事故 #1
夜の帳が街を覆い尽くし、空には頼りない月が浮かんでいた。
部活を終えた俺《春樹》は、湿った夜風を肌に感じながら、人気のない帰り道を歩いていた。部活の疲れと微かな達成感が入り混じる心地よさに浸りつつ、スマホの画面に視線を落とす。
――時刻は、午後十時過ぎ。
帰宅が遅くなることは珍しくない。だが、今日は妙に静かだった。街灯の光はぼんやりと路上を照らし、遠くで虫の鳴く声がする。住宅街の窓の明かりも、まばらに灯っているだけだ。
俺はふと、肩の力を抜いて深く息を吐いた。
(……早く帰って飯食って、風呂入って寝よう)
そんな、ごく普通の夜の終わり。
それが、一瞬で砕け散ることになるとも知らずに。
――視界の隅で、何かが光った。
反射的に顔を上げた刹那、轟音とともに鋭い光が目を焼いた。
「――っ!」
逃げる間もなかった。世界が強制的に反転する。衝撃が全身を貫き、空気が肺から弾き出された。意識が混濁し、どこが地面で、どこが空なのかもわからない。
耳鳴りがする。体が重い。目の前が暗くなっていく。
――俺は、轢かれたのか?
認識するよりも早く、意識が闇に沈んだ。
***
次に目を覚ましたとき、俺は病院のベッドの上にいた。
無機質な天井。ぼやける視界。鼻腔を満たす消毒液の匂い。
全身がだるい。特に右腕に違和感がある。
ぼんやりとした意識のまま、ゆっくりと視線を落とすと、そこにはギプスで固められた自分の腕があった。
「……マジかよ」
かすれた声が、静かな病室に虚しく響く。
腕を動かそうとしても、ぎこちない痛みが走るだけだ。どうやら骨折しているらしい。最悪だ。
(っていうか……ここ、どこだ……)
意識がはっきりしてくるにつれ、状況を理解し始める。
病院。事故。入院。ギプス。……ああ、完全にやらかした。
……あれ?
何か違和感がある。
この病室、個室なのか?カーテンで仕切られているようだが、妙に静かすぎる。隣のベッドの気配もない。
不意に、喉が渇いた。ナースコールを押そうと左手を伸ばしたその時、病室の扉が静かに開く音がした。
「……あ、起きてる」
看護師だろうか?
ぼんやりとした思考のまま顔を向けるが、その声は思いのほか若々しかった。
だが、視界に入ったのは見覚えのある人物ではなかった。
小柄な女性の看護師がこちらを覗き込み、安心したように微笑んでいる。
「春樹さん、気がつきましたか?事故で運ばれてきて、ずっと眠っていたんですよ」
淡々とした口調に、俺はようやく現実を受け入れる。
事故。病院。入院。リハビリ。
最悪のシナリオを想像しながら、俺はただ深く息を吐いた。
(しばらく、ここで過ごさなきゃいけないのか……)
こうして、俺の入院生活が始まった。