笑顔が普通になった君 #10
病院の出口を出た瞬間、空気が変わった。
生ぬるいけれど、どこか自由の匂いがする夏の風が肌を撫でる。
病院の消毒液の匂いとは違う、街の雑多な香りが鼻をくすぐった。
「……外だ」
俺が思わず呟くと、隣にいる瑞稀がくすっと笑った。
「そうだね。なんか変な感じがする」
「そりゃあ、しばらく病院に閉じ込められてたからね」
「うん。でも、だからこそ……」
瑞稀はふわりと微笑む。
「すごく新鮮」
そう言う瑞稀の顔は、昨日までの病院で見せていたものとは違い、どこか解き放たれたようだった。
「で、どこ行く?」
「えっとね、せっかくだから、近くの商店街に行ってみたい」
「商店街?」
「うん。病院の食事ばっかりだったし、なんか美味しいもの食べたいなって思って」
「いいじゃんそれ」
俺たちはそのまま歩き出し、病院の近くの小さな商店街へと向かった。
商店街に入ると、すぐに賑やかな音と人の気配に包まれる。
焼き鳥の煙が立ち昇る屋台、おばあさんが店番をする昔ながらの和菓子屋、夏の日差しを避けるように軒先に吊るされた風鈴。
久しぶりの、街の喧騒。
「わ……」
瑞稀は目を輝かせながら、きょろきょろと辺りを見回している。
「なんか、全部が新鮮に感じる……」
「まあ、病院にいるとなかなか来れないもんな」
「うん……あっ!」
急に瑞稀が足を止める。
「どうした?」
「あれ、たい焼き屋さんだ!」
指さす先には、昔ながらのたい焼き屋があった。
店の前には数人の客が並んでいて、甘い香りがふわりと漂ってくる。
「食べたい!」
瑞稀は無邪気に笑いながら俺の腕を引く。
「おっとと、そんな急がなくても…」
「人気だからすぐ取られちゃうよぉー」
急いで二人で列に並び、順番を待つ。
瑞稀はそわそわしながら、メニュー表を見上げていた。
「何味にしようかな……普通のあんこもいいけど、カスタードも捨てがたい……」
「そんなに悩むこと?」
「だって久しぶりなんだよ? 真剣に選ばなきゃ…」
そう言って、瑞稀は唸るように腕を組む。
そして、数秒後、ぱっと顔を上げて言った。
「決めた! 普通のあんこと、カスタード、一個ずつ!」
「結局両方買うのかよ」
「だって選べないもん!」
瑞稀は無邪気に笑いながら、たい焼きを受け取ると、一口かじった。
「……!」
その瞬間、目を大きく見開く。
「どうした?」
「美味しい……!」
瑞稀は幸せそうに目を細めながら、もう一口食べた。
「やっぱり、こういうものは病院の食事とは全然違うね」
「そりゃそうだろ」
俺も自分のたい焼きをかじる。
熱々のあんこが口の中に広がり、甘さがじんわりと体に染みる。
「……うまいな」
「でしょ?」
瑞稀は満足そうに頷いた。
そんな風に楽しそうに笑う瑞稀の姿を見て、ふと思った。
俺は、瑞稀の病院での暗い表情ばかりが印象に残っていたけれど、こうやって無邪気に笑う姿もあるんだと。
——いや、いつもならこうやって笑っていたいのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺は静かにたい焼きを頬張った。
「ねえ」
「ん?」
「また、こうやって外に出られたら……君も付き合ってくれる?」
瑞稀は少し不安げな表情で、俺を見上げた。
その顔を見て、俺は軽く肩をすくめる。
「まあ、暇だったらな」
「えー、それじゃあ困る!」
瑞稀は頬を膨らませるが、すぐにくすっと笑った。
「でも……今日は付き合ってくれて、ありがとう」
俺は、たい焼きを食べながら、軽く頭をかいた。
「別に礼を言われるほどのことじゃないけどな」
「それでも、嬉しかったんだよ」
瑞稀はそう言って、再びたい焼きをかじった。
夏の空の下、甘い香りと、人混みと、瑞稀の笑顔。
病院の外の世界は、こんなにも鮮やかだった。




