第2話 裏の顔
僕は、都内のとあるIT系の会社に勤めている。
景気が持ち直してきたからか、受注案件が増え、毎日慌ただしい日々を送っていた。
「聡、フロントエンド側のテスト終わった?」
声をかけてきたのは、一つ年上の先輩、佐々木さんだ。
「鈴木」という名字が社内に多いため、僕は下の名前で呼ばれている。
「それは終わっています。あとはインターフェースのテストだけですね」
僕は少し胸を張って答えた。
ふと、昔の記憶が蘇った。
――本当は、将棋の棋士になりたかった。
奨励会員にはなれたが、初段から伸び悩み、結局、高校進学の時に諦めてしまった。初段までは一度も負けたことがなく、本気でプロ棋士を目指していたのだ。
いや、一度だけ、小さい頃に祖父に負けたことがあった。
「ま、まって!!」
子供の頃、祖父に負かされそうになり、慌てて『マッタ』を叫んだ。
「聡。《マッタ》できるのは、人生でたった一度きりじゃぞ!」
「……」
ベソをかきながら《マッタ》を願ったが、祖父は許してくれなかった。勝負に厳しい人だった。
専門学校二年の時、進路を決める時期になったが、『例の能力』のせいで、人と直接向き合う仕事に就く気がしなかった。
だから、機械相手のシステムエンジニアを目指すことにした。興味もあったし、今ではそこそこ仕事もこなしている。何も問題はない。
不思議なことに、就職してからは「裏の顔」を見る機会がめっきり減った。理由はわからない。
せいぜい、酔っ払いに絡まれた時とか、ぼったくりバーの呼び込みに声をかけられた時くらいのものだ。
さて、定時を過ぎて帰る時間になった。
今日のスケジュールはすべて終えたし、週末だ。このまま帰ろう。
帰り支度をしていると、同僚の里見優香さんが声をかけてきた。歳は二つ上だったはずだ。
「テスト、お疲れ様です。あの……」
言いかけて黙り込み、下を向いてしまう。
「ん? 何?」
僕が聞き返すと、彼女は小さな声で言った。
「私の担当の所なんですけど、わからないところがあって……教えていただけませんか?」
いつもより妙に畏まっている。
「いいよ。じゃあ、里見さんの席に――」
と言いかけた時、彼女はさらに小声でつぶやいた。
「ここじゃなくて……ご飯食べながらでもいいですか?」
その瞬間、僕の胸に彼女の気持ちが流れ込んできた。
「あ……」
思わず固まる。だが、彼女は僕の顔を覗き込んで返事を待っている。
相談というより、デートに誘われてるのか? そんな考えが頭をよぎって、顔が熱くなった。
「わかった。いいよ」
「じゃ、帰り支度してきますね」
はにかみながら席に戻っていく。
僕は先にビルの入り口で待つことにした。
平静を装おうとしても、顔がにやけてしまう。
――彼女は、僕のことが好きなのか。なんで今まで気づかなかったんだろう。
そんなことを考えていると、自動ドアから彼女が出てきた。
「お待たせしました」
「全然待ってないよ」
「どこ行きましょうか」
しまった。店を考えていなかった。
慌ててスマホで検索していると、彼女が横から覗き込んでくる。
「何か食べたいものある?」
「聡さんのおすすめがいいです」
にっこり微笑む彼女。顔が近くて、心臓が跳ねる。
「……じゃあ、和食でもいい?」
「いいですね」
彼女はいつも丁寧な言葉遣いだ。僕より年上なのに、どこか可愛らしい。
僕は何度か行ったことのある落ち着いた和食店を選んだ。
店は週末のわりに空いていて、奥の席に通された。
注文を終え、落ち着いたところで切り出す。
「さっき言ってた、わからないところって?」
彼女の担当は、僕とは別の開発チーム。まだテスト段階ではなく、コードを書きまくっている一番忙しい時期だ。
「わからないというか……。
私、一生懸命やってるんですけど、周りについていけなくて。みんな仕事が早すぎて……」
「うーん、里見さんは里見さんのペースでいいんじゃない? マネージャーもわかってるはずだよ」
とりあえずフォローを入れる。
「でも、プレッシャーが怖いんです。期待に応えられるかわからなくて……」
だんだん表情が暗くなっていく。
「このままだと、辞めるかもしれないです」
「……」
返す言葉が見つからない。なぜなら、彼女の辛そうな顔は本心ではなかったからだ。
「こんな話、ごめんなさい」
「いや、力になれなくてごめん」
「でも……聡さんがいてくれるだけで、励みになってるんです」
「え? 僕は何もしてないよ」
頬を赤らめる彼女を見て、それ以上は言葉が出なかった。
ちょうどその時、料理が運ばれてきた。
彼女の前に置かれた海鮮丼は、魚の切り身がつややかで、まるでまだ生きているかのように新鮮だった。
僕の頼んだ天丼も、衣がカラッと揚がっていて、海老天は器からはみ出すほど大きい。思わず食欲をそそられる。
彼女はさっきまでの沈んだ表情が嘘のように、明るい声で「いただきます!」と箸を取った。
――食べ終わって、会計の時。彼女は「割り勘で」と言ったが、僕が奢ることにした。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
彼女が満足そうに言う。
「そうだね。おいしか……」
言いかけた時、突然腕を組まれて、言葉が途切れた。
「今日は、ありがとう」
彼女は遠くを見つめるような目でつぶやいた。
彼女の言葉に胸が温かくなる。けれど次の瞬間、胸の奥にざらつくような違和感が流れ込んできた。
――彼女の母親の声だ。
「あなたも、もう三十になるんだから、とっとと結婚しなさいよ!」
思わず一歩、身を引いてしまった。




