度目の火花が火口へ移った。晶親は小さな火を風からかばい、整えられた芯へ近づける。
炎が移る。蝋燭の根元まで光が下り、晶親の指を照らした。火打石を握る手は震えていたが、彼は離れずに一本を見ていた。
綴は鋏を布の上へ置いた。指先は、布の端を押さえたままだった。
「消さなくてよいのか」
「それを決めるのは、わたくしではございません」
「お前は、切った」
「はい」
「点くように」
「はい」
晶親は火打石を袋へ戻さなかった。掌に握ったまま、灯の前へ座った。
雨路が廊下の向こうで足を止めた。何も言わず、台所へ引き返す。ほどなく包丁の音がし、その手元にも一本、灯が点いた。
家は急には明るくならなかった。廊下の端も、使われない部屋も暗いままだ。三本の灯では三年ぶんの夜を追い出せない。
それでも晶親は、炎の下から顔を背けなかった。
* * *
半月後、綴が門をくぐると、玄関の灯が先に彼女を見つけた。廊下に二本、客間に五本、台所には短いのが三本。三年ぶんの燃え残りが、ようやく自分の蝋を溶かし始めている。
暗い家では気づかなかった傷も、柱の染みも、積もった埃も見えた。雨路は朝から雑巾を振り回し、奉公人たちは眩しいだの煤が出るだの好き勝手を言いながら働いている。灯を戻したら家まで上等になる、などという都合のよい話はない。見えなかった掃除が増えただけだ。
「姐さん、そこをどいて。拭けやしない」
「お客様への扱いではございませんわね」
「半月も毎晩来る客がありますか」
「いますわ。こちらに」
「なら客をやめなさいな」
雨路は綴の足元まで布を滑らせ、そのまま台所へ消えた。追い払われたのか招かれたのか、働く女の言葉は値札より読みにくい。
座敷では晶親が自分で灯を点けていた。火花を二度散らし、三度目で火口へ移す。まだ手際がよいとは言えない。芯切りとして採点するなら六十点。だが毎晩、自分の手で点ける者にしか加点されない項目があるらしい。
綴は例の燭台の前へ座った。最初に触れた蝋は短くなり、三年前に固まった裾へ新しい蝋が重なっている。古い形は消えない。その上を、今夜の蝋がゆっくり流れていた。
「仕事は終わったか」
「家中の芯は整いました。これほど一度に切れば、親方も文句はございますまい」
「帰るのか」
綴は鋏を布で拭き、紐を結んだ。いつもなら立ち上がるところで、結び目をもう一度確かめる。締まっている。確かめる必要など、まったくなかった。
「消すところしか見たことがございません」
晶親は点いたばかりの灯を見た。次に、帰り支度をしたまま動かない綴を見る。
「なら、ここで見ればいい」
「何をでございます」
「始まるところを」
台所から出汁の匂いが流れてきた。米と刻んだ菜、それから卵。綴の腹が、真情も余韻も台なしにする立派な音を立てた。灯りより先にこちらを始末したほうがよさそうである。
晶親の口元が、ごくわずかに動いた。
「帰らず、いてほしい」
雇い賃の話は出なかった。部屋の話も、明日の仕事の話も出ない。綴は返事をしようとして、いつもの仕事口調がすぐには出てこなかった。
「旦那様」
「ああ」
「雑炊が焦げますわ」
「そうだな」
晶親は立ち上がり、火打石を持って台所へ向かった。綴は鋏の包みを膝から下ろしたが、帯へ戻しもしなかった。
台所の膳には、初めから椀が一つ多く並んでいた。雨路が何食わぬ顔で雑炊をよそい、晶親の向かいへ一つ、その隣へ一つ、綴の前へ一つ置く。
「冷めますよ、姐さん」
「いただきますわ」
雑炊の値を考えようとして、綴はやめた。椀が温かい。湯気の向こうに雨路がいて、晶親がいて、使いかけの蝋燭が惜しげもなく燃えている。
冷えた握り飯なら、立ったままでも食べられた。温かい雑炊はそうはいかない。綴は椀を両手で持ち、座り直した。
灯の芯が、かすかに爆ぜた。
綴の指は伸びなかった。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




