悪魔の転生
湖──暗くて明るい場所。明るくて、暗い場所。
関東の静かな湖畔に、ある家族がひっそりと暮らしていた。美しさだけが、そこに光をもたらしていた。父と母は目立たぬ平凡な人だったが、一人息子だけは違った。津上鏡太郎──その美しさは、村の娘たちの憧れの的だった。
彼には心から愛する許嫁がいた。それは湖の反対岸に住む令嬢の戸厳芙佐子だった。彼女も彼に劣らぬほどの美貌を持っていた。出会いは村の祭りで彼女の父にあったことだった。「うちの娘には美しい君がぴったりだ。二人が合わされば、完璧だ。」
彼が十五になる年、夫婦は身ごもり弟が生まれた。想像を絶するほどの難産で母は出産以降寝込んでしまった。この新たな命の誕生を喜ぶ者はいなかった。産まれてきたのは怪物のような醜い赤ん坊だったのだ。その赤ん坊はまるで杵で千度も殴られたような不格好な頭を持ち全身ただれていた。
村の人は悪魔の生まれ変わりだと噂した。弟は名前を与えられなかった。何度か父は赤ん坊を捨てようと出かけたものの怪物とは言えど自分の息子を殺す勇気はなかった。ついに夫婦は赤ん坊を家に隠し皆には死んだと話した。鏡太郎はそんな弟を哀れに思った。こっそり遊びに連れて行ったこともあった。
彼の一つの気がかりは芙佐子さんのことだった。「きっと弟の存在がばれたら、結婚の約束は破談になってしまうに決まってる。」弟はどこか哀れでありながら、どこか恐ろしかった。
その赤ん坊が三つになる年、母は死んだ。山が紅く染まり始めた季節のことだった。父が葬式代の返済のため隣町へと出稼ぎに出かけた日のこと、鏡太郎は芙佐子さんとボートをする約束をした。久しぶりの交遊のため彼は張り切っておむすびやお茶など沢山準備をした。かなりの荷物になってしまったがボートが得意な彼は気にしなかった。
ボートの準備が終わり、ついに出発しようとした時であった。ここから八間ほどの場所に淡い青色の美しい花を見つけた。
「きっと彼女にあげたら喜ぶぞ。」
彼は彼女の喜ぶ姿を想像して微笑みながら淡青の花を片手にボートに乗り込んだ。
「気持ちのいい日だ。なんだか歌でも歌いたい気分だ。」
鼻歌を歌いながら向こう岸に向けてボートを漕いだ。
「これで芙佐子さんが隣に乗ったらどれほど楽しいものか。」
笑みが自然とこぼれた。
湖の真ん中まで来たとき、「ウー」と気味の悪い声が後ろから聞こえた。「何だ。」とゾクッとして振り返ると荷物の後ろに醜い怪物がいた。彼は驚きのあまりボートから転げ落ちそうになった。とっさにその怪物を突き飛ばして湖に落とした。
泣き声が聞こえた。「弟だッ。」彼は気がついた。助けようと櫂を伸ばした。弟はしがみつこうと手を伸ばした。その時だった。悪魔が彼の心に忍び込んだ。
「こいつをここで始末すれば、もう怯えずにすむ。あいつのせいで結婚が破談することもないんだ。こいつがいなくなれば、もう隠さずに済む。もう芙佐子さんの目を恐れなくていい。父も食い扶持を減らせて楽になる。」
彼はしがみつこうとする弟を櫂で何度も何度も殴りつけた。
「これでいいんだ。そうだこれでいいんだ。」
ただでさえひどい顔は腫れ上がり血が滲んだ。奇妙なうなり声を上げて怪物は沈んでいった。息だけがぶくぶくとずっとそこに残った。青い花が死を弔うかのように彼のポケットから湖水に落ちた。
その後のことを鏡太郎は覚えていない。芙佐子さんのところに行ってすぐに帰ったらしい。芙佐子さんの不思議そうな顔と帰る時の悲しそうな目だけが心に残った。彼の父は弟が死んでから三日後に帰ってきたが弟は元々いなかったかのように振る舞った。
それから一年たった冬、彼は芙佐子さんと結婚した。そして息子を授かった。名前は真太郎とつけた。彼に似て美しい息子だった。
真太郎が三つになり言葉も発するようになったある日のことだった。彼は家族三人でボート遊びに出かけた。彼にとって事件以来のボートだった。
「父さんはボートがうまいんだぜ。」
そう言うと芙佐子さんは微笑み、真太郎は喜び手を叩いた。丁度彼の弟が沈んだ湖の真ん中に来たときだった。ぶくぶくと空気が上がってきた。彼の顔は真っ青になり、汗が額から噴き出した。
「あいつが沈んだ時と同じだ。」
彼の様子がおかしいため芙佐子さんは近寄り「大丈夫ですか。」とハンカチで彼の顔を拭いてやった。
真太郎も変なものを見るように彼の顔をのぞき込んだ。
「ねえ、この花あげるから元気だしてよ。」
あの時の花と同じ淡青の花を差し出した。そして鏡太郎にそっとささやいた。
「今度は落とさないでよ、兄さん。」
転生というものは本当にあるのでしょうか。皆さんはどう思いますか。